ガーベラ・ダイアリー

日々の発見&読書記録を気ままにつづっていきます!
本の内容は基本的にネタバレです。気をつけてお読みください。

池波正太郎著 「剣客商売一  剣客商売」 新潮文庫

2006-11-29 | こんな本読みました

いやー、イイっ!このジイさんっ!
これでは「おはる」でなくとも「三冬」でなくとも、そばにいたくなるなー(笑)

このジイさん……名を「秋山小兵衛」という。

剣術に長け、剣客を商売として生きてきた。今は、一線をのいたかのように見せながら、その実は。。。

<搗きたての餅のような肌身>をもつ孫ほども年のはなれている二十の「おはる」に、こころをゆるしている姿。
<情熱にうるんだ双眸がひたと>自分を見つめ、<男装の下から二十の処女(おとめ)の生身がにおい立つ、女武芸者「三冬」にすこしとまどう姿。

そして、二十五歳の息子「大治郎」へのひとかたならぬ思い。

<自分が手を貸してやらずとも、明日の襲撃のことを大治郎に告げてやれば、大治郎のこころ構えもちがってくる。迎え撃つための手段をめぐらしておけば、よもや不覚をとるまい。
 だが、ついに告げてやらなかった。
(大治郎は、おのれ一人のちからにて、切り抜けるべきである)
 この剣客としての信念から告げなかったのだとすれば、それは父としての愛から発したものなのか……それとも、小兵衛の衒いから出たものか、老骨の依怙地からなのか……。
 もう自分で自分が、わからなくなってしまい、小兵衛は茶代を置くと、またしても歩き出した。>

口には出さないが何か気になることが自分の耳に入ると、いろいろなところから情報をえ、判断し行動する。時には大胆にー。時には慎重にー。時には逡巡しながらー。

舞台は江戸時代中期。田沼意次の権勢がふるっていた頃。剣客という商売をする父と子。そしてかれらをめぐる人々。いろんな思わくがからみあい、人の命が奪い奪われていく。そして、秋山小兵衛はそれらの事になんらかの形でかかわっていくのである。

この先、大治郎はどう剣客として成長するのか?祝言をあげた六十歳の小兵衛とおはるの関係、少女のような三冬は武道者として女性としてどのように変貌していくのか?

……話は始まったばかり。この一冊だけでも楽しめるが、この先シリーズとして続いているそうである。今後の展開を思うとわくわくするとと共に、第二巻も間をおかず読みたくなる。

……やった。当分これで楽しめそう(笑)。 


名刺

2006-11-28 | 日々のあれこれ
名刺をもらいました。若い男性から。

……といっても、家に来た某電信電話会社の営業のかた。

インターフォン越しに「1,2分だけ説明する時間をください」

とのことだったので、タイマーを持って玄関のドアを開けました。

……というのは、ウソです。何も持たずに玄関へ向かいました。

ドアを開けると、会社名の入った制服を着て名前と顔写真の入ったカードを首からぶらさげた男性が立っています。

「わたくし、こういう者ですが」

といって差し出された名刺。名前を確認する私。
そしてその横の顔写真を見た途端、失礼ながら笑いがこみあげてきてしまった。

……だって、顔が異常に長いんだもん!

ついつい実物と写真を見比べてしまう私。

「これは、ちょっとひどくないですか?」
「いや、これでみんなにいじめられましてね……」
「つかみとしては、オーケーですけどね……」
「いや、そういうつもりじゃ……」

……という会話をしたかどうか、定かではないが。

……とにかく笑わせてくれた。

あんたはエライ!
ここまで自分をおとしめて、笑いをとって客の心をひきつけるとは!

