ガーベラ・ダイアリー

日々の発見&読書記録を気ままにつづっていきます!
本の内容は基本的にネタバレです。気をつけてお読みください。

日本児童文学者協会・編 「作家が語る わたしの児童文学15人」 にっけん教育出版社

2007-03-19 | こんな本読みました

子どものころ、児童文学者の方々が書いた「自分が子どもころの体験記」を集めた本がすきだった。自分で読んだり寝る前に父親に読んでもらったりした。その本のタイトルは『はずかしかったものがたり』や『ねしょんべんものがたり』。たしか、童心社から出版されていたと記憶している。赤羽末吉氏による表紙と挿絵。そのインパクトのある絵とともにいまでもこころに残っている。他の出版社からも同様の本が出されており読んでいたのだが(『小さなこいのものがたり』など)、なぜか前者の方がすきだった。

その理由を考えてみると、執筆した児童文学者のかたのプロフィールと写真が載っていたということがあるのかもしれない。写真をながめながら「今はりっぱな(?)大人でも、子どものころにはずかしい思いをしたことがあるんだなー」という「親近感」がより強くもてたのかもしれない。

さて本書だが。以下15名の児童文学作家のかたの談話が載っている。目次とともに紹介する。

現代日本児童文学の地図  砂田 弘
『だれも知らない小さな国』の 佐藤さとるさん(談)
『車のいろは空のいろ』の あまんきみこさん(談)
≪ズッコケ三人組シリーズ≫の 那須正幹さん(談)
『花咲か』の 岩崎京子さん(談)
≪ほっぺん先生物語シリーズ≫の 舟崎克彦さん(談)
『こちら地球防衛軍』の さとうまきこさん(談)
≪こそあどの森の物語シリーズ≫の 岡田 淳さん(談)
『星に帰った少女』の 末吉暁子さん(談)
『乱世山城国伝』の 後藤竜二さん(談)
『さんまマーチ』の 上条さなえさん(談)
『ヒョコタンの山羊』の 長崎源之助さん(談)
『ぼくのお姉さん』の 丘 修三さん(談)
『春駒のうた』の 宮川 ひろさん(談)
『宿題ひきうけ株式会社』の 古田足日さん(談)
『龍の子太郎』以来の 松谷みよ子さん(談)

ちなみに私が子どものころ読んでいた本に掲載していらした作家のかたは、砂田氏、あまん氏、岩崎氏、後藤氏、長崎氏、宮川氏、松谷氏の7名(ただし、かなりあいまいな記憶なのでまちがっているかもしれません)。

児童文学にたいする思い、なった動機、作家さんのかかえているテーマ、それらとどう向き合いかかわってきたか。。。などなど作品のうらに見え隠れする作家さんの素顔がうかがえとても面白かった。

<子どものためになんていうのは、オタメゴカシだと思っています。というのは、もともと文学とは人間を書くことでしょう。そして、人は自分以上知っている人間はいないんで、つまり作者は自分のことを書くんですよ。結果的にね。そういうとき、他人さまの顔色をうかがっているようじゃ、うまく書けるわけがない。だからぼくは、自分が面白いと思ったことを、自分の喜びのために懸命に書く。自分が一種の支配者として作品を書いていくんです。>(佐藤さとる氏の談より)

しかし、そこには厳しい自己規制があるという。<ぼくの内面にいる子どもにも理解と鑑賞ができるよう、徹底的に努力する。一般文学と児童文学の違いは、その一点しかないからです。>(同上)

<ファンタジーをつくるのは、いままでのおしゃべりから理解いただけるように、根本は遊びの精神だと思います。精神を自由に遊ばせる空想からはじまって、潜在意識というコンピューターを働かせることまで、すべて遊びを楽しむ気持ちがなくてはうまくいきません。><潜在意識にとどくほど、心底ふかく思いこんだものだけが、物語ににじみ出てくる資格を持っているのです。少しむずかしくいうと、ファンタジーを創ることに没頭していくと、必然的にその中にある意外性が生まれ出てきて、その意外性を追究していくうちに潜在意識が物語の展開にくっついていっしょに取りだされてくるものなのです。そういうのが本物ではないかと思うのです。>(同上)

<おとなになっていくにつれて、生まれるということは選ぶことができないからこそ、命を大切にしなければとか、おたがいに共生するとか考えていくでしょう。でも幼い時は、生まれることではじまる自分はどんなものになるかわからない思いがして、とても怖かったんです。幼年期の不安というのは原始的で、言葉にすることもできず、それだけにふかい闇を持っていた、……そんな気が、いたします。>(あまんきみこ氏の談より)

