ガーベラ・ダイアリー

日々の発見&読書記録を気ままにつづっていきます!
本の内容は基本的にネタバレです。気をつけてお読みください。

病院

2006-12-29 | 日々のあれこれ
病院へ行った。行き先は小児科だ。当事者とその妹を連れてー。

小児科の窓口の前に長いすがずらりと並んでいる。一直線に。そこにお母さんと子どもという組み合わせで席がうまっている。年末の診察は本日の午前中までだという。わが家の子どもも発熱がおさまらず「かけこみ」で受診してもらいに来た。帰国後はじめての病気、そして病院だ。

完全予約制のアメリカと違って、名前を呼ばれるまで気長に待たねばならない。1時間ほど経っただろうか。

……名前が呼ばれた。

医師がすわっている部屋に入るなり、「どっちの子?」と尋ねられた。

いっしゅん何を聞かれているかわからない自分。。。

さらに、たたみかけるように矢継ぎ早に質問される。服用した薬、症状、経過。。。

のど、目、心臓などを手際よくチェックする医師。さらにのどの検査をするため綿棒をのどにぐいっとつっこむ。

「この子の場合……」
「ちょっとおかあさん、頭押さえてて!」
「はい、力を抜いて!あーんてするのよ!舌に力を入れないで!」

……これらの医師のものいいになんとなく違和感をいだいてしまった。。。

なぜ、子どもの名前を呼ばないのだろう?
……もしかして、これはプライバシー保護のためなのか?
どうも隣の部屋に人影がいたようだし。。。

なぜ、看護婦さんがあらかじめ問診をしたり、頭を押さえたりという仕事をしないのだろう?
……人手不足なのか?

なぜ、命令口調なのだろう?
……いそがしくて、気がたっているのだろうか?小児科の医師不足、過酷な労働というニュースも聞くし。。。

そんなことを思いながら、違和感をもった理由に思いをはせた。

……完全に個室でそこに先生がにこやかに入室し、子どもに話しかける雰囲気。

上半身はだかになり、その上にスモックのようなものを着て医師が来るのを待つ。

問診や体温測定は、あらかじめ看護婦さんによって尋ねられカルテに記入されている。

受診後(注射後)、子どもに「がんばったね」というねぎらいとともにシールをくれる。

……こんな経験を6年間ほどしたからだろうか?

そもそも、アメリカはこんなに受診する子どもを見たことがなかったかもしれない。。。

「発熱」くらいだと、市販されている「解熱剤」をまず家庭で投与する。それでまず様子をみる。それから病院へと足を運ぶ。「発熱」だけで行っても薬も注射もせずに帰ることがしばしばあるのだ。(他の症状があれば別だが)。

もしくは、電話で受診の予約をする際に、子どもの症状を伝えておおよその対処法を教えてもらう。それでも手に負えないようなら病院へと足を運ぶ。

段階を踏んでから病院へと行く。

……そんなふうだったから、今回の場合も2日ほど様子をみていたのだが、3日目の今日になっても熱が下がる様子がないため受診した。

20分ほど待ち、のどの検査の結果が出た……。

先ほどの医師は、かなり専門的な知識をおりこみながら説明してくれた(かなり早口だったが)。

……ヨーレンキンVSフロモックス(抗生物質)

とあいなってしまった(汗)。

……はたして、もうすこし早く病院へ行っていた方がよかったのか?それとも様子をみていてよかったのか?

普段あまり発熱しない子だったので、もう少し早く行くべきだったのかもしれない。。。と思いつつ、今後病院ともうまくつきあっていかないといけないなあと思った(汗)。


なんでも。。。

2006-12-25 | 日々のあれこれ
デパ地下に行った。。。

……おいしそうなものがたっくさんある!
……でも、高い!こんな少ない量でこの値段?