のっけから大笑いしてしまったので、罪悪感からすこしだけ(?)真剣に話を聞いてしまった(笑)。

本人の名誉のためにひと言つけ加えるとするならば、実物はものごしのやわらかいいい感じの人でしたよ。顔の幅もいたってふつー。

玄関を閉め、5分くらいは話したよなー。。。なんて思いながら、彼が立ち去ったあともう一度名刺に目をやる。

……いや。これはどう見ても「人面きゅーり」だよなー……

……この写真を見て、笑わない人がいるのだろうか?いたら、そっちの方がふしぎだ。なんか比率がまちがってる気がする。。。


歩く

2006-11-27 | 日々のあれこれ
このごろ、家のまわりを歩いています。
かっこうつけると(?)、ウォーキングしてます。

……まあ、単なるさんぽです(笑)。

用事があって出かけるときは、たいてい最短距離で行ける道を通ります。

しかしウォーキング、いやさんぽのときは、あえて遠回りをしたり通ったことのない道を入ってみます。

すると、思いもよらぬ光景に出くわすことがあります。

……こんなところに、鉄塔があったんだ!
……この道が、ここに通じていたんだ!
……反対側から見ると、まったく違う風景のよう!

などなど。

いつも通いなれた道を歩く。
それは、じぶんの過去の経験だけに頼って「思考」していることのよう。

通ったことのない道を歩く。
それは、頭(脳?)の中に新しい回路をつくるかのような作業。

なにかが、活発に動いている「気がする」。
……気のせいかもしれませんが(汗)

まっ、普段いかに頭をつかって生活していないかの、証明ですね(汗)。


なんの味?

2006-11-25 | 日々のあれこれ
先日「さつまいものケーキ」を食べたのですが、なんの予備知識ももたずにいただいたものですから、実はなんの「ケーキ」か最後までわからず、もやもやしてしまいました。そんな経験から、味覚というのは、かなり「頭」からの指令に関係することを感じておりました。

……すると、今日たまたまTVで、「なんの味?」というようなクイズをしている場面を見ました。

「みかん」(皮をむいた小さなひとかけ)に「海苔」をまいたもの。それをしょうゆにつけていただく。ただし目をつぶって。

……さあ、なんの味でしょうか?

ゲストの方の答えは。。。

……なんと、「いくら」!。しかも全員の方が!

そして、正解を聞いて驚愕するゲストの方たち。

……いや。見ているほうもかなりびっくりしました。
「味覚」って「視覚」にもかなり影響されそうですね。

おそらく、ここらへんのことも、TVでくわしくやっていたのだと思いますが、気がつくと私は気を失っていて、いいところが見られませんでした(汗)。
(……というか、むかし「味覚」についてベンキョーしはたずなのですが、すっかり忘れているというのもありますが。汗)

「味覚」ってなんだかおもしろそう!私のように食べることの大好きな人にはもってこい!のテーマですね。

そうそう、「ヨーグルト」に「ある物」を加えると、「クリームチーズケーキ」の味になる。それは何だ?という問題もありました。

……答えは、「豆腐」だそうです。

まー、いろいろ試してみたい気もしますが、ちょっと勇気が要りそうですね(汗)


内田 麟太郎著 「きんじょのきんぎょ」 理論社

2006-11-23 | こんな本読みました

本書のタイトルには「内田麟太郎詩集」とある。詩・絵本・童話などを創作される内田氏の詩集である。先日は、書店で内田氏によるエッセイ本が出版されていたのを見かけた。

絵は長野 ヒデ子氏。筆ペンで書かれたような絵(実際はわかりません)。力強くてどことなくユーモラス。まさしく、内田氏の詩にぴったりの絵だ。

日本語ってたのしい。
……そんな感想をまずもった。

だって、タイトルからしておもしろい。

……「きんじょのきんぎょ」

そして、表紙絵がおもわず笑ってしまう。なぜなら、赤いきんぎょが上を見上げて「にかっ」と歯を見せて笑っているのである。しかもこのきんぎょくん、サングラスをかけているのだ!こんなやつ(失礼!)がきんじょにいたら。。。

