ガーベラ・ダイアリー

日々の発見&読書記録を気ままにつづっていきます!
本の内容は基本的にネタバレです。気をつけてお読みください。

ドツボ。。。

2007-02-27 | 日々のあれこれ
午前中、緊張の強いられることが無事終わった。

ほっとしながら帰宅途中。。。

そうだ。ちょっとだけ時間があるから。。。

前から気になっていた美術館へ!

シュールレアリスムの画家・彫刻家の作品が展示中。ルネ・マグリット、サルバドール・ダリ、マルセル・デュシャン……。作品に主義主張があり、どういう意図がかくされているのかなーと考えて観るのがおもしろい。勝手な解釈なので、おそらく見当外れもはなはだしいと思うが(汗)。作品や作家についての解説や表現様式などについての説明がわかりやすく掲示してあった。

かけあしで鑑賞したためもう一度よく見たいと思い、図録を購入してみた。

……なのに。それなのに。。。

それが。。。

……ない!ない!ない!(汗)……

しかもないことに気づいたのが、帰宅して4時間たってから。。。(汗)。

いやね。。。帰宅後昼食をとりすぐに外出してしまったので、再び帰って来たら気づいたというわけなのですが。

……がーーーーん。

しかし。どこへ置き忘れてきたのだろう?

美術館の化粧室?駅の切符売り場?電車の座席?……

うーんうーんとうなっていたら、ひとつの情景が浮かんできた。

ちょうど目の高さにある平らな面。
そこに図録を置き、かばんの口を開くひとつの映像が脳裏に映し出される。
「ここにこれを置いたら忘れるだろうなー」といっしゅん頭をかすめた。

…かすめたのだ。ほんのいっしゅん。
…なのに。。。置いてしまった。
…そして、案の定というか予想通り忘れてしまった。。。

それは、某駅前にある某銀行のATMのボックス内。

あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ー。

どうしたらいいんだーーー!

銀行内のATMならいざ知らず、駅前の通りの木陰にぽつんとあるボックス。たとえだれかが忘れ物を見つけたとしても、持ち主に連絡のとりようがないだろう。いや、連絡先があったとしても実際に連絡してくれる確率はかなり低いと思う。幸か不幸か図録の入ったビニール袋の中には身元のわかるようなものはいっさい入っていない。

……とりあえず、そのATMが設置してある最寄の銀行に電話してみた。

……営業時間が終わっていた。。。

興味のない人にとっては、図録なんて重くてかさばるだけのもの。わざわざそんなものを持って行く人なんかそうそういない。。。と思ってはみるものの。。。

……昨日、今日と自分の行状をふりかえるとー。

……ドツボにはまっている気がしてならない(汗)。


シマッタ。。。

2007-02-26 | 日々のあれこれ
やってしまった。。。

……水風呂……。
浴槽にお湯ではなくて、水を入れてしまった。。。

インフルエンザが流行っているというこの時期。
子どもを風邪ひかせて、どうしようというのか?(汗)。

いや。。。そういうつもりはなかったんだけど。。。

住宅メーカー、カーテン業者、警備会社、フローリング業者、電話会社、家電量販店らの人と電話もしくは直接打ち合わせ。

さらにその間、コンビニでコピーをとり郵便局に行ってそれを速達で送ったり、金融機関をまわったり、知人・友人に電話したりしていたら、どうも自分の目もまわってしまったらしい(汗)

……と、水風呂の失態の完全ないいわけ。。。

ああ……。
たまに私がやるとこういうことが起こるので、やっぱりこれは子どもの仕事だなー!(笑)。

……というか、今後私にやらせてくれないかもしれない(汗)。


美術館

2007-02-22 | 日々のあれこれ
オルセー美術館展に行ってきました。

「オルセー美術館の絵が来日したら、本場パリの方は大丈夫なのか?」
という心配をしていたのですが、それはまったく杞憂に終わりました(笑)。 

あれもないし、これもない。。。ということで、案外早く鑑賞が終わってしまいました。

……そりゃあそうです。ゴッホの絵、ルノワールの絵。マネ、モネ、ドガ、ミレー、セザンヌなどなど……そんなにたくさん持ってこられるわけがありません(汗)。

今から約10年前。いっしょに旅した友とその頃の思い出を語りながら絵を鑑賞していました。初めて聞くエピソードがあったりして、いつしか話に夢中になり。。。来た目的を見失いそうになったのでおしゃべりはやめました(笑)。

