ガーベラ・ダイアリー

日々の発見&読書記録を気ままにつづっていきます!
本の内容は基本的にネタバレです。気をつけてお読みください。

ローラ・インガルス・ワイルダー作 「大きな森の小さな家」 福音館文庫

2007-08-31 | こんな本読みました

どうも自分は、偏った読書をしてきたらしい。。。と気づいたのはブログに読書の記録を書き始め、他の方のブログを読むようになってからだ(汗)。

そして、偏ったという内容はここで挙げればキリがないのだが(笑)、そのひとつに本書のような異国の世界を描いた物語を読んでいない。。。ということが挙げられる。『小公女』『若草物語』『秘密の花園』『赤毛のアン』『あしながおじさん』などなど古典的なものはひと通り読んでいるのだが。。。

……なぜだろう?

と思っていたのだが、思い当たることがひとつあった。
……自分の家にこの本がなかった……という単純な理由かもしれない(笑)。
小学生の頃に借りる本はだいたい決まっていたし(江戸川乱歩)、あとは主に家にある『少年少女 世界の文学(全集)』(小学館)を好き勝手に読んでいただけだった。

……というわけで、いまさら児童文学ー!?とは思うのだが(実は児童文学はキライではないし実際のところ読んでいる。笑)、やはり知らないというのも悔しいので手にとってみた(笑)。。。それに読書通の友人に第1巻、2巻まではぜったいおすすめというお言葉もいただいたので。

……いやあ。よかった!実によかった!
こころが解放される。違う世界を生きられる!

それもそのはず。本書の舞台は100年以上も前のアメリカ!。
目の前にクマ、ウシ、ブタが生き生きと動き出し、ローラ(5歳~6歳)といっしょに泣いたり笑ったりおいしい食事を食べたりできる。お母さんのお手伝いも楽しい!お父さんの仕事をみたり話をきくのもわくわくする。

仕事の内容も実に多彩。なんたって自給自足の生活なのだ!
乳搾り、チーズ作り、帽子づくり、カボチャ、トウモロコシ、豆などの料理、ケーキ、パイ、クッキー、はちみつ、キャベツと肉の煮込みなどぜいたくなものはひとつもないのだが、手をかけてていねいに生活を営んでいることが分かる。

いちばん印象に残ったのは、ローラの<はじめて>の経験が生き生きと描かれていることだ。
はじめて……憧れの人形をもらったこと。それまではなんと、トウモロコシの芯をハンカチで包んで人形を見立ててお世話していたのだ!
はじめて……町というものを見、お店というものに行ってみたこと!
はじめて……「あら男」(ジョージおじさん)というものを見たこと!
はじめて……姉と比べて自分というものを見つめたこと。
はじめて……お父さんの言ったことに疑問をもったことなどなど。。。

本書は著者の経験をもとに書かれているということをかんがみると、ローラが記憶しているすべてのことは、著者にとってなんらかの生き生きとした感情を抱いたということだと思う。うれしいこと、悲しいこと、楽しかったこと、つらかったこと。季節が変わるたびに経験がふえ、そのたびにどんどんローラの世界が広がって行く。それを読者は追体験できる。

お父さんもお母さんもいっしょうけんめいに働き、愛情をもって子どもをしつけ育てる。このお母さんができている人で、子どもが失敗しても感情的に怒ることをしない。危険なことにさらされても子どもを守ることを第一義に毅然としている。お父さんはユーモアがあり子ども好き。そして約束を守ることをしっかり教える。スズメバチにさされた子に安易に同情せず、世のなかの厳しさを教える(まだ、その意味が子どもに理解されないとしても)。

また挿絵がすばらしく、たのしそうに遊ぶ子どもの表情(実に雪遊びの楽しそうなこと!)、ローラの涙をながした悲しそうな顔、お父さんのバイオリンを弾く姿にひきこまれる姉妹の表情など。白黒なのだがどれも文章のイメージを引き出しその世界をより鮮明にイメージさせてくれる。

大きな森のなかでの小さな家のなかの一家族の日常。いわゆる北アメリカの開拓生活が描かれている。実際とっても厳しかったのだろうが、その語りは(ローラの目を通してのものなので)案外淡々としていて中身はとっても豊か。大人の自分が読んでもとっても楽しめる本だった。まだシリーズであるそうなので、続けて読んでみたい。

 


ROPPONGI!

