故郷≪新潟≫の日々

満65歳で中国・黒龍江大学を定年退職した後、生まれ故郷の新潟に戻り、日々の生活を写真とともに日記風に綴っていくもの。

No.608 「汽車での夕食」のお話。

2015年08月31日 | 日記

15分ほど停車した「海拉尓駅」で、地元ガイドの海鴎さんから私達は「夕食」を受け取ることに成功した。当初の計画では夜行寝台列車の“食堂車”でゆっくりと車窓からの景色を眺めながら、内モンゴル自治区での最後の夕食を楽しむ予定であった。しかしこの列車には“食堂車”が無いことが判明した。

 

添乗員の田龍さんから地元ガイドの海鴎さんに電話連絡をしてもらい、お2人のご尽力で私達はなんとか「夕食」にありつけた。その上、なんと地元の“海拉尓”というアルコール度3.7%の冷えた「缶ビール」も届けていただいた。私達は早速、ビールで乾杯し、午後9時近くの遅い夕食が始まった。

 

ビールのほかにアルコール度38%の“海拉尓純粮白酒”も用意されていた。料理も作ったばかりで、まだ温かさが残っていた。「エビ入りの野菜炒め」「ナスの煮物」「ブロッコリーの油炒め」などをご飯と一緒に美味しく頂戴した。田さんと海さんの温かい心遣いが伝わってきた「夕食」であった。

 

私にとっては「行き」よりも「帰り」の夜行寝台列車の方が揺れや音が少ないように感じた。旅の疲れとビールが効いてきて「夕食」後、直ぐに眠りについたようである。

 


No.607 「再び夜行寝台列車」のお話。

2015年08月30日 | 日記

満洲里市で最後の見学先である「マトリョーシカ広場」を散策した後、私達は「夜行寝台列車」に乗るため満洲里駅へと向かった。満洲里駅を午後5時36分に出発し、翌朝6時49分にハルビン駅へ到着する約13時間余りの「夜行寝台列車」の旅である。満洲里駅に着いた時、早朝散歩した影響もあり、私の万歩計は既に≪13.793歩≫を記録していた。

 

満洲里駅で乗車券を購入する際、外国人は「パスポート」の提示が必要であり、持ち込んだスーツケースなどは空港の入国審査と同じように「X線検査機」に通さなければならなかった。これまで丁寧な案内をしていただいた地元ガイドの海鴎さんは自宅のある海拉尓駅に向け、私達より一足早くこの駅を出発された。駅の切符売り場は多くの旅行者で混雑していた。

 

そこには中国語で「鉄路实行实名制购票」⇒日本語訳で「鉄道では自分の実名で切符を買いましょう。」という文字が目に止まった。購入した切符には日本では見られない私の「パスポート番号」と「氏名」の一部が記載されていた。他人の名前で切符を買う人が多いのだろうか? この日の夕食は「夜行寝台列車」の“食堂車”で楽しむ予定でいた。

 

しかし添乗員の田龍さんが私達の乗る列車には“食堂車”が無いことを聞きつけた。早速、先程お別れした海鴎さんに電話し「夜行寝台列車」が停車する海拉尓駅で夕食を差し入れしてもらうことになった。この田さんの機転の利いた行動で、私達は列車内で美味しい夕食を食べることができた。

 

満洲里駅の正面入口。

 

 

 

 

満洲里市内の風景。

「夜行寝台列車」の窓から見える景色を楽しんだ。

最初の停車駅「扎賚諾尓西駅」。

「海拉尓駅」に到着し、ここで夕食を受け取った。

午後8時30分頃になって、夕日が沈む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


No.606 「マトリョーシカ広場」のお話。

2015年08月29日 | 日記

 「ロシア芸術館」を見学した後、私達は隣接している「満洲里マトリョーシカ(中国語⇒套娃)広場」を見学した。まだ広場の入口周辺やホテルなど幾つかの施設は現在建設中であり、完成までには暫く時間がかかりそうな状況であった。地元のガイドの海鴎さんに「何故、ここにロシア関係の施設を集中して建設したのか?」聞いてみた。

 

海さんは「もともと中国人がロシアへ直接行かなくとも、ここでロシアの食品・特産品・日用品などを購入したり、ロシアの文化などを楽しむことができる場所として作られた。」との説明であった。全部の施設が完成すると、以前、新潟県にあった「ロシア村」のような観光地になるようだ。

 