<わたしは若いころ、過去を振りすてながら、前に歩いているように感じました。つらかったことや、はずかしかったことを、どんどん捨てたかったんですね。でも五十歳をすぎたとき、ちっとも捨てていなかったことに気がつきました。木の年輪みたいに、自分の赤ちゃん時代、子ども時代、少女期、青年期、母親時代……というふうに、辛かったこともはずかしいことも、忘れたいことも、みんな抱え持って生きていることに気がつきました。>(同上)

今の自分はどうだろう?。やはりどうひっくりかえっても過去からのがれることはできない。というか過去があっての現在の自分。あまん氏同様「過去」をしっかりみつめとらえ直すことで、これからの自分の生き方の指針が得られるかもしれないと思った。

また、岩崎京子氏は与田準一氏に厳しい指導を受けられたそうなのだが、最後に具体的な秘策(?)を授けてくださったという。それは、<動物を飼ってごらん>ということと<庭に花を植えて、それをじっくり観察してごらん>ということ。<その記録をするだけで、自然のリズム、宇宙の法則がわかるはずです>とのことだ。

<わたしにとって書くということは、知りたいと同義語ですから、書くまえにわかると書けなくなります。徹底取材はリポートやノンフィクションならいいでしょうが、創作の場合、知らない部分を残しておいたほうがいいみたいです。そこの兼ね合いが、いまだによくわかりませんが…・・・。>(岩崎京子氏の談より)

<三十歳を過ぎて家庭をつくりましたが、家庭とは「食卓」そのものだと思うようになりました。家族が顔を合わせ、語り、笑う、文句をいう場所が食卓でした。食卓のない家庭で育ったわたしにとって、それは新鮮な発見でした。おいしい物を食べて怒る人はいません。「医食同源」という中国の言葉がしめすように、食べることは生きることでもあるのです。わたしは子どもたちに、食べることの楽しさ、大切さを知ってほしいと思いました。>(上条さなえ氏の談より)

<なにしろ日本の民話はどこでも水との闘いの話なんです。それより水に耐えた話ね。人柱とか、洪水を知らせて竜に命を取られたり、水を鎮めるために大蛇の嫁になったり……。それが水を統御する食っちやぁ寝の太郎ですからね。すごい! これは日本の太郎として、日本の子どものために書きたい。そのとき初めてなんです。それまでは自分のために書いていて、子どものためになんて考えもしなかった。でもこのときはじめて、日本の太郎として日本の子どもに、いや、世界の子どものために書きたいって思いました。>(松谷みよ子氏の談より)

<ほんとうに、いつもいっしょでも、家族だって、ほんとうの願いや、苦しみや、哀しみって、わかっていないところが、たくさんあるでしょう。人間のそうした奥深いところを掬いとってくれる絵本って、ただ小さな子どものためのものじゃなく、大人の心にも迫ってくる。あるいはプツンと心に穴をあけることができるものだと思うんです。>(同上)

松谷氏の『龍の子太郎』『ちいさいモモちゃん』など諸作品の誕生秘話を知ることができ、興味深かった。

本書には作家さんの写真とともに直筆で書かれた原稿の写真が載っている。作家のかたがたの字を見るのもなかなか楽しかった。まちがえたところをぐちゃぐちゃーと消してしまうかた(岡田氏)、マス目からはみ出さんばかりの豪快な字を書くかた(後藤氏)……。字形や字体、原稿用紙の使い方などから、この作家さんはどんなかたなのかなぁと想像する楽しみがあった。

 


谷川俊太郎著 「詩ってなんだろう」 筑摩書房

2007-03-15 | こんな本読みました

「詩ってなんですか?」という質問をよく受けるという著者。そのたびに困る。なぜなら<詩とは何かという問いには、詩そのもので答えるしかないと思うから>だという。

本書は著者によってたくさんの詩が選ばれ載せられているが、いわゆる<アンソロジー>とはちょっと違うという。谷川氏の<考え方の道筋にそって詩を集め、選び、配列し><詩とは何かを考えるおおもとのところをとらえたいと願った>という。

どうしてそのような考えにいたったのかというと、そもそも現行の小学校国語教科書にのっている詩の扱い方、子どもたちに教えていく方法論に危機感を覚えたからだそうだ。

以上は本書のあとがきに述べられているものだが、では実際本書に選ばれている詩はどんなものがあるのか?