2007-08-30 | 日々のあれこれ
六本木に行ってきました。
国立新美術館で展示されている作品を見に行くため。
義理のある人から、チケットをもらってしまったのだ。これは行かずばなるまい!(笑)
…まあ見ても、書道の良し悪しはよくわからないんだけれども。。。(汗)

……というわけで、子連れでROPPONGI!

……はっきり言って、そぐわない(汗)

美術館はぐるぐる回っていればいいので(!)それでもいいのだが、問題は街なか!
……でもトチカンがないので(笑)、とりあえず<東京ミッドタウン>に行ってみました!(実はこの存在つい最近まで知らなかった。汗)

すごい高くて近代的なビル!
入口の吹き抜けには、天井から12本の細い水の筋がまっすぐ落ちてくる。
その水の筋はきれいに円を描いている。
宝石店のようなガラスのショーケースに並べられたカッティングフルーツ。三角形のスイカ。
みたこともない鮮やかなピンクや黄色のケーキたち。
黒トリュフを使ったハンバーガー。。。
オトナの雰囲気のするチョコレート専門店。

……んー。おしゃれだ。ハイセンスだ!

と感心しつつ、ランチをするところを決めるのにぐるぐる歩いた。
丁度お昼時だったので、スーツ姿の男性がやたら目につきフードコートも列をなしていた。テーブルもけっこう席が埋まっていた。

どこもよさそうなのだが、子連れで入れるところ…という観点で見てみるとイマイチ決め手に欠け。。。というか子どもの猛反対にあい。。。こころなしか、ひとり分の座席スペースも狭いような。。。

……結局ビルの外に出たところにあるファーストフード店へ(汗)。
なにが悲しくてROPPONGIにまで来て、ハンバーガーを食べねばならないのか(泣)

なんだか欲求不満をかかえてしまい、帰るに帰れない。。。

……ということで、もういちど戻ってビル内にある洋菓子店へ!
実はさきほど目をつけていたのだ。おいしそうなケーキの数々!
店名にご自分の名前、しかもフルネーム!をつけてしまうなんてスゴイ!
しかも、ケーキひとつひとつにも店名入りの小さな紙片が!
これをお土産にしてとっととROPPONGIをあとにしました(笑)。

ああああー。やっぱりすっきりしないなあー。

あそこでランチしてお茶してウインドショッピングしたかったー!
ついでに六本木ヒルズにも足をのばしてみたかったー!

……ま。いっか。。。今回はその下見ということで……!(笑)


上橋 菜穂子著 「夢の守り人」 偕成社

2007-08-29 | こんな本読みました

同著者による<守り人>シリーズの第三弾!です。

第一部の「精霊の守り人」で別れたままになっていたチャグムのその後がわかります!。そして、気になっていたバルサとタンダとの関係も親密度を増し。。。なんといってもタンダの師匠である齢80になるトロガイの、若かりし頃の思い出話なども語られ、一人ひとりの胸に秘めている思いが表出される。話がぐんと深まったなあと感じた。

本書では新たにユグノという一人の歌うたいが登場し、このトロガイの過去の出来事と密接に係わってくる。ひとつひとつの出来事やエピソードをていねいに織りこみながら、最後にはひとつの大きなレースの刺繍ができあがるようにまとめあげていく。そのエピソードの中にチャグム、バルサ、タンダも登場する。複雑なのだがそれをわかりやすい形で語ってくれるので、著者の導きに安心して身をゆだねることができる。

以前にも同様なことを書いたかもしれないのだが、著者の描く世界に破綻がない。というか無理がない。ひとつの言葉を出したら、それについてどういうものなのか(定義)が著者によってきっちり説明がなされる。そこがいい。

例えば<生命(いのち)>と<魂>と<心><幽霊>について。
例えば<夢>や<花>の世界について。そこにいる<花番><花守り>の役目。どんな人がその世界に入り、どのように抜け出してくるのか。抜け出した後、どのような人生を歩むのかなど。そういった作者のつくりあげた世界観が綿密に描かれている。

<夢>を必要としなければ生きていかれない人の、悲しみやつらさを描きながらも、その世界からどうにか這い出て、新たな一歩を歩んでほしい。。。そういう著者のメッセージを感じた。

実体のない世界、イメージだけの世界をものすごくきっちり描いてくれるので、頭の中に見たこともない風景を描くことができた。

また、本書の中でユグノがあきらからに成長するのがわかる。今まで自分が歌うことによって人がどう感じ、どのようになるのかにまで考えが至らなかったのだが(むしろ自分に感謝してほしいとまで思っていた)、最後には人々の痛みを感じられるようになる。それを納得するように物語ってしまうのがすごい!

