学校って何だろう。
この問いはとてもシンプルでありながら、とても答えるのが難しい問いである。学校は、いつでもわれわれの身近にありながら、よく分からない場所である。物心がつく前から毎日のように通い、そこで色々な人や物と出会いながら、そこで育ち、色々なことを学び、恋をし、勉強をし、人間関係を学び、上下関係を学び、そして学校が何なのかを分かりきることなく、卒業していく。先生や友達との別れに涙した経験をもつ人も多ければ、学校と聞いただけで身構えてしまうような人も多いだろう。学校での経験の中身は人それぞれであり、学校という言葉に、よい印象をもつ人、わるい印象をもつ人、あるいはあんまり印象をもっていない人、それぞれたくさんいるはずである。
だが、いずれの場合にしても、学校とはどんな場所なのか、それを知ることなく卒業していく。学校は、家族や社会といった言葉と同じくらいに多義的な言葉であり、包含的な言葉であり、抽象的な言葉であり、とらえどころのない言葉である。
そこで、大原則となる考えを二つ頭に入れておいてもらいたい。それが、スコレー(schole)という言葉と、ルードゥス(Ludus)という二つの言葉である。この二つの言葉が、学校とは何かの問いに答える重要なキー概念である。学校の本来の意味、学校の本質、学校の根源がこの二つの言葉を知ることによって理解されるだろう。
スコレーという言葉は知らなくとも、スコラ哲学という言葉は聞いたことがあるだろう。そのスコラに当たるのがスコレーというギリシャ語である。言葉の響きから分かる人もいるかもしれない。そう、スクールの語源である。「学校とは何か?」の問いの答えを見つけるためにも、スコレーという言葉は知っておくとよいだろう。
スコレーとは、いわゆる暇という意味である。教育学的には「閑暇」と訳す場合が多い。文字通り、何もすることがなく暇な状態という意味である。つまり、学校とは、暇をつぶす場所ということになりそうだ。だが、そういう意味ではない。スコレーとは、生命の維持活動に関わらないこと、労働から解放されていることを言うのである。つまり、スコレーを語源とする学校とは、生命の維持活動をしない場所、労働する場所ではない場所、ということになる。当然それゆえに、安全性が最大限に守られねばならないし、生存の危機があってもならない。スコレーでない場所は、安全性が保障されず、生存の危機も常に潜んでいるものである。
それから、もう一つ。ルードゥスという言葉である。この言葉は、ラテン語で「遊び」という意味と「学校」を意味する言葉である。ここでいう学校とは、初等教育を行う学校を指している。その名が示すように、≪学校は遊ぶ場所である≫、ということになるのだが、「遊び」という概念もとても捉えにくい言葉であり、この一文を早急に理解してはならない。遊びとは、ホイジンガの視点で言えば、文化に先立つものであり、自然と文明の間にあるものであり、生存に関わらない一切の行為のことである。ここでも、スコレーと同様、生存活動に関わらない営みがルードゥスという言葉の意味となっている。つまり、ルードゥスも、スコレー同様に、生命維持、生存活動に関わらない、つまり、労働ではない何かをすることを意味しているのである。
学校とは何か。何をする場所か。
この二つの言葉からすれば、生命維持活動、例えば食料を得ること、睡眠すること、労働すること、そういった人間の生きるために必要な活動以外のことをする場所、ということになる。だから、学校とは、そもそも根本的には、労働とは切り離されている場所なのである。この点は、学校を反省する際に、とても重要なことなので、きちんと理解しておきたい。学校は、そもそも労働とは関係のない場所である、ということである。それは、歴史的にも、語源的にも、また学校の性質的にも、絶対に無視できないことであり、これを見誤ると、学校は自らの存在理由を見失うことになる。学校は、労働に関わる一切の活動を排除している。だから、例えば社会人としてのルールは学校で学んではならない。逆に、人間として必要な道徳や倫理は学んでよいのである。お金儲けの方法や実際の営利活動はしてはならないが、数字や計算や物の流通については学んでよいのである。
これが、学校という空間を捉える上での基本的な考え方である。
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