ガーベラ・ダイアリー

日々の発見&読書記録を気ままにつづっていきます!
本の内容は基本的にネタバレです。気をつけてお読みください。

会ってみたい人

2008-02-29 | 日々のあれこれ
子どもを通じて仲良くさせてもらっているA子さんにこんなことを言われた。

「うちの学校の司書さんが、ガーベラさんに会ってみたいって言ってたわよ」

……へっ?なんで?なんで私???

すると、彼女はこんなことを教えてくれた。

「ミミコちゃんが本を借りていくとき、これはお母さんといっしょに読めるかなーって言って借りてるらしいわよ」

……そ、そんなことを言っているのか、おぬし……(汗)

「そしたらその司書さんが言うには、好きな本がガーベラさんとまったく同じなんですって」

「えええーっ。それはーーー!!」

……私も会ってみたい(笑)

会って、本の情報交換をしてみたい。

特に児童文学関係情報なぞをこっそり……(笑)

いや。別に。。。

こっそりする必要はないんだけれど(笑)

ああ。

なんかうれしいなあ♪


伊藤 公雄・樹村 みのり・國信 潤子著 「女性学・男性学」 有斐閣アルマ

2008-02-28 | こんな本読みました

本書のサブタイトルに<ジェンダー論入門>とある(笑)。

……先日読んだ本とまるで同じ。「論」があるか否かの違い。だが、その内容は少々異なる。

大きな違いは、本書は<大学のジェンダー論のテキスト>として使ってもらうことを念頭において編集されてあること。なので、著者の論を思考の過程がわかるように書いてあるという色合いは少ない。コンパクトに言葉の説明を行い、漫画を取り入れながらジェンダーについての概略をつかめるようにわかりやすくまとめられている。

また<エクササイズ>という項目をもうけ、参加・発見型の学習ができるように課題がいくつか記されている。実際にグループをつくってやってみると面白そうである。その他には<読書案内>として関連図書の紹介、<コラム>として現代における問題点や課題について言及されている。

以下が目次

第1章 女であることの損・得 男であることの損・得
第2章 作られる<男らしさ><女らしさ>
特講1 女性学って何?
マンガ1 あなたとわたし

第3章 ジェンダー・フリーな教育のために
第4章 恋愛の女性学・男性学
特講2 男性学って何?
第5章 ジェンダーと労働
マンガ2 花子さんの見た未来?

第6章 多様な家族に向かって
第7章 育児はだれのもの
マンガ3 今日の一日の幸

第8章 国際化のなかの女性問題・男性問題
特講3 平和の思想と<男らしさ>

第9章 ジェンダー・フリー社会の見取り図
索引
Colomu一覧

現在の大学でジェンダー論をどのように扱っているのだろうか。必修なのか選択なのか。いずれにしても、自分はこのことについて学んでこなかったということ、日本で様々な取り組みや法の改正などが行われていた頃、日本を離れていたことを考え合わせても、本書を読みながら知らないことが多すぎ反省しきり(汗)であった。

女性の苦労や思いは共感することがしばしばだったが、当てはまらないところも多々あること。逆に男性の苦労について挙げられている点が自分にもあてはまることなどに気づいた。

また、日本にいるとなかなかつかみにくいが各国との比較によって、日本における女性の社会参加が遅れていることがデータをつきつけられることにより実感した。もっと「ポジティブ・アクション(積極的格差是正策)」をとる必要があると感じた。

そのためには、さまざまな社会の仕組みを変えていく必要がある。税制や年金制度の変革、男性の長時間労働の仕組み、労働時間の法的な規制、労働における均等待遇、リカレント型就業形態などなど(言うは易し。行うは難しですね)。

しかし、一番大切なのは。。。

<「男は外で仕事に全力をつくすべきだし、女性は家を一手に守るべきだ」といったジェンダー意識の変更が求められるだろう。そうなると、(学校・社会を貫いた)教育におけるジェンダー平等が不可欠の課題になる。教育におけるジェンダー平等の推進のためには、教育に携わる人々の意識を変えなければならない。>

子育てをしている今。どんなふうに子どもを育てていくのか。
それによって、将来の日本がどのようになるのかが変わってくる。どんな国にしたいのか。ジェンダーの視点をもって子育てをしていかねばならないと痛感した。

それには、「言葉」よりもまず親の行動・生きかたそのものが問われる。
なかなか厳しい課題をつきつけられているなあ(汗)。。。

 


加藤 秀一著 「ジェンダー入門」 朝日新聞社

2008-02-25 | こんな本読みました

本書のタイトルの上に<知らないと恥ずかしい>と書かれてある(苦笑)。

先日、評論家の樋口恵子さんの女性差別と立ち向かうまでの経緯を知った(読売新聞)。それを読み自分は女性差別を知っていたけれども、体験としてわかっていなかったということに気づかされた(汗)。ゆえに知識としてあっても某大臣の女性差別的な発言に憤ったとしても持続性がない。はずかしながらそんなことを痛感した。

