ガーベラ・ダイアリー

日々の発見&読書記録を気ままにつづっていきます!
本の内容は基本的にネタバレです。気をつけてお読みください。

こちらを見つめる人形

2005-11-30 | ショートストーリー
キッチンの窓からふと外に目をやる。
「おや?あんな所に窓があったっけ?」

いつもはキッチンから見える景色は真っ暗闇なのに。
今日に限って、窓枠が見える。
人が動く様子も見える。
部屋の中も見える。
部屋の中にお皿が掛かっているのまで見える。

なぜだろう?どうしてなんだろう?

お皿の横に人形らしきものがある。
なんか、こっちを見て笑っている。

確かに家は前からあった。新しく建ったわけではない。
じゃあ、今までと何が違う?

もっと注意深く見つめる。
木の枝がある。枝と枝のすき間から窓が見える。

枝・・・?
確かにキッチンからいつも大きな木が見えたっけ。

私は、ほっとした。

それは、冬のいたずら。風のしわざ。
枝から葉っぱが全部舞い落ちた。
ただそれだけのこと。

なんだ、こちらを見つめる人形なんてないじゃないか!


サンクスギビング・ホリデー・・・その後

2005-11-29 | 日々のあれこれ
11月の第4木曜日は「サンクスギビングデー」で、学校・銀行・郵便局・スーパー等お休みである(祝日)。翌日(金曜日)は「アフター・サンクスギビングデー」となり、買い物客が早朝(5時開店という店もあるそうな)から店へと繰り出す。その日の新聞広告は「セール」の見出しが躍り、すごく分厚い。ひと昔前の、日本の三が日をイメージさせる。「おせち料理」こそ食べないが、「ターキー」をまるごと焼いて、親族または友人と集って食べるのがこちらの習慣である。続いて土、日と休みが続き、実質4連休になるパターンの人が多い。

全員日本人であるわが家は、「ターキー」に対する思い入れもないし(おいしいとは思うが)、集まる親族も近くにいない。よって小旅行へと繰り出すことが多い。

連休の最終日車で帰路に着く道々、もうすでに各家の軒下に電飾が!玄関脇に鹿の親子が首を上下させている!光るスノーマン!色とりどりの植木!部屋には大きなクリスマスツリー!

早い、早い。あっという間に「クリスマス」モード突入だ。ノイジーたちも「家もかざろう!」「派手なのやろう!」とうるさい、うるさい(これが名前の由来)。去年まではおとなしかった両隣の家も、なぜか今年ははり切って(?)飾り付けをしている。わが家も今週末には出さざるを得ない状況に追い込まれている。ただでさえ冬は暖房費がアップするのに、これに電気代が加算されると・・・。
ああ、なんて夢のない発想なんでしょう!(汗)。

今年のサンクスギビング・ホリデーの3日間、全米各地の店への客足は順調な伸びだとか。145億ミリオンの売上。去年の22%増とニュースで伝えていた。1人あたりの「ホリデーシーズン」の買い物予算が1000ドルというのも驚きだ。
そういえば、大型玩具店で大きなカートの中にあふれんばかりに買い物している老人をよく見かけるなぁ。

いくつものプレゼントの紙包みをビリビリビリーーーーー!!とひきさいて中のプレゼントを取り出す。そのわくわく感がたまらないのだろうが、根が貧乏性の私にはできない相談である。ついついきれいに開けて、またこのラッピングペーパーを使いまわしできないものか?と考えてしまう。わぁ、せこい話になってきたので、今日はこの辺で。



ウイスラーというリゾート地

2005-11-29 | 日々のあれこれ
バンクーバー市から北上すること車で約2時間。2010年冬季オリンピック開催予定地、ウイスラー。「リゾート地」の名にふさわしい楽しみどころ満載の地だ。

冬はスキー、スノーボード、スノーモービル、ヘリスキー、犬ぞり・馬ぞり等が楽しめる。夏・秋もゴンドラで山の頂上まで行くことができ、そこでトレッキングをしたりホテル周辺をサイクリングしたりできる。近くにゴルフコースも(チャンピオンコース)3つほどある。

ホテルが点在し、その周りにショップ、レストラン(和洋伊など)、スーバー、コーヒーショップ等々が軒を連ね、一つのビレッジをつくっている。暗くなると植え込みの樹々がブルーにライトアップされてとても幻想的だ。