「じ」と「ぎ」。ひと文字入れ替えただけで違う意味になる。そして、それを組み合わせることによって、既成の概念がとっぱらわれてイメージがふくらんでくるのである。

初めにつかったことばを繰り返してつかってみたり、「タマゴ」という3つの文字をある一箇所で区切ってみたり、「がた」という音を徹底的につかってみたり……とにかく自由自在にことばをあやつっているのである。失礼ながらそれは「詩作」をしているというよりも、「遊んでいる」ようにもみえるのである。しかし「遊び」といってもそれは、かなりやわらかいあたまとじゆうな発想を要するものだと察するにあまりあるが。

おもしろかったもののひとつには、「地名」のでてくる詩。タイトルは「しまねの きつね」「こうちの いたち」「こくらの もぐら」「みいけの おばけ」である。韻をふみつつ、連想することばを次々とたたみかけ、あっというまに一編の詩ができあがっているのだ。音読するとさらに楽しい。滑舌をよくする練習にもなりそうだ。

ことばあそびのような、ことばのリズムを楽しむようなそういう詩があるかとおもうと、「じぶん」について考えさせてくれる詩もある。

例えば、「ぼくに」という題名の詩である。みんながぼくをばかにする。「しんじゃおうかな」とつぶやいたら、もうひとりのぼくが「じぶんがきらいなの?」と問いかけてくる。「うぅん」と答えたとたんなみだぐむぼく。そして、ぼくにまできらわれたらほんとうにひとりぽっちになってしまう。さいごにもうひとりのぼくにあることばを言うのである(そのことばはひみつ)。じーんときてしまう詩。

また「おおきくなるって」という詩は、成長するということはどんなことかを考えさせてくれる詩。じぶんのことでないていた子どもが、人のことを思ってこころをいためなみだする。そのことのすばらしさがやさしいことばで伝わってくるのである。

「わかるんだ」という詩は、ねこごとむしごとこころがわかる「テスト」のきらいなぼくの、ひとりごとのような詩。いかにもべんきょうなんていやだい!という子が、ほおずえをつきエンピツを鼻と口の間にはさんでいる。頭の上には、ねこと小鳥がのっている。この詩のなかの「ぼく」のイメージが、この絵によってさらに広がっていく気がした。

内田麟太郎氏の絵本で『十二支のはなし』(岩崎書店)というのがあるが、日本の十二支ができたいきさつと、その中にねこが入っていない理由がおもしろく描かれている。新年のよみきかせに向く一冊だと思う。他にも降矢なな氏の色のきれいな絵で『おれたち、ともだち!』のシリーズ(偕成社)もある。

 


河合 隼雄著 「ココロの止まり木」 朝日新聞社

2006-11-22 | こんな本読みました

本書は「週間朝日」のコラムに連載されたもので、そのうちの75編が収められている。平易な語り口でとても読みやすく、河合氏の仕事、読まれた本とその感想、交友関係なども知ることができおもしろかった。

その中で、特に印象深かったのは、作家川上弘美氏と行った「読書ツアー」。

これは、どういうものかというと河合氏と川上氏が10冊の本を選定。参加者はそのなかの1冊を選んで持参する。期間中(1泊2日)、自分の名前と読書している本の名を書いた札をつけ、ひたすら読書。話をしたい人は談話する場所でしてもいいし、同じ本を読んでいる人が感想を話し合うのもよい。

そして、これだけでは少し物足りないので、<自分が読んでいる本で、「ここだ」と印象に残ったところを、それぞれが全体の前で読むことにしよう、ということになった。>そこで、<400字詰め原稿用紙1枚に、自分の引用したいところ、それに関する自分の考えを書いて提出してもら>い、会の最後に一同に集まって、引用部分のみを<朗読>するというもの。