……そこで。この本だ。これで学ぼう!。

どうしてこの本か?と問われても書店でたまたま目についたからと答えるしかない。薄くて、読みやすそうだったし「入門」とタイトルにある。

かつて上野千鶴子氏の著作を読んだことがあったので(2006年1月5日ダイアリー)、それ以外の人という思惑もなきにしもあらずなのだが。…とは言っても、本書の帯に上野千鶴子氏の推薦文らしきものが載っているが。

という前置きはさておいて。。。

本書は、「ジェンダーの理論」のエッセンスを語ることが目標とのこと。知識を増やすためのものではなく、「考える」ための問題集であり参考書であるという。ジェンダーという概念そのものの分析であり、それを現実認識のための道具として鍛え上げる特徴をもつ本だと著者は述べる。

また、著者が述べる意見を補完するものとして何冊かの参考文献を挙げられている。そちらも読みあわせるとより納得する形で著者の意見を理解することができると推察する。

さて、その内容とは?以下が目次。

第1章 ジェンダーって何のこと?
    ― おおまかな見取り図を描く
第2章 「ジェンダー」は何を訴えてきたか
    ― 先駆者たちがめざしたもの
第3章 「男」「女」って何だろう?
    ― 性別の起源
第4章 「男とは~」「女とは~」なんて雑すぎる
    ― 性差・ステレオタイプ・差別
第5章 「女なら女らしくしなさい」は論理ではない
    ― 性役割と「らしさ」の罠
第6章 セクシュアリティはジェンダーではない
    ― 「性」に潜む二つの意味
第7章 ジェンダーの平等に対するバックラッシュ
    ― 自由と平等を問い続ける

では、ジェンダーが実際にどういう意味で使われているのか?大きく分けて四通りあると著者はいう。
①性別そのもの
②自分の性別が何かという意識(ジェンダー・アイデンティティ、性自認)
③社会的につくられた男女差(ジェンダー差、性差)
④社会的につくられた男女別の役割(ジェンダー役割、性役割)

どのような使い方をとっても、ジェンダーには<社会的>という含意があるという。それに対して、肉体的な次元の性をセックスと呼ぶという(ジェンダー/セックスという二分法そのものを著者は疑っているらしいが)。

また、本書はフロイトが<性>をかたちづくる生物学的な次元と社会的な次元を明確に区別してきたこと。ボーヴォワールが<女>を「他者」である(人間の「主体」は男であることに対して女は男から見た客体という意味)と位置づけたことなど二十世紀前半の男らしさや女らしさの考え方を紹介し考察している。

これらの後に、アメリカでもっとも注目を集めたジュディス・バトラー(アメリカの哲学者。カリフォルニア大学バークレー校教授)、ジョン・マネー(アメリカの心理学者)、ロバート・ストーラー(アメリカの精神分析学者)のジェンダーについての理論を紹介していく。その後『性の政治学』(ケイト・ミレット著)、『性の弁証法』(シュラミス・ファイアストーン)などが出てきたという。

<「性差とは男女間の記述的差異のことである」><「性役割とは、ある人が、その性別ゆえにとることを社会的に期待される行動パターンのことである」>と著者は定義づける。

「性役割」には「そうあるべきだ、そうでなければただではおかない」という強い意味があり、このような期待を「規範」と呼ぶという。しかし、表面的には「べき」という語句を含まない文が、実は規範的な意味を隠し持っていることがあるという。

この規範の概念についてはドイツの社会学者二クラス・ルーマンという人の、ジェンダーに限定されない理論を挙げながら説明している(認知的予期と規範的予期)。その理論をもちいると、<性役割とは、つまり「ある人に対して、その人が全体としてどういう人物であるかということをありのままに知ろうとしない、すなわち現実を認めずに、その人の属性の一部である性別だけによって、一連の行動パターンを相手に期待する規範である」ということ>だという。

これは規範である以上、それに違背した人は責められる。それを社会学の用語で「負のサンクション」あるいは単に「サンクション」という(らしい)。これは当人の外部からだけでなく、自分自身の内側に染みこんだ規範の観念が、その規範に違背した自分自身を苦しめるということは稀ではないという。

また「性差」といううのは本質的に統計学的な概念だとする。自分の知っている数少ない事例をいきなり一般化することはよくない。ステレオタイプは差別とむすびついていると述べる。

ここで「区別」と「差別」はどう違うのか?ということについては、著者は「差別とは不当な区別」と定義し、「不当な区別」とは、人間を等しく扱うべきところで扱いに差をつけることだという。