ウイスラー山、ブラッコム山が隣接し両者とも2000m強の山だ。ウイスラー山に近い方がほうがにぎわっている感がある。が、ブラッコム山の方も高級ホテル等があり落ち着いていてそれなりにいい(らしい)。どちらもホテルの目の前がゲレンデとなりスキーをかついでの移動も楽である。

今回2日間スキーをした。下の方は雪があまりなくて赤茶けていたが、上の方は雪質がよくスキー技術のない私でも快適に滑れた。長い時間ゴンドラに乗るが(約30分)、それだけ滑ってくる距離も長くなるわけだ。初級者から上級者までコースがたくさんあり、ゲレンデも広い。日本のようにうるさい音楽がかからないのもいい。(まあ、それはそれで懐かしいが)。

その間子どもはどうするか?子ども用のスキースクールに入会させるのである(3歳から受付可)。子ども5人に対して1人のコーチがつき、1日面倒を見てくれる(朝8時から10時の間に預け入れ3時半頃にお迎え)。うれしいことにランチも食べさせてくれる。スクール終了後、子どものレベルをチェックした紙をもらえ、それによって親も子どもの様子をある程度把握できる。コーチも子どもの扱いに慣れており、安心して預けることができる。(これは聞いた話だが、スクール中子どもが粗相をしてしまったらしく、新しい下着を着させてくれ、よごれものはビニール袋に入れて渡してくれたということだ。)

ここはリピーターも多く、炊飯器を持参して滞在する人もいると聞く(部屋にキッチンがついていることを確認したい)。また、ここからバンクーバーに向かって30分ほど行った所に、スキー用品関連のアウトレットショップがあるので、是非チェックしてみて欲しい。スキー板、靴、グローブ、ウエアー(ブランド物、ウイスラーのロゴ入り)などがあった。

ホテルによっては、ジャグジー、プール、スポーツマシン設備、エステ・マッサージなどのサービスを行っている。家族のいろいろなニーズにこたえてくれるまさしくハッピーなリゾート地なのである。





阿刀田 高著 「短編小説のレシピ」 集英社新書

2005-11-28 | こんな本読みました
800編もの短編小説を生み出した直木賞作家による、短編小説についての解説・案内本。また「小説家の工房の秘密」について想像し、何をヒントにどのように作品ができたかを推論している。あとがきによると本書は、<2002年1月から6月までの朝日カルチャーセンター新宿での講義を中心にまとめたものである>そうだ。

以下が、本書で採り上げている小説家と主な短編作品である。

 向田邦子<鮒>
 芥川龍之介<トロッコ><さまよえる猶太人>
 松本清張<黒地の絵>
 中島敦<文字禍><狐憑>
 新田次郎<寒戸の婆>
 志賀直哉<赤西蠣太>
 R・ダ-ル<天国への登り道>
 E・A・ポー<メエルシュトレエムの底へ>
 阿刀田高<隣の女>

以下、心にとまったところを引用してみる。

<短編小説には技巧の冴えが欠かせない><短編小説の書き手が周辺の会話や会話のようなものから発想をえて作品を作るケースは多い><短編小説のストーリーは多彩である>と、「短編小説」についての特長を述べている。

私が特に印象に残った箇所は、「志賀直哉」についての章である。
まず、志賀直哉の作風について。以下引用する。

<作品を貫いているのは、理知的な観察力であり、強烈な自我である。精緻な文章は天賦の才らしく、早くから完成されていた。また卓越した美意識の持ち主であり、鋭い感性で周囲の出来事を捉え、強烈な自我と美意識のフィルターを通してそれを訴える>

そうだったか?確か、曽野綾子氏も志賀直哉を絶賛していたような。若い頃は小説の筋だけ追っていた。作品を分析するような深い読み方をしていなかった。「暗夜行路」をはじめ他の作品も再読したくなった。

また「城の崎にて」は15枚足らずの短いものである。高校の教科書にも掲載されていた。よって、作品の解釈とか著者の意図や心情そういったものを「勉強」したはずである。しかしあまり心に残っていない。正直言うと、この作品を「つまらない」とさえ感じていた。しかし、今読み返すと存外深いものを感じる。

この作品は3つのエピソード(小動物の死)によって成り立っているのだが、阿刀田氏が見事に「小説家の工房の秘密」を推論している。以下<>部引用。

<城崎温泉の宿に暮らして部屋の窓から蜂の死骸を見たのは事実だったろう、と私は思う。そこにさびしさと静かさを感じたのも本当だったろう。
 だが、そのすぐあと、鼠のあがきを実見するのは、少しくさい。話がうま過ぎる。事実ではない、とは第三者には断言できないことだが、事実であったとしても、このときではなかったのではないのか、そんな気がする。>

