ガーベラ・ダイアリー

日々の発見&読書記録を気ままにつづっていきます!
本の内容は基本的にネタバレです。気をつけてお読みください。

竹内敏晴著 「子どものからだとことば」 晶文社

2007-03-02 | こんな本読みました

子どもを理解しようとするとき、なにで判断しているだろうか?
…ことば?…これがいちばん大きい気がする。
…しかし。これも子どもの年齢や性格・器質によってさまざまだ。

まだしゃべれない子もいるだろうし、障害があってことばを発するのがむずかしい子もいる。思いのたけをうまく言語化できない子もいるし、照れて言えない子もいるだろう。では、そういう子はなにも感じていないのだろうか?なにも考えていないのだろうか?

本書によって「子どものからだ」に注目すること。「からだ」が思いのほかいろんなメッセージを送っていることに気づかされた。

<つまり身ぶり・身動きをまねするということは、同じ動きをからだの中に感じるということ。同じ動きは、肉体の動きだけではなく、その動きを生みだしてくる生理状態、心理状態全体を、自分の中に感じとるということで、つまり相手を理解するひとつの明確な行為であるわけです。「人の身になってみる」という日本流は、みごとにこの働きをあらわしている。>

ロールプレイングというものがあるが、自分が親の役割を日常でしているならば、あえて自分が子どもの役をしてみることによって、子どもの気持ちがわずかながらでも感じとれる。。。ということがありそうだ。

<話しことばというものは、子どもの中に、話したい、他人に何かを伝えたい、という意欲が起こったときに初めて声として外へ発することができる。この人と触れたい、つながりたいという感じが起こらなければ、なにも始まらぬ。ことばを「教える」などという作業はまだはるか地平線の彼方のことです。>

このような観点から見ると、<自閉した子どもは、からだ全体で、私はあなたと話したくない、あなたとつき合うのが怖いと、叫んでいるのだ。それほど明瞭に語っているからだをつかまえて、話す意欲がない、とは、子どもが他者に対して何を以って語っているか、ということについて、ひどく狭い、片寄った理解しか持っていない、ということを意味している。>

この文章が書かれたのは今から約30年ほど前だが、今現在ではどのような見解で子ども達とむきあっているのだろうか。。。と思った。

<子どもに対応する場合に、まずからだが何を語っているかが読みとれなければ、ことばなどというものは成り立って来ようがない。こわいことは、これは大人には読めなくても、子ども同士では実によく読みとれる、というより「共感」してしまう。>

<子どものからだは、時々刻々に、言語でなく、顔や手や脚の表情で、姿勢や歩き方で、動きのリズムで、息づかいで、声で、語っています。このような、見えやすい表現だけではない。>

<いわゆる「荒れる」とは、動乱するからだが、自己を受けとめ、支えてくれ、共に生きてくれる人間を求めての、激しい、かつ不器用な呼びかけである。かれらはその呼びかけに答えてくれるもの、拒むもの、逃げるものを鋭敏に嗅ぎわける。そこには真に人間的なるものへの渇望がある。>

子どものからだからのメッセージをどう読むか。現象だけにとらわれずにその子どもの訴えているものを全身で受けとめていかねばならないと思った。

また本書では、サリバン(先生)とのかかわりによって、ヘレン・ケラーが初めてことばを発したときの状況を分析・考察している。「奇蹟の人」の作者ギブソンによれば、この場合の「奇蹟」とは、「ウオーター」とことばを発した当日のことではなく、それよりはるか以前に<へレンがはじめてかの女のキスを受け入れわずか一、二分だが、かの女の膝にのるようになった日のこと>(サリバン自身がこのことを「奇蹟」と手紙の中で書いている)だとしている。そして、著者は<人と人とが真にふれあうこと、他者を受け入れること、これが奇蹟なので>あると述べている。

また、ある女教師が著者の指導されているレッスンで変化していく様子がくわしく書かれていて興味深かった。レッスンの最後にはいっしょにやっている男性に抱かれて泣いてしまったという。レッスンを通じていろんなことが見えてきて<自分の思い込みだけがふくらんでいて、ほんとうに子どもたちが見えていたかどうかは別問題ということに気がつきはじめ>たり、<職場の人間関係>が変わってきたという。役割だけで人とつながることのむずかしさ・むなしさが伝わってくるように思った。