目次を見てみるとこんなふうにカテゴライズされている。

わらべうた/もじがなくても/いろはうた/いろはかるた/ことわざ/なぞなぞ/したもじり/あいうえお/おとまねことばの詩/おとのあそびの詩/しりとり/いみのあそびの詩/アクロスティック/はいく/たんか/さんびか/ほんやく詩/あたらしい詩/ふしがついた詩/つみあげうた/きもちの詩/いろんな詩をよんでみよう/ほうげんの詩/詩ってなんだろう

実に多種多様な詩が集められ、それについて著者によるひとことが添えられている。これが「詩」です。。。と説明するのではなく、読者は掲載されている「詩」を読み、著者のことばをてがかりに自分で感覚的につかみとっていくかたちの本である。

例えば「この道」(北原白秋/山田耕筰)の詩にはこんなひとことが添えられている。

<わらべうたとはちがって、しじんがことばをかき、さっきょくかがさっきょくしたうた。あたらしい詩がうまれると、あたらしいうたもうまれるようになった。うたのことばも、うたわずによめば、詩のなかま。詩とうたのねっこは、ひとつ。>

最後のまど・みちお氏の「どうしていつも」のあとには、こんな文章がある。

<おどりだしたくなるような詩、じっとかんがえこんでしまうような詩、かなしくないのになみだがでてくる詩、さがしていたこたえが、みつかったようなきがする詩、つぎからつぎへとでてくるおいしいごちそうのようだね。そう、詩はわからなくても、たべもののようにあじわうことができるんだ。詩をよむと、こころがひろがる。詩をこえにだすと、からだがよろこぶ。うみややま、ゆうやけやほしぞら、詩はいいけしきのように、わたしたちにいきるちからをあたえてくれる、ふしぎなもの。詩ってなんだろう、というといかけにこたえたひとは、せかいじゅうにまだひとりもいない。>

この文章に著者の「詩」にたいする思いがこめられているとおもう。「詩」は頭で理解するものではなく、こころでかんじるもの。あじわうもの。逆にいうと読む人のこころをうごかすもの。。。といえるのだろうか?そんなことを思った。

 


辻 邦生著 「言葉の箱」 メタローグ

2007-03-14 | こんな本読みました

むかし仏文学者というものにあこがれていたことがある。自分がそうなりたいというわけではなくただもうバクゼンと……(笑)。単なるミーハーとも言いますが(汗)。

そのなかのひとりに今は亡き辻邦生氏がいる。ナカムラシンイチロウ、ナカムラミツオ、アキヤマシュン氏らと並んで。。。(プルーストもその中に入るのだがまだ彼の作品は読み通せていない。いつになるのか?汗)。氏の小説は読んだことがあったが、このようなエッセイを読むのは初めて。サブタイトルに<小説を書くということ>とある。

本書を読むと、氏の小説に対する考え方を知ることができとても興味深かった。以下が目次。

Ⅰ 小説の魅力…………in love with  生命のシンボルに触れる
小説を書く根拠/<ぼくの世界>/「言葉」と「想像力」/生命のシンボル/上にいく力と下にいく力

Ⅱ 小説における言葉………Fact+Feelinng 言葉によって世界をつくる
小説は言葉の箱/心のなかを無にする/夏目漱石の『文学論』/物語(ストーリー)の原型/キャラクターとディテール

Ⅲ 小説とは何か…………evenement ある出来事をつくる
出来事をどう伝えるか/出来事とは何か/フィクションの意識/詩と根本観念と言葉/ピアニストがピアノを弾くように 

あとがきにかえて

※註…evenementのはじめの2つの「e」の上に「´」を付けてください(フランス語です)。(←ガーベラによる註)。

<あなた方が、いちばん小説を書いてみたいと思うようなとき、自分が経験したいちばん大変なこと、たとえば、愛していた人が死んでしまったとか、、、自分の身辺における最重要事であるような出来事を、ともかく書くことによって、そこから自分が抜け出そうというようなことがかなり多い。多くの人たちは最初は自分の身辺のことから書き始めると思いますが、それを読んだときに、非常に優れた文学作品として読者の胸を打つためには、その小説を書いた人が経験した事柄と事件との間に、ある切断が生まれていないとダメなんです。>

「ある切断」が必要と著者は述べているが、私も「渦中」にいるときはそのことについて「書く」と支離滅裂になる。客観的になれないからであろう。そういうのは小説とは呼べないということなのであろう。渦中にいるときに「書く」という行為をすると、支離滅裂だった自分の考えが徐々に整理される……というのが個人的に思うことである。