<蜂の死を通して抱いた想念が、かつて見た鼠の断末魔によって小説的に増幅され、ふたつがまとまって作品のモチーフが鮮明になってくる。もしそうなら作者がこの方法を避ける理由はどこにもない。
 イモリの場合も同様だ。本等に石を投げたかもしれないが、それが偶然命中するのは・・・ゆっくり考えてみると、これも話がうま過ぎる。蜂の死骸、鼠のあがきと来たあとで、
ーここらあたりで偶然の死があってもいいかなあー>

<題材を身辺の事実に求め、事実にそって作品が進展していくことが多いけれど、この自意識旺盛な作家は、入念にみずからのモチーフを出来事に反映させることを忘れない。さりげなく装っているが方法は執拗である。>

志賀直哉の作品をはじめ、かように「小説家の工房の秘密」は阿刀田氏の想像からなるものだが、「創作のヒント」が得られるという意味で私にとっては、楽しくもあり刺激的な著書でもあった。

ご丁寧に最後の章ではご自身の「創作の手の内」を見せていらっしゃる。世に「名店シェフのレシピ」がいくら出回ろうとも、素人がそっくりそのまま美味しく作れないのと同様、「短編小説のレシピ」として手の内は明かしてはいても、素人は簡単に名作を生み出せるものではない。阿刀田氏自身の作家としての自信と力量を見事に表している一冊でもあると感じた。

大リーガー選手

2005-11-23 | 日々のあれこれ
日本の○フトバンクより、こちらの地元球団に移籍してくることになったJ選手。決め手は、奥様が「日系スーパー」を気に入られたとか。確かにこのスーパーはきれいになりましたし、とりあえず何でもそろいます。書店もありますしね(品数や種類は別として)。日本人選手が来ることによって、またここら辺も盛り上がることでしょう。彼の活躍を期待したいところです。

ところで大リーグの「球場」での応援はすごく楽しいです!日本では応援団の音楽がやたらうるさいし、野次を飛ばす人、応援そっちのけでお酒を楽しむ人など様々です。ごひいきのチームがあればそれも楽しみのひとつなのでしょうが、ひいきのチームを持たない私はそもそも応援に熱が入りません。

野球に熱の入らない私でさえも、こちらの応援は盛り上がるし、マナーがいいと感じます。まず音楽がスピーカーで流れてきます(日本のようにチームの応援団が勝手に音楽を鳴らしません)。それに合わせて手拍子をします。また、大きな電光掲示板に「NOIZZZZZZZZ-----」と表示されると、みんなでブーイングをしたり、指示に合わせて拍手をしたりします。試合の合間に球場の上方にあるスクリーンに「珍プレー」の映像や「ゲーム」の映像が流れ、それらを観客は無邪気に楽しみます。「ゲーム」に勝ったといっては大の大人も喜んでいるのです。初めてその場面を見た時は、カルチャーショックに近いものがありました。

また小さい子どもがいる場合、シートに座りっぱなしというのは相当にきついです。そんな時「子どもの遊び場」が球場内に設置してあるので、そこで決められた時間だけ遊ばせることができます(家のノイジーたちの場合、球場に行くというと喜びますが、どうもここに行くのが最大の楽しみのようです)。

ただし、混むので球場に入ったらすぐ「整理券」をもらいに行くのが得策です。以前1時半頃に行ったら(1時に試合開始)、4時まで予約でいっぱいと言われてしまい愕然としました。そんな時間では試合が終わっている可能性が高いのでは、と思いつつノイジー達の熱意に押され、結局試合が終わっても遊ばせるはめになってしまいました(>_<)。

また試合の初めには「国家」をゲストがマイクで歌い、それに合わせて観客も起立して斉唱します。7回の裏終了後(だったと思う)もみんなで歌う場面があります。ほとんどの人が礼儀正しく起立します。老若男女純粋に試合を楽しむ。そういう感じが伝わってきます。

試合のない時は、「球場ツアー」が催されます。所要時間約1時間半。選手のロッカールームや、記者会見室、スイートルーム、ベンチなど見学できます。日本からお客さんが来た際にはここへお連れすることが多いと聞きます。とても喜んでもらえます。お土産やもありますしね。