この広場の中心には高さが≪30m≫ある世界最大のマトリョーシカと言われている建物がある。中は冷房が効いたお土産売り場となっており、アイスクリームが売れていた。炎天下にある多くの露店には、マトリョーシカを中心にロシアのお土産物が販売されていた。それらの全てがロシア製ではなく、中国製もあるとのこと。

 

私達の仲間もここでカーボーイ・ハットのような帽子を買い求めた。勿論、定価20元(日本円で約400円)を15元(日本円で約300円)に値切って購入されたが、立派な帽子で、とても300円には見えなかった。

 

 「満洲里マトリョーシカ(套娃)広場」を見学した。

高さが≪30m≫ある世界最大のマトリョーシカと言われている建物。

購入した濃い茶色の帽子はとても立派なもので、とても300円には見えなかった。

 


No.605 「ロシア芸術博物館」のお話。

2015年08月28日 | 日記

この日、私達は「内モンゴル自治区」の国境の街・満州里市にある中国最大の「ロシア芸術館」を訪れた。芸術館はロシアを代表する木製人形で有名な“マトリョーシカ”広場の一角に建てられていた。地元ガイドの海鴎さんの説明では、この芸術館は2006年4月に完成し、総面積は4.600㎡あるという。

 

私達が到着した時、駐車場には自家用車が2台駐車していただけであった。あまりにも閑散としていたため、海さんが「本日休館」ではないかと思い、私達を車に残したまま芸術館の中へ消えた。しばらくして入口から「開館」している旨の合図を私達に送ってくれた。

 

天井から大きな「シャンデリア」がぶら下がっている吹き抜けの館内に展示されてある「大型壁画」が私を圧倒した。ここにはロシア風とヨーロッパ風の芸術作品が2.000点余り展示されていた。絵画のほか「マトリョーシカ人形」や「銅像」それにロシアの政治家の「写真パネル」などが展示してあり、中国と異なる異国情緒の一端に触れることができた。

 

こんなに大きな芸術館なのに1カ所しかない“トイレ”が故障していた。これには大変困った。近くには建築中の建物ばかりで、参観者の間では「ここの係員の皆さんは一体、何処の“トイレ”を使用するのだろうか?」といった話題も出るほどであった。

 

 建築中の建物に挟まれた中国最大の「ロシア芸術館」(中央の水色の建物)。

1カ所しかない“トイレ”が故障していた。

 

 

 

 


No.604 「国際飯店の朝食」のお話。

2015年08月27日 | 日記

私達が満洲里市で宿泊したホテル「国際飯店」は3ツ星ホテルであるが、繁華街の中にあり、A・B・C棟の3棟からなっていた。ここはロシア人による歌や踊りのイベントが毎晩開催されている人気のホテルでもある。昨晩、A棟のロビーでロシアの“民族ショー”に出演される美しい踊り子さんと記念写真の撮影に成功した仲間もいた。

 

この日の朝食会場も同じA棟で、2階の大食堂であった。バイキング方式で既に多くの宿泊客が朝食をとっていた。料理メニューも豊富で、牛乳・豆乳・奶茶(ミルクティ)の3種類のミルクが並び、野菜炒め・キクラゲ料理・川魚料理・餃子・包子・お粥のほかサラダ・メロンなどが並んでいた。

 

朝食会場では中国人観光客が中心であったが、一部、ロシア人の姿も見られた。ここでも日本人に出会うことはなかった。このホテルの正面玄関脇には「国際緑色飯店」という看板が掲げてあり、省資源、再利用などを実践するエコ活動に参加しているホテルであった。

 

例えば「割り箸」は使わず、再利用可能な「箸」を使っていた。私達の旅も5日目を迎え、今日が「内モンゴル自治区」の最終日となった。夕方には夜行寝台列車に乗り、黒龍江省・ハルビン駅に向かうことになる。

 

“民族ショー”に出演される踊り子さんと記念写真を撮る観光客。

 このホテルの正面玄関脇には「国際緑色飯店」という看板が掲げてあった。

再利用可能な黒い「箸」を使っていた。

“民族ショー”に出演される踊り子さんとの記念写真の撮影に成功した仲間。

ホテル近くにあるブロンズ像。

 

 


No.603 「満洲里の朝の散歩」のお話。

2015年08月26日 | 日記

この日の朝の散歩コースは、昨晩、ジャズが流れネオンの輝いていた雑踏の「繁華街」と、多くの人が社交ダンスを楽しんでいた「北湖公園」を再度、歩くことにした。「繁華街」といえども、早朝は夜と違い閑散としていた。昨晩は多くの人々の影になって見えなかった歩道上に設置された数組の“ブロンズ像”が特に目に付いた。