<小説における記述は現実に所属していない。われわれの夢想、想像力、内面の世界にのみ結びついて、それを外に表すものだということを、まず考えてください。これはすごくすごく大事なことで、言葉というと、すぐ記号だとかいいますけれども、そうではない。言葉というのは、われわれが心のなかに思っている世界を現実のものにしてくれる、いわば素材あるいは手段なんです。つまり、本当のものをつくり出す手段です。>

……本当のものをつくり出す「手段」としての「言葉」。まだ実感できないが、「言葉」というものを考えるうえでいい視点を得たと思う。「言葉の箱」に自分の経験で得たものを入れていくと力強い文章ができるということも述べられていた。自分が「実感」したことを大切にしていくことが書く上では肝要なのだと思った。

 


まないたの。。。

2007-03-13 | 日々のあれこれ
「鯉」となってきました、本日!

青いスエットスーツに身を包み、名前を呼ばれるがまま「血」をとられたり「眼」に空気のピストル撃たれたり。。。

……なんのことかって?

……いや。「人間ドック」のことです(汗)。

1年に1回は受診しようとこころがけているのですが。。。今回は約2年ぶりぐらいに受診しました。

いろいろキライな検査があるのですが、特に苦手なのは「消化器系」の検査。

……まっ。簡単に言ってしまえば「バリウム」のむのがイヤ!その前にのまされる発泡剤もイヤ!というかげっぷをガマンしろ!という自然に反した命令がイヤ!(笑)

とも言ってはおられず。技師の方の指示に素直に従って検査をしました。今回、げっぷをこらえるのもつらかったけれど、もっとつらいことがありました。

「はい。そこで息をとめてください。はい、がまんで~す」
「右横むいて。少しだけ正面むいて。息をとめて。はい、がまんしましょ~」
「次はうつぶせになってください。上向いて。はい息をとめて。がまんで~す」

……と息を止めるよう指示したあとに、例外なく「がまんで~す」とか「がまんしましょ~」と技師のかたが言うのである。しかも語尾がびみょ~にのびるのだ。

はじめは、「ああがまんしなくちゃなー」と思って素直に聞いていました。

しかし。。。
そのうち、「あ、また言うかな。がまんで~す。。。あ、言ったー」と彼のことばを予想し期待どおり(?)のおことばを聞くと。。。もー、おかしくておかしくて。胃がひくひくいいはじめてしまったのです。

笑いをおさえるのに必死。まさか、げっぷをおさえることより笑いをおさえることに苦心しようとは。。。

……そんな不真面目なカンジャだからか。。。

全ての検査を終え、最後に医師からの所見で「胃カメラ」をのむことをすすめられてしまいました(汗)。

……いや。決して「わらった」からではないのですが。これは持病みたいなものでヒンケツとイカメラは私の2大テーマなのです(笑)。

……死ぬほどイカメラがキライ。とにかくキライ。過去に数度のんでいるのですが、もう絶対にイヤ!のどからチューブをぐいぐい押し込まれて。。。なんどウエッときたことか……。しかもウエッときても出すものがない(汗)。(食事中の人すみません)。

強固に固辞する私に、医師はにっこり笑ってこうおっしゃいました。

「今はイカメラもねー。いいのがあるんですよ」
「そうなんですか?」
おそるおそる尋ねる私。

「口からじゃなくて、鼻から入れるんです」
「……え。鼻からーーー?」
「そう。このくらいの太さの」
と言って、右手で持っているボールペンを私に向けた。

「……げっ。カプセルとかないんですか?」
それほど細くはないペンにがっかりさせられ、ほこさきをかえて質問してみた。
「いや、カプセルはね、主に小腸の検査のときに使います」
……がっくり。。。
「それに、なにか異常がみつかったら結局イカメラのまないといけませんから。はじめからのんでいれば、そこで細胞とったりできるでしょ」

……ああああー。

……♪タリラーン 鼻からぎゅーにゅー♪
という替え歌は知っていたけど、今や「鼻からチューブ」の時代とはー。

……いやなくせにこわいくせに、鼻からチューブを入れたらどんなだろう?と思っている自分がなんかかなしい(汗)。。。


ラテ

2007-03-11 | 日々のあれこれ
昨夏帰国してからはや8ヶ月。なんと、はじめて日本のスタバに入った。
すわり心地のよさそうなソファーや暖炉は残念ながらないが、カウンター席、円いテーブルに椅子が何席もあった。種類こそ少ないが、コーヒー豆やマグカップなども置いてあった。