本場のオルセー美術館は実にたくさんの作品が展示してあるため、有名なものは覚えていたのですが、そうでないものはすっかり記憶の外にありました。

なので、今回おもしろいなーと思ったもののひとつに、ルノワールの作品があります。それは、芸術関係の仲間(男性)の肖像画がいくつかあったことです。尊敬する人の絵をそれとなくその肖像画のキャンパスのなかに描き入れてあるのです。ルノワールがいろいろなところに気をつかっていることがわかりました。

また、7名の男性がひとつの空間で過ごしている風景画(だれが描いたのか失念しました)。―ある部屋の中。階段の近くで親密に話す二人。キャンバスの周りで芸術談議をする三人。ピアノにむかうひとりの男性―。横にある解説に、人物の名前が明示してあり、名前だけ知っている画家の姿を垣間見ることができました。

他にも画家が登場する絵があり、だれそれは(たしか文学者のゾラ)、色白細面のおぼちゃま風なのだなあという発見がありました。というか、そういう人(男性)ばっかり(汗)。また、その絵の左隅にテーブルがあり、その上に日本の「七宝焼」が描かれており、彼らがそれを愛好していたことがうかがえました。他にはギリシャ美術の彫刻が描かれていました。

油絵の他に、素描や焼き物、写真なども展示されていました。時代によって表現する対象物が違ってくることを感じました。

午前中の早い時間に行ったため、スムーズに入館できました。鑑賞を終えて出入口に戻ってみると。。。大勢の来客者のため入場制限していました(汗)。

ひえーーーー。人気あるんですね。オルセー美術館展!

平日でこれだと、週末は。。。ちなみに4月8日まで東京都美術館で開催しています。入場料は1500円でした!

鑑賞後、精養軒の手前にある和食のお店(店名忘れました)で「花駕籠」という料理を頼んでみました。大きな駕籠の中に、ちょこっとずつたくさんの種類の料理が盛られておりいろんな味が楽しめました。それに豆ごはんと赤だし(両方ともおかわり自由)がつき大満足でした。そこの窓から緑色の神社の屋根とピンクの梅の花が見え、とても風情が感じられました。

限られた短い時間でしたが、友とたのしい時間を共有できなんだかパワーがでてきました!。まっ、これもオルセーのおかげかな(笑)。

追記
なんだか、今「モリゾ」(女性画家)が注目されているようですね。このオルセー美術館展のパンフレットの表紙に描かれている『黒衣』の女性です。生き方に注目されているそうです!(成熟した女性として)

斎藤惇夫 田澤雄作 脇明子他 「いま、子どもたちがあぶない!」 古今社

2007-02-21 | こんな本読みました

本書は、「中・四国 こども文化セミナー」と称するセミナーで講演・討論された話をまとめたものである。

以下が目次
子どもたちにメディア・ワクチンを!  田澤雄作
メディアが生きる力を脅かす      脇 明子
中・四国こども文化セミナーin米子討論会 斎藤惇夫・田澤雄作・脇明子・中村柾子・山田真理子
子どもの遊び、絵本との日々     中村柾子
子どもたちは警鐘を鳴らしている!  山田真理子

小児科医の立場から田澤氏は子どもの「慢性疲労症候群」の実態とその理由について考えを述べられている。慢性疲労が進むと睡眠障害が起こってくる。不登校につながる。また、慢性疲労の身体所見は「笑顔がない」「目の隈」「肩凝り」「肩甲骨のずれ」「背中が丸い」こと。「慢性疲労」とは脳の疲労、前前頭葉の疲労、こころの疲労である。前前頭葉は注意力、集中力、記銘力、判断力の場である。

では慢性疲労の背景にはなにがあるか?