……なにを見ても高いと思う今日この頃(汗)。

クリスマスケーキしかり、子どもの洋服しかり、玩具しかり。。。

……これって、かつてアメリカに行ったときと全く逆の発想……。

6年前だが。
アメリカに行ってまずおどろいたのは、子どもの洋服が安いこと。

それなりの品質で有名メーカーで。。。アウトレットなどに行くとさらにお得感が募る。

……とにかくなにを見ても安く感じた。特に子ども用のもの。

……しかし。だんだん慣れてくると当初感じていた「安い」という感覚がなくなり、この値段じゃ買うのやめとこ。。。ということにあいなってきた。

……ということは日本でも「高い」と思っていたものも、だんだんに慣れていくのだろうか。「このくらいの値段はするわよね」という諦めとともに。。。

日本のものは食べものがおいしいけれど、入っている量、出てくる量などとにかく少ない。ついついそう感じてしまう。

自分の中では、レストランで出されるサラダのサイズが「スモールプレート」ではなく、メインディッシュと同じ大きさのプレートにすでになっている……。

まだまだ、日本サイズに慣れてないな、自分(汗)。。。


プレゼント

2006-12-23 | 日々のあれこれ
サンタさんの代行(!)で、某家電量販店へ行ってきた。
サンタさんあてのプレゼントのリクエストを書いた紙を、こっそり見ておいて。

その商品のあるフロアーに足を踏み入れたとたん、驚いた。

……すごい人、人、人。。。
レジを取り囲むようにして、長蛇の列だ。
……なんと、店員さんが「ここが列の最後尾です」というプラカードを持って立っている。

……この光景を目にした瞬間帰りたくなったが、そうもいかない。もうタイムリミットだ。。。
……あと一日でクリスマス!

子どもと夫は一足先に、駐車場に行って車の中で待っている。あんまり長いこと待たせるのもイヤだなーと思い、即座に店員さんにメモを見せその商品がある場所を尋ねた。

すんなり案内されるかと思いきや。。。

かの店員さん、あっち行ったりこっち行ったり。。。

……おかしいなー。今日発売(DVD)だから、すぐに見つかるはずじゃないの?……

と思いながら、待っていた。
あまりにも、彼が戻ってこないのと、列に並ぶのにおそれをなして帰りたい誘惑にかられていた。

……すると、走ってある棚へと向かっていく姿を発見した。
私もあわてて彼の後をついていくとー。

「はい、どうぞ。最後のいっこです」

……ひえぇー。最後のいっこって……?
今日発売で。しかもまだお昼の12時だよ。。。

そのお店が何個入荷しているのか知らないが、おどろいた。他の店ならすんなり買えたかも知れないが、それとて行ってみなければわからない。

……しかし。売り手も考えているなー。こんな直前に販売するなんてー。

実は、子どもが学校に行っている間に調達しておこうと思い、一度足を運んだのだ。そうしたら、今日が発売日とのことを知らされたのだ。

……ああ、せめて発売日を一日だけ早めてもらえれば……

せつにお願いしたいところである。


あなたの街の……

2006-12-22 | 日々のあれこれ
「女性だけの30分の運動」「アメリカ生まれ」ということをうたっている、某フィットネスクラブのクリスマス・パーティーに行った。

……クリスマス・パーティーといっても、単なる「ビンゴ大会」だったんだけど(汗)。

私はまだ会員になっていなかったので、「当たったらもうしわけないなー」と思っていたら、賞品が当たってしまった(よくあるんだなー。こういう心境のときあたることが。汗)

誘ってくれた友人は、最後にサイコロを振ってじゃんけんにかったので、違う賞品が当たった。よかったよかった。

……ということは、どうでもいいのだが。。。

いや、それにしても、来ている人の平均年齢が高かったなー(笑)。
住宅街の中にあって、しかもこの地域はけっこうご高齢の人が多いからだろう。行った時間帯も大いに関係していると思うが。

とりあえず、ここのフィットネスクラブの無料体験を来年することにした。
以前から、運動不足が気になっていたので。

今日ざっと見たところ、ワンフロアーに10数種類のマシーンがあった。それが円形に並べられている。放送のチェンジの合図に合わせて、時間がくると次のマシーンに移動する。そうやって30分かけて1周するようである。

また、何回かに1回自分の身体のサイズを採寸されるらしい。継続的に計測することによって、自分の身体が引き締まってきたことを実感するようなシステムになっているという。

運動をしている人に、こまめにスタッフのかたが励ましの言葉をかけたり、マシンの使い方を説明してくれている。

……ここのフィットネスクラブ。詳細はまだよくわからないが、とにかく家から近い。それがいい。家から歩いて5分もかからない所にあるのだ。

そして、もうひとつ行きたいフィットネスクラブの候補がある。そこはスイミングができる。これはかなりポイントが高い。それに、フラダンスとかエアロビックスとかいろんなクラスもある。これにもかなりひかれている。