1分足らずの引用文の朗読に、その本の面白さのみならず読み手の個性がよく出てくる。それについてコメントしたり、追加発言をしてなかなか盛り上がったそうである。私も、読書ツアーに参加してみたい。。。いや、自分の生涯を閉じるまでに(笑)、本好きの友人・知人と一度はやってみたいなあと思った(ただ今メンバー募集中!笑)。

この記事中の< >部分は、本書より引用しました。

<思春期というのは、「さなぎ」の時期として、何らかの「荒れ」を体験するのは当然のことである。そのときに「さなぎ」を守るものとしての大人が、しっかりと逃げることなく正面から会うことが大切なのだ。それを避けて、子どもに「悪」とか「異常」のレッテル張りをするだけでは、子どもがよりおかしくなるのを助長するだけである。>(「さなぎの内と外」より)

<ー前略ー人間にはガマンをする力が必要なことは明白である。ガマンなどというからいけないので、自分の衝動を抑える、抑制力というほうがいいかもしれない。><昔は、ものがなくカネもなかった。このために、子どもたちは文句なしにガマンを強いられた。そのガマンが大人になって分別する抑制力となっていったのではなかろうか。とすると、われわれはこの、ものが豊かで便利な世の中で、子どもたちにガマンする訓練を怠りすぎ、何でも自分の思いどおりになると思い込んだまま大人になり、抑制力のない成人をつくることになったのではなかろうか。このあたりで、われわれはガマンの再評価を試み、どのようにして子どもたちにガマンを教えるか、考え直してみてはどうだろう。>(「ガマンの評価」より)

<「子どもがドアを閉めて寝室にこもっていれば、親は異常事態だと受け止め、当然すぐにノックして子どもと話し合うために入ろうとする。ところが、日本の親は部屋にこもった子供を放っておくのがプライバシーの尊重だと考えているふうだ」ー中略ーケントさんの指摘は実に的確である。個人を育てるためにつくられたはずの「個室」が、日本では個人主義をなし遂げるために必要な対人関係の訓練から逃避する場になってしまっているのだ。>(「コジンシュギ」より)

*ケントさんというのは、<オーストラリアの社会学者で、日本語を巧みに話す知日家のポーリン・ケント>氏のことをさす。(*ガーベラによる註)

<親や教師などの大人が、子どもが感動するのは好きだが、疑問を持つのを嫌がることが多いのは、もっともだと考えられる。子どもの感動は、大人の「思い通り」なので、安心なのである。ところが疑問となると、どこに話が進んでゆくかわからない。そこでなるべく疑問を封じて感動させようとするので、子どもの創造性の芽がつみ取られるのではなかろうか。感動はもちろん大切なことであるが、疑問に対しても開かれた態度で大人が子どもに接し、子どもから出される疑問を育てるようにすると、創造性が高まると思う。>(「感動と疑問」より)

ここでは引用しないが、「生意気」も面白かった。生意気と思われる学生から、新しい発展につながるようなアイディアが生まれてくるという。生意気の背後で、何か未知の可能性がうごめいているとも。河合氏の、どんな生徒も受け入れてらっしゃるということが伝わってきた。

 


わかりやすい味

2006-11-21 | 日々のあれこれ
初めは図書館だった。友人(最近できた!)の通っているという図書館に行くはずだった。

しかしいつのまにか、
「せっかくだからお昼をいっしょに。。。」が「図書館の近くにおいしいお店があって。。。」となり、「それじゃ早めに行ったほうが。。。」ということで、

……11時にランチーーー!とあいなり行ってきた!(笑)。

11時きっかりに着いたのだが、すでに店の入口の前に行列が。。。しかも女性ばっかり(笑)

ゆったりとした座席。テーブルの上には緑色のクロス。その上に黄色の小花柄のクロスが斜めに重ねられている。周りを見回すと、うすいピンクのしっくいの壁。そこに大きな絵皿と抽象的な絵がかかっている。運ばれてきたお水は深い青のワイングラス!

……いかにも南仏!ああ、プロバンスー!