また、登場人物の心の動きを描いているので各々の行動の理由がわかるし、みな自分の思いを正直にぶつけているので、ある種爽快感がある。とはいえ、タンダが花守りになり、バルサと戦うシーンはさすがにつらかったが。。。

また本書で印象深かったのは、トロガイが発する言葉である。さすが人生経験が違う。

<バルサとおまえには、決定的にちがうところがあるんだよ。気づいているかい?あいつは、ひどくさびしいやつで、いつも自分の人生を、いまいるところまでだと思ってる。さきを夢みていないから、命を賭ける瞬間の思いきりがちがう。
 でも、おまえはそうじゃない。おまえはさきを夢みてる。このさきの人生をたのしみにしているだろう?おまえが命を賭けるのは、こうせねばならぬからという信念のためだ。」>

<「チャグムが、一度、宮の外の世界を知ってしまったのも、その生活にいかに恋いこがれようとも、もう二度ともどれないのも、やがて帝になる運命なのも、あんたの責任じゃない。これは、人の力を超えたもののせいだよ。……そして、そこからのがれるために、夢のなかにとどまることをえらんでしまったのは、チャグム自身なんだ。わかってるだろ。自分を責めるような、むだなまねは、やめな。」>

<「いいや。あんたの若さが、かわいかっただけさ。……一歩さがって、いまの状況を考えてごらん。あんたが、いくらあせっても、<天道>ではチャグムはすくえない。いま、あんたにできることは、わしらにまかせてまっていることだけだよ。」(中略)
「まつのはつらいわな。でも、できることをやるしかなかろう?すこしおちついたら、わしのいったことを、もう一度考えてみてごらん。わしの恩師が、よくいったものさ。すぐに役にたたないものが、むだなものとはかぎらんよってね。」>

<「さあ、だだっ子のように憎しみにしがみついて、泣くために泣くのはおやめ。あんたにふれている、わしにはわかる。あんたの憎しみ、かなしみは、うすく、白く、さらされはじめているってね。……それを、恥じることはないんだよ。」>

彼女は、このように人にきっちり物事に正対するよう言うだけでなく、自分自身も無意識のうちにに自分の痛い過去に目をそらし、記憶に蓋をしてきたことに気づく。自分がつよい面をもっていたことにも。

そして、バルサもジグロ(養父)とのことをふりかえりタンダにその思いを伝える。自分のことはあまり語らなかったバルサが自分の思いを表現できるようになったのだ。ジグロの生き方そして自分の人生を肯定する。かといってすぐにすかっと明るく生きていけるわけではないのだが。

個人的には「ばかやろうが。言いわけぐらい、自分にゆるせや」というタンダの言葉にぐっときた。

さいごには夢の守り人の意味が明かされ、読後感もよかった。

*<>部は本書より引用しました。

 


北芝 健著 「「落とし」の技術」 双葉社

2007-08-28 | こんな本読みました

サブタイトルに<いかにして、相手の本心を見破るか>とある。

本書は元警視庁刑事だった著者が、捜査官として被疑者を取り調べをした際に、どうやって被疑者を「落としたか」ということが書かれている。

「落とし」というのは、<正常ではない精神状態に置かれている被疑者に対し、あらゆる手段を駆使して相手の心理を読み取り、本人の口から自白という形で真実を語らせる>過程を言うそうである(そういえば横山秀夫著『半落ち』という本がありましたね!)。続けて著者は<これは決して、拷問するべく暴力をふるって、無理矢理自白させることではない。あくまでも、自分の意志で真実を語るように「導く」技術といってよい。>と述べる。

サラリーマン経験もあるという著者によると、<この技術はビジネスシーンや日常生活における交渉事、人間関係の構築にも役立つことを確信している>という。

さてさていかに……?