トール・ラテを注文してみた。360円也。

「店内でお召し上がりですか?」
「はい」
「では、マグカップに入れてもいいですか?」

ということで、白地のカップにに緑色のスタバのマークのついた大きなマグカップにカフェ・ラテが作られてきた。
おおー。ラテの上にクリームが泡立っている。これがすき♪。

席に着きへらのような細い木の棒でひとすくい。口へと運ぶ。

……あれ?なんかちがう……。
……ちょっとミルクくさい?……

もうひとくち。。。

……なんだか泡がクリーミー。きめが細かいかんじ。

アメリカで飲んだ時は、この泡に空気が含まれているというか、きめがあらいというか。口の中にその泡を含むと、しゅわあ~と溶けてなくなるかんじがした。その口どけのしゅわしゅわ感がなんともいえずすきだった。逆に、日本のはさーっと口の中で溶けてなくなるかんじ。

このちがいってなんだろう?

……泡立て方のちがいなのか?。
……使用している牛乳のちがいなのか?
……あえて日本人好みにしてあるのか?

他店のスタバはどうなんだろう?この泡立ち感。

どーでもいいことが気になっている今日この頃である(笑)。


窓口にて

2007-03-08 | 日々のあれこれ
市役所の某課の窓口にて。

年のころは30代。トレーナーにジーンズの男性。
窓口の女性職員になにやら声高に訴えている。
「だからー。本人がここにいるって言ってるんだから!それでいいじゃないですか。なんのためにきたと思ってるんですか!」

なにげなく耳を傾けていると。。。というかイヤでもとなりに立っている私の耳に彼の怒声がとびこんでくるのだが。

どうも「本人確認できるものの提示」をめぐってもめているらしい。

…件の男性「免許証」を提示したらしいのだが、それの「有効期限」が過ぎているらしい。

「それだったら、ここに書いといてよ!なんにも書いてないじゃない!!」
指でなにかをトントンさしている気配。険悪な雰囲気。

「ですから、こちらは、有効期限内の免許証をもって本人確認できるものとしているわけでございまして。。。」

男性の興奮した声とは対照的に、対応している男性職員の口調はやたらていねいだ。

ひとしきり怒りをぶちまけていた男性は携帯電話でだれかと話し出した。ふと目をやると窓口から姿を消していた。

……本人確認できるもの。。。

「有効期限がきれているものは無効です」と注意書きを入れるべきか。いれざるべきか……(笑)。

そんなことを思いながら、郵便局の窓口へ。

今日は、なんだかやたらと混んでいる。内心いらいらしながら窓口を見ていると。。。

どうも、3つ窓口があるうちの2つしか開いていない。しかもそのうちの1つがまるっきり閉鎖状態。ある男性によって。

後ろからしか見えないが、おかっぱのような長髪の若者。高校生か大学生か?。トレーナーにスニーカー。両肩にスポーツバッグをかけている。

「ですから、お客様のご本人確認ができるものがございませんと解約できかねます」
「…………だから。家に入れなくて…………」
若者の声は力がなくて、うまく聞きとれない。

「でしたら、学生証とかでもよろしいんですが」
「…………もってません…………」
対応している職員の方は困惑気味に尋ねている。
「では、運転免許証とか」
「…………ありません…………」

そのあと、なにか若者が事情を説明しているようだったが、職員の方はとにかく本人確認できるものがないと、解約の手立てがないということを繰り返している。淡々とした口調。

……だまりこむ若者。だまりこむ職員。。。

……時間だけが流れる。。。

私も含め局内にいる人たちは、二人の同行を興味深げにうかがっている。

「ですから、まず家の方から鍵をもらって。そうして本人確認ができるものを持ってきてから来て下さい。」

じーーーーっと身動きひとつせず。しかもまわりの状況をかえりみる様子もなく、窓口でねばっていた若者。やっともたれかけていたひじをはなし、窓口からよろよろと外へ去っていった。

本人確認できる書類。。。

運転免許証。パスポート。学生証。社員証。職員証……。
保険証もいいのか……。
写真入りではないといけないものもあるだろう。。。

……それらを持たない人は、ふえているのか?