前菜の盛り合わせは、大皿に5種類の料理がほんの少量ずつ、行儀よく並べられている。メインのピザは、クリスピーな生地に、舞茸とツナがおどっている。クリームソースがベースでこの組み合わせがなんともいえず新鮮!緑のふちに金がほどこされたお皿にとりわけていただく。彼女のオーダーしたえのき茸と鶏肉の和風パスタもとりわける。

見た目もお味もたいへんよい。大満足。

そして、期待のデザート……!

待っている間テーブルの横にこの店のデザートについての説明書きがあり、なんとなく読んでみた。

<本店のパティシエは、○○コンクールで2回金賞を受賞。わかりやすい味、うつくしいデザインをモットーにデザートづくりをしています>

というようなことが書かれていた。

……わかりやすい味って……なに?

ふたりで思案した。

……結果、よくわからない説明だねということになった。

その説明がパステル調のデザートの絵とともに、黒い革のフォトフレームに収まっていていかにもおしゃれ。まあきっと「素人にもわかりやすい」つまり「おいしい」デザートが来るんだろうなーと期待に胸をふくらませていた。

……とうとう着た!イタリアン泡立ちコーヒーとともに。

ひとつは、グリーンのお皿に。もうひとつはピンクのお皿にのっている。

グリーンのお皿の方は、キャラメルの箱よりちょっと太めな直方体。色はうすいきいろ。ピンクのお皿の方は、茶色の三角すい。上に丸いものがちょこんとのっている。

どちらも、お皿の上にはケーキとともにソースできれいな絵がほどこされている。ラズベリーソースでチェリー、きいろのバニラ(?)ソースでばらの花、チョコレートで花の模様を描いている。とても繊細な技だ。お皿の色とあいまって、華やかなデザートだ。見ているだけで、顔がほころんでくる。

どちらのデザートにする?

……相談の結果、自分の近くに置かれたお皿をいただくことにした。

グリーンのお皿は私。ケーキをよく見ると、3層に分かれていて、間にうすいきいろのクリームがはさまれている。とてもきれいに仕上げられている。

……さっそく、ひとくち食べてみた。

……なんの味?はて、なんの味なんだろう?

……きいろだから。。。レモン?でもそんなにすっぱみはない。洋ナシ?それにしては甘みがない。バタークリーム?それほどべたついていない。

自分では判断がつきかねて、彼女にも尋ねてみた。その前にすこしずつ相手のケーキをとりわけていたので。

……なに?なんの味?彼女もわからないという。

そういえば、店員さんも何の説明もなしに、お皿を置いていったっけ。。。

きれいにできていて、スポンジもおいしいのだが、なんだかひとあじ味たりない。むしろ味がぼやけているといってもいいかもしれない。いや、お皿に描いてあるラズベリーのソースをつけるとおいしくなるとでも言おうか。

ちなみに、彼女のケーキはチョコレート&バナナのケーキ。これは上にキャラメルがのっていて、こくがあってパンチのある味だった。はっきりいっておいしい。

なんだか釈然としない思いで、ふと前のテーブルに座っている女性の手元を見ると、モンブランがお皿にのっているではないか!いやー、あれがよかったなー。すごくおいしそう!(なぜか、このお店はデザートを選べないのである)。

なんだか最後にひっかりを残して、店を去ろうとしたときー。

友人が、ケーキの並んでいるショーケースを見ていこうと提案してくれた。あのケーキの正体を見極めよう!ということらしい。それに同意して、足を運んでみると。。。

……あった。あった!なになに「さつまいものケーキ」……

……んーーー。わかったようなわからないような。。。

そこで、はたと思いついた。
そうか。これだ。これなんだ。

初めに読んだテーブルの上に書いてあった説明書き。

<わかりやすい味>の意味!。

なんの味のケーキか素人にもすっぱりわかる……これって案外重要なことなのかもしれないと思った。


安部 司著 「食品の裏側」 東洋経済新報社

2006-11-19 | こんな本読みました

先日、ロールキャベツを作って焦がした。どうにか修復して(?)、食卓に出したところ、つれあいから「これ、できあい?」と尋ねられた(詳しくは、11月13日のダイアリー参照のこと)。