三・四歳の頃からテレビ、ビデオ漬けで、現実と非現実のボーダーラインができていない(このボーダーラインができるのは小学校低学年だとか)。あちらの世界にはまり込み、意識障害を起こすことがある。もう少し大きい子になるとテレビゲームに時間をとられていること。子どもが土・日も走り回り忙しすぎることなどを挙げている。

テレビゲームと脳の活動についての関連性をいろいろなデータをもとに述べている。ノー・ゲーム・ディを設けること。「メディアに接触する総時間数を制限」し、子どもたちの心を育てる「現実体験」を大切にすること。「静かな時間」をつくり、ゆっくり話したり、入浴したり、ぐっすり眠ることなどの提唱が印象深かった。

また本書で一番心に残ったのは、大学で教鞭をとり「岡山子どもの本の会」代表の脇 明子氏の話。氏は『読む力は生きる力』『幻想の論理』『ファンタジーの秘密』や翻訳書など多数あるそうである。

そこから覚書として以下記しておく。< >は本書からの引用です。

<物語を文章から受け取ることと、映像で見ることとのちがいについて、ここではあまりくわしくお話しすることはできませんが、そのちがいは非常に大きいのです。いかに忠実に映像化したつもりでも、それは、人間にとって大切な想像力、言葉から想像するという力をじゃましてしまいます。映像には、出来合いのイメージだけでなく、台詞の調子や声の音色、その場面の気分を誘導するBGMまでがついています。興奮を盛り上げる音楽、センチメンタルな音楽などが、どう感じればいいかということまで、セットしてくれているわけです。それに誘導されて泣いたり笑ったりしたからといって、ものを感じる力が育っていると思ったら大まちがいで、単に刺激に対して反応しているのにすぎません。>

<大人が赤ちゃんの顔を見る、赤ちゃんの声に耳を傾けるというのも、非常に大事なことだと思います。赤ちゃんが泣いたり、指さしたり、喃語を発したりして発信していることを、大人が興味を持ってキャッチするということと、大人がそれに応えて、何かしてあげたり共感を示したりするということ、それがコミュニケーションを育てていくのだと思うのです。その意味で、最近、「言葉かけ」ばかりが強調されがちなことに、私はちょっと疑問を感じています。>

赤ちゃんは、自分の欲求を表現し、それを満たしてもらう。それがコミュニケーションのはじまりだと述べる。逆に考えれば、大人が赤ちゃんが欲求を表現する「前」にそれを満たしてしまったり、それに気づかないで放置しておくことは、コミュニケーション能力を阻害しているともいえると思った。

また「認知的流動性」という概念についてふれている。これはスティーヴン・ミズンの『心の先史時代』という本にもあるそうなのだが、中沢新一氏の本では「流動的知性」にあたるという。これはどういうものかというと、<頭のなかに蓄えられたさまざまな知識を、柔軟に組み合わせて考えるという能力で、脳のなかの前頭葉の部分で働いており、これが現生人類の知性の芯になっているもの>。<私たち現生人類は、異なるカテゴリーに属する知識を、自在に組み合わせることができます。それによって、柔軟な問題解決が可能になります>。

そこから発想して、幼児が発するおもしろい言葉(「足がサイダーになっちゃった」)を例に挙げあげ、<比喩というのは、異なるカテゴリーのものを結びつけることによって生まれる表現>であるとし、幼児の認知的流動性の働きであると考察している。そして、その言葉に喜んで耳を傾けてくれる人がいる、この人に伝えたいという思いがあることによってその表現にいきつき、その経験が認知的流動性の発達にも関係してくるのではないか。その言葉を受け止める大人の存在は、非常に大事だと述べていく。

そして、その比喩は、<動物や植物、海や川や空や風の体験、五感を使った豊かな体験があってこそ、どんどん出てくるものだと思います。家のなかでメディアだけに接していては、こんなふうに伝えたいことは出てきません>という。どんなときに、こどもが独自の発想を編み出すかということがよくわかった。

また、子どもたちが本を読むことが必要な理由は生きる力を身につけるために役立つから。生きる力として、次の四つを挙げている。「柔軟な問題解決能力」「自己コントロール能力」「前向きな人生観、世界観を持ち続けられる力」「空間的にも時間的にも広い視野」。本を読まなくてもこれらが身につけばいいのだが、今の世のなかでは、質のいい本を読むことが、最も効率のいい手段だという。