「本人」が「○○○○はわたしだ!」といくら力説してみても、だれも信じてはくれない。いや信じる根拠となるものを提示してくれなければ信じようがない。

役所の窓口に足を運んだにもかかわらず、本人確認をとってもらえずに用事を済ますことができず、すごすご帰ることほどむなしいことはない。それはわかるが。。。

そのために窓口がふさがれるのは、まったく閉口するなー(汗)。
しかも、対応する側は判を押したように沈着冷静な態度。おそらくマニュアルとかあるんだろうなぁ。。。


さくま ゆみこ著 「子どもを本好きにする50の方法」 柏書房

2007-03-06 | こんな本読みました

個人的には、あまりタイトルがすきではないのだが。。。
内容はわかりやすく平易なことばで、本とどうつきあっていくとよいかという指南が書かれている。それが50ほどある。

サブタイトルにもあるのだが<+おすすめ本 300冊>が本書の最後にリストアップされている。それは、テーマ別(動物、乗り物、食べ物など)と50音順との二つの方法でなされており、本を選定するときに非常に役立つと思う。

また、<コンピューターもうまく利用しよう>の章では、「本に関するおもしろいサイト」や「作家や画家や翻訳家のサイト」が紹介されている。

<文字が読めるというのと物語を味わうというのは違います。私はこの年になっても、絵本や童話をだれかが読んでくれるのを聞くのが好きです。読み聞かせのベテランの人が読んでくれると、自分ひとりで黙読していたときとはまた違った世界が見えてきたりするからです。>

わたしもかつて児童文学関連の講座に出席した折に、講師の先生によるよみきかせを享受したのだが、「絵」と「音声」を手がかりに想像の世界に入ることができとても楽しかった。なので、子どもが大きくなってもよみきかせは続けていきたいと思った。

<ドイツの作家ケストナーは、「人間の世界の軸を正しくするためには」4つのことをしなければならないと語っています。1つは良心の声を聞くこと。2つ目はお手本をさがすこと、3つ目は子どものころを思い出すこと、そして4つ目がユーモアを身につけることなのです。「ユーモアは地球を小さい星にし、世界を一呼吸にし、わたしたち自身を謙虚にします」とも述べています。>

自分の軸がぶれてきたなと感じたら、ここに戻ってふりかえってみたいと思った。

子どもが何の役にも立ちそうにないばかばかしい本やくだらない本を読んでいたらあなたならどうしますか?それについて著者はこんなふうに語っている。

<人と人とのつきあいの場合と同じで、子どもと本の場合も、相性とか出会いがあるのだと思います。だから、親がどんなにいい本だと思って、やっきになって読ませようとしても、子どもはあまり気に入らなかったり、親が好ましくないと思っている本を子どもが熱心に読んだりすることもあるのです。そうした゛出会い゛は、言葉では説明できないものなのです。>

子どもが選ぶ本、そして親が読んでほしいと思う本が微妙にずれるとき、どんなふうに子どもにアプローチしていくか。子どもの目にふれるところに何気なく良書を置いておくというのも一手かもしれないと思った。

翻訳者である著者は、翻訳する価値のある作品をさがす仕事をされているとのこと。その際、<日本で出版する価値があるかどうかの判断をするときには、いつも私は自分の世界観が問われているのだな、という気がします。大げさに言えば、どんな社会を子どもに手渡したいのかということを考えながら、本選びをしているということになるでしょうか。>

巷にあふれている本。それらを実際に子どもの手に手渡す役割を担っている自分は、はたしてそこまで本の内容について吟味していただろうか?と冷や汗が出た。

また、子どもの生活を忙しくしすぎないようにと提言されている。

<エリーズ・ホールディングという社会学者は『子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)』という本の中で、子どもも生活のどこかで「孤独でいる時間」が必要だと述べています。孤独の中に身をおくときに子どもの内側に何かが起こり、想像力や創造性がはぐくまれるのだというのです。「内なる心が熟す黄金の時」という言葉を著者は使っています。読書も、同じような実りをもたらす体験だと思います。>

ただし、子どもが仲間はずれにされたり、見捨てられたという気持ちを抱いている時は黄金の時はやってこないという。安定した精神状態で孤独の時間をもつことが重要だという。これは、子どもに限ってのことではないかもしれないな。。。と思った。

 


脇 明子著 「読む力は生きる力」 岩波書店

2007-03-05 | こんな本読みました

非常に読み応えのある本。しかもとても納得させられる。

「子どもたちにはなぜ本を読むことが必要なのか」ということについて、真正面から考えアプローチされている。大学で教えている学生や幼稚園・保育園・学校・公民館などでの子どもたちとのかかわりを通じて、著者が数年間にわたり考えてこられたというだけあり、著者の考えが練り上げられとてもいい本だった。

これもおそらく、著者ご自身の見聞から得たものと、学術的に裏打ちされた論理とさらにご自身の子どものころの読書体験とがあいまったかたちで論じられているからなのだろう。