また、<差別はステレオタイプを前提としている>ということもできるという。<人間を一人ひとり異なる人格として見るのではなく、その人が持っている特定の属性だけに注目して、他の点は切り捨てる。すなわち、人間というものを、かけがえのない存在として尊重することなく、ある属性を共有する集団の中の一つの「例」としてしか扱わない。>

<差別という以上、そこには集団ごとの序列化があり、差別する側と差別される側がある。そして、ジェンダーに関わる限り、男性が優位で女性が劣位というのが私たちの生きる社会の現実です。>と最低限の基本的な意味をキープしておかなければいけないと述べている。

そして、「性差」と「性役割」は、論理的には無関係であると結論づける。誰々が女である、あるいは男であるという事実から、だから女らしくするべき、男らしくすべきという価値(役割規範)を直接に引き出すことはできないと述べる。

最終章では、現代におけるジェンダー論への攻撃(いわゆるバッシング)とその背景としてのバックラッシュについて述べられている。ちなみに一般的な意味でのバックラッシュとは、政治的・社会的な改革運動に対する反動全般を表す言葉だという。

以上、ざっと自分が印象に残ったところを<>にて引用・抜粋しながら覚書として記してみた。

最後に著者が述べているのだが、ジェンダーの概念をくわしく説明するというテーマに取り組んでいたら、いつのまにか平等とはなにか、自由とは何か、民主主義とは何かという別の問題群が見えてきたという。

自分自身も本書を読んで、もっと知りたいことがみつかったし、はからずも自分自身が「女だから……しなさい(するべき)」と言われたことがないことに気づいた。これも自分の母親(産後も働き続けた)が体験的に差別の痛みを知っていたからだろうか…と今さらながらに気づいた次第である(汗)。 

*樋口恵子氏についてのくわしい記事を知りたい方は、私がひそかに読み勉強させてもらっている樹衣子さんのブログ「千の天使がバスケットボールする」(2008年2月21日)をお読みください(左のブックマークにあります)。とても簡潔にまとめてくださってます!。 

 


斎藤 惇夫著 「子どもと子どもの本に捧げた生涯」 キッズメイト

2008-02-20 | こんな本読みました

サブタイトルに<ー講演録 瀬田貞二先生についてー>とある。

本書は福音館書店編集責任者を経て作家活動へと専念された著者による、瀬田貞二氏について語られたものである。その内容は、著者だけが知りうる瀬田氏とのエピソード、そこから垣間見られる瀬田貞二氏の人となり。タイトルにあるように瀬田氏の子どもと子どもの本へ捧げた情熱とその仕事ぶりなど。著者の瀬田氏を師と仰ぎ敬愛されていたことが伝わってくる。

また巻末資料として、五名のかたによる瀬田貞二氏への思い(エッセイ)が収められており、いろいろな角度から瀬田貞二氏について知ることができた。

以下が目次

はじめに
日本の絵本を語る言葉のはじまり
  私にとっての瀬田先生
  子どもの本を語る言葉の確立ー瀬田節
  私の最初の物語を読んでいただいたこと

一九五〇年、日本の児童文学の夜明け
  「岩波少年文庫」と『児童百科事典』の刊行
    「岩波少年文庫」と石井桃子
    『児童百科事典』と瀬田貞二
  石井桃子と瀬田貞二の出会い
  日本の絵本の開花を支えた二人

能力と時間のすべてを子どもたちに解放した生涯
  幼・少年時代
    瀬田貞二は作家であったか?
    仲間と楽しむ「場」を作る天才
    幼年時代の読書
  中学・高等学校時代
    趣味多き少年
    「場」の文学、連歌への憧れ
  大学時代
    中村草田男から学んだこと
    政治・組織を拒否する姿勢
  青年時代
    夜間中学と兵営での「場」作り
    戦友の戦死ーディレッタンティズムとの決別
  先生の戦後
    生涯を子どもたちに捧げる
    天狗の魔法
  あとがき

解説ーーーーー小寺啓章 

巻末資料
 瀬田貞二年譜
 瀬田貞二著作目録 
 カッパ(河童)  瀬田貞二
 百科事典について  中野重治
 瀬田貞二君の思い出  日高六郎
 「落穂ひろい」の日々  荒木田隆子
 瀬田貞二著『絵本論』をすすめる  松岡享子
 アン・キャロル・ムアのブックリスト

さてさて。こうして目次を見てみると、瀬田貞二という人がどういうことを行い、どういう人だったのがざっと見えてくる。

自分自身をふりかえると、瀬田貞二氏の名前はなじみのあるものだったのだが、訳された著書をはじめ、人となりなどほとんど存じ上げていなかった。なので、非常に興味深くかつ瀬田貞二という人の生き方とその仕事ぶりに魅かれるところが多々あった。