なるほど読んでみると、いろんな心理状態の被疑者に対して、あの手この手で「落とす」技術を駆使していることがわかる。ここまでバラしてしまっていいの?と思うくらいにー。まあ「知っている」ことと「できること」とは別物だから大丈夫なのだとは思うが。

本書を読むと捜査官というのは、被疑者についてのありとあらゆる情報を入手しているのが分かる。前科はもとより出身地、家族構成、職歴、交友関係、身体的な特徴。その他に免許証からの違反の有無、ホテルでの食事内容、コンビニでの買い物内容、昔の仲間との話題にいたるまで。かなり事前の入念な準備やその場での観察をしていることがわかる。

例えばこんな技術があった。「ノー」と答えるプログラムを打破する。「小さなイエス」を積み重ねて「心の液状化」をはかる。液状化とは自分に対して安心感を持たせ、心を開かせていくこと。また「揺さぶり」を変幻自在に行うなど。

生まれ故郷の話をしたり、相手の見た目や根性をほめたり自慢話をさせたりして、捜査官を拒絶する意識を消そうとする。また女性の被疑者に対しては、「母性を刺激」すること。「5Kをしない」ことだという。5Kとは「暗い」「汚い」「こわい」「固い」「臭い」だそうである。意外と気をつかうものなんですね。。。

「ラポール」(こころのつながり)を被疑者と捜査官に築き上げること。それができると捜査は終盤に近いそうである。

そのために、著者は服装、動作、目の動き、姿勢、下半身の動き、声のトーンなど相手の一挙手一投足を見逃さない。そこから相手の心理状態をつかむそうである。

ときには二人組で芝居をしたり、虐待をした母親に対しては今までのやりかたに反して厳しく叱るそうである。また、集団で罪を犯した少年たちに対しては「俺たちはすごいんだ」といって伸びた鼻をへし折る。そのために、彼等よりもさらに恐ろしい存在を認識させるのだという。

大事なことは、<相手に対して真摯な態度でのぞみ、理解しようという姿勢>。また、<相手の年齢や社会的地位、人生経験がどうであれ、是は是、非は非という姿勢で、あくまでも対等に接すること>。

本書を読んで一番強く感じたのは、自分が相手(被疑者)に対してどのような感情をもっていようとも、とりあえずいったんそれを横に置いておくことが大切なのだと感じた。まず良好な関係をつくる。そこからじわじわと自分のフィールドにもちこむ。相手のあることなので、臨機応変な対応も必要だろう。かなり経験がものをいう世界のようである。いろいろな技術が記されてあったが、大切なことはさまざまなやりとりから、相手がどんな心理状態にあるか。。。をとっさに見分ける能力(嗅覚?)かもしれないと思った。

 


池田 晶子著 「41歳からの哲学」 新潮社

2007-08-27 | こんな本読みました

別に題名にひかれて(?)借りたわけではないんです(笑)。
先日同著者の『ロゴスに訊け』(角川書店)という本を読んだら面白かったし、かなりズバズバとおっしゃる方だなあとの印象を持っていたので、もう少し読んでみたい!ということで。。。第二弾(!)というわけです。

本書は「週刊新潮」の2003年5月1日号から2004年6月3日号の「死に方上手」というタイトルで連載したものを集めたもの。本書は順不同、内容ごとに括ってあるそうです。以下が目次。

第一章 平和な時でも人は死ぬ
第二章 いったい人は、何のために何をしているのか
第三章 考えることに終わりはない
第四章 なぜ人を殺してはいけないのか
第五章 信じなくても救われる

発行年月日を見ると2004年7月15日になっているので、題名から察するにおそらく著者が41歳のときに書かれたものだろう(いや、もっと上か?)。また、内容的にも日本の社会で起こっている問題やニュースについて触れている。私はその当時異国に住んでおりニュースの概要しか知らないものもあり、なるほどそうとらえることもできるのか。。。と気づかされたことが多々あった。

本当に惜しむらくは、著者がお若くして他界されてしまっていることである(去年だったか今年だったか)。犬を新しく飼い始めた話。将来に備えてお墓を買った話などなど。ご本人がご自身の死をイメージされていない文章にぶち当たることがしばしばあり(「死」についての思索はあるのだが)、身につまされたのが本音である。。。