そして、これはどういう意味なのか?と漠然と思っていた。
……んで、この本を読んで、ふと思い当たった。

……「調味料(アミノ酸等)」!!
……これだ。これに違いない。できあい?という質問のわけは。。。

「できあい=化学調味料の味だったのではないか?」そう思うと合点がいく。

そして、修復に使った「デミグラスソースルウ」がまさにこれだ!缶の後ろにきちんと表示してある。原材料名に。

じゃあ、「調味料(アミノ酸等)」ってなに?

これは、実は添加物の「一括表示」。つまり、いくつかの添加物を一括して表示すること。「香料」や「乳化剤」など、同じ目的のために使われるのであれば、一括して表示していいと食品衛生法で定められているのだとか。

そして、その実態はー。

著者によると<「調味料(アミノ酸等)」も「等」を隠れ蓑として、実際にはどれだけの種類が入っているかわかりません。「グルタミン酸ナトリウム(化学調味料)」「DL-アラニン」「グリシン」などのアミノ酸系はもちろん、アミノ酸系以外の「核酸」なども「等」に入るのでOK。何種類入れてもいいので、加工する側としては非常に便利です。>とある。

そもそも「調味料」の目的は「うまみをつけるもの」で、その実は例として「5‘_リボヌクレオチドナトリウム」「コハク酸二ソーダ」などがあるのだとか(同書の一括表示の例の頁より)。

しかも、この缶には「香料」とも表記してある。これの実態例は、「イソ吉草酸エチル」「ギ酸イソアミル」など天然系約600品目。合成96品目だそうである(同上)。

なにやら、カタカナの添加物名が羅列され、それが身体にいいものではないというイメージはいだく。しかし、その実はどうなっているのか?

……前置きが長くなったが、この本は「食品添加物」について書かれた本である。著者は「食品添加物の専門商社」に勤めていて、それを売り歩く有能なセールスマンだった。「添加物」を使うことの有用性を手作りの職人さん等に説き、量産体制をとらせる仕掛けを作ってきた人。

……そんな人が、なぜこんな「食品添加物の裏側」ともいえる本を出したのか?

それは、自分が開発した<ドロドロのくず肉に添加物をじゃぶじゃぶ投入してつくったミートボールを、わが子が大喜びで食べていたという現実>を目の当たりにして。(たまたま早く帰宅したときにその光景を見たというのである)。

<「ポリリン酸ナトリウム」「グリセリン脂肪酸エステル」「リン酸カルシウム」「赤色3号」「赤色102号」「ソルビン酸」「カラメル色素」……。それらを愛する子どもたちが平気で摂取していたという現実>をつきつけられて変わったそうなのである。

それまで、このミートボールが自分にとって誇りにさえ思っていた(これのおかげで、このミートボールの会社は大きなビルが建ったとか)。しかし、「子どもにこれを食べさせたくない」と切に願った。自分のやってきた仕事に疑問を持ちとうとう会社をやめてしまった。こういう経緯からこの本が出版されたということだ。

著者の生き方についてここではふれないが、「食品添加物」の「情報公開」という点で見ていけば、本書は非常にわかりやすく、手作り料理をしていると思っている家庭でさえも、「添加物」を一日に何十種類も摂取しているのだという現実を知ることができる。

また、安いものの裏には、かならずその理由があるのだということも。

例えば、こんなことが書いてあった。

「コーヒーフレッシュ」。テイクアウトのできるカフェではとり放題。なぜそんなことができるのか?