とくに心に残ったところを< >で引用する。

<戦後まだ間もないころに、なぜ自分の生涯をかけてまで子どもと子どもの本を考えるような人があらわれたのか。しかもその考え方が、最初から今の子どもの本に対する見方、考え方の基本となるほどに熟成したものであり、なおこれからの子どもの本に対する予言とまでなっているのか。また、忘れられつつあった「子守歌」や「わらべうた」、そして「なぞなぞ」や「ことわざ」や「昔話」、つまり子どもたちの遊びのなかにあったもの、そして親と子のあいだで遊びとして楽しまれてきたものを、文学として高く評価し、子どもたちに積極的にかえそうとしたのか、あるいは返す道筋を考えようとしたのか。さらに、ほとんど孤立無援で、わが国の歴史のなかから、消えてしまったと思われていた子どもの本を丹念にさぐりあて、顧みられることのなかったひとつの文化を掘り起こすという、とほうもないことをくわだてるにいたったのか、そこまではどうしてもよくわからない。>

<絵本が、子どもの本が、人間にとってどんなに喜ばしいものであるのかを、ほとんど思想・哲学の問題として、総合的に、人間的に、歴史的にとらえ、しかも子どもたちの心のなかから決して離れることなく、滑らかで初々しく、そして恥じらいをたたえた勁(つよ)い口調でーよく瀬田節といわれていましたがー、語った方はいないのです。>

これらの文章を読んだだけでも、瀬田貞二氏というかたが子どもたちの文化にどれほど貢献してきたかが推測できる。読み進めていくうちに、これらのなぞについて著者の考えがあきらかになりされ、それを知るたびに瀬田貞二氏の業績のすばらしさにうなりそうである。

<絵本や子どもの本全般を語る言葉は、絵と文学に対するなみなみならぬ見識があって、ようやく生まれてきます。それがなかったならば、とても絵本や子どもの本全般を語ることはできません。この二つが融合したものが子どもの本だからです。おまけに、子どもをどうとらえるか、子どもにとって絵とはなにか、言葉・文学とはなにかとういう根本的な問題もふくまれています。絵画論と文学論と、子ども論。この三つが解決されていなくてはならない。このひとつひとつは、それだけであまりに大きなテーマになるものですが、この三つを解決し、統合なさろうとしたこと、それこそが、先生のなさったお仕事だったのです。>

ここで瀬田貞二氏の仕事を年譜から少しだけ取り出してみると。。。
「三びきやぎのがらがらどん」訳、「かさじぞう」再話、「少年少女世界文学全集10(イギリス編)」共訳、「児童文学論」共訳、「ホビットの冒険」訳、「ナルニア国ものがたり(全七巻)」訳、「指輪物語」訳、「幼い子の文学」著、「絵本論」著などなど。とても精力的な仕事ぶりだ。

そしてそのきっかけとなったのは。。。

すみません。筆者ここで力尽きました。つづきはまた今度。。。

 


工藤直子・斎藤惇夫・藤田のぼる・工藤左千夫・中澤千麿夫 「だから子どもの本が好き」 成文社

2008-02-19 | こんな本読みました

本書は、「絵本・児童文学研究センター」主催のセミナー(第11回)の記録である。5名の方が一人30分間の持ち時間で講演したものをまとめてある。

以下がその内容

ツッコミの時代……藤田のぼる
期待ー「読む」ことの不思議ー ……中澤千麿夫
原風景……工藤直子
心って……工藤左千夫
音楽……斎藤惇夫

藤田氏の講演のなかで、児童文学の時代の反映のしかたに独特の様相があるという話が印象的だった。

<ヨーロッパで近代家族というものが成立していく中で、子どもという存在の意味が、単に大人予備軍、未熟でやっかいな者から、ひとつの人格をもった愛すべき存在としてクローズアップされていった。家族の中で子どもはかけがえのない者として意識されていった。>

これは、今から百年くらい前(19世紀から20世紀にかわっていくころ)、「赤毛のアン」「小公子」「秘密の花園」「トム・ソーヤの冒険」「ハイジ」といった名作が世に出ているのだが、不思議なことにそのほとんどが、主人公は「孤児(みなしご)」もしくはそれに近い設定だという。その理由を上記のように考察されている。

そして、それは<普通にその家族として存在している子どもよりも、「外からやってきた子ども」という設定のほうが、家族の結びつきとか、子どものかけがえのなさといったテーマが浮き上がると述べられている。また、それは当時の作家が意識して行ったわけでは多分なく、後になって並べてみると時代の思潮、空気、人々の考えというのが作品に反映されていると思う>という。

この文章を読んで、絵画にもそのような「時代の流れ」というのがあることを想起した(ここでは、詳しく述べられませんが。汗)。内面を表現するものゆえに、人間の生きかたというのは外せないものなのだろう。