ちなみにここの名物は「ガーリックポテト」。くせになる味です!あと「○チローロール」というのがあるそうです(まだ食べたことがありません)。





糸井重里著 「インターネット的」 PHP新書

2005-11-21 | こんな本読みました
「マイ・ネット熱」もだいぶほとぼりが冷めてきましたが、依然続いております。今週は人様のブログを見てまわるのに一生懸命になってしまい、自分のブログが疎かになってしまいましたf(^_^; (なのでまとめて書いています)

ところで糸井氏著『インターネット的』とても良かったです。まず彼の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』をはじめたきっかけや、それへの思いが綴られます(2001年の時点で1日のアクセス約35万件とか)。そのあと『ほぼ日』を通じて得た「インターネット」の可能性やつきあい方などが彼独自の視点で書かれています。なるほどなぁと思ったところを書き出してみます。

<つながりすぎないで、つながれることを知る。こういう関係が、インターネットの上ではリアルに感じられるかもしれません。「ひとりぼっち」なんだけれど、それは否定的な「ひとりぼっち」ではない。孤独なんだけれど、孤独ではない。>

そこから発想して「Only is not lonley」というコピーを作られたとか。私自身いろいろな人のブログを見てまわっていると、パソコンの中に無数の人がうごめいていることを知ったり、コメントをやりとりすることによって見知らぬ人と「つながった」という喜びを多少なりとも得ました(まだまだですが)。

<考えたこと、やってみたいことを惜しみなく出し続ける。枯渇するのではないかとか、後でもっといい使い道があるとかを考えずに、出して出して出し尽くして枯れたらそれでしかたがない、というくらいの気持ちがないと、日刊で曲がりなりにも「新聞」を出すことなどできません。おそろしいけれど、なかなか楽しいことでもありました。>

インターネットでお金もうけを考えない(広告を掲載する等の)。まずアイディアありき、夢ありき。糸井氏の生き方へのこだわり、クリエイターとしての危機意識があったことを知りました。(そしてそれが後々功を奏しているのだから、先見の明のあるクリエイターであることが実証されます)。

<文章がヘタなのに面白い、ということが成り立つのがネット社会なんです。チョーでも何でも、その書き手が楽しくイキイキとした生活をしていれば、書いたものは面白い。逆に文章に自信がある人が書いたものでも、イキイキと生きていない人の文章は、つまらないんです。>

「文は人なり」という通り、ブログの文章からたちのぼってくる書き手の個性。もう一度読みたいもの。通りすがりで終わってしまうもの。やはり文章にはその人の生き方が表れてしまうものなんですね。(それを考えるとこうして書くのが怖くなりますが。まあ、自分はたいした人間ではないので、恥をさらしているわけでして・・・)

<「ここは流れとは関係ない」というような話題の選び方にこそ、発言している人の個性がよく出るものだったりするので、ここはインターネット的ということを考えるためにはかなり大事な要素です。>

<どうも、人の心というのは、きれいにまとまったものよりも、まとまりきれない何かに震えるのではないでしょうか。>

<書きかけ、考えかけ、でき損ない。そういう文章やアイデアを、自分のコンピュータの冷蔵庫に、ぽんぽんと雑に放り込んでおきましょう。整理なんかできていなくても、気にしないで。ちょっとくらい忘れていて時間が経ったほうが、熟成されていい結果になることだって、いくらでもあります。もちろん、忘れて使わないでいるうちに古くなって腐ってしまうアイデアもあるのでしょうが、それはそれで、腐りやすい程度の小さなアイデアだったと、あきらめましょう。>

上記の3箇所の引用部分の文章によって、自分の肩の力が抜けた気がしました。なぜなら、「インターネット」や「パソコン」を敷居の高いものに考えていたからです。もっと楽につきあっていこう。ネットから自分の必要とする情報を取り入れたり、自分なりの(自分しかできない)情報を発信したりすればいいんだ。そんな風に考えられるようになりました。そのつきあいから見知らぬ人とつながったり、情報を交換したりすることができれば、楽しいしより豊かになれるとPC音痴&初心者の私は思いました。


流行「たまごっち」

2005-11-17 | 日々のあれこれ
こちら米国でも流行ってます、「たまごっち」。先日、ター○ットというホームセンターに行ったら、2個で30ドルの価格表示がしてありました。うちのノイジーたちも御多分にもれず「○○ちゃんも、たまごっちもってるんだよ~!」と親の同情をかうべくさわいでいます。

ついこの前、バイリンガル教育をしている小学校に読み聞かせに行った際、何人かの子どもたちがたまごっちを見せてくれました。しかも、日本語の!先日知ったのですが、今は、たまごっち同士が無線で通信できるのだとか。もう、びっくり!目がまん丸になってしまいました。

でも、アメリカのと日本のとでは互換性がなく、文字化けしてしまうとか。また、通信とはいっても、そこはおもちゃ。ほんの十センチくらいの距離でしかできないとか。私はそれこそ海を越えてできるのかと、初め聞いたとき思ってしまいました(;^_^A。それでもすごいですよね~!