さてここで、「なぜ子どもたちは本を読むことが必要なのか?」と問われたらあなたならなんて答えるだろうか。もういちどふりかえって本書をみてみるといろんな観点からその必要性を説いている。観点は以下の目次をご参考に。

はじめに
第1章 読むことはなぜ必要なのか
第2章 赤ちゃんと絵本
第3章 絵本という楽園の罠
第4章 「文字を読む」ことと「本を読む」こと
第5章 読めない理由
第6章 読書力とは何か
第7章 ほんとうにいい絵本を手渡すために
あとがき/本書でとりあげた書目

引用したい箇所が実にたくさんあるのだが、本書を読むたのしみを奪ってしまってもいけないので、いくつかにとどめておく。

<テレビからはたくさんの言葉が流れてきますから、それで言葉が覚えられると思っている人はかなり多く、幼児用のビデオを見せれば教育的効果があると信じる人も少なくありません。じっさい、テレビやビデオを見て育った赤ちゃんは、やがて耳にした言葉を口まねしはじめ、子どもによってはとてもたくさんの言葉をしゃべるようになったりもします。しかしそれは、ほんとうの意味で言葉を身につけたことにはなっておらず、状況に応じた受け答えをする力は、逆に損なわれている場合も多いのです。>

テレビの流す情報を一方的に「受動」しているだけでは、言葉は身につかないという。

<想像力という言葉は、しばしば、日常とはかけはなれたファンタスティックなことを思い描く能力、というニュアンスをこめて使われますが、想像力(イマジネーション)の本来の意味は、「頭のなかにイメージを作り出す力」ということです。イメージの本来の意味は、単に「その場に実在しないものの視覚的な像」ということですから、目の前にいない友だちの顔を思い浮かべれば、それはイメージであり、そうやって思い浮かべる力がイマジネーションです。>

イメージを作る仕事を映像メディアにまかせていると、自前のイメージを作るのがむずかしくなるという。

<現実をちゃんと見て、その暗い面、理不尽な面もしっかり理解しながら、それでも人間に対する温かさやこの世界の未来に対する希望を失わないというのが、子どもたちのために本を作る大人に求められる、基本的な条件なのではないでしょうか。ひねりすぎた絵本、奇抜すぎる絵本の作り手のなかには、それを無視している人が少なくないように思うのです。>

裏を返せば、そういう本を子どもに手渡していかなければならないのだなと思った。詳しく描きこまれた絵よりも、物語の本質をとらえた控えめな絵のほうが想像力をふくらます核となるという。そしてそのほうが、物語をどんどん追っていけるという利点もある。

<子どもが一人前の人間へと脱皮する十歳前後の年齢になると、読む力があるかどうか、本の助けが得られるかどうかが、ひじょうに大きな意味をもってきます。「なんでもいいからたくさん」という読書奨励は、その助けを前もって子どもたちから奪っているのもおなじなのです。>

<子どもにとっての読書は、知識や楽しみを得る手段であると同時に、読む力のとレーニングでもあるので、ほかの手段に置きかえるわけにはいきません。一部はいいとしても、全部を他の手段にゆだねては、絶対にいけないのです。>

<読むという精神活動に含まれていて、映像メディアでは置きかえのきかないことは何かというと、それはまず書き言葉レベルの言葉を使う力であり、次に想像力である、第三に全体を見渡して論理的に考える力だと思います。>

また、ところどころに著者の推奨する本が挙げられている。児童書ではあるがこれらの本を読んでみたいと思った。

 


ハル。。。

2007-03-03 | 日々のあれこれ
小さな川沿いを歩いていた。スーパーに向かって。

「あっ!梅の花ー!」

顔を近づけてくんくん。

またずんずん歩く。

すると、ほのかに甘やかないい香りが。。。

……どこだろう?きょろきょろと見回す。

「あっ!ここだー!」

また顔を近づけてくんくん。

…するといきなり背後から声が。。。

「じんちょうげだねー」

はっとしてふりかえると、メガネをかけた男性がマウンテンバイクに乗ってこちらに向かっている。目が合った。背中にはバックパックを背負っている。

そしてその人はそんなひとことを私にかけて、さーっと行ってしまった。

あの人も、沈丁花の香りがすきなのだろうか。。。

…いや。単に妙なかっこうをして花に近づいてる人をわらっていたのか。。。(汗)