……しかし、家から離れているのだ。車で行けばいいのだがかなりの確率で渋滞する。自転車・徒歩で行くにはちょっと勇気がいる。今、冬で寒いので……(汗)。

家から近いところを選んで、確実に行く方を選ぶか。遠くても水泳ができる所を選ぶか。。。

……そんなふうに悩んでいるうちにどんどん時間がたつんだな。。。

(すいません、オチのない話で。つきあってくださりどうもありがとうございます。)



宇野 千代著 「行動することが生きることである」 集英社文庫

2006-12-21 | こんな本読みました

タイトルにひかれて借りてみた。
……ああ、そういえば今自分は「生きてないなー」と思いつつ……

引っ越してきてからというもの、一時的に忙しくそのころは自分で言うのもなんだがパワーがあった。しかし、すこし落ち着いてきたら今度は自分の居場所がないことに愕然と気づくー。

先が見えないことによって生じる無駄な動きや出費が実に多い。そういう小さなことが積み重なりストレスとなっているように思う。はじめからうまくいくわけはないのに、そうできるものと思っている。。。

まるで文化祭前に転入してきた子が、まわりはものすごく忙しそうに動き回っているのに、「今自分は何をしたらいいのか」がわからずうろうろしている。そんなこと誰にも聞けないし、一体誰に聞いたらいいかもわからない。誰かに聞こうものなら逆にうらやましがられる。例えるとそんな状況かもしれない。。。

……ココロダケガ カラマワリシテイル……

……あれれ。気がつくとグチっぽくなってきたので本題にもどそう(汗)。

そう、宇野千代先生の本だ!
去年の今頃(12月13日)も、宇野氏の本を読んでいたようだ。どうもこの時期自分のパワーが落ちるのか?宇野氏に「喝!」を入れてもらいたいのか「励まして」もらいたいのか、いや「勇気」がほしいのか……。

……とにかく元気がそこはかとなくわいてくる本である。著者が90歳を過ぎて書かれた本だと思うとなおさらだ。

<人間には、辛がったり苦しがったりするほうの自分と、喜びと感謝で生きられほうの自分とがあります。心の中の、もう一人の自分を探し出して、たったいまから、どんな人生に生きようとも、矢でも鉄砲でも来い、私の心は汚されないぞ。私の心の中は、永久に、喜びと感謝で一ぱいなのだ、という気持ちで生きてゆかれれば、その結果、どうなるか。事実がきっと、あなた方に大きな幸福という訪れでもって、お応えすると思います。>(「希望を発見することの上手な人は生活の上手な人である」より)

<私はトマトを一口、口に入れた。こんなときに私は、私はいま、まずいものを食べようとしているところだ、とは思わないで、私はいま、旨いものを食べようとしているところだ、と思ってでもいるように、ちょっと口をすぼめて、食べ始めるのが癖である。私はいま、旨いものを食べようとしているところだと、先ず、自分で自分の感覚に暗示を与えるのである。>(「暗示は魔法の力を持つ」より)

<確信を獲得するためには、私たち凡人は、さまざまな手管と言うか、手続きを要するのではあるまいか。自分で自分の神経をだまし、だまし、やっとのことで到達しなければならないのではあるまいか。>(「確信は自分の心にかえる暗示によってつくられる」より)

<日本人の生きている限り、日本のきものである和服は亡びません。但し、洋服が時とともにいろいろな形に変化し、いろいろな新しい生地を勇敢に採用して行っているのと同じように、日本のきものもまた、きもの本来の原形はそのままで、袖の形、帯の形が少しずつ変わり、生地もまた、絹と木綿の一点張りではなく、化繊も使えば合繊も使う、勿論ウールも勇敢に使うー筈なのです。>(「センスのよいきものの着方、えらび方」より)

<どんなに大変なことでも、それが愉しいと感じられるときは、人は疲れないものです。成功感を持てたときも同様です。>(「愉しんでする仕事は続く、疲れることはない」より)

