Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「視」と「聴」を大切に!

この写真は、とある幼稚園のクラスの風景だ。このクラスの壁の中央に、時計があって、その両隣りに、「視」と「聴」という文字の入った額が掲げられていた。これにピーンと来た僕。

園長先生にこの二つの文字のことを尋ねると、「子どもたちを育てる私たちにとって一番大切なことが、この二つのことではないでしょうか。子どもたちは、自分の思いをうまく言葉で言いあらわすことが難しいのです。私たちがその『声なき子どもの声』にしっかり耳を傾けて、よく視なければならないのです」、と答えてくれた。

僕が普段から研究の対象としている「対話(コミュニケーション)」の基本、基礎の部分をうまく言葉にしてくれていた気がした。視ない人は聴けないし、聴けない人は視ええてこない。聴けない人・視ない人は、相手のことが見えてこない。理解という営みにとって、視ることと聴くことは必要不可欠なことであり、それなくして、他者とのコミュニケーションはありえない。きちんとしたコミュニケーションの根幹には、この「視」と「聴」があるように思う。

子どもの側からすれば、人に視てもらい、人に聴いてもらうことで、自分の基盤を確立していく。誰にも視てもらえず、聴いてもらえない人は悲劇である。当然、そういう人がいなければ、基本的な人間や世界への信頼など生まれるはずもない。視と聴は、人間の発達や成長にとって欠かせない営みなのである。それを幼稚園の実践の場で、こうやって大々的に掲げられていることに嬉しさと喜びを感じた。

だが、実践の場面で、各教諭がどれほど視ることや聴くことができているかを判断することはとても難しい。今後、教員免許更制が導入され、現場の教諭たちは数年ごとにチェックを受けることになる。僕もその一端を担うことになる。僕が重視したいのはこの点だ。人の話や行動や思いを汲み取れないような実践者への支援や指導、これは今後僕の課題となるだろう。それはともかく、実際に具体的に視と聴がどれほどできているのかを、どのように評価するか、ということはやはり必要なことなのではないだろうか。

もちろんこうした評価が難しいことは分かっている。だが、ただ理念を唱えているだけでは、通じない人には届かない。視ようとしない、聴こうとしない人を見つけ出すことはやはり大切なことであろう。それと同時に、視るように、聴くように促していかなければならない。

では、どうしたらよいのか。

聴くことや視ることの基本は、三木清っぽく云えば、やはり「習慣化」であろう。普段から視れていない人や聴けていない人は、いざというときに視れるわけないし、聴けるわけがない。普段音楽を聴いていない人間に、音楽の深いところが分かるとは思えない。普段からジャンクフードやファストフードを食べている人に、料理の深いところが視えるとは思えない。同様に、日常人の話を聴いていない人が突然聴けるようになるとは考えにくい。普段から他者の対話やコミュニケーションを交わし、それについて深く熟考していなければならない。

*ひっくり返るが、視たり聴いたりすることを心がけている人は、いたずらに人と交流をすることを好まなくなる。普段からコミュニケーションを意識している人は、そのコミュニケーションの難しさを知っているがゆえに、やみくもに人といいかげんにかかわることはしなくなるだろう。

それから、やはり「本を読むこと」が欠かせないだろう。活字のやや難しい本を読めない人間が、生の人間の声を聴いて、その声を豊かに理解することはできないはずだ。相手の言っていることを、聞き流したり、安易に分かったり、自分の経験に即して捉えたりする人は、人の話を聴けていない人だ。すぐに分かる人ほど胡散臭いものはない。それは嫌というほど見てきたつもりだ。本を読む人は、辛抱強く、色々とイメージしながら、じっと耐えながら、ジリジリと待ちながら、専心することができる。本を読まない人ほど、結論に急ぎたがる。要点を知りたがる。そういう人間は、視たり聴いたりすることはできない。

視ることや聴くことは、考えることに通じている。考えていない人間は、人の声にしっかり添うことはできない。人の声にしっかりと添えない人は、当然視ることや聴くことを誠実にすることはない。身体的能力として、見ることや聞くことなら、身体的な障害を抱えていない限り、ほとんどの人ができる。だが、視覚障害をもった人が健常者以上にあらゆることを聴くことができるように、身体的な障害がないことが、視ることや聴くことの条件にはならない。(目も耳も良好な人間でも、全然人の話を聴けない人は腐るほどいる)

特に産業社会(ゲゼルシャフト)でガツガツやっている人ほど、人の話を聴くことができない。利益を無視して、時間を忘れて、じっと人の話に耳を傾けることは、効率を追求する現代人にはとても難しいことなのである。それは、エンデの「モモ」でも言われていることである。

視と聴、これは教育や福祉にかかわるすべての人にとってとても大切であり、とても難しい大きなテーマとなるだろう!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「教育と保育と福祉」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事