お世話をしないと、弱ったり死んでしまうらしいので、ちょっと不安ですが、このたまごっち旋風。今回はあえてのってみようかなと思っている次第です。(8年前は全然興味がありませんでしたが。)



藤堂志津子著 「私から愛したい。」 幻冬舎文庫

2005-11-16 | こんな本読みました
一気に読める。彼女の思い切りのよさ。ここまで自分をさらけ出していいの?もっと格好つけなくて。・・・と心配してしまうくらいである。

女流作家の日常が垣間見られるエッセイである。「本のある日々」ではどんな本を読んでいるのかが見られて面白かった。また「ユーモアのある男」では「初対面の男性のどこに注目するか」世代別ポイントを挙げている。ちなみに<二十代は「肌がきれい」、三十代は「心身ともに元気」、四十代は「色気」、五十代は「かわいげ」、六十代は「おもしろい」、七十代は「自然体」>だそうである。著者の男性とのかかわりあいやつきあいの広さがうかがえて、興味深かった。

さらっとよめて、面白い。長編の本を読んでいるあい間に読むのに丁度良い、彼女のエッセイである。


山田詠美著 「晩年の子供」 講談社文庫  他

2005-11-15 | こんな本読みました
「晩年の子供」(短編集)に続いて、
「ベッドタイムアイズ」(長編/河出文庫)
「ジェシーの背骨」( 同/同 ) 
「セイフティボックス」(エッセイ集/講談社文庫)
「ファンダメンタルなふたり」(山田詠美対談集+中沢新一対談集/文春文庫)
を立て続けに読んだ。頭の中は、エイミーズワールドだ。

彼女の作品はよどみなくぐいぐい読ませる。彼女の描く作品世界に否応なくひきずり込まれる。しかし、作品によって山田詠美の印象は随分違ってくる。

まず「晩年の子供」。これは、山田氏の10歳前後の感性を切り取り、短編小説に仕上げたと思われる。文体が告白じみていて、なんだか太宰治の「人間失格」を思い出させる。印象に残った場面を引用してみる。

<私は、物憂い気分に浸りながら、季節の移り変わりを感じていた。死を意識してから、私のまわりにうごめくはっきりと形を持たないもの、たとえば、季節、たとえば時間、そういったものが、急速に姿を現し始めていた。色を持ち、意志を持ち、私に向かって歩き始めていた。>(「晩年の子供」より)

山田氏は10歳くらいでもう既に、「死」を意識していたという事実に驚かされる。その頃はこんなに明確に自分の心の状態を意識化できたわけではないと思うが、この気分は確かに感じたものだと思う。非常に感性の鋭い子供だったことを感じさせる。

また同短編集の「花火」より
<「そういう思いやりを持つことが、男を愛するってことなのよ。あの人に会いたいって恋焦がれてる時って、自分を愛してるのよ。自分の欲望をなだめるためにその男を思うのよね。同じ会いたいと思うのでも、その人を愛し始めたときは違う。もっと静かだし、もっと悲しいものよ」>

なるほど。自分を客観的に見ている。男性とつき合っている時でさえも。この台詞は山田氏自身の視線だと思った。

「ベッドタイムアイズ」は「文学賞」を受賞。「ジェシーの背骨」は第95回芥川賞候補作である。とにかく描写がうまい。余計な説明や解釈を加えず、主人公のたしかな視線と鮮烈な文体で物語をすすめている。しかし、物語の世界に自分を没入させることはなかなかできなかった。なぜなら、「黒人」を恋人としてつきあうということがなかなか想像できないからだ。しかし二人の心がかよいあっていく様が丁寧に描かれていて好感が持てた。「ジェシーの背骨」は「子ども」が登場する。愛情を受けずに育った子ども(ジェシー)と主人公のやりとりが興味深く、一部、トリイ・ヘイデン氏の一連の作品(『シーラという子』『タイガーと呼ばれた子』などの著作)を彷彿とさせた。(虐待を受けた少女を指導した教師の話です。いい本です。読んでてつらいけど・・・)