 

「牛と闘牛士」「スケートを楽しむ人々」「絵を書く人」などの“ブロンズ像”歩道上に設置されており、私達もそれらをバックに記念写真を撮ることにした。この歩道上の一角には椅子とテーブルが出され、ここで朝食を食べている人も見られた。その後「北湖公園」に向かって歩き始めた。

 

途中、魚釣りを楽しむ人、太極拳を楽しむ人々、中でも楽器を演奏しているグループが私の目に止まった。アコーディオン、バイオリン、サキソフォーン、それに中国を代表する楽器・二胡を弾くグループが「日中友好交流の歌」である“北国の春”を演奏していた。思わず私も大好きな歌を一緒に口ずさんでしまった。

 

ここから15分位歩いた場所に「ソ連赤軍烈士公園」があり、ここでも“扇子”や“刀”を持って「太極拳」を楽しんでいる30人程のグループに出会った。黒龍江省ハルビン市と同じように、早朝からスポーツや音楽に親しんでいる多くの市民の姿を拝見することができた。

 

私もブロンズ像の「スケート靴」に足を入れてポーズを取ってみた。

中国の「パンダ」、ロシアの「シロクマ」の前で記念写真を撮るグループ。

親子で書道の練習中。

「ソ連赤軍烈士公園」の入口。

ロシアから直接、中国に乗り入れた観光バス。

 

 

 

 

 

 

 


No.602 「満洲里の夜」のお話。

2015年08月25日 | 日記

満洲里市の“銀座”といわれる「1道街」から「5道街」までの繁華街を、食後の運動を兼ねて散策することにした。夜の8時を過ぎても空はまだ明るい。カメラのフラッシュをたかなくても十分撮影できる。どこを歩いても人の波は続いていた。国境の街“満洲里”には多くのロシア人が訪れるとあって、金髪の美しい女性の姿も見られた。

 

繁華街にはジャズがスピーカーから流れていた。2階のバルコニーから金髪の女性がサキソホーンを演奏していた。「5道街」を右折すると黄色の光でライトアップされた5ツ星ホテルの「シャングリラホテル」が目に入ってきた。ここから更に湖の遊歩道に沿って歩くと、多くの人が「社交ダンス」を楽しんでいる広場に到着した。よく見ると子供も大人と一緒に踊っていた。

 

この湖畔も統一された黄色い光でライトアップされていた。また、アクセサリーなどを売っている夜店の脇には大きな筆を持ち、石の路面に達筆な文字を書いている男性に出会った。ここからホテルに戻る間、多くの高層ビルは統一された黄色の光でライトアップされていた。

 

節電が叫ばれている私の故郷「新潟」にはこの不夜城のようなエネルギーが見当たらない。午後9時半過ぎにホテルの部屋に戻ってきたが、この時間になっても繁華街から大きな音楽が部屋まで聞こえてきた。

 

多くの人が「社交ダンス」を楽しんでいる広場。

「1道街」から「5道街」までの繁華街を、食後の運動を兼ねて散策。

2階のバルコニーから金髪の女性がサキソホーンを演奏していた。

多くのロシア人が訪れるとあって、金髪の美しい女性の姿も見られた。  

黄色の光でライトアップされた5ツ星ホテルの「シャングリラホテル」。

よく見ると子供も大人と一緒に踊っていた。

路面に達筆な文字を書いている男性を発見した。

多くの高層ビルは統一された黄色の光でライトアップされていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


No.601 「満洲里の夕食」のお話。

2015年08月24日 | 日記

午後6時半を過ぎ、夕食の時間を迎えた。この日も添乗員の田龍さんが宿泊するホテルの近くに素敵な食堂を事前に探しておいてくれた。食堂の名前は「大众筋餅店」といい、ロシアと隣接している国境の街「満洲里」だけあって、この店の看板にはロシア語とモンゴル語も書かれていた。「大众」とは「大衆」という意味であり、ここは市民がよく利用するお店である。

 

「満洲里」は夜が長く、午後8時くらいまでは明るい。私達は食堂の中に入り、メニューの写真を見ながら美味しそうな料理を注文した。添乗員の田さんから「店の前の歩道に置いてあるテーブルで食べませんか?」との提案があった。私達は気分転換を兼ねて歩道での夕食を楽しむことになった。いつものとおり1本10元(日本円で約200円)の“雪花ビール”で乾杯し「満洲里の夕食」が始まった。

 

