ガーベラ・ダイアリー

日々の発見&読書記録を気ままにつづっていきます!
本の内容は基本的にネタバレです。気をつけてお読みください。

左右対称

2007-06-27 | 日々のあれこれ
先日、「知らない間」に膝の内側にあざができていることを書いた。

そして今日……。
おもいっきり自覚して両足に傷を負った(汗)。

…ピンポーン!

という電子音に反射的に体が反応し、階段をころげ落ちるようにして玄関へと向かった。
読んでいた本はいつのまにか視界から消えており、目を開けた瞬間自分がソファに果てていたことを知った(汗)。

ホウホウノ態で二階に戻ろうとして、どうも足がからまったらしい。階段でこけた。
どちらの足が先に負傷したかわからない。
痛みを感じたその刹那、今度は反対側の足も階段のヘリにぶつけた。

……うっっっ……

上半身は傾き、倒れこむようにして階段を上る。

痛くて声も出なかった。

……これでわかった。痛みを感じるところに傷を負えば必ず意識化されるということが……。

なんせ打ちつけたところは、弁慶の泣きどころ。

いっぽうの足は擦り傷。かわが少しむけ赤くなっている。
そしてもういっぽうの足は、出血している(汗)。

……ああー。きれいだ。きれいに足の傷が左右対称になっている……

……そのままソファに倒れこんだ……。バタリ。。。


2007-06-19 | 日々のあれこれ
雨が降るとうれしく感じる今日この頃。

……なぜって?

朝、すこしだけ時間のゆとりができるから。

晴天だとあせるあせる。

……洗濯物を干して行かなきゃっ!

という強迫観念にとらわれてしまうから(汗)。

あー。あしたもあさっても晴天の予報ですね。しかも暑そう。。。

……雨よ降れー!。降ってくれー!


ダイアナ・ウィン・ジョーンズ作 「魔法使いハウルと火の悪魔」 徳間書店 

2007-06-18 | こんな本読みました

訳者は西村醇子。サブタイトルに<ハウルの動く城 1>とある。

今から1年くらい前にDVDで宮崎駿監督の「ハウルの動く城」を観た。それの原作がこの本だそうだ。今頃知っておりまする(汗)。このころ日本にいなかったから。。。と言い訳したりして(笑)。きっと本国ではいろいろ盛り上がっていたことでしょう。

本好きの知人と話していたら、彼女のむすめさんがこの著者の作品にはまっていた…ということをお聞きし、さらには彼女の強いおすすめもあり手に取ってみた。映画よりおもしろいよ……という言葉にも触発されて。

映画に対してどのような印象をもっていたかということすら定かではないのだが、よくわからない部分があったように記憶している。本書を読んでみて、わからなかった部分や人物の背景がつかむことができすっきりした部分がかなりある。

……まあ。映画と原作は別物と考えるのが一番なのかもしれないけれども(汗)。

……私にとって映画はきっかけ。やはり魅力的なのは原作。あじわい深さが違う。ただ少し想像しにくいカルシファーという火の悪魔の動きは映像に助けられて、本を読み進めたかんじだったが。

主人公とされるソフィー。彼女の背景。三人姉妹の長女。なにをしてもうまくいかないと思っている。要領が悪く、人がいい。まっすぐなのだけれど失敗が多い。作者によって<長女気質>を印象づけられる。そんな彼女が老婆にされるという魔法をかけられたおかげで(?)、ある意味思い切って行動することができる。時として開き直りとさえとられる行動をする。それは自信のなさの裏返しなのか?勇気をもって行動している証なのか?

そしてハウル。女の子をふりむかせたとたんその子に興味を失ってしまう。よくない噂まである。外見はなかなか魅力的だという。まだ老婆にされていなかったころのソフィーは、ハウルのことが気にかかっていた。

その二人の関係がどうなっていくのか。
ソフィーのかけられた魔法はどうなるのか。
カルシファーとハウルとの契約をどううちやぶるのか。
……魔法をかけられた人はその旨を他人に言うことができないという制約の中で。
そして、ハウルのほんとうの姿とは……?。

いろいろ謎がしかけられており、おもしろく読みすすめられる。

謎を解く鍵として、ひとつの「詩」が引用されている。
これは、イギリスに実在した詩人ジョン・ダンの詩『ソング』の第一連だ(本書の外註に表記してあった)。なかなかに含みのある詩で第一連だけでは解釈しづらい。しかし、これを読み解きながら話をすすめていき最後にはうまくまとめあげていく。