「セイフティボックス」はエッセイ集。はじめて氏のエッセイを読んだ。面白い。見た目と違って(失礼!)すごくいい人!と言う感じ。彼女の交友関係も書かれていて読んでいて楽しい。男性の好み(ブルーカラー好み)、NYのサウスブロンクス好きというあたりが山田詠美さんらしくて笑えてしまう。こういう人は他にもいるだろうけれど、これだけ文才のある人はいないであろう。そういう点で、稀有な存在だと思う、詠美さんという人は。私たちに知らない世界を教えてくれる。

「ファンダメンタルなふたり」では、中沢氏との対談だが山田氏の性格のよさ(?)を感じてしまった。徹底的に悪口の言えない人って感じ。『次郎物語』に凝っているという意外性が面白い。

はずかしながら、「ベッドタイムアイズ」の印象が強すぎて、つい最近まで彼女の作品を手に取ったことがなかった。イメージだけで内容を決めつけていた。そのことを今悔いている。ノスタルジックな「晩年の子供」が私の好みだが、エッセイ集もとても良い。恋愛小説の方はあんまり・・・と言うのがここ一連の山田氏の作品を読んで感じたことだ。


COSTCOへ行って来た

2005-11-14 | 日々のあれこれ
もうすぐ本格的な冬が来る。その前にしなければいけないことがある。それは、雪道に備えてのタイヤ交換である。そのためにCOSTCOへ行った。ここは会員制で、年45ドルの会費を支払う。その年会費の元がとれるくらい、何でも安い。ただしどれも大量だが。

さて自動車修理の開店は10時。少し早く着いたので、ガソリンを満タンにした。(ガソリンも当然安い)。10時を少しまわった。受付で、タイヤ交換の旨を告げる。ラッキー!なかなかかわいい顔のお兄ちゃんだ。

ん、ん、ん!しかし彼はあの時のーーーー。
そう忘れもしない、前回タイヤを交換したときに受付にいた彼!約半年前のイヤ~な記憶が甦る。

確かその時も10時に受付に行った。「タイヤ交換は約1時間で終わる。終了後携帯に連絡する」とのことで、私は店内に入りあれやこれやと買い物をしていた。時刻は11時半。電話はないがもう終わっているだろうと思い受付へ。すると、そのお兄ちゃんかわいい顔で「これから45分かかる」とのたまう。私はお笑い芸人「魔邪」よろしく「ハアー?」という気分。そこで「私には時間がないのョ!」と言うと、「じゃあ、今日キャンセルしますか?」ときた。私はプッツン切れた。そこで文句を言う。

・・・ことができたなら。私のストレスも半減されただろう。すごく頭にきている。なんで今から45分かかるのか、問い詰めたい。そしてあちらのミスを認めさせ、謝ってもらいたい。でもそれが伝えられない。英語力が不足している。私は怒りで顔が真っ赤。しかし、お兄ちゃんはそ知らぬ顔。

そう米国では「以心伝心」なんて発想はない。「口に出さない」=「思っていない」のだ。私は自分の英語力のなさを棚に上げ、この怒りを知人たちにしゃべることでどうにか心の平安を取り戻した。(ある人いわく、そういう時はとにかく日本語で怒りをまくしたてれば、伝わるものよ。とアドバイスされたが、まだ実行には移していない。)

(ああ、これを書いていたらなんだかまた腹が立ってきた・・・)
そんな怒りを胸にたぎらせ、今回もこのお兄ちゃんに頼んだ。「1時か12時45分頃に終了予定」ときた。またもや「ハアー?」の心境。「今日は月曜日だからとても忙しい」という理由だ。私は、内心差別されているのかと思ったが、受付横のボードにたくさんのキーが掛かっているのを見て、確かに来客が多いのを確認した。

もう私の中で、彼への信用は完全に失われている。私は早い時間に行って確かめた。とにかく「忘れ去られ」ないようアピールする作戦だ。もう少しかかると言う。外にあるフードコーナーでピザとラテを食し時間をつぶした。まだ時間がある。読みかけの本を読んだ。それも読み切った。時刻は1時。さあ、いい加減終わっているだろうと思い再び受付へ。違うお兄ちゃんだ。のんびりとした足取りで確かめに行った。まだ終わっていなかった。

結局その日終了したのはなんと1時20分。平日でこんなに時間がかかるのだ。週末なんて考えるだに恐ろしい。10時開店とはいっても、多分受付前に列をなして待っていたのだろう。今回、ガソリンなど入れていたので出遅れた。今度こそ、10時前に行くぞ~!