脇氏が話のなかで紹介されている本にも興味を持った。以下メモとして記しておく。
『心の先史時代』(青土社) スティーヴン・ミズン著 (認知考古学者)
『ネアンデルタール人の正体』(朝日新聞社) 赤澤 威編集
『カイエ・ソバージュ』(講談社) 中沢新一著 (宗教学者)…特に第一巻と第二巻
『コンピューターが子どもの心を変える』(大修館書店) ジェーン・ハーリー著 (アメリカの教育学者)…他にも『滅びゆく思考力』『よみがえれ思考力』もある。

中村氏は保育士だった経験をふまえて、子どもの絵本、反応などについてくわしい考察をされている。山田氏は子どもの変化について「紙おむつ」「ファミコン」「おんぶ」などの育児環境の変化をもちいて考察している。子どもがちいさいころにぎゅっと抱き締める、きちんと目を合わす(心地よい声かけとともに)という経験が子どもの「安心感」を育てるという箇所が心に残った。

今現在、子どもをどんな環境で育て、どう接していくのか。大切なことはなにか。いろいろ考えさせてくれる良本だった。

 


オレオレ。。。

2007-02-20 | 日々のあれこれ
夕飯を食べている最中電話がなった。
口をもぐもぐさせながら受話器をとる。

「あ。おれおれ。ちょっとパスポート出してくれる?」
いっしゅんだれかと思ったが、家人の声だ。
「うん。ちょっとまって……」

と言って子機を持って別室に行き、パスポートをおもむろに取り出す。

……えーと。パスポートね。あったあった。。。

……ん?。ちょっと、まて。まて。まてまてまてまて。。。

頭の中で警戒警報がチカチカしはじめた。

……おれおれ……って?
あまりにも常套句。
しかも。
……パスポートを出せ?

……あやしい。番号を聞き出してなにをしようっていうのか。偽造パスポートを作るつもりなのか。。。

……これはマズイ。とにかく確認せねば。。。

「もしもし。名前を言ってください」
「……はぁ?」
「だから。あなたの名前を言ってください」

相手は自分の名前を名のった。

……なれ親しんだ名前だった。

家人はいっしゅん何事かと思ったらしかったが、理由を言ったら妙に納得したようだ。

おそらくなんらかの確認で急いで電話をしてきたのだろう。
いきなり「オレオレ」「パスポート」とは。。。

「振り込め詐欺」のニュースを耳にするたびに、「声」で相手がだれだかわからないものなのかなあ。。。と思っていた。いやむしろ相手の声が家人のものかどうか判別できないわけはない。。。とたかをくくっていたかもしれない。が、今回の電話で思ったが案外「オレオレ」と言われると、「あー、○○か」と思い込んでしまうことに気がついた。声のことはさておいて。

今や、偽造防止目的にICチップ内臓のパスポートが06年3月より導入されているという。すでにICチップ内臓のパスポートの発行数は全体の約80%とか。いたちごっこのように犯罪防止のためのシステムや機械が出現する。

……そのうち、電話をかけてきた人の声を判別できる「電話機」が店頭に並ぶ日がきたりしてー。


川上弘美著 「ニシノユキヒコの恋と冒険」 新潮社

2007-02-19 | こんな本読みました

ニシノさん/西野君/ユキヒコ/幸彦/西野くん/ニシノ/ニシノくん/ニシノくん/西野さん/西野くん

……これらは、ニシノユキヒコとつきあった女性がどう彼を呼んだかを書き出したもの。カタカタ、ひらがな、漢字。そして敬称の有無……これだけの違いで彼と彼女のつきあいが見えてくる。そんな微妙な技をやってのける。おそるべし川上氏!。

そんな二人(もしくは三人)の関係をつづったお話10篇が本書に収められている。

それは「恋愛」というものだろうか?。
男と女の「関係」に名前をつけるとしたら……。
そして、二人のあいだにセックスが介在していたら。
いや、していなくても……。
それは、そう呼ぶのが順当なのかもしれない。

