本書は著者が新聞・雑誌に書いた文をまとめて、一冊の本として2002年に出版されたものである。そういった性質から、章ごとに多少トーンが違う感があるが、全体には非常に読みやすく内容も多岐にわたり興味深いものであった。
特に本・子ども・家族・教育などについての記述は自分自身のテーマと重なるところでもあるので、たいへん示唆に富んでおり学ぶところが多かった。
以下が目次
Ⅰ 言葉との出会い
Ⅱ 人との出会い
Ⅲ 本との出会い
Ⅳ 子どものこころと出会い
Ⅴ 新しい家族との出会い
Ⅵ こころの不思議との出会い
以下、こころに残ったところを< >にて引用する。
<「好む」者は、つまり「やる気」をもっているので、積極性がある。情報は与えられてくるので、人を受動的にする。人間の個性というものは、何が好きかというその人の積極的な姿勢のなかに現れやすい。私はカウンセリングのときに、何か好きなものがあるかを問うことがよくある。好きなことを中心に、その人の個性が開花してくる>
<日本人は「競争」という言葉が嫌いらしく、特に教育界の人のなかには、運動会でも、徒競走で差をつけるのはよくない、などとマジメに主張する人がいて呆れてしまう。(中略)私はもともと「競争」は必要と考えている。自分の個性を伸ばし、やりたいことをやろうとすると、何らかの競争が生じてくるし、それによって自分が鍛えられる。>
精神科医の中井久夫氏は<日本人は、自分のやりたいことをやる、というのではなく、「集団から落ちこぼれない」ように頑張る、極端に言えば、一番になっておけば、まさか落ちこぼれることはあるまい、という「競争」をしている>と指摘しているという。
アメリカの競争社会は日本と比べものにならないが、どこかでカラッとしているのは、個人と個人のぶつかり合いであるからだろう。「競争」の質の違いを考えてみる必要があるだろう、と著者は述べている。
<「子どもの本」を読んで素晴らしいと感じるのは、それが「人間」についての知恵を伝えてくれるからである。わざわざ「子どもの本」と言っているのは、「子どものため」とか「子どものこと」とかについて書かれたことを意味しているのではなく、「子どもの目」で見た世界が描かれていることを示している。そして、「子どもの目」は、しばしば大人が見逃しがちな真実を、しっかりと見ているのである。>
そう述べた後で著者は、次の二冊を紹介している。
佐野洋子 作・広瀬 弦 絵 『あっちの豚 こっちの豚』(小峰書店)
長 新太 作 『ブタヤマさんたら ブタヤマさん』(文研出版)
どちらも未読なので読んでみたくなった。
<児童文学は「子どもの目」から見たことが書いてある。子どもに見えて、大人にもっとも見えにくいのは、「たましいの現実」ではないだろうか。かつて、児童文学作家の今江祥智さんが、たましいについては最初は宗教がそれを語ることを受けもっていたが、哲学、心理学などと移ってきて、最後に残ったのが、児童文学である。と述べていたが、なるほどと感じさせられる発言である。>
幼少時に性的虐待を受けた女性が箱庭療法の最後の段階で、『オズの魔法使い』の話を借りて自らの奥深い世界を癒し立ち直ったという(アメリカの学会での報告)。また『白雪姫』には<母親からの自立>というテーマが明白で、箱庭のなかにもそういう役割をもって登場するという。著者はファンタジーや昔話についての著書があるので詳しくはそちらを手にとってみたい。
<現代に生きる者として、現代人の課題を肌で感じることによって、創作の萌芽が生まれてくる。しかし、それを作品に仕上げて発表するまでには、相当な時間とエネルギーを要する。それを育ててゆく肥やしとなるものは、その人の人間そのものであるが、そろそもそれが貧しい場合は、少しぐらいの新しい思いつきはあったとしても、真の意味での新しい作品にはならないことだろう。>
心理療法において、大変な体験をした本人がどのように癒しをしていくかは個々人によって異なり、まさに創造の過程だという。そのような「創造活動」には危険が伴い、かつ、エネルギーを大量に必要とするという。そしてそこには個人的価値をもつ「作品」があるという。