「ジャガイモの薄切り」「モヤシ炒め」「揚げた餅」「川魚のから揚げ」などがテーブルに運ばれてきた。「大根・春雨・肉団子のスープ」と、最後に人気のパイナップル入りの「酢豚」を美味しく頂戴した。周囲のテーブルには子供を連れた家族連れや、若い人達が夏の夜の夕食を楽しんでいた。

 

この周辺は「満洲里」の最大の繁華街であり、午後8時を過ぎても多くの人で賑わいを見せていた。しかし観光客が激減する氷点下20度~40度になる冬期間は閉店する店が多く、ヒッソリとするとのこと。

 

私達の夕食は一番左側のテーブル。

「大众筋餅店」という看板にはロシア語とモンゴル語も書かれていた。

ビールのつまみとして、干した「ニンニク」が出された。

私達が宿泊したホテル「国際飯店」。

国際飯店の正面玄関から見える建物。

 


No.600 「扎賚諾爾博物館」のお話。

2015年08月23日 | 日記

私達は「呼倫湖」の湖畔を散策した後、夏休みに入り小・中学生を含め、多くの参観者で賑わっていた「扎賚諾爾(ジャーライヌオア)博物館」を訪れた。博物館周辺地区は人民政府の建物など、最近建設されたビルに囲まれていた。この博物館のメインの展示物は「マンモス」と「石炭の露天掘り」である。

 

館内では石炭の露天掘りで有名な炭鉱の特別展示ブースがあった。その露天掘り作業中に体長9m、推定年齢60歳という「マンモス」が偶然、発見された。「マンモス」を発掘した当時の写真パネルや実物の「マンモス」が展示され、人気を集めていた。また少数民族である扎賚諾爾族の狩猟生活、遊牧生活などの展示が続いていた。

 

中でも扎賚諾爾族がシベリア経由で南アメリカ大陸に渡ったという説に私は興味を持った。DNA鑑定で扎賚諾爾族とアメリカ・インディアンが顔の骨格が同一で、生活習慣も極似していることが判明したという。中国・内モンゴル自治区とアメリカ合衆国とが繋がっている不思議さを感じた。

 

またこの博物館でも他の博物館と同様に「抗日戦争勝利70周年記念」のイベントとして特別展示ブースが設置されていた。

 

扎賚諾爾博物館」の入口の展示。

「マンモス」を発掘した当時の写真。

扎賚諾爾族がシベリア経由で南アメリカ大陸に渡ったという。

石炭の露天掘りで有名な炭鉱の展示ブースもある。

 

 

 

 

 

 

 

 


No.599 「呼倫湖」のお話。

2015年08月22日 | 日記

中国・内モンゴル自治区の旅も4日目を迎えた。高速道路を走る車内では4人の中高年男性から「この地域の年間降雨量は?」「草原に咲くあの紫色の花の名前は?」「あそこの池は湧水?それとも雨水?」などの質問が飛び出した。地元ガイドの海鴎さんが難問に対し「日本人観光客のガイドは勉強しないとダメですね。」と苦笑しながら答えていた。

 

この日の観光スポット「呼倫湖⇒別名“达赉湖”」へ行く前に、中国の昔ながらのレンガ造りの街並みの一角にある食堂で昼食をとることにした。私は野菜、キノコ、豆腐などを使った素朴な田舎料理を美味しく頂戴した。「呼倫湖」は南北約90Km、東西約30Kmのの広さがあり、中国では5番目に大きな淡水湖である。

 

夏になると上海など中国南方地方やロシアからも多くの観光客が避暑地としてここを訪れるという。この日も「达赉湖」と書かれた“記念碑”の前で記念写真を撮る多くの観光客が後を絶たなかった。私達も観光客の中に強引に割り込んで“記念碑”の前に座り込み、ようやく写真を撮ることに成功した。

 

ここから遊覧船に乗り、湖上の旅を楽しむこともできる。遊覧船の切符売場には100元(日本円で約2.000円)という中国の物価を考えれば、かなり高額な乗船料であったが、多くの観光客が切符を購入していた。また、久しぶりに1元(日本円で約20円)の有料トイレも体験させてもらった。

 

 昔ながらのレンガ造りの街並みの一角にある食堂で昼食をとることにした。

私達も観光客の中に強引に割り込んで“記念碑”の前に座り込み、写真を撮った。

久しぶりに1元(日本円で約20円)の有料トイレも体験した。

 

 

 