でも、なぜか私にはどの話も「恋愛」とは思えない。ふたりの「関係性」を淡々とつづった話に思える。そして、10人の女性から見た「ニシノユキヒコ」というひとりの男性がどういう人間だったのかを語っているように思えるのだ。

10代の西野君(「草の中で」)
30代のニシノくん(「しんしん」)
50代のニシノさん(「パフェー」)

……など。いろんなニシノユキヒコが垣間見られる。つきあう相手によってその像は違ってくるが、共通したなにかがある。それは<なめらかな無関心>とか<つるつるとした、つかまえどころのない完璧さ>というものであるかもしれない。

また逆に人によっては思いもかけない像が浮かんでくる。それは<凶暴性>であったり<クールにふるまっているけど案外勤勉で努力家>というニシノユキヒコ像。

そして、ニシノユキヒコが選びとっていく女性像からも、ニシノユキヒコという人物の一端を知ることができる。

全編読み終わって「これで、ニシノユキヒコがわかった!」というわけには残念ながらいかない。「あれっ?あのころのニシノユキヒコってどんなんだっけ?」ともう一度最初から読まされてしまう。不思議なちからがある。

それは、ニシノユキヒコの生きた年代どおりに並べられていないせいなのか、ニシノユキヒコの存在自身がつかみどころがないためなのかよくわからないが。。。

まるで本(単行本)の表紙絵のように、色の違っただ円(の中にさらにだ円が描かれている)がいくつも並べられているかんじとでも言えばいいのか(よくわからないたとえですみません)。

どの女性の中にも、著者の分身(?)がいるのだと思うが、実にこわいなあと思った章がある。それは「おやすみ」の中のニシノユキヒコより3歳年上の女上司(マナミ)。その観察眼の鋭さ。きわだっているように思えた。 しかし、それも裏を返せば「人がそう見える」ということは「自分がそういう人間である」ということの表れでもあるのだろうが。それは、同時に他の章の女性についても言えることだと思うけれど。

本書の本文を目で追っているうちに、ふと物語からはなれて違うことを考えている自分がいることに気づく。川上氏の作品では「センセイの鞄」もそうだった。川上氏の描き出す世界にはまって、そこに自分の身を自由におくことができるからなのか。はたまたその世界から連想させるなにかを自分がもっているからなのか。よくわからないが、川上氏の物語やことばには、なんらかのイメージをふくらませてくれるちからがあるように感じる。それがここちよくもあり、ちょっぴりせつなくもあるのだが。

この話が「恋愛」とは思えない。。。と書いたが、よくよく考えればこれは「恋」の話だ。タイトルにだってそう書いてある。「ニシノユキヒコの恋と冒険」とー。ではそれはニシノユキヒコの一方的な「恋」だったのか?それも違うように思える。でもそれは決して「恋愛」にまで深まってはいかないー。そして「冒険」とはなにをさすのか?未知なる女性とのかかわりなのか?。まだまだこたえのでない問題が残されている(汗)。

……本当は人を愛したかったニシノユキヒコ。でもどうしてもそれができなかった。それはある女性の存在(それはひみつ)抜きには語れないのかもしれないー。

 


かわらずにいてくれて。。。

2007-02-18 | 日々のあれこれ
所用のため実家へ。

車を停め、近隣の家にふと目をやると。。。

……あっ。はにわさん。。。

私だって、人さまの容姿に関することをどうこう言えたぎりじゃないし、自分自身の容姿に自信もない。きっとなにをか言われているにちがいない。そんなことを十分に承知しつつ、あえて人さまのことをこんなふうに呼んでいる(汗)。もちろん声には出さないが。

「はにわ」さん。。。はにわのように目がころんとしていて無表情。そんなかんじから私によって命名された女性。

相手に気づかれないように、さらに視線を送る。

……なんだか今日は、さらに埴輪っぽい。。。

……白いのっぺりしたコートを着用し、喉元まできっちりファスナーをとめているからだろうか?