<小学生が友だちとつき合うことは、それは遊びであっても、人生についての「学習」ではないだろうか。人間関係について、自分の感情を表現したり、コントロールしたりすることについて、どれほど多くのことを友人から学ぶことだろう。その学習の機会を親が勝手に取り上げていいのだろうか。>
なかなか鋭い指摘である。自分自身をふりかえってみても、小学生時代はよく遊んだ。仲のいい二人の間にはさまってウンウン言ったり、うまくいかなかったりということもあった。しかしそこから人との距離感や人の見方を知らず知らずのうちに学んでいたのだともいえる。けんかしたり仲直りしたりして、いろんな感情を体験しながら学んでいくしかないのかもしれない。そこに大人が介入しすぎてもことが大げさになったりするので、見守っていく姿勢が必要とされるのだろう。
<人間にとって、子どもから大人になるというのは大変なことである。子どもがそのまま大きくなって大人になるのではなく、相当な質的変化があって大人になるのだ。毛虫が大きくなって大人になるのではなく、それは蝶になってこそ大人と言えるのである。そして、そのような大変革を行う時期として、さなぎという特殊な時期があるのだ。人間の思春期はそれに相当する。>
<思春期の荒れの意味がわかるからといって、それを無際限に許容してしまうのはよくない。そうなると、子どものほうが自分で自分を制御できなくなって、むちゃくちゃをしてしまう。そうなってしまうと、簡単には止めようがない。荒れの意味がわかりながらも、これ以上は許さないという、明確で堅固な態度をとることが必要である。これが結局のところは、子どもたちを守っていることになるのだ。子どもたちの内界から生じてくる破壊力に対して、それに潰されてしまわないように、大人が守ってやっているわけである。このような堅固な壁として、子どもたちの前に存在することが、親にも教師にも必要である。>
……来るべきさなぎの時期に備え、自分もいろいろ準備をしておかねばなあと思った。堅固な壁となりうるにはどうしたらいいかなかなか厳しい課題である。
<日本人は対決することが苦手なので、どうしても表面的な平穏を好む傾向が強すぎる。子どもが何かを買えといったときに、「買えない」ということで、対決や対話が生じてこそ、「深い」環形が出来あがあっていくのに、どうしてもお金のことがあるので、無理をしても買ってしまう。表面的には子どもも喜ぶし、平穏でいいのだが、下手をすると人間関係も表面的になってしまう。深い関係を結ぶ過程には、怒りや悲しみ、苦しみなどの経験が必要である。日本人は経済的な豊かさを下手に使って、後者の感情を避けていくので、人間関係が深まらないのである。不幸になるためにお金を使っているような人が多い。>
この文章を読んで、何度も同じ過ちを繰り返す某女優の子息を思い浮かべてしまった。小遣いが月に○十万円とか。。。真偽のほどはわかりかねるが、小さい頃からの金銭の与え方・使い方というものは大事であると感じた。
<子どもが黙ってこちらを見ているとき、その状況を「感じとる」能力が必要である。「理解」は知的なものだけではなく、感じとることもできなくてはならない。子どもの悲しそうな表情を見て、「何かあった」と感じる。そして、それは多くの他人の前では言えないことらしいと判断する。(中略)少しのことでも、子どもの心を理解するためには、自分の思考や感情やいろいろなことを十分にはたらかせる必要がある。他人を理解するというのは、全人的な活動である。>
毎日子どもの顔をきちんと見ているか自問自答してしまった(汗)。
また本書で紹介されていて気になった本を覚書として以下に記しておく。
『現代日本文化論十 夢と遊び』(岩波書店) 山田太一氏と編集
『ことばの実存 禅と文学』(筑摩書房) 上田閑照著
『魂のコード』(河出書房新社) ジェームズ・ヒルマン著 鏡リュウジ訳
『ダライ・ラマ、イエスを語る』(角川書店) ダライ・ラマ著 中沢新一訳
『世界の神話をどう読むか』(青土社) 大林太良、吉田敦彦著
『「非行」が語る親子関係』(岩波書店) 佐々木譲・石附 敦著
『うつほ物語』
『取り替え子(チェンジリング)』 大江 健三郎著