そして、藤田氏によると1980年代に本格的に日本の児童文学が大きく転換したという。これは日本の社会全体の変化・変質の時期と重なる。そしてこうした時代の変化に敏感に対応していった作品は決して多くないがある(具体的な本をいくつか挙げ考察されている)。

また、工藤直子さんの話もおもしろかった。

<私にとっての原風景って、楽しかったり暖かかったりするばかりではありません。むしろ、切なかったり、寂しくて、しゃくりあげるような感じが多いです。ただ、その寂寥感の原型みたいなものを、まるごと引き受けて、なんども味わっているうちに、ダメな自分も丸ごと引き受けられる気持ちになれたというか…。>

工藤氏の以前読了した『まるごと好きです』(ちくま文庫)にも同様のことが書いてあった記憶がある。人や動物や自然にたいして開かれている感じがするのは、こころがやわらかいからなのだろうと思った。そういう感性をいつまでも持ち続けることができるというのは一つの才能なのだろう。

工藤左千夫氏の講演で心に残ったのは、『ロージーのおさんぽ』(パット・ハッチンス著)をめぐって、カナダから来日していた北海道大学の客員教授と議論を三時間したというくだりである。欧米と日本の(自立的)世界観・民族性の違いをそのまま受け入れることが異種文化や異民族との出会いの一歩である。絵本をめぐって三時間とはすごいものだ(ちなみに、この絵本個人的にはとてもおもしろく読みました。いや見ましたというのが正解かもしれないけれども)。

また、西洋の物語(成長理論)には、象徴的な「母殺し」「父殺し」という通過儀礼がバックボーンにあり、それは人間が自立していくための葛藤だという。しかし、日本にはこのようなものはまずないという指摘がある。日本の民話の、禁止譚のなかにやむなく去っていく(亡んでいく)、もののあわれが見てとれるという。

最後の斎藤惇夫氏の講演では音楽と絵本についての関係を述べられていて、なかなか興味深かった。対位法を絵本の中に持ち込んだのがコールデコットでありそれを指摘したのがモーリス・センダックである(『かいじゅうたちのいるところ』の著者)。

また、斎藤氏の著書『グリックの冒険』は、ただただ音楽をそのまま言葉にしてみたいと思い、モーツアルトのフルート四重奏曲をずっと聴いていたという。音の美しさ、なめらかさ、それから走る悲しみを文章で表現できないかと思って書いたそうである。おもしろい試みだと感じた。

二作目の『冒険者たち』の時は、もっとその欲望が深まったというのだからおどろきだ。曲はバッハの『ゴールドベルグ・バリエーションズ』だそうである。そう思って著書を読むと読書の違ったおもしろさを発見できるかもしれないと思った。

 


東京駅

2008-02-18 | 日々のあれこれ
東京駅に行った。ほとんど突発的に。先日のTV番組に触発されてー。

たまたま仕事が休みだったことがあるのだが。ゆっくりしたい気持ちを振り切って家をあとにした。

そして、東京駅!!

うん!やはりすごく変わっていた。

明るく、美しく、華やかにー。

特に、○の鈴のある地下街!俗に言うエキナカというものだ。

これがものすごいのだ。

番組でも紹介されていたのだが、洋菓子・和菓子・弁当にフレッシュジュース。おにぎりに手ぬぐいや。チョコレート専門店に、アルコールをたしなめるカウンターバー。オープンなコーヒーショップ。

薄暗く、なんとなくもの哀しい雰囲気の漂っていた地下の待ち合わせ場所がとっても楽しい場所に変貌していた。

しかも、そこではコインロッカーが充実しているだけでなく、ホテルのロビーさながら手荷物を預けることもできるし(有料)、宅配受付もあるという。コピー&ファックスもできるコーナーがあり、赤ちゃん休憩室なるものもあった。

東京駅は単なる乗換えのための駅。つまり通過点でしかなかった。私にとってはー。

しかし、その通過点で楽しみがひとつできた感じ。待ち合わせの時刻より早めに来てウロウロしたくなる。

そして、おもわずかわいい手ぬぐいを衝動買いしそう。いやいや刺し子のブックカバーなんかもちょっと粋かも(笑)。

奥へと歩いていくと待合場所があった。茶色の角ばったソファーがずらり。ソファとソファの間にサイドテーブルとなる仕切りがありまるで空港の航空会社のVIPルームさながら。意味もなく座ってみたのだが、なかなか座り心地もよい。

さてさて、お次は改札を出て某デパートへ!