……十数年ぶりにみたはにわ。。。


そのあまりの変化のなさに、なぜかとってもうれしくなった。


バーナード・ウエーバー作・絵 まえざわあきえ訳 「アイラのおとまり」 徳間書店

2007-02-15 | こんな本読みました

レジーにおとまりにさそわれたアイラ。
おともだちの家におとまりするのははじめてです。

わくわく。どきどき。

そんなとき、おねえちゃんがこんなことを言います。

「くまのぬいぐるみも つれていくの?」
「くまちゃん?レジーのうちに?そんなの おかしいよ。つれていかないよ」

とこたえたアイラですが。。。

おねえちゃんはちょっぴりおどかしてきます。
ほんとうにだいじょうぶかな?
こころがゆれるアイラ。

おかあさんもおとうさんも「つれていったら」と言うのですがー。

さて、おとまりの夜ー。

アイラはくまちゃんをもっていったのでしょうか?
レジーはどうしたのでしょうか?
ふたりはどんな夜をすごしたのでしょうか?

ここでたねあかしをしてはつまりません。
ページをめくる楽しみはとっておきますね。

こどものこころの動きやすなおなきもちが描かれていて、なんだかこころがふわっとあったかくなるお話です。子どもがすやすやねている絵も作者の愛情にみちています。

ちなみにこれは、アメリカのロングセラーの絵本だそうです。

 


角野栄子著 「ファンタジーが生まれるとき」 岩波ジュニア新書

2007-02-14 | こんな本読みました

サブタイトルに<『魔女の宅急便』とわたし>とある。

童話作家の角野栄子氏の生い立ちから、『物語』が生まれる瞬間、想像力が広がるとき。。。など、角野氏のいろんなひみつがこの一冊でわかります!。

以下が目次
1 空想の世界
2 私の本棚
3 むこうの世界
4 「はじめまして」と自分にいう
5 魔女
6 物語の生まれるところ
7 魔女キキと私 
8 音とことば

5歳のときに母親と死別し、柱によりかかりひざをかかえて泣いている。そのとき自分のこころの中で思っていたことをありのままに書かれている。おびえるこころ、弟を心配するこころ、不安でたまらない。その反面泣きながら足の指の長さについて考えている。

<子どもって言葉をたくさん知らないから、うまく表現できないだけで、心の動きは大人が思うよりずっと複雑なのだ。小さいときの私を振り返ってみて、そう思う。だから小さな子どもたちの物語を書くときは、子どもだからとか、子どものくせにという軽い考えはかけらももってはいけないといつも思っている。言葉の上で暗黙の了解がすでにある大人向けの作品とはそこが違ってくる。>

なにか不安なことがあると、自分で物語を空想し、そのお話に自分自身が救われる。そういう子ども時代をすごされたようだ。

自分の幼い頃の記憶がほんとうにあったことなのか?ゆめだったのか?考えている角野氏。空想癖があったから自信がないという。「人さらい」にあったふしぎな経験。「窓から放り投げられた帽子」を見て泣いた経験。そこから、「あのとき……だったら」とか「飛んでいった帽子は…」と心の中にお話を描いている。

二十代のとき、二年間ブラジルで暮らし、そのあとヨーロッパ、カナダ、アメリカとほぼ世界一周をしたそうである。著者はこの経験を「本当にありがたい回り道だった」とおっしゃっているが。その中で行動し、感じたこと、そういうものがいろんな形でお話のなかにちりばめられているのだろう。角野氏のお話には、こころがときはなたれる感じがある。これも著者のこれらの経験とは切り離せないと思った。

『魔女の宅急便』というお話も、中学生のとき娘さんが描いた一枚の絵からイメージされたものだという。自分が小学生のとき担任の先生に『栄子ちゃん』と名前を呼ばれたときの喜びをこころのなかにもっていたので、この話の主人公の名前もこだわったという。

<こんなふうにキキの物語を書き進めていくのは、とてもたのしい。これはだれにでもできることだと思う。大好きになれる主人公を考え出せれば、上手に書いてだれかに読んでもらおうなんて、自分の気持ちに縛りをかけないで、あくまでも心を自由にしていれば……そして冒険する心と、旺盛な好奇心と、想像するたのしみさえあれば……なんて偉そうについいってしまうけど、ときどき私も筆がぱたりと止まってしまうことがある。>

……そんなとき、著者はどうのりきるのか?