No.598 「大草原のドライブ」のお話。

2015年08月21日 | 日記

この日の日程は車で3時間30分ほどかけて「ハイラル市」からロシアと隣接している国境の街「満洲里市」まで、草原の中を走破することである。私達は朝食後、午前8時30分にホテルを出発した。ハイラル市内はバブルがはじけたといっても、まだ何カ所かで建設中の高層ビルが見られた。そして40分も走ると草原が見えてきた。

 

ここでも「砂漠化」した草原に植林した並木が見えてきた。地元ガイドさんの説明によると、日本人ボランティアが50万元(日本円で約1.000万円)を出資して植えた「樟子松」の並木である。ここは土地が肥沃のため、農作物に肥料を与える必要がないという。片側2車線、計4車線の直線道路の両側には草原が続いていた。この草原で最初に出会った動物は“羊”であった。

 

その後、変化のない草原が続くが“ミルク工場”があったり“牛”や“馬”の群れにも出会った。また観光客の増加に対応し、新設された観光用のパオや乗馬施設などが点在していた。また3枚羽根の巨大な風力発電機が30機程まとまって建設されていた。風力発電機はここ1か所だけではなく、草原の中で何か所も稼働していた。

 

吉林省の「綏芬河」から内モンゴル自治区の「満洲里」までの距離が書かれた道路脇の青い標識が目に止まった。また日本と同じように飲酒運転をする人もいるのだろう。「酒」と書かれた飲酒運転禁止のユニークな標識も目に付いた。草原に向かってカメラのシャッターを切っても、同じ緑一色の風景写真が続くほどスケールの大きな草原であった。

 

 バブルがはじけたといっても、まだ何カ所で建設中の高層ビルが見られた。

変化のない草原が続く中、立派な“ミルク工場”も見ることができた。

夏場に冬場の家畜用の食料を収穫していた。

観光客用の「パオ」。

3枚羽根の巨大な風力発電機が30機ほどまとまって建設されていた。

「酒」と書かれた飲酒運転禁止のユニークな標識も目に付いた。

車から降りて放牧された牛を見学した。

「酒」と書かれた飲酒運転禁止のユニークな標識も目に付いた。

新設のドライブイン。

ドライブインにある売店。

「綏芬河」から「満洲里」までの距離1431Kmと書かれ道路標識。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


No.597 「早朝散歩」のお話。

2015年08月20日 | 日記

前日≪16.294歩≫という長い距離を歩いた私であった。習慣とは恐ろしいもので、午前6時出発の散歩の集合時刻前には、間違いなく起きることができる。ハイラル市は今が一番暑い時期であるが、早朝は半袖シャツでは少し肌寒い感じがした。さすが中国の北部に位置する「内モンゴル自治区」である。

 

地元ガイドの海鴎さんによると、ハイラル市は1年のうち7か月余りは「冬」で、氷点下20度~40度の日が続くこともあるという。「夏」は約3か月で「春」と「秋」は極端に短い。ホテルから10分ほど歩くと大きな橋が見えてきた。川沿いの広場や遊歩道には揃いのユニホームを着たグループが音楽に合わせて「太極拳」を楽しんでいた。

 

また、大きな木に自分の体をぶつけて「体操」している人や「ストレッチ」を楽しむ人々の姿もあった。私が黒龍江大学に勤務していた頃、グランドで列を作って早いテンポの音楽に合わせて100人程のグループと一緒に踊っていたことを思い出した。ここでも同じような踊りを楽しむグループを見ることができた。

 

流れの速い川では5~6人の釣り人が糸を垂らし、ハゼのような10cm程の魚を釣っていた。約1時間の散歩であったが、ここでは健康を求めて踊りやスポーツを楽しむ多くの市民の姿を拝見できた。川沿いにはさわやかな朝の空気が流れていた。

 

 午前6時過ぎ、道路を清掃する人に出会った。

川沿いの広場にユニホームを着たグループが音楽に合わせて「太極拳」を楽しんでいた。

木に自分の体をぶつけて「体操」している人の姿も。

列を作って早いテンポの音楽に合わせてグループで踊りを楽しむ人々。

「ストレッチ」を楽しむ人々の姿も見られた。

釣り人が糸を垂らし、ハゼのような10cm程の魚を釣っていた。

会社の従業員が始業前に元気よく踊っていた。

 

 

 

 

 

 


No.596 「海拉尓・最後の夕食」のお話。

2015年08月19日 | 日記

この日は海拉尓市内に戻り、最後の夕食を楽しむことになった。ありがたいことに、宿泊ホテル近くの安心して夕食が楽しめお店を添乗員の田龍さんが事前に調べておいてくれた。本当に頼りになる添乗員である。店に入ると壁には料理の写真と値段が直ぐに分かる電光パネルが掲示してあった。