個人的には、ジョン・ダンの詩にとても興味を抱いた。詩集も出版されているそうなのでそちらの方も機会があったらふれてみたい。

想像しづらい登場人物(かかしや犬人間)や場面があり、前半は一気に読めたが後半ちょっと苦しいところがあった。ラストが明るくすっきり読み終えることができよかった。

実は『徳間 アニメ絵本 ハウルの動く城』も読んだことがあったのだが(こどもに読み聞かせ)、本書読了後再読してみたらよくわかった。もちろん小さい子どもにはこれだけでも十分楽しめるのだろうが。

 


バトル

2007-06-17 | 子育て
溶連菌VSウィルス

のどが赤くはれ発熱するのがいいか。
手足に湿疹&発熱がいいか。

究極の選択だ。

錠剤の薬(抗生物質)がいいか。粉薬(解熱剤)がいいか。

出席停止がいいか。救急診療がいいか。

お互い相手の菌はいやだと思っている姉妹。

……どっちもどっちだと思うよ……と思う母。

というか

……どっちもやだ(苦笑)。

とにかく。

早く菌よ去ってくれー!(ガーベラこころのさけび)


ツカレ。。。

2007-06-14 | 日々のあれこれ
どうも疲れがたまり、小さなミスの連続の今日この頃。
みなさまはいかがですかー?

……というわけで、今日は(も?)やってしまった(汗)。

時は朝。

目的の駅に着いたので、通勤電車から降りあわてて本をしまう。

かばんのファスナーを閉めながら、階段を上り。。。

人の波にのりながら、改札口へと歩を進める。。。

そして、例のものを「ピッ!」とかざす。

すると、自動改札のゲートが開く!

……のだが。

今日は、自動改札で「ピッ!」とする例のものをおもいっきり間違えた。

「ピッ!」とせずに、切符を入れる入札口にあろうことか某カードを入れてしまったのだ。

このカード。うすくてぴらぴらしている。

……そうしたら……

……ゲートはどうなったかって?……

……○○たんです(笑)。

ただし、こんな注意書きが表示されて。

「係員のところへ行ってください」と。
赤色で円の中に斜線がある絵とともにー。

……んで。小心者の私は行こうと思ったのですが。。。

いかんせん後ろにはすでに人の波が!

……もうこの状態では戻れまい。

しかもゲートは○○ている!

……心中穏やかではなかったが、とりあえずゲートを通り抜けた。

大きい声ではいえないが、究極のウラワザ?(汗)。。。

でも。けっして真似なさらぬよう。当方いっさい責任は負いかねます(ぺこり)。


プラトン著 藤沢令夫訳 「メノン」 岩波文庫

2007-06-12 | こんな本読みました

「形」とは何か?
ソクラテス<ーもののなかでただひとつ、つねに色に随伴しているところのものであると、こうわれわれは言っておこう。ー>

「色」とは何か?
ソクラテス<ーすなわち、色とは、その大きさが視覚に適合して感覚されるところの、形から発出される流出物である。……>

う~む。わかったようなわからないような……(笑)。

本書はソクラテスとメノンが「徳とは何か」からはじまり、それを「徳は教えられ得るか」という問いに置きかえられ、「徳」の定義について対話している。その論題は当時の流行であったらしい。

上記の引用はその対話の中からのものである。徳について話しているのにどんどん話はずれる。いや、ずれているようでいてつながっている。ふたりの会話がどこにどう進んで行くのかわからない。そこにスリルがあったりする(笑)。

解説によれば二人の対話は紀元前402年の初めごろ。ソクラテスは67歳ごろ。メノンは20歳ぐらいと想定されているそうである。そのころのソフィストが弁論術で強引に相手を納得させる方法をとっていたのに対して、<無知の知>を自覚していたソクラテスは「問答法(対話法)」によって真理を探究したといわれている。

ここに登場するメノンとはゴルギアスの教えを受け、エンペドクレスの学説、幾何学、詩などについての教養をひととおり身につけている青年として描かれている。が、その実<かなりの悪名をになった人物としてよく知られていたことはまちがいない>という(彼の遠征軍の将としての所業は『アナバシス』(クセノポン)に詳しいらしいです)。

ソクラテスはメノンが知っていることをひとつひとつ確認しながら、彼の問いについて答えていく。しかし時にはその問答の仕方はよくないとか、質問に対してこう答えて欲しいとかいろいろ注文を出す。時には話の流れとはまったく関係ないような事例をだしてきて、メノンを困惑させる。皮肉な部分もかなりある。