<私たちも、もし、好いものだけを見分ける眼の訓練を、自分のものにしたかったら、好いものだけしか、見ないようにすることである。自分の身の廻りに、好いものだけしか、置かないようにすることである。好いものだけ、と言っても、それは値段の高いもののことではない。値段は安くても、形が単純で、色が目立たないもののことである。いつも、こんなものだけを、自分の身の廻りに置いて、そうでないものは、見ないようにすることである。好いものだけを見慣れていると、そうでないものは眼につかないようになる。これが、趣味のよくなるコツである。>(「習慣が生き方を決める」より)

<もし、あなたがほんとうに、彼女をもっともっと長生きさせたいと思っているなら、どうか、このことを忘れないで下さい。好いですか。この家にとって、彼女は一ときも欠かせない有用な人間である、と思い込ませるようにして下さい。すると彼女は、どんなに潑剌として、生き生きと長らえていることでしょうか。あなたの祖母にとっては、それが唯一無二の長生きの方法であることを、あなたも思い込んでください。>(「心に張りがある人間はボケない」より)

<自分の朝夕の生活と言うものが、この意識によって、どんなに変わるものか。ずっと以前のことであるが、私は衣冠束帯と言うことを考えた。そうだ。私は一刻の休みもなく、衣冠束帯でいることだ。何事も衣冠束帯。私はいま何を考えているか。何を食べているか、何をしているか、あの腰の紐をきゅっと締めて、背後の布をうんと膨らませて生活している、衣冠束帯である。意識また意識である。>(同上)

着物のデザインをする際に、「桜」は「春」だけのもの「四月だけのもの」と決めつけず、きまりを破って秋も冬も、夏にも桜を使われたという。そういうなにごとにもこだわらず、自分の思いのままに表現し行動する姿。自分ができないからこそ、宇野氏の生き方に強くひかれるのかもしれない。。。

以上< >は、本書より引用部分です。 

 


あの人は今……

2006-12-20 | 日々のあれこれ
急ぎの郵便物があったので、郵便局へ行った。

……案の定すごい人。激混み(汗)。

2つしかない郵便受付の窓口に行列ができている。

みんなだまんまり。そしてなんだか顔がこわいー。
内心私も前で用事を済ませているご老人につっこみたかった。
「書き損じの年賀状の返金は、来年にしようよ!」とー。

まだ年賀状も書き終わっていない自分のタイマンさをみせつけられているようで、自分に腹がたつような、こころがチクチクくるような。。。

……と。自分の順番が来た。

郵便物を差し出す。受付はメガネをかけた色白の若い男性。いかにも生真面目そうな青年だ。

郵便物を受け取ると、なにやら機械を操作しながら首をかしげている。
そして、おもむろに私にこう言った。

「郵便番号から住所を確認しようとしたのですができないんです。住所は、これであってますか?」

あわてて宛名が印刷してある紙をバッグから取り出し、自分の書いた住所と照らし合わせた。

「あってますけど。。。あってますよね?」

「おかしいなー。。。」
と言って、彼はもう一度機械の方に身体を向けた。

「郵便番号は、これでいいですよね?」
「はい。たしかにあってます」

「住所は、キョウトシ シモギョウク トリマルドオリ……」
「……はい?。トリマル?トリマルって……?」

彼の指差している文字を見た。「烏丸」と書いてある。いや書いたつもりだ。
彼は、これが「鳥」に見えたのか?
それで、こんなイヤミを……?

……だって仕方がないではないか。急いでいたのだ。もしかしたら、四画目の前に一本横棒が多かったかもしれない。多く見えるかもしれない……。

……いや、そういう問題ではないだろう!

これは京都の宛名だ。そして地名だ。たとえ私の達筆(?)が「鳥」という字に見えたとしてもだー。
しかもあなたは郵便局員!プロではないか!
そこにどんな字が書かれていようと、「烏丸」(カラスマ)と推測しないといけないんじゃないだろうか?
それとも、私が知らないだけで「鳥丸」(とりまる)通りというのが他に存在するのだろうか?

そんなことを漠然と考えながら、ふとこみあげてくる笑いをこらえるのに必死だった。意味もなく壁にはってある掲示物を読む。後ろに並んでいる人たちの殺気だった空気を感じると、笑うに笑えなかった。

……そしたらなんと、こんなことを口走っていた。

「いや、トリマルじゃなくて。カラスマルです」

「……じゃなくて。カラスマです!」

マスカラでもなく、マラカスでもない。正真正銘のカラスマだー!

……今どきの若者は読めないものなのか?
……ではなんで私は読めるのか?


