『世界』2011年2月号を読んだ。
これは、児童福祉、子どもに関わるすべての人が読むべき一冊だと思う。
その中で、「虐待」「児童殺害」「児童遺棄」「妊娠」「出産」「中絶」「ステップファミリー」など、現代社会、現代の家族が抱える問題のキーワードがずらりとならんでいる。
どの論者も、現代の家族に対して危機意識はもっているけど、レトリックとして、国、地方自治体、児童相談所、法の視点から論じてしまっていて、非常に「役人的」な文法になってしまっているのが、大きな問題点だと僕は思った。
僕は「緊急下の女性(Frauen in Not)」という概念を使っているが、この本のなかで、「In need」という言葉が使われていたのは嬉しいことだったが、その捉え方が貧弱で、緊迫感がない。needという言葉をどれだけ重く受け止めているのか、この雑誌の論文からはうかがい知れなかった。
僕としては、上の様々な問題は、国・地方自治体、つまり公的サポートでは、どの道限界がある、ということをまずは認識すべき、と強く感じる。
児童相談所VS家族の対立は、法をいじっただけでは解決できるようなものではない。児童相談所が不要だとは全く思わないが、虐待や児童遺棄の問題は、公的サポートでは根本的に解決不能ではないか、と、僕は思う。
それは、児童相談所職員が各家族を訪問する際の激しい拒絶を考えれば、分かることだろう。職員がナイフで刺されたり、罵声を浴びせられたりすることも決して少なくないという。
緊急下の女性・男性たちは、公に自分たちのことを知られることを恐れているのである。当然、公的サポートなど信用していないし、そもそも、根本的に「他者不信」を抱えているはずである。他者の手を借りられる勇気があれば、そもそも虐待や児童遺棄は起こらないはずである。「人なんか信用できない」という家族を救うためには、そういう不信をもつ家族の人に信用してもらえるようなかかわり方が必要なのである。それこそが、公的サポートの限界なのではないか、と思う。
ドイツの事情を学ぶと、「匿名サポート」の重要性がわかる。匿名であるからこその安心感を、ドイツの母子福祉・児童福祉は肌で感じている。緊急下の女性たちは、皆、不信と絶望の中を生きている。そういう人が最も安心できて、最も信頼できるサポートシステムを考えた時、「匿名性」というのが最も重要なキーワードだとドイツ人たちは発見した。
それは、「匿名出産」という考え方にも結びつく。自分の妊娠や出産を表立って明らかにできるような人は、そもそもサポートなど必要ないのである。サポートが必要な人は、誰にも打ち明けられないからこそ、苦しむのであり、誰にも知られたくないから、一人でひっそりと苦しみながら孤独と孤立のなかで出産し、そして、その小さな命を捨てるのである。
そういう人へのサポートとして、考え出されたのが、「匿名サポート」であり、「赤ちゃんポスト」なのであった。
そうした匿名サポートは、戸籍や住民票を重んじる公的サポートとは根本的に相容れない。住民サービス機関である公的サポートは、その「住民」であることが絶対的な条件である。住民であれば、住民税、市民税、県民税・・・、税金を払っているから公的サポートを正当に受けることができる。だが、緊急下の女性たち・男性たちは、そういった「住民であること」を隠さなければならないほどに追いつめられている。
ゆえに、匿名サポートは、住民やその住民のサービスを提供する公共サービスの力ではなく、市民の力で、民間(企業ではない!)の力で、具体的には、NPOや学校法人や社会福祉法人の力で、ないしは、市民団体や地域組織の力で、つまりは自治の力で、「共に生きる」という精神のもとで、実施されなければならない。ドイツの匿名サポートのほとんどが、Vereinといわれるドイツ伝統の自治組織によって営まれている。
日本人は、いつからかは分からないが、自治の力をなくし、上のような虐待や児童遺棄の問題を役所に任せきりになってしまった(と、僕は感じる)。もちろん、自治の力で、市民の力で、なんとかしようと頑張っている人たちもたくさんいることはいる。それを支えるのが、行政の仕事だったりもする。
市民同士が、地域の人同士が共に助け合える、分かち合える環境を支えるのが、公的サポートのはずなのに、いつしか、市民や地域住民に代わって、あらゆることを任されてしまうようになってしまった。どこが悪いとかは言う気はない。ただ、僕ら一般人があまりにも、行政や国に任せきりになってしまっていることが、こういう問題の一番の深い闇なんだと僕は思う。
そこに、「学校」「教育」がかかわっていやしないか? もしかしたら、そういうお国依存体質というものの原型を学校で作ってしまっていないか? そこに僕の問題関心はある(というか、ようやくそれが見えてきた)。
ドイツ研究をしていて、ドイツ人の民間の力を感じると共に、日本人の民間の力のなさを痛感する。営利で動く人間は立派に育っている(?)が、すべての人の幸福のために動く人間があまりにも育っていない気がしてならない。
教育基本法第一条では、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」とされている。「平和で民主的な社会の形成者」である自分づくり、これこそ、僕がドイツ人にみる最大の凄みであり、魅力なのである。
自分だけが健康・健全・幸福であればよいというエゴイストをつくるのではなく、皆が健康・健全・幸福に生きられることを願う人格者の形成こそが、教育の使命であるはずだ。
虐待する親を蔑視したり、あざ笑ったりせず、「大丈夫ですか?」と心配する気持ち、専心の気持ちをもつ人間を育成することが、教育の基本であるはずだ。
上の雑誌の中に、「小さい子はたいへんですね」とか、「かわいいですね」とか、何気ない一言で救われる母親の話があった(p.166)。そういう身近な人や周囲の温かい一言で、人は元気になれるのである。
僕ら一般人の苦しみは、僕ら一般人同士で助け合い、声をかけあい、「あなたは一人じゃないよ」といい続けることで、解決できるのである(と、素朴に信じること)。
そういう精神の育成こそ、教育の最大の目標だったのではないだろうか。
・・・当たり前の挨拶、当たり前の感謝の言葉、当たり前のいたわりの言葉、そういう何気ない言葉が本当に聞こえてこない。そういう社会が健康な社会と言えるだろうか。