久しぶりに読んだ。一人称で綴っていくお話。そして、そのよびかたは「あたし」。読み進めていくうちに、はるかむかし読んだ新井素子氏の著作(タイトル失念)を思い出した。
自分の誕生日直前に失恋した15歳の少女が、誕生日を境に今までと全く違う自分になる。外見も。中身もー。
そして、頭にターバンを巻いた異国の男性とともに冒険の旅にでるのである。自分は魔神族(ジン)の「ジャニ」としてー。
日常からまったく違う世界に冒険する。その入口と出口に興味があった。どうやって入り、どうやって出てくるのか?本書は、そこらへんが結構ていねいに書かれているように感じた。違和感がなかった。
現実が苦しい時、自分が嫌でたまらないとき、人は非日常的なものを求めるのだろうか?現実逃避の一手段としてー。
…けれど、それがまだ親の庇護の元で暮らしている身であったとしたら?
このような「お話」は救いになるのだろうか。今は「少女」の身ではない自分には正直言ってよくわからないのだが。しかし、物語の中で冒険することにより、現実の自分というものを客観的にながめることができるようになるのかもしれない。
失恋という大きな痛手を負っている自分をー。
「失恋」というものができそれに落ち込んでいられるのも「少女」の特権であるのかもしれないとー。
本書の冒険は作者のあとがきによると<「絵本」アラビアンナイトのファンタジー>であるそうな。作者のいう「絵本」とは「空飛ぶ木馬」を指し特別に思い入れのあるものだそう(原典の生の匂いは完訳バートン版「千夜一夜物語」で嗅ぐにかぎるそうです)
また、本書は四つの章からなっているのだが、交響組曲「シェエラザード」の四つの楽章にちなんでつけたそうである。ちなみに以下が目次。
前奏
第一楽章 海とシンドバッドの船
第二楽章 カランダール王子の物語
第三楽章 若い王子と王女
第四楽章 バグダードの祭り
ノベルス版あとがき
文庫版あとがきにかえてー口絵解説
解説 香山リカ
余談だが、自分も交響組曲「シェーラザード」が好きなのだが、作者が高校時代に聴いていた演奏(指揮者・オーケストラ)にこだわりがあるように、言われてみれば私もこだわりがあるように思う。それは、演奏者によっていろんな表現がありその演奏が好き嫌いかということもその一因だと思うが、その頃の自分を「その頃聴いた演奏」が思い出させてくれるというのが大きな要因ではないかと思った。
どんなときに透明人間になることができ、その特長とは。どんなときに欲しいものを出すことができるのか。魔法族のできること。できないこと。などがきちんと描かれていてよかった。
ジャニの、めげずに進んでいく姿が好感がもてた。また物語がすすむにつれ、彼女の積極性や強さ、主体性が表れてくるようになった。これは何か目的を抱くとそれに向かって意志をもって行動できる性質をジャニがもっているのではないかと思った。最後に日常へ戻る扉を開けるのを決めたのもジャニ自身だったということからも伝わってくる。
また本書に出てくるハールーン。魅力的な人物である。彼がきっかけでひろみ(ジャニ)は冒険の旅へと出るのだが、最後のハールーンとジャニとの会話がよかった。
<「それなら、その役目は終わったもの。今度はハールーンのためにいるわ。ハールーンは『王国のかぎ』だもの。あたしがついていって悪いはずがないもの」
あたしの言葉は、ハールーンをめんくらわせたようだった。
ー中略ー
「『王国のかぎ』。砂漠の行者が謎を解けといっての。『王国のかぎとは何か。また、そのかぎは何を開くのか』というのよ」
少し考えてから、ハールーンは首をふった。
「その答えはちがうな。もっとよく考えた方がいい。おれはただの家出人だ。ただの船乗りだ。『かぎ』なんかではあり得ないよ」
ー中略ー
「あたしの主というのは、どう考えてもハールーンだもの。それ以外にはいないもの」
「だれもが自分の主だよ、ジャニ。おれはおれだけの主だ。だから自分の好きなことをする。ただそれだけのことだよ」>
<ハールーンには、もう、魔神族の力はいらない。ー中略ー
だれよりも独立していて、だれよりも強く、だれの思いどおりにもならない。くやしくて、うらめしい……それでも、憎むことだけはできない。みんなにとってもそうなのだろう。ー中略ーこの王国きっての自分勝手なやつ。でも……大好きだよ。>
王国のかぎはだれがもっているのか。自分は王国へ行こうとするのかしないのか。主体的に生きることを考えさせてくれる作品だった。