……そこで、提案。

テレビ局のかた。ぜひ今度「あの人は今…」という番組を企画してください。そしてぜひぜひ熟女系(?)女優の「烏丸せ○子」さんの出演を交渉してください!そうすれば、この京都の地名もいっきに普及することまちがいないでしょう!


山田 太一著 「誰かへの手紙のように」 マガジンハウス

2006-12-19 | こんな本読みました

久々に山田氏の著作を読んだ。山田氏といえば「ふぞろいの林檎たち」をはじめテレビドラマの脚本家として有名な方だ。

個人的にはシナリオだけでなく、エッセイ、小説、対談集などどれも好きだ。図書館でこの本を見つけたときはとてもうれしく、さっそく手にとった。なんといっても「タイトル」がいいではないか。他のエッセイも内容もさることながらタイトルにひかれる。(『路上のボールペン』『逃げていく街』『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』など)。

この本はエッセイ集。新聞、雑誌などに掲載されたものを集めてある。山田氏のドラマのセリフのリズムを彷彿とさせるもの。かざらない言葉でずばりと本質をつくもの。一編の短編小説のようにエッセイなのにどんでん返しがあるもの。読んでいてある種の小気味よさを感じた。中にはズキリとくるものもあったが。

<目先の成績はたしかにいいが、少し長い目で見れば会社のマイナスかもしれないという勝ちはいくらでもあるだろう。その種の勝ちに文句をつけることが、どんどん難しくなって来ている。視聴率ばかりで裁かれるテレビの世界で生きていると「負けたけど勝った」「勝ったけど負けた」という言葉が、もやはどこにもないことに愕然とするのである。>(「勝負の陰影」より)

<親とは通じない部分を、どんどん持つことによって、子供は自分の世界をつくっていくのである。不分明なところが多いから、といって親が不安におちいることはない、と思う。「なにを考えているか、なにをしているか分からない」部分が増えていくことで、子供は成長しているのだ。そこへ、いちいち親が首をつっこみ「一緒に悩み、一緒に考えよう」などとすることは、子供にとっては、ひどくわずらわしいことだし、親が加わることで当面の局面はいい方向へ転換するとしても、長い目で見れば、あまりいい影響を残さない、というように思う。>(「子供との「対話」について」より)

<子供が刻々自分の世界をつくって親から離れようとするのに負けないで、親の私も自分の世界を子供の前に提示して、その世界をまもりたい、と思う。子供は、寂しい思いをするかもしれないが、そういう寂しさは、「理解しよう、共感しよう」として立ち入ってくる親が与えるやりきれなさより、はるかに子供のためになる、と思う。ー中略ー必要なのは対話ではなく、子供の前に、どんな人間として立ち現れているか、だと思う。>(同上)

……しかし、山田氏は<子供が「病んだ」場合は別である。その時は、まったく反対の親にならなければならないのかもしれない。>と最後に記されている。

<結局のところ私を含めた多くの人間の創造的な精神活動の大半は、この選択にあるのだと思う。私は一応「作者」と呼ばれることもある人間だが、自分の内部をのぞくと、天才の創造物を選んで享受する精神活動の方が大きいくらいなのである。なにを観てなにを聴いてなにを読むかは、それだけでクリエイティブなことなのだと思う。選んで享受する人々がいなければモーツァルトもカフカもゴッホも手も足も出ない。『指輪物語』も『ゲド戦記』も存在しない。選ぶことも創ることなのだと思う。
 そして選ばれた作品は、選んだ人たちのそれぞれの内部で、驚くほど多様に変質するのである。>
(「六十代のメモ」より)

<多少強引に要約した嫌いはあるけれど、このようにして人生の暗部を見まいとする人々も多いのではあるまいか? 
 しかしこうした楽天性は一種の神経症というべきで、人間の暗部から逃げ回っているだけのことである。目をそむければ暗いことは消えてなくなるだろうと願っている人を、楽天的とはいえない。本来の意味での楽天性とは、人間の暗部にも目が行き届き、その上で尚、肯定的に人生を生きることをいうのだろう。ニーチェが「悲劇は人生肯定の最高の形式だ」といっているのも、そうした意味合いではないだろうか?>
(「断念するということ」より)