なんのへんてつもないカップケーキがきれいにデコレーションされ、ガラスのショーケースにおさまっている。小さな小さなマカロンが宝石店の指輪のよう!丸いショートケーキなんかもある!バームクーヘン屋さんには、開店間もないのにすでに行列ができている!きれいなお菓子たちに目を奪われながらぐるぐる回る。

まあ。とにかく未知の世界との遭遇ー。
地元のデパートとは比べものにならないくらいまばゆい(笑)。

その後、某大型書店へと足を運びこれまた本の品揃えにうれしい悲鳴。気になっていた本を手にとって見ることができるというのは魅力的だ。

その後、お昼をさきほどのデパートの上の階にある某コーヒー専門店へ。

ここのビーフカツサンドがおいしいと番組で紹介されていたので、まあものはためしと頼んでみた(ミーハーですね。笑)

……すると。。。

「申し訳ありませんが、本日は終了いたしました」との店員さんのつれないお言葉。

ええええーーー!

まだ、12時ちょい過ぎだよ!!

……テレビの力ってすごい!
……まさか、いつもじゃないでしょう(失礼発言?)

このお店でこれを食べるためにために並んで待ったのにー。

あらかじめミルクと砂糖が入っているというコーヒーのほうは、無事飲むことができたけれど(これは入れて飲むのがやはり正解。ブラックだとちょい苦めかも)。

カウンター席からビルやら看板やらを眺めながらほっとひといきー。

店員さんがお皿を下げに来たので、席を立ちレジに向かうとー。

入口には相変わらず行列が!!なんと、私が並んだ時よりも人数が増えている!(笑)

時間に余裕がなく、駆け足だったがなかなかおもしろい東京駅探索だった。

そうそう。11月には、またまた新しいビルが建つ予定とか。レストラン名がたくさん載った看板が工事現場に掲示されていた。

東京駅が目的地になる。そんな日も近いのかー。

……って。もうすでになってるのか?(汗)


トモチョコ

2008-02-14 | 日々のあれこれ
「こんにちはー」

ららの友だちが家にやって来た。

ちょうど玄関先に出てポストをのぞいていた。

顔を上げると、その子のお母さんとお姉さんまでいる。

「あれ?今日、遊ぶ約束していたの?」

と思いつつ、横にいるららを見ると彼女もきょとんとした顔をしている。

「これ。トモチョコ♪」

……???……

トモチョコってなに?

といっしゅんあたまが白くなった。

あああー。トモは友ね!

友だちにあげるチョコっていう意味なのね!(それでいいのか本当に!笑)

そういう発想がまったくなかったわが家は、お返しもできずもらうだけとなってしまった(汗)

高校生ぐらいになると各自が作ってきたチョコレートを学校でみんなで食べたりするとか。自分のためにちょっと値のはるチョコレートを買い求める人も増えているとか。

そして聞くところによると女性から男性だけでなく、男性から女性へのプレゼントとしても活用されているとか(告白なのか?そこらへんはよくわかりませんが)

……バレンタインデーも時代とともに変化しているんですね。

まあ。。。
今までがすでに日本流だったわけで、米国ではみんなでチョコレートやカードの交換をしていたわけで。。。

本流に戻ったとも言えるのかもしれませんが(笑)

……いやまて。本流はどこなのだ!?


河合 隼雄著 「「出会い」の不思議」 創元社

2008-02-13 | こんな本読みました

本書は著者が新聞・雑誌に書いた文をまとめて、一冊の本として2002年に出版されたものである。そういった性質から、章ごとに多少トーンが違う感があるが、全体には非常に読みやすく内容も多岐にわたり興味深いものであった。

特に本・子ども・家族・教育などについての記述は自分自身のテーマと重なるところでもあるので、たいへん示唆に富んでおり学ぶところが多かった。

以下が目次

Ⅰ 言葉との出会い
Ⅱ 人との出会い
Ⅲ 本との出会い
Ⅳ 子どものこころと出会い
Ⅴ 新しい家族との出会い
Ⅵ こころの不思議との出会い

以下、こころに残ったところを< >にて引用する。

<「好む」者は、つまり「やる気」をもっているので、積極性がある。情報は与えられてくるので、人を受動的にする。人間の個性というものは、何が好きかというその人の積極的な姿勢のなかに現れやすい。私はカウンセリングのときに、何か好きなものがあるかを問うことがよくある。好きなことを中心に、その人の個性が開花してくる>

<日本人は「競争」という言葉が嫌いらしく、特に教育界の人のなかには、運動会でも、徒競走で差をつけるのはよくない、などとマジメに主張する人がいて呆れてしまう。(中略)私はもともと「競争」は必要と考えている。自分の個性を伸ばし、やりたいことをやろうとすると、何らかの競争が生じてくるし、それによって自分が鍛えられる。>

精神科医の中井久夫氏は<日本人は、自分のやりたいことをやる、というのではなく、「集団から落ちこぼれない」ように頑張る、極端に言えば、一番になっておけば、まさか落ちこぼれることはあるまい、という「競争」をしている>と指摘しているという。