……それは、「コーヒー用ミルク小容器」を言い換えれば<植物油に水を混ぜ、添加物で白く濁らせ、ミルク風に仕立てたもの>なのであり、それは「牛乳」や「生クリーム」を使用していないため。それは、袋の「裏」を見ればわかるとかー。

<「植物性油脂、乳化剤、増粘多糖類、PH調整剤、着色料、香料」>と表示されているとのこと。(容器や包装が小さい場合(30c㎡以下)は表示しなくていいと、食品衛生法で定められているので、1パックずつには表示されていない)。しかも「乳化剤」(水と油を均一に乳化させる)も「増粘多糖類」も一括表示だという。

他にも「明太子」「漬物」「練り物、ハム・ソーセージ」を作る際の添加物の使われ方、添加物からみた調味料の値段の違いなどを知ることができた。

また、「たんぱく加水分解物」(うまみのベース)と「ブドウ糖果糖液糖」を子どもに与えて欲しくない。これを与えることにより、子どもの味覚が壊れていくという話など冷や汗たらーりの箇所がたくさんあった。

食品添加物。どうしても「悪」のイメージがつきまとう。しかし、これがなければ「おまんじゅう」も「とうふ」も食べられない。忙しいとき、疲れたときにできあいのお惣菜もお弁当も買えない。多々「恩恵」がある。その恩恵に感謝しつつも、だからこそ「悪」の部分をきちんと知ることがとても大切なことだと実感した。

どんな食品にどのようにそれらが使われているのか。それを知った上で、店頭にある商品を買うかどうか決める。その選択権は、常に自分の側にあるということを思った。

 


山折 哲雄著 「日本のこころ 日本人のこころ」 NHK出版

2006-11-18 | こんな本読みました

本著はラジオで放送された、本著と同名のガイドブックに加筆し、単行本化された本である。なので、かたい表現がなくとても読みやすかった。また著者がどのように宗教をとらえてきて今に至るのかをうかがうことができ、大変興味深かった。

以下が目次


第1章 日本人の信仰
第2章 天然の無常
第3章 捨身飼虎
第4章 良寛再発見
第5章 師と弟子
第6章 神と契約の観念
第7章 一神教・多神教・汎神教
第8章 森鷗外の生死観
第9章 先祖崇拝と仏教
第10章 美空ひばりと日本文化

「日本のこころ 日本人のこころ」をとらえるために、風土、文学、伝統文化、宗教意識などを通じてさまざまな角度からこの問題を掘り下げている。また、氏独自の視点・観点によって、既成の考えに一石を投じるところが多々ありとても面白かった。

氏は宗教学・思想史を学ぶ者として、本当にキリスト教というものを理解するためにイラエルでイエスの歩いた道を実際に歩いているという。また、なにかを述べるときに自分の見聞をもとにして考えていかれるので、なかなか説得力があった。

いくつか、こころにのこった箇所があった。

万葉人は神道的な『霊肉二言論』(霊魂と肉体は別々のもので、大事なのは霊魂の方)という考えがあった。そこへ、六世紀半ば仏教が伝来。しかし、この仏教は『身心一元論』(人間の身体と心は一体のもの)ということを主張した。しかし、仏教は「霊」ということはいわないことになっている。永遠に存在する霊魂というものは問題にしない。ふたつの考えは相容れないもの。

……そこで日本人はどうしたか?

タブーを破ってしまうのである。「仏教」というものを「霊魂の存在を認める仏教」としてしまったのではないか、と氏は考えていくのである。

<日本に入ってきた仏教が神道的な信仰の影響を受けて変質したことは、神道的な信仰の強さを物語っていると言ってもいいかもしれませんが、逆に、日本の風土に適応するような形に変化することができた仏教の柔軟な強さを物語っていると言ってもいいかもしれません。>
そのあと、仏教が日本でどう変化していったかを述べていかれるのである。