特に私が印象に残ったのは、<探求するとか学ぶとかいうことは、じつは全体として、想起することにほかならない>という説を証明するために召使をひとり呼んで来て、彼とソクラテスが対話するくだりである。対話と言ってもある数学の問題を解いていくのだが。

ソクラテスはひたすら質問する。召使はそれに答えていく。それを繰り返しながら召使は初めに自分がそうだと思っていたことが実は間違っていたのだということを知る。その過程が描かれているのだがそれが実におもしろい。

その召使をまず行き詰らせる。なぜなら彼はまちがった認識をしていたので。しかし本人はそれに気づいていない。まずそこを気づかせ「教える」ということはせずに、ただ質問した結果として、本人が自分で自分の中から知識を再び取り出し、それによって知識をもつようにもっていく。

それはつまり<‘知の思いこみ‘ーアポリアーと無知の自覚ー探求の再出発ー発見(想起)>(解説より)の過程そのものである。そうやって説を証明していくのである。

ここのくだりを読んで、ふと自分がわが子にひきざん(くりさがりあり)のやりかたを教える場面を思い出しひやあせがでた。いきなり新しいことを教えようと問題を提示するのではなく、既知のことをつかいながらこれはできる、これはわかる。これではできないこれはわからない……とひとつひとつつめていき、いきづまった時「じゃあどうする?」…と自ら探求する気をおこさせる。しかも根気よく。

……そうすればよかったのだ。
……しかし我が子となると頭に血がのぼる。。。汗。

本書はソクラテス的な定義追究、そして想起説、仮設の方法、知識と正しい思わくの違いなどプラトン的な要素も盛り込まれている。また、本書解説には歴史的背景、内容上の問題点やら対話篇の構造なども書かれている。ので本書の学術的な位置づけなどあらかたつかむことができると思うが、そういうことはさて置いても(置いていいのか?)なかなか興味深かった。

倫理・社会などで該博な知識はあったが(もちろん記憶はあいまい。笑)、実際ソクラテスが産婆術(母親の業にちなんでそう例えた)と言われる問答法をどのように行ったのかふれたことがなかった。それが体験できたという意味でとてもおもしろい本だった。

 


シセイ。。。

2007-06-11 | 日々のあれこれ
ジャケットを新調した。

……なんと。姿勢矯正用ジャケットー!(笑)

……んなわけないが。。。

それというのも。。。

これは某女優さんがイメージガール(というのか?)をしているところのもので、そのショップの店員さんにいつも自分が着ているのより、1サイズ小さいものをすすめられた。

「えっ?」と思ったが試着してみたらピッタリきたので、あまり深く考えずにそれを購入した(決してやせたわけではありません)。

……そして今朝。

着てみたらなんかキツイ。いやキツイ気がする。。。

……なぜ?……

昨日よりジャケットの下に着ているものが多い(汗)。。。

なんだか着心地がイマイチ。

いい姿勢をしないとあちこちしわがよる感じがする。。。

……ああー(がっくり)。

ちゃんと着比べればよかったのに。。。とか

タグをとっちゃったから商品の交換はしてもらえないだろうな。。。とか

こんなときリターン王国なら簡単なのに。。。とか

さんざんぐるぐるしたアゲク……。

これから暑くなるから、インナーを薄くすればだいじょうぶだよ!……と自分で自分をはげますことでどうにかこの件に終止符を打ちつつ。。。

ジャケットにしわがよらないように背筋をなるべくのばして歩いた。

あごをひいて。肩をひいて。。。

……もしかしたら少々猫背気味のわたしにはよかったのかもしれない。。。

……この姿勢矯正ジャケット!

これでこの夏。

姿勢を矯正して颯爽と歩けたらいいな!(笑)。


大日向 雅美著 「「子育て支援が親をダメにする」なんて言わせない」 岩波書店

2007-06-07 | こんな本読みました

なかなか刺激的なタイトルである。でも、私もこのタイトルに同感である。

先に言ってしまうと著者の大日向氏の子育て、女性、母親観に大変共感した。「子育て」について多角的にとらえ、かつご自身の子育ての経験をふまえながら書かれているのでとても説得力があり、事例も多く読みやすかった。以前違う著作を読んだ時はお堅い(?)「学者」のイメージだったのだが、本書を読んでいっきに大日向氏に親近感がました(すみません、勝手なことを申しております)。