本書のプロフィールに<専門用語を使わず、哲学することはどういうことかを日常の言葉で語ることに定評がある>とある。たしかに、話のもっていきかたがおもしろい。哲学科ってどんな勉強をするのか知らないが(興味は多分にある。笑)、読んでいるうちに自分の思い込みを思い知らされることがあった。

<ミサイルが飛んでくるからと言って、これまでの生き方や考え方が変わるわけでもない。生きても死んでも大差ない。歴史は戦争の繰り返しである。人はそんなものに負けてもよいし、勝った者だってありはしない。自分の人生を全うするという以外に、人生の意味などあるだろうか。>

<人生の価値は、生活の安定や生命の保証にあると思っていると、そのこと自体で、人は萎えてくるように思う。倒産から脳梗塞まで、人生にはいろいろあるのが当たり前だからである。むろん、それはそれで本当に大変なことである。けれども、そんな大変なことどもを、どれだけ萎えずに生き抜くことができたか、それこそが人生の価値なのだ。そう思っていた方が、逆に生き易い気がする。>

<私は、人間というのは本当に馬鹿だなあと、こんな時つくづく思う。「楽しめる」「楽しい」ということが、人生の至上の価値だと思っているのだ。むろん、苦しいよりは楽しい方が、その意味では価値である。しかし、楽しいという価値を至上として追求し、これを実現してきた結果、それが価値ではなくなってしまうという逆説に気づかないのである。「いつでもどこでも」それを楽しめるようになれば、そんなものが楽しいものではなくなるのは当たり前ではないか。楽しいということは、それが稀であるから楽しいのではないか。>

<言葉なんて、タダだし、誰でも使えるし、世の中は言葉だらけだし、なんでそんなものが価値なのだと、人は言うだろう。しかし、違う。言葉は交換価値なのではなくて、価値そのものなのだ。相対的な価値ではなくて、絶対的な価値なのだ。誰でも使えるタダのものだからこそ、言葉は人間の価値なのだ。安い言葉が安い人間を示すのは、誰もが直感している人の世の真実である。安い言葉は安い人間を示し、正しい言葉は正しい人間を示す。それなら、言葉とは、価値そのもの、その言葉を話すその人間の価値を、明々白々示すものではないか。>

第四章の自殺・少年犯罪・宗教・虐待などの内容ついては人間とは、死とは、善悪とはどういうものかという著者の考えをおりこみながら言及されているので、ひとつのニュースを多角的に見ることができた。

著者は、ほんとうに「考えること」=「哲学すること(?)」がお好きな(だった)のだなあということが伝わってきた。

*<>部は、本書からの引用です。

 


宮台真司著 「終わりなき日常を生きろ」 ちくま文庫

2007-08-26 | こんな本読みました

表紙の赤字のタイトルの横に<オウム完全克服マニュアル>と書かれている。
このサブタイトル(?)からわかるように、本書の内容はオウム真理教とその信者たちの実態を描いたもの。実際に元教団幹部の人から話を聞きそれを分析したりしている。

地下鉄サリン事件は、私にとって人ごとではない事件だった。もしかしたら事件のあった電車もしくは車両に乗り合わせていたかもしれないという意味でー。

以前にオウム関連の本(村上春樹著の『アンダーグラウンド』『約束された場所で』、林郁夫著『オウムとわたし』、宝島別冊『オウムという悪夢』など)を読み、あの事件で起こったこと、事件に巻き込まれたかたのその当時の気持ちや様子、加害者側の当時の行動についてふれていた。「良心的」であるがゆえに罪を犯してしまうという逆説。なぜあのような事件が起こったのかなどなど。それら含めてもやもやとしたものをかかえていた。

マインドコントロールとはなんなのか?
新興宗教とは?神秘体験とは?
かつてなら「社会的成功者」と目された人がどうしてここまでハマってしまったのか?