<あるとき、ふと、どうしてここに「そして」と、あなたは書こうとしているの?と自分にいってみた。「だけど」だって、いいのよ。そうかなあ、話が反対の方にいっちゃうじゃない。いってもいいじゃない。そうかあ、じゃやってみようか……>

とやってみたところ<書いている本人も、主人公も、退屈していた物語世界も急に生き生きとし、物語は思わぬ展開を見せはじめた。>そうである。

<このときから、私は前よりもう少し自由になれたような気がしている。今では一見いいかげんに見えるこの自由な気持ちを失ってはいけないとさえ思っている。それからはからだの中から、突きあげてくる何かを素直に感じて書いている。それがいちばんの頼りだ。>

角野氏の自分自身のこころの声にも誠実に耳を傾け、それを大切にしていることが伝わってきた。

娘さんが五歳ぐらいのとき風邪で寝ている著者に作ってくれたサラダ。その中には、野菜のほかにキスチョコレート、マシュマロ、にぼし、ぐるぐる巻き型のマヨネーズとケチャップがのっていた。それを必死の思いで食べた。食べながら「なぜ?なぜ?」と考え、娘さんの気持ちがそこに入り込んでいるのが見えてきたという。。。すごいなあと思った。現象だけを見てことばにせず、どうしてこうしたんだろう?とその人に思いをはせる姿。見習いたいと思った。

<ああやったら……こうやったら……そうやったら……出来上がるものを心にえがいて、想像の散歩をする。すると、何かがしだいにはっきりとした形になっていく。小さなおばけに名前をつけるとき、私はためらわずに娘の散歩道から名前を使わせてもらった。>

著者ご自身が、想像することをたのしみ、主人公とともに冒険し旅し行動している。だから読者であるわたしもそのお話の中でわくわく、どきどきさせられるのだろう。角野氏の著作をもっと読みたくなった。

 


2007-02-13 | これってエッセイ?
再就職の壁。。。それは、自分の社会的能力の低さを自覚することからはじまるのかもしれない。就業ブランクのあるB子はそんなことを思った。

年齢とか、職種とか、経験とか。そんなのは二の次だ。

例えば。。。

書いてあることを正しく読みとり指示通り実行できるか?
人の話をこれまた正しく聞き取り指示通り実行できるか?
時間通り目的地に行けるか?
書類を集中力をもって仕上げることができるか?

そんな当たり前のことを難なくこなせるか?
間違えたとき、いちいち落ち込まずに先にすすめるか?
自分の思い込みで行動していないか?

自分はやろうと思えば「できるつもり」でいることと、「実際できる」ことの間には大きな溝がある。

「人を批判する側」「お金を支払う側」でいることはある意味楽なことだ。しかしその逆の立場になるとかなり風当たりが強くなる。しかしその風によって自分が鍛えられもする。

「働く」ということによって、自分の能力を冷静に見つめることができる。働いている人への敬意を払うこともできる。それは、主婦専業ではなかなか得がたい経験だ。もちろんありあまる想像力をもっているという人は別だが。他人に敬意は払えても、自分の能力を客観的に測るのはなかなかむずかしいことだろう。

それは「自分は案外できない」ということだけでなく、「自分は案外できる」という認識も含む。どちらにしても、もっともっと「外」の空気を吸って「自分」を再発見していこう。

主婦という仕事はひとつの経験だ。子育てもしかりだ。
それらの経験から自分は何を得、今後それをどう生かして行くのか。

とにかく動く動く。動くことから「自分」が見えてくる。
自分のやりたいことやりたくないこと。
自分のすきなこときらいなこと。
自分のできることできないこと。

家の中の限られた仕事では見えなかった、自分。

再就職で新たな自分を発見できるだろうか。

その一歩手前ですでに「発見」することもあるだろう。それも貴重な体験だ。

つらいことだが、まず客観的に自分の社会的能力の低さを自覚し、その壁をひとつ乗り越える。低い壁をいくつも乗り越えることによって、徐々に自分に自信をつけていくのだ。いや自信を取り戻すのだ。

主婦になる前は、働いていたのだから―。
できないことはない。

……いや、できると信じて進んでいこう。