著者は港区で子育てひろば<あい・ぽーと>の施設長として、子育て支援をしてらっしゃる方。大学で教鞭もとられている。

目次は以下のとおり。

第Ⅰ部 子育て支援はだれのため?なんのため?
   1 だれが言うのか?「子育て支援は親をダメにする」
   2 「少子化は止まらないではないか!」
   3 「こんな親まで支援をしなくてはいけないの?」
   4 支援者の盲点ー子育て支援は親支援と言いつつ

第Ⅱ部 子育て・家族支援の現場から
     -港区子育てひろば<あい・ぽーと>の実践
   5 <あい・ぽーと>への思い
   6 いざ、当事者となってみれば
   7 親のニーズと子どもの幸せと
   8 ユニークな支援プログラム
   9 反響、そして、これから
  10 子育て支援は、もう一つのプロジェクトX
     -地域、支援者の子育て力向上を目指して

はじめになぜ子育て支援が必要なのか?ということを十分に説き、子育てについての男女の意識のギャップを述べられている。

<子育てをめぐる男女の意識のギャップは、その根源をたどると「子育ては母親の仕事」と考える子育て観にあります。仕事か子育てかという二者択一的な生き方を性別によって強いている現状は、女性にとっては社会からの疎外を意味し、一方、男性にとっては育児や家庭生活からの疎外を意味します。いずれも人としてのトータルな生活を奪い、子育てを通して夫婦の礎を築くことを難しくしているのです。そして、それは単に子育ての問題に影響を及ぼしているだけではなく、男女間の就労形態の相違を生み、経済力の格差を生じる原因となっています。
 この格差を埋めること、そして、それが可能となる社会づくり、「男も女も、仕事も家庭も」という生活が可能となるような働き方、暮らし方の実現に注力することこそが、真の子育て支援ではないでしょうか。>

そして、<この理念を実現に移していくためには、企業の働き方を変え、保育所をはじめとする地域の子育て支援の仕組みを充実させ、何よりも人々の心のなかに巣くっている母性愛信仰と性別役割分担意識を払拭するという、厳しい課題が山積しています>と述べられている。しかし、<その実現は急務であり、その方向に向けた動きができるか否かが、日本社会の行方を握っていると思います。>と続く。

そして、その実現に向けて子育てひろば<あい・ぽーと>で実践されているのである。そのなかで生じた問題、悩みなどが書かれており、スタッフの方々と真剣に取り組んでいるお姿に頭が下がる思いがした。

著者は、従来の子育てひろばには<大人としての母親の居場所がない>という著者の発想。見学した子育てひろばで、スタッフに子ども扱いされる母親の姿を見て違和感をいだく。

また、<子育て支援のまず一歩は、母親にゆとりを与えること>と考え、<乳幼児期の子どもを育てている母親にとって、ほんのわずかでも自分ひとりの時間をもつことがどれほど切実に求められているか>ということを長年の聞き取り調査から痛感されているという。まさに母親の視点に立った発想である(だからといって、父親につめたいわけではない)。

そのために<理由を問わず預かる一時保育>を実践される。ご自身が子育て中に体験し考えたことが、子育て支援の働きに反映されている。またそのまなざしもあたたかい。

母親が一時的に子どもから離れ、子育てについて学ぶ(講座を受講する)意義。子育て講座では、母親をきちんと名前で呼ぶこと。子育てを広い観点でとらえ、時事問題や歴史の視点を取り入れた話の内容にすることなどを大切にしているところもすばらしいと思った。

また、支援をする側の姿勢についてもその「おごり」を脱ぎ捨てる必要があると述べられている。

<とかく熱心な人ほど、相手に対して大上段に構えるような態度を取りがちです。><支援者が地域の親子に対して、悪気はなくとも、無意識のうちに威圧的な態度をとってしまう>のは、<「この人のためにやってあげている」という思いが、往々にして、「この人のためを思う私の気持ちと行動にまちがいはない。なぜならこんなにも熱心にやっているのだから」>という思い込みが災いしているのではないかと分析される。

その後、著者は<「子育て・家庭支援者」養成講座>を開始されるのだが、きちんとしたカリキュラムでかなり厳しいと思われる条件のなかで講座を行い、かつ段階ごと(級別)にその内容も分けている。それだけ支援者の立場は大切であることを物語っており、参加者のアンケートによるととても充実感がある講座だとのことである。