今回本書を読むことによって、これらの答えのヒントをたくさん得られた。またこの事件が1995年という年に起こったという意味。80年代、70年代、60年代…と時間をさかのぼりながら、日本の社会で何が起こり、それを人々がどうとらえていったか…という考察と分析が行われており、日本という国の歴史の大きな流れの中にこの事件がどう位置づけられるかという視点を与えられた。また「世代」という切り口から事がらを見ること。しかしそれだけではない見方もまたあることを知った。

また、神秘体験とその説明に納得がいったということが入信動機のひとつになっている人が多いそうだが、<マインド・コントロールする側の訓練を受けてきた>という著者によると、<ある舞台装置を設定して、手順を踏んでエクササイズを施していくと、相手に幻覚を見させたり、神の声を聞かせたり、自分の体から高熱が発しているように感じさせることはそれほど難しくはない>そうである。つまり<どうにでも解釈可能>であり<神秘体験を神秘的と考えたとき、その人は自覚せずしてきわめて選択的な世界観を手にしたことになる>。そして、そこから<世界の成り立ちや物事の良し悪しについての判断を他人に委ねてしまうことになる>と述べている。ここらへんは目からうろこだった。

筆者は<結論を言おう。私たちに必要なのは、「終わらない日常を生きる知恵」だ。「終わらない日常」のなかで、何が良きことなのか分からないまま、漠然とした良心を抱えて生きる知恵」だ。>という。たしかにそうだと思う。

自分自身も日常にどっぷりと使っている時期があり、にっちもさっちもいかないことがあった。生きるモクテキを失っているというのか。あまりにもタイクツすぎるというのか。。。(そのことについては、またいつか書きたいと思います。汗)

それは反面シアワセなことでもあるのだろう。生きることにアクセクして余裕のない生活を強いられている人から見ればー。しかし、その日常の中身を人と比べてみることにはあまり意味はないと思う。なぜなら、「日常」とはその人にとってのものだから。例えば、毎日ステーキを食べるのが日常の人と1年に1回しか食べられない人との生活を比べても意味がない。

1年のうちに「ハレ」の日が何日かはあるだろう。しかしそれ以外はすべて日常。淡々としていてそれほど変化のない日々の繰り返し。

そんな自分の日常とは違う世界を求めていった結果……。
世界の成り立ちや物事の良し悪しの判断を人に委ねてしまった結果……。
彼らの見たもの、そして現実に自分にふりかかってきたもの。しっかり見届けないといけないと思った。

逆にいえば、自分の日常への懐疑に<科学者の失われた輝きをー彼らの研究内容がどんなにお粗末に見えようともーまるでかつてのSFのように取り戻した>ともいえる教祖。それが個人の妄想癖なのか否か。もう白黒はついている。

どんな知恵をもって日常を生きていくか。これは、まさしく一人ひとりに与えられた究極の問いかもしれない。そんなことを思った。

*<>部は本書からの引用です。 

 


百貨店

2007-08-25 | 日々のあれこれ
大手百貨店のMとIが経営統合するそうですね。。。
そんなニュースをぼーっとながめていたら思い出したことがある。
そうだ!。以前私は、両方の百貨店でバイトをしたことがあったんだ!
……むかーしむかしのことなので忘れていた(笑)。

ということで思い出しついでにここに記しておこう。。。というわけで、本日はうすぼんやりとした記憶を手繰り寄せて書いてみたいと思う。

老舗のMではこんなバイトをした。

それは夏限定のもので、こどもたち10名くらいを引き連れて店内・外のツアーをするというもの。その間親御さんたちはこころおきなく買い物ができる。

そろいのピンクのTシャツ(○○博というロゴ入り)と麦わら帽子といういでたちでこどもたちを迎え入れる。
どこを案内するかというとさすが老舗の本店!。吹き抜けあり化石ありパイプオルガンあり。。。子どもたちはアンモナイトの化石にひきつけられていた。そのあと店外に出て日本橋を案内。その後、屋上にて「○○ショー」を楽しませ、軽い昼食(サンドイッチとジュース)を一緒に食べる。。。というものだった。

拘束時間までは帰れない……というので、ツアーが終わりやることもないのにある一室にとじこめられ(?)、本を読んだり窓からオフィス街をぼーっとながめたりしていた。最終日だったか屋上での納涼祭(ビアガーデン)を社員の方と楽しみ、帰り際には店の横に鎮座しているライオンをなでて記念写真をとった(個人的に)。
……今思うと、なんかのんびりしてますねー。
まだ、デパートの閉店時間が早い頃のお話です(笑)。

さて、I店のほうはというと。。。

これは、春休みに2ヶ月ぐらい(?)やったのですが、制服を貸与されお辞儀の仕方や接客法の研修を受けてから売り場へと配属。私はスポーツ用品売り場。

そこのバイヤーさんはやり手で雑誌にも紹介されていた。常にどうやったら商品が売れるかを考えている人だった。私が水着を買うとき社員割引(?)にしてくれたことは今でも忘れない(笑)。その人の部下も従業員の様子をよく見ていたという印象がある。