 

私達はそのパネルを見ながら美味しそうな料理を注文した。このシステムは私が黒龍江大学に勤務していた頃、大学周辺のレストランや大衆食堂でよく見かけたものと同じ注文方法であった。そこで「マーボ豆腐」「牛肉とピーマン」「キクラゲと長イモ」「ニンニクの芽と豚肉」など5品を注文した。

 

田さんにお聞きすると、地元で生産された「雪花ビール」の料金を入れても、予算の範囲内で収まったようだ。気の合う仲間と美味しい料理を楽しむ至福の時間を過ごすことができた。夕食後、小さなスーパーで≪内モンゴル自治区≫特産の「ブルーベリー」や「馬奶酒」をお土産として買い求めた。

 

4人の中高年男性は女性販売員に対し、値引きの交渉や、値引きの代わりに他の品物を≪おまけ≫としてプレゼントするように要求することも忘れなかった。なかなか楽しい買い物であった。この日、私の万歩計は≪16.294歩≫を記録していた。

 

麺棒で伸ばしたラーメンが有名なお店。

酒やたばこを販売しているスーパー。

30元(日本円で約600円)で購入した特産「ブルーベリー」。

 

 

 


No.595 「大草原の散歩」のお話。

2015年08月18日 | 日記

私にとって「内モンゴル自治区」で期待していた観光スポットのひとつが「大草原の散歩」であった。散歩の前に「灯塔」という石が積まれた丘の頂上へと向かった。「灯塔」とは大草原にある「灯台」で、草原の“守り神”でもある。そこには人々の願いが込められた多くの赤い布が風になびいていた。

 

ここに積まれた石はこれまで人が踏んだことのない石だけを集めたもので、この周囲を時計回りに3周してから祈願すると、その願いが叶うという。私も時計回りに3周し「旅の安全」をお願いした。次に丘を下り、大きなテントが張られた「資料館」へ向かった。中に入るとこの地方の遊牧民族が生活に使用していた道具などが展示されていた。

 

「資料館」見学後、いよいよ「大草原の散歩」を楽しむことになった。草原はやや緩い下り坂となっていたが、4人の中高年男性は昼食で飲んだビールの影響もなく、軽快な足取りで蛇行している川岸までの散歩を楽しんだ。私は草原の中に咲く白、紫、黄色などの可憐な花をカメラに収めた。

 

観光客のために「馬」「ラクダ」「3輪バイク」などに乗ってこの草原を散策するコースも用意されていた。この川の名前は「莫日格勤河」といい“天下第一曲水”と言われ、天下に例を見ないほどの曲がりくねった川となっているという。川岸に立ち、かなり急流となって左右に蛇行している川を見ることができた。

 

 草原の守り神の前で記念写真を撮る。

大きなテントが張られた「資料館」の内部。

「大草原の散歩」を楽しむことになった。

草原の中にある結婚式場。

「馬」「ラクダ」「3輪バイク」などに乗ってこの草原を散策するコースもある。

新潟市内でも見ることができる「ハマナス」の花が咲いていた。

 

 


No.594 「金帳汗部落」のお話。

2015年08月17日 | 日記

今回の旅のメインの観光スポットがホロンバイル大草原の小高い丘の上にある「金帳汗」の見学である。小高い丘の上から360度、地平線まで草原が続いている。観光客の増加に対応するため、1993年に内モンゴルの伝統的な住宅“パオ”やレストラン、ホテル、劇場などが1カ所に集められ、このが建設された。

 

自然の大草原の中にあるが、ここだけは観光地化されていた。早速、私達はここで「昼食」をとることにした。都市から離れた場所にあるため、輸送費がかかるのだろう。想像以上に物価が高かった。例えば、通常1瓶5元(日本円で約100円)から高くても10元(日本円で約200円)の瓶ビールが、ここでは15元(日本円で約300円)で売られていた。

 

私達は最初にアルコール度が3.3%の「鮮卑源ビール」で乾杯した。当然のこととはいえ、羊の骨付き肉やソーセージなどの料理が中心であった。最後は揚げた餅とラーメンが運ばれてきた。ゆっくりと遊牧民の食事を楽しんだ後、丘の頂上に上がり、草原に囲まれた壮大な景色を楽しんだ。

 

ホロンバイル大草原の小高い丘の上にある「金帳汗」の入口。