アメリカの競争社会は日本と比べものにならないが、どこかでカラッとしているのは、個人と個人のぶつかり合いであるからだろう。「競争」の質の違いを考えてみる必要があるだろう、と著者は述べている。

<「子どもの本」を読んで素晴らしいと感じるのは、それが「人間」についての知恵を伝えてくれるからである。わざわざ「子どもの本」と言っているのは、「子どものため」とか「子どものこと」とかについて書かれたことを意味しているのではなく、「子どもの目」で見た世界が描かれていることを示している。そして、「子どもの目」は、しばしば大人が見逃しがちな真実を、しっかりと見ているのである。>

そう述べた後で著者は、次の二冊を紹介している。
佐野洋子 作・広瀬 弦 絵 『あっちの豚 こっちの豚』(小峰書店)
長 新太 作 『ブタヤマさんたら ブタヤマさん』(文研出版)
どちらも未読なので読んでみたくなった。

<児童文学は「子どもの目」から見たことが書いてある。子どもに見えて、大人にもっとも見えにくいのは、「たましいの現実」ではないだろうか。かつて、児童文学作家の今江祥智さんが、たましいについては最初は宗教がそれを語ることを受けもっていたが、哲学、心理学などと移ってきて、最後に残ったのが、児童文学である。と述べていたが、なるほどと感じさせられる発言である。>

幼少時に性的虐待を受けた女性が箱庭療法の最後の段階で、『オズの魔法使い』の話を借りて自らの奥深い世界を癒し立ち直ったという(アメリカの学会での報告)。また『白雪姫』には<母親からの自立>というテーマが明白で、箱庭のなかにもそういう役割をもって登場するという。著者はファンタジーや昔話についての著書があるので詳しくはそちらを手にとってみたい。

<現代に生きる者として、現代人の課題を肌で感じることによって、創作の萌芽が生まれてくる。しかし、それを作品に仕上げて発表するまでには、相当な時間とエネルギーを要する。それを育ててゆく肥やしとなるものは、その人の人間そのものであるが、そろそもそれが貧しい場合は、少しぐらいの新しい思いつきはあったとしても、真の意味での新しい作品にはならないことだろう。>

心理療法において、大変な体験をした本人がどのように癒しをしていくかは個々人によって異なり、まさに創造の過程だという。そのような「創造活動」には危険が伴い、かつ、エネルギーを大量に必要とするという。そしてそこには個人的価値をもつ「作品」があるという。

<小学生が友だちとつき合うことは、それは遊びであっても、人生についての「学習」ではないだろうか。人間関係について、自分の感情を表現したり、コントロールしたりすることについて、どれほど多くのことを友人から学ぶことだろう。その学習の機会を親が勝手に取り上げていいのだろうか。>

なかなか鋭い指摘である。自分自身をふりかえってみても、小学生時代はよく遊んだ。仲のいい二人の間にはさまってウンウン言ったり、うまくいかなかったりということもあった。しかしそこから人との距離感や人の見方を知らず知らずのうちに学んでいたのだともいえる。けんかしたり仲直りしたりして、いろんな感情を体験しながら学んでいくしかないのかもしれない。そこに大人が介入しすぎてもことが大げさになったりするので、見守っていく姿勢が必要とされるのだろう。

<人間にとって、子どもから大人になるというのは大変なことである。子どもがそのまま大きくなって大人になるのではなく、相当な質的変化があって大人になるのだ。毛虫が大きくなって大人になるのではなく、それは蝶になってこそ大人と言えるのである。そして、そのような大変革を行う時期として、さなぎという特殊な時期があるのだ。人間の思春期はそれに相当する。>

<思春期の荒れの意味がわかるからといって、それを無際限に許容してしまうのはよくない。そうなると、子どものほうが自分で自分を制御できなくなって、むちゃくちゃをしてしまう。そうなってしまうと、簡単には止めようがない。荒れの意味がわかりながらも、これ以上は許さないという、明確で堅固な態度をとることが必要である。これが結局のところは、子どもたちを守っていることになるのだ。子どもたちの内界から生じてくる破壊力に対して、それに潰されてしまわないように、大人が守ってやっているわけである。このような堅固な壁として、子どもたちの前に存在することが、親にも教師にも必要である。>

……来るべきさなぎの時期に備え、自分もいろいろ準備をしておかねばなあと思った。堅固な壁となりうるにはどうしたらいいかなかなか厳しい課題である。

<日本人は対決することが苦手なので、どうしても表面的な平穏を好む傾向が強すぎる。子どもが何かを買えといったときに、「買えない」ということで、対決や対話が生じてこそ、「深い」環形が出来あがあっていくのに、どうしてもお金のことがあるので、無理をしても買ってしまう。表面的には子どもも喜ぶし、平穏でいいのだが、下手をすると人間関係も表面的になってしまう。深い関係を結ぶ過程には、怒りや悲しみ、苦しみなどの経験が必要である。日本人は経済的な豊かさを下手に使って、後者の感情を避けていくので、人間関係が深まらないのである。不幸になるためにお金を使っているような人が多い。>