トイレの隠語とか、I店には某大学出身者が多いとか、社員食堂の様子などトリビアを知ることができなかなかにおもしろい経験だった。

そうそう。。。
I百貨店に朝出社すると店の近くの地下から通じる階段に、ながーい行列ができていたのが印象的だった。しかも女の人ばっかり!
なんだろう?。。。と思っていたのだが、どうもあれは有名な占い師さんにみてもらうための列だったんだ…ということに数年後に思い当たった。

…ああ。その二つの百貨店が統合かー。各店舗は残るそうですが。時代は確実に変わっているのですねー。

ガーベラのなんとなく思い出した話に、おつきあいくださりありがとうございました(ぺこり)。


カ、ク、ニ、ン

2007-08-24 | 日々のあれこれ
姫野カオルコ風にタイトルつけてみました(笑)。

とにかく。またもや。やってしまい。。。
人間これが大事!というわけで、今日のやってしまった話をひとつ(汗)。

いやさ。かなり時間に余裕をもってでかけたからよかったものの。。。
あれで、ギリギリに出ていたら。。。と思うと冷や汗ものでした。。。

某所に出向く用があり、それは時間がきっちり決まっていた。最近の私の中ではかなり重要な用向きだ。最寄の駅から電車に乗れば、目的の駅には10分とかからない。
……はずなのに。なぜか30分近くロスしてしまった(汗)。

それもそのはず。
乗った電車が「快速」だったのだーーー!

いやさ。ホームに掲示してある表示板を電車が到着する前に見たんだけど。。。
停車駅名と所用時間が詳細にかいてある細長いボードね。。。

なのに。なのにぃー。
いったい何を見てたのさ、自分!

電車の中に身を置き、車内のアナウンスを聞いてぎくりとした。
冷房がきいていて涼しいはずなのに、自分の体だけはほてってきた。
聞き間違えではないかと思い、停車駅を表示する電光掲示板に目を走らせた。

エエエエエエーーーー!
とまれー!とまってくれー!
と、心の中でさけんでもみんな素知らぬふり(当たり前だよ!)。

もうジタバタしても仕方がない。。。
あきらめて書類にでも目を通そうか……。
…と思ったところでやっと最初の停車駅に電車がすべりこんだ。

はあー。
とひとごこちつく間もなく、目的地への電車が発着するホーム目指して走る走る。
降りたホームの反対側の線路には、行き先の方向が全く違う電車が来たのだった。あぶなかったー。。。

そんなこんなで、真夏の恐怖を味わいました。

…でも。もうこんなことでは落ち込まないもん!(違)


宮台真司著 「宮台真司 interviews」 世界書院

2007-08-22 | こんな本読みました

本書は、1994年から2004年の10年間にわたり、著者が<新聞・雑誌等で受けたインタヴュー、もしくはそれをもとに「談話」として発表された記事の集大成>だそうである(本書より)。

宮台真司氏について知りたいということと、自分が日本を離れていたとき日本でどんなことが起きていたのかということをつかみたい。。。との思いから、とっかかりにまずこの本を手にとってみた。

10年間で、宮台氏のスタンスが変化しているのがわかりなかなか興味深かった。しかし、発言内容にブレはなくとても納得できるものだった。むしろ自分をどう売り込むかということを考えて、自分の意見をどう発信するかということを意識的に行っているところがすごいと思った(ブルセラ学者という呼ばれ方を、自分の主張を分かりやすく発言できるという点からチャンスととらえているところなど)。

<社会を知ってる社会学者>であり、理論だけに偏らず自ら社会の動きを肌で感じ、そこから理論を組み立てていかれるので非常に説得力がある。また、語り言葉を活字にしているのでわりと読みやすかった。内容的にむずかしく100パーセント理解できかねるところもあったが。

また、専業主婦廃止論というのも共感した。自分が少し前までそうだったのでよくわかる(苦笑)。子どものためにしていると思っていることが実はどうなんだろ……という視点は常にもっていたほうがいいと思った。

ブルセラ、援助交際に見る若者の生態、教育、憲法、天皇制、戦争、専業主婦、子育て、サブカルチャー