また、第3章では法隆寺にある仏教絵画「玉虫厨子」の側面のひとつに「捨身飼虎」があるのだが、その絵画のなかに「キリスト教の犠牲の精神」と「北方狩猟民族の動物解体の生活文化史」の両方の影響があるのではないかと仮説をたてる。その思考の過程が見られおもしろい。

第4章では、道元と良寛の師弟関係について考察し、歌の違いから芸術の発展を見いだしている。

また、著者と同郷(しかも近所)であるという宮沢賢治の宗教観についての考察。
山本七平氏によって評価された、不干斎ハビアン(実名は不明)という16世紀に日本研究をした人(あまり有名ではない)についての宗教観の考察。
内村鑑三と斉藤宗次郎との師弟関係などなど。

宮沢賢治や森鷗外について新たな面を知ることができそれも興味深かった。

順を追って丁寧に説いてくれるので、とてもわかりやすく、ひとりの人がどんなふうに宗教観を抱き、それが変遷していくのかということがわかった。また、それが個人にとどまらず、日本人固有のものを含んでいるかもしれないと思った。

 


バナナ

2006-11-17 | 日々のあれこれ
子ども達がスイミングスクールに通っている。
ありがたいことに、スクールバスが送迎してくれる(有料だが)。

この頃は暗くなるのがめっきり早くなり、6時過ぎとなるともう真っ暗だ。

今日も、いつものようにバスの送迎場所に向かうとー。

なにやら、軽トラックが止まっている。

……おおっ、あれは八百屋さんだ!
ほー、よかった。今日は来てくれたんだ。

この八百屋さん、来るときと来ないときがあるのだ。

夕ご飯の鮭のムニエルのつけあわせに、こふきいもを作ろうと思ったらジャガイモがなかったんだ。ラッキー!

ほんのわずかな灯りの中で、ジャガイモを探し出す。となりにタマネギはーっけん!おおっ、このバナナもおいしいそうじゃん!

……いつのまにか、黄色い買い物かごの中は、野菜でいっぱいになっていた。

「この大根まけとくから、全部で○円でいいよ。それからこのバナナね。ちょっとわかいから、明日の朝ぐらいがちょうどいいよ」

……おおー、いいおやじさんじゃない。明日の朝食にバナナ♪

などと、るんるんで家路につきジャガイモを袋から取り出し、皮をむいていたらふとあることに気がついた。

そして、無意識に声をあげてしまったのだろう。宿題をしていた下の娘がキッチンにかけつけてきた。

…どうしたの?

…あれっ、バナナは?バナナどうしたっけ?

とあわてふためきながら、そこらじゅうを探す。
冷蔵庫にしまっちゃだめだよ、っておやじさんに言われたから冷蔵庫にはないはず。。。

…買ってきた袋は見たの?と娘。

…うん。見た。なかった。

…じゃ、レシートは?

…はっ?レシート?レシートって……。

過去に2度ほどあのおやじさんから買っているが、そういえば、一度もレシートなるものをもらったことがない。そんなことに今さらながら気がついた。

…ない。もらってない。。。

いや第一、町内をまわっている個人の八百屋さんとか石焼いもやさんが、レシートを出しているのだろうか?。買ったものの計算をそらでしてしまうのにー。

…ということは、証拠がないじゃん!証拠が。。。

あーもー。あのおやじさんたらボ○ちゃってるんぢゃないのーーー!!

……とわめいたところで、取りに行くわけにもいかずー。

第一、どこからあのトラックが来ているかも知らないし、ましてや連絡先など知る由もない。

……そうだ。来週言ってみよう。気の良さそうなおやじさんだから、だいじょうぶだよ、きっと。いや、来週は来るのか?。いや来るよ、来てくれるよ。。。

……とどうにか自分をはげまし、めげている自分を立て直した。

……いや。しかし。一番心配なのはー。

今度あのおやじさんにあった時、このバナナの一件を覚えていられるか。自分の記憶力だろう。

……ああ。バナナ。幻のバナナよ。今いずこに……