この文章を読んで、何度も同じ過ちを繰り返す某女優の子息を思い浮かべてしまった。小遣いが月に○十万円とか。。。真偽のほどはわかりかねるが、小さい頃からの金銭の与え方・使い方というものは大事であると感じた。

<子どもが黙ってこちらを見ているとき、その状況を「感じとる」能力が必要である。「理解」は知的なものだけではなく、感じとることもできなくてはならない。子どもの悲しそうな表情を見て、「何かあった」と感じる。そして、それは多くの他人の前では言えないことらしいと判断する。(中略)少しのことでも、子どもの心を理解するためには、自分の思考や感情やいろいろなことを十分にはたらかせる必要がある。他人を理解するというのは、全人的な活動である。>

毎日子どもの顔をきちんと見ているか自問自答してしまった(汗)。

また本書で紹介されていて気になった本を覚書として以下に記しておく。
『現代日本文化論十 夢と遊び』(岩波書店) 山田太一氏と編集
『ことばの実存 禅と文学』(筑摩書房) 上田閑照著
『魂のコード』(河出書房新社) ジェームズ・ヒルマン著 鏡リュウジ訳
『ダライ・ラマ、イエスを語る』(角川書店) ダライ・ラマ著 中沢新一訳
『世界の神話をどう読むか』(青土社) 大林太良、吉田敦彦著
『「非行」が語る親子関係』(岩波書店) 佐々木譲・石附 敦著
『うつほ物語』
『取り替え子(チェンジリング)』 大江 健三郎著

 


本当に必要なとき。。。

2008-02-11 | 子育て
子育てをしていて本当に必要なときってよくわからない。

なにがわからないかというと。。。

子どもにとってなにがよくてなにが悪いか。。。ということ。
子どもがなにを欲し、こちらはなにをしたらいいか。。。ということ。

特にひとり目となると、てんやわんやで自分自身がパニックにおちいる。

もちろん、赤ちゃんのお世話の仕方について前もって知識があったり経験がある場合はその限りではないと思うがー。

そして、今思うにそんな渦中のときに学びたかった。
すこし子どもの育て方について。
もうすこし読みたかった育児についての本を。
しかし、まったく余裕がなかったー。

とりあえずというかかなりお世話になったのは『ひとりひとりのお産と育児の本』(毛利子来著)である。

子どもが病気になった時にどう対処するか、子どもの育て方についての親の姿勢について一冊の本にまとめられている。まるで辞書のように大きく重い。たしか0歳から5~6歳ぐらいまでの子育てについて書かれた本だったと記憶している。

現在この本が出版されているか定かではないのだが、先日書店で同著者の育児書をみかけた。小児科医の山田 真氏と対になっているような体裁の本だった(うろ覚えな記憶ですみません)。

興味はあったのだが、さすがに実用として使う予定はないので中身は読まなかったがー。

そして、いまー。

『小学生の心理』(波多野勤子著)を読み返してみようかなあ。。。と思った次第である(これまた古い本なのだが。汗)


タイミング

2008-02-10 | 日々のあれこれ
第4駐車場からマイクロバスに乗り込む。バスのうしろの所定の位置にスキー板を入れてからー。

シートに腰掛けたとたん、車内に流れている音に意識が集中する。

……ラジオ?これはラジオ放送なのか?……

「これから……ロアルト・ダールのチョコレート工場の秘密について……これはジョニー・デップが……」

ところどころ聞きとれない。

……でも。おもしろそう!やった。これからこの本や映画について話があるんだ!……

「この本の解説を作家の小川洋子さんにしていただきます」

……おおっ!小川洋子さんのお話が聴けるの!?ラッキー♪なんてラッキーなの!

すごくいいタイミングでこのバスに乗ったってことなんだ!
乗る前に少し並んで待ったけど、それも良かったってことだな。。。

などとわくわくしながらラジオに耳を傾けた。

CMが終わった。

「では。チョコレート工場の秘密について小川洋子さんと読んでいきましょう。よろしくおねがいします」

……と司会のかたの声が聞こえたとたんー。

「スキー場に着きました。忘れ物に気をつけてお降りください」

と運転手さんの案内がー。

ガーーーーン

もう着いちゃったの???

ああムジョウ(泣)

後ろからも「こんなに近いんだったら歩けるよな」との声がー。

あああーーー。

乗るタイミングはバッチリだったのだが、降りるタイミングがねー。

……しかし。あれはどこの放送局だったんだろう。。。

今度からラジオを聴いてみようかなあ。。。