<たしかに人生は食べものの味みたいなところがあって、オムレツの味をどう教えられたって食べなければ分からない。食べても、それが口に合うかどうかは、それぞれ実はとても個別なことで、仮に多くの人が一緒に「おいしい」といったから「まずい」といったから、同じ味を共有しているかといえば、そんなことはない。おそろしくひそやかでおそろしく個的なものがそこにはあるのかもしれない。人生も生きてみなければ分からない。少女期も、青年期も、中年、老年期も、その手ざわりは自分が生きてみなければ分からない。愛も恋も、嫉妬も失意も、孤独も病気も仕事も、結局のところそれを生きてみなければ分からない。人生の肝心のところは、みんな、そうなのである。結婚することも、、しないことも。>(「人生は誰も教えられないけれど」より)

他には、山田氏ゆかりの地「浅草」や「川崎」について、交友関係のあった寺山修司氏について書かれているところが、こころに残った。

 


むかしのあそび

2006-12-18 | 学校
日本のむかしのあそびを体験する…ということで、小学校の体育館にボランティアに行って来た。地域の方、お母さん方合わせて30名近くいたであろうか。

あそびの内容は「竹馬」「羽根つき」「ゴム段」「あやとり」「こま」「おはじき」「おてだま」。各自行きたいコーナーへと足を運び、先生の合図とともに違うあそびへと移動する。

はじめに地域の方の自己紹介があった。某TV局の長寿の方のクイズ番組よろしく、いきなり片手を挙げて「…っちわっす!○○です。94歳です!」という方、「ベーゴマ。じゃない、コマを担当します」と言う方。。。なかなか味があった。また、お母さん方の方は、簡単に名前と担当あそびを述べていく。自分のお母さんが来ている子はかなり気になっているようである。「来るはずの自分のお母さんが来ていない…」とべそをかきながら先生に訴える姿の子どもも見られた。

私は羽根つきを担当したのだがこれは非常にむずかしい。なかなか続かない。まず子どもたちの多くは、サーブ(?)の時点で羽子板に羽を当てることができない。空振りするのである。羽を手から離してしまう子、目の前に羽を持ってきて当てようとする子さまざまだ。

しかし、少しコツを教えるとサーブはできるようになる。しかし次に来た羽を打ち返すとなるとさらにむずかしい。右利きなのにいつのまにか左手に羽子板を持ちかえている子、バットのように横に振り回す子…。やる気はあるのだが、技術がそれに伴わない。かくいう私もそれほど上手くはないが。

なかには当てるのが上手で6回打ち合いが続いた子もいた。たいていの子は2回もしくは3回が限度。その子になにかスポーツをしているか尋ねてみたら、テニスを習っているという。なるほどなあと思った。ラケットの面の使い方を羽子板にうまく応用しているように思った。

約1時間。羽根つきをしていたらかなり身体が熱くなった。タートルネックのセーターを着ていったのだが大失敗。しかし、他のあそびを担当した方は寒くて寒くてカイロが役に立った…との声も聞かれた。

……こうして楽しい時間が過ごせたが、ふと自分の小学生時代のあそびをふりかえってみると「むかしの遊び」をしていたことが判然とした(汗)。

……どれもやっていた。上記以外のものでは「めんこ」もやっていたっけ。

といっても、給食の牛乳がビンのふた(キャップ)をめんこがわりにして。「ぺちくり」と言うもので、パチン!と上からたたいて相手のを裏返すルールではなく、三本の指(親指、人差し指、中指)を使って自分のキャップをはじき、上に乗せておいた相手のキャップが裏返ったら勝ち。というものだ。

……しかし、この「ぺちくり」の遊びも牛乳がビンでなくなったので自然と消滅したなあ。

あとよくやったのはゴム段。色とりどりのゴムをつなげて長い一本のゴムにする。
低いときは余裕で飛べていたが、高くなるとだんだん難しくなる。しかし、これができるとすごく気持ちがよかった。この体験はのちのち「棒高跳び」の記録にすこーしだけ生かされるようになったなあ。