……ちょうど3日ぐらい前のこと。
歩いていたら、ふわあっといい香りが漂ってきた。いっしゅん金木犀を連想させる。そのくらいよい香りであたりがつつまれる。

……このにおい。この香り。春の訪れを知らせてくれる沈丁花。

……北風吹きすさぶ冬から、だんだんと空気がほどけていく感じ。そういうのがすきなのだが、なんとなく今年はいきなり「春」がやってきているように思う(といっても去年まではよくわかりませんが。汗)。

寒い寒い冬があってこそのハルなのかなー。。。(笑)


竹内敏晴著 「子どものからだとことば」 晶文社

2007-03-02 | こんな本読みました

子どもを理解しようとするとき、なにで判断しているだろうか?
…ことば?…これがいちばん大きい気がする。
…しかし。これも子どもの年齢や性格・器質によってさまざまだ。

まだしゃべれない子もいるだろうし、障害があってことばを発するのがむずかしい子もいる。思いのたけをうまく言語化できない子もいるし、照れて言えない子もいるだろう。では、そういう子はなにも感じていないのだろうか?なにも考えていないのだろうか?

本書によって「子どものからだ」に注目すること。「からだ」が思いのほかいろんなメッセージを送っていることに気づかされた。

<つまり身ぶり・身動きをまねするということは、同じ動きをからだの中に感じるということ。同じ動きは、肉体の動きだけではなく、その動きを生みだしてくる生理状態、心理状態全体を、自分の中に感じとるということで、つまり相手を理解するひとつの明確な行為であるわけです。「人の身になってみる」という日本流は、みごとにこの働きをあらわしている。>

ロールプレイングというものがあるが、自分が親の役割を日常でしているならば、あえて自分が子どもの役をしてみることによって、子どもの気持ちがわずかながらでも感じとれる。。。ということがありそうだ。

<話しことばというものは、子どもの中に、話したい、他人に何かを伝えたい、という意欲が起こったときに初めて声として外へ発することができる。この人と触れたい、つながりたいという感じが起こらなければ、なにも始まらぬ。ことばを「教える」などという作業はまだはるか地平線の彼方のことです。>

このような観点から見ると、<自閉した子どもは、からだ全体で、私はあなたと話したくない、あなたとつき合うのが怖いと、叫んでいるのだ。それほど明瞭に語っているからだをつかまえて、話す意欲がない、とは、子どもが他者に対して何を以って語っているか、ということについて、ひどく狭い、片寄った理解しか持っていない、ということを意味している。>

この文章が書かれたのは今から約30年ほど前だが、今現在ではどのような見解で子ども達とむきあっているのだろうか。。。と思った。

<子どもに対応する場合に、まずからだが何を語っているかが読みとれなければ、ことばなどというものは成り立って来ようがない。こわいことは、これは大人には読めなくても、子ども同士では実によく読みとれる、というより「共感」してしまう。>

<子どものからだは、時々刻々に、言語でなく、顔や手や脚の表情で、姿勢や歩き方で、動きのリズムで、息づかいで、声で、語っています。このような、見えやすい表現だけではない。>

<いわゆる「荒れる」とは、動乱するからだが、自己を受けとめ、支えてくれ、共に生きてくれる人間を求めての、激しい、かつ不器用な呼びかけである。かれらはその呼びかけに答えてくれるもの、拒むもの、逃げるものを鋭敏に嗅ぎわける。そこには真に人間的なるものへの渇望がある。>

子どものからだからのメッセージをどう読むか。現象だけにとらわれずにその子どもの訴えているものを全身で受けとめていかねばならないと思った。

また本書では、サリバン(先生)とのかかわりによって、ヘレン・ケラーが初めてことばを発したときの状況を分析・考察している。「奇蹟の人」の作者ギブソンによれば、この場合の「奇蹟」とは、「ウオーター」とことばを発した当日のことではなく、それよりはるか以前に<へレンがはじめてかの女のキスを受け入れわずか一、二分だが、かの女の膝にのるようになった日のこと>(サリバン自身がこのことを「奇蹟」と手紙の中で書いている)だとしている。そして、著者は<人と人とが真にふれあうこと、他者を受け入れること、これが奇蹟なので>あると述べている。

また、ある女教師が著者の指導されているレッスンで変化していく様子がくわしく書かれていて興味深かった。レッスンの最後にはいっしょにやっている男性に抱かれて泣いてしまったという。レッスンを通じていろんなことが見えてきて<自分の思い込みだけがふくらんでいて、ほんとうに子どもたちが見えていたかどうかは別問題ということに気がつきはじめ>たり、<職場の人間関係>が変わってきたという。役割だけで人とつながることのむずかしさ・むなしさが伝わってくるように思った。