また、そうして支援者を育てることは、<女性の社会参加支援の一つのステップに>する視点も盛り込まれているという。シニア世代の受講、企業の次世代育成支援のための社員研修として取り入れてもらうことも視野に入れられているという。

子育てについて理論で終わらず、著者の理念を子育てひろばで実践され日々奮闘されていることが伝わってきた。とてもすばらしい活動で、このような講座があったら参加したい。。。との思いを抱いている人は少なからずいるというか潜在的にたくさんいると思う。

子育てについて情報がたくさんあり選択肢がたくさんあるなかで、どう自分は子育てをしどう生きて行くのか。つねに母親は考え悩んでいると思う。孤独に陥らずすこしでも悩みを話したりわかちあう場があれば救われることが多々ある。

本書は、これからの子育てや子育て支援について考えていくうえで、必読の書ともいうべきものだと思った。

 


アジサイ

2007-06-06 | 日々のあれこれ
紫陽花が美しく咲いている今日この頃。

先日変わった紫陽花を見ました。

それは「柏葉紫陽花(カシワバアジサイ)」。

花の色は白。ピラミッドのように花の形が先端に行くほど細くなっていきます。

そして、名前の由来どおり葉っぱが柏の葉のよう。とても大きくて巨大なグローブのようです。

今まで丸っこい形の紫陽花しか目にしたことがなかったので、すごく新鮮。きっと教えてもらわなかったら、紫陽花だとは思わなかったかも(笑)。

また、秋になると葉っぱが紅葉して美しくなるとか。二度楽しめますね。

ちなみにおもしろい形といえば「玉あじさい」というのもあるそうです。これはもう少し先の長雨の時期。9月頃に咲くそうです。

もうすぐうっとうしい(?)雨の季節。。。
紫陽花をみつけながら歩けば、雨の日も楽しくなるかもしれませんね!。


平田 俊子著 「ピアノ・サンド」 講談社文庫

2007-06-05 | こんな本読みました

本書の著者は詩人でもあり劇作家でもあり小説家でもあるかた(本書のプロフィールより)だそうである。詩人であることは既知だったが(そういえば、「詩のボクシング」に出演されてましたっけ…)。
……とはいうものの作品に触れたことはなかった(汗)。

「ピアノ・サンド」というタイトルにひかれ、ピアノの鍵盤が描かれている表紙にも誘われ手にとってみた。

……けっこうよかった。というかすきだった。平田氏の文体。表現。比喩。いいまわし。。。情景が鮮やかに頭の中に思い描くことができる。それは、そぎおとされ文章のためだろうか?。

全くの予備知識もなくさらに言えば期待もなく(笑)読み始めたのだが、いっきに読めてしまった。その世界に入り込めた。想像の世界をあじわえた。

劇作家なだけに(?)、ひとつのお芝居のいくつかのシーンを見ているようでラストにも余韻があるように思った。

本書には2つの短編が収められている。「ピアノ・サンド」「ブラック・ジャム」。そして、<方南町の空 かなり長めの「あとがき」>というタイトルのあとがき。短編もさることながら、このあとがきもおもしろくどんなふうにこれらのお話やモデルができたのか…ということが語られている。

「ピアノ・サンド」では、ひとりの女性とふたりの男性の関係を描く。それぞれの距離感が表現されておりとても興味深かった。この女性が感じとる世界観がすこし悲哀をおびているところがなんともいえない。人と人との微妙な関係を女性の独白のなかから感じとることができた。

情景を細かく描いているのだが、それは情景をつづっているように見えながらも、実はその情景を「どう見ているのか」という女性の心のうちを表しているのかもしれない。。。とふと思った。同じものを見ても見る人によって、世界が違ってしまうように。

またこの話を進める上で登場する一台のピアノ。百年前のフランス製。蜀台付き。とっても惹かれた。そして菜の花サンド!。どちらも見てみたい!。

「ブラック・ジャム」。これはかなり鮮烈なイメージをもつ文章が並べられている。とくに火傷についての記述。火傷を何十年もの間、自分の弱みとしていだいてきた女性と彼女とかかわった二人の男性。傷を負った者同士がどんなふうに関係をもち、自分や他者を理解していくのか(というか理解しえないのだが)。。。なかなか深い人間観察だなあと思った。

また、母親との関係、友人との関係などもたんたんと描いているようでいて、女性の心の中では複雑な思いが渦巻いているように思った。

実は引用したい表現がたくさんあるのだが、なんだか勿体なくて書けない(笑)。この本を手元に置いておきたい。そして他の著作にも触れてみたいと切に思った。