……などとしばし郷愁にふけってしまった。。。

この学習を機に家で「おてだま」や「あやとり」に夢中になっているわが子である。


加賀美幸子著 「ことばを磨く18の対話」 NHK出版

2006-12-17 | こんな本読みました

先日(12月15日)に引き続き、加賀美氏の本をー。といってもこちらは、18人の方との「対談」集でありますが。

どんな人と対談したかといいますとー(以下、敬称略)。
岸田今日子、永 六輔、吉永小百合、ねじめ正一、タモリ、市原悦子、丘灯至夫、平尾昌晃、久米 明、小宮悦子、堀尾正明、久保純子、相田 洋、和泉元彌、桂 歌丸、神田 紅、俵 万智、山田太一氏ら18名です。

「放送文化」に2000年3月号から2001年8月号まで掲載されたものだそうである。

加賀美氏の、相手の話を受け止めそれに対する返しがとてもいい。鋭いツッコミあり、こちらが聞きたいことを質問してくれる場面あり、加賀美氏のお考えが表出している場面あり……。また、何名かのアナウンサーの方との対談も興味深かった。ふつうならば、人の話を聞く側の立場の人の話を聞くことができたのでー。

以下、< >部は本書より引用しました。

<加賀美 でも聞く人の想像力をかきたてるというのは容易ではありません。
  永    聞く人の想像力をかきたてるのは伝える人の創造力です。ラジオだと両方ともソウゾウリョクです(笑)。>

<タモリ  お笑いをやっていてどういう境地に行きたいのかというと、僕の場合、自分が自由になれることなんです。また変われることがお笑いのすばらしいところなんです。普段のほうが僕は不自由なんですよ。そういった面じゃ、常識家ですかね。「ちゃんと挨拶しなきゃいけない」とか(笑)。>

<加賀美 先生の書かれた詩は、わかりやすいのですが、いつも新鮮で飽きない。
  丘   一番簡単な言葉で、その陰にあるものを想像させたいわけです。>

<久米  ー前略ーこれは谷川俊太郎さんの話なんですが、詩人というのは、書いているときから「この声でしか表現できない」という声を想定して書いています。特に谷川さんなんか、明らかにそうだと思います。後略ー>

<加賀美 技術を越えて、自分がどう感じ、自分がどう思っているか、その人間そのものということですね。
 久米   そうですね。僕は究極において、朗読の仕事には人間そのものが出るんだと思います。>

<久米  ええ、やはり作者は登場人物の隠れた心理を考えながらセリフを書くわけですから、「何を」の裏にある「なぜ」をしっかり踏まえてセリフをしゃべらないと駄目だよということなんです。ご存知のように、特にセリフというものはいろいろな内容とそれを言う心理と両方を持っているんだから、その二重性をうまくつかまえる必要がある。いわば論理と心理、論理と感情でしょうか、その二つの側面を役者は最大限に利用していく。「こういうことを伝える」という裏に、「なぜそれを伝えようとしているのか」という、演じる主体の感情といいますか、情感をそこに織り込まないかぎりセリフは成り立たないんだということだと思います。語りの仕事も同じだと思います。>

<加賀美 私たちは「耳に」と思いますが、「目」にとおっしゃいましたでしょう?普通は耳で聞くんですが、やはり「目に届くように」というのがカギですか。
 久米   これがカギです。話っていうのは人の言うことを目に、心に思い浮かべることであるし、話をするっていうことは相手の目にその情景を思い描かせることなんです。目から心にビジョンを映し出すことなんだ。これは演技論のひとつの大きな原則だと思います。それが朗読の場合にも非常に大事だと思います。ですから、その情景が自分の中にはっきりしていない限り、相手になんか映るわけないんです。>

<久保 ー前略ー加賀美さんみたいに素敵に生きられれば……。
加賀美 素敵じゃないですよ。結局、「自分がどう生きたいか」が全てに関わってくるんですね。いくら壊されても平気な強さと、絶対ゆずれない真摯なものとを両方持っていれば怖いものはないと思う。私はやわらかくて強い、地味だけど目立つというのが好きです。>

<俵  旅なら旅を味わっているときは、それを思いっきり味わうことがまず歌につながる第一歩だと思うんです。それを言葉にするというのは、経験を外から見る自分の目を持つことなんですね。ただ、その目は渦中にいるときはとりあえず置いておいて、味わうだけ味わったものを、またその後でもう一人の自分が言葉で組み立てるというほうかいいような気がします。それは旅でも恋愛でもみんな同じというか。恋愛でも、その渦中にいるときに(歌をメモする恰好をして)シメシメとかしていたら怖いですよね(笑)。>

<俵  そうやって作ってるんでしょうね。まず本当に心が揺れるというのが第一歩です。何もないところで言葉を組み立てても虚しいだけだと思いますから。心の揺れを見つめていく中で、それを一番的確に表せる言葉を探すということなんです。こう言うとすごく漠然とした作業のように聞こええると思うんですけれど、そのときに「五・七・五・七・七」という定型があることが、自分にとっては言葉を探すすごいくいい手がかりになっているような感触があります。ー後略ー>

平尾昌晃氏(作曲家)、久米 明氏(俳優)、俵 万智氏(歌人)らとの対談がとくにこころに残った。

 


加賀美 幸子著 「こころを動かす言葉」 海竜社

2006-12-15 | こんな本読みました

NHKのアナウンサーだった方。この本の著者略歴には千葉市女性センター名誉会長と記されている。

とても落ち着いた話し方で聞く人のこころのなかにすーっと入ってくる。違和感がないというよりむしろ居心地がいい。そんな独特な雰囲気をもった女性という印象があった。この頃はほとんどTVでお見かけしないけれど。。。

そういうTVを通じての著者の人となりが、この本を通じてさらに伝わってくる。素敵な女性だなぁと感じた。またこの本の出会いから著書が多数あることを初めて知った。

「朗読」というのはその人がまるごとあらわれる気がする。その作品をどれだけ理解し、解釈しするのか。それをどう読み、人に伝えようとするのか。ひたすら練習、練習。そういう地味な努力の日々を続けられる人かなどなど。。。

私自身も以前、「朗読」を仲間とそして個人的にも学んだことがあるので、その難しさがわずかだがわかる気がする。聞いている分にはなんていうことないことも、実際自分がやってみると加賀美氏のナレーションがいかに素晴らしかったのか。。。ということが身をもってわかってくるのである。

この本は氏が様々な雑誌に書いたものを、テーマごとにまとめたエッセイ集である。以下、こころにのこったところを書き記しておく。

<言葉には人を癒す力がある。「元気か。元気出せよ」という励ましの直接表現も嬉しいが、どこか突き放す語感があって寂しい時がある。
 でも「元気そうね」という言葉には「元気そうに見える。だから大丈夫!」という救いの語感がある様な気がしてならない。>

<声は声だけでは成立しない。言葉が伴い、言葉は常に内容と心が伴う。体を鍛えることには生物としての限界があっても、内容と心を鍛えることは、生きている限り無限である。大げさな事ではなく、しっかり年をとっていれば……とればとるほど声も生き生きとしてくるのはごく自然なことではないだろうか。>

<仕事の種類や内容も拘泥らない。好き嫌いがない。日があたるあたらないも関係がない。だから仕事に於いて、不遇という実感がない。自分の係わり方で宝にすればよいと思っているから、悲しいとも哀れなこととも思わない。
 自分の力を真摯に尽くし、楽しんで、徹底的にプロの仕事をしていれば、そして変わらずそれを続けていれば、必ず伝わると信じている。>

<何を捉え、何を見逃すか……その事がその後の人生にも大きく係わる様な気がするし、さらに世の中の様々なメッセージの中から何を感じ、何を捉えるか、その感じ方、捉え方こそ、その人間の生き方そのものの様な気がしてならない。>

<「読む」ということは、「声に出して、書いてあるものを読み上げる」ということではなく、時代を読む、情勢を読む、人の心を読む、内容を読む、……など、どこまで、対象や求められていることの中身を読み取ることができるか、そして、我々放送人なら、それをどう伝えられるか、会社なら、どう仕事として実績をあげられるか……ではないだろうか。>

<今、子どもたちは、もう一人の自分を持つゆとりがあるのだろうか。良きにつけ悪しきにつけ、考える隙間もないほど、様々な情報に囲まれ、寂しさの中で鍛えられる機会も乏しく、一人になる強さも通りすぎてしまい、大勢の中の孤独に陥る様なことはないだろうか。かつての少年たちが持っていた清々しくも堂々たる品格は何故かあまり見られず、瀟洒な雰囲気、軽妙だけれど何だか線の細い少年少女が多いような気がするのは私だけの見方であろうか。>

以上< >部は本書からの引用です。 

仕事だけでなく、日常生活も大事にしている著者の姿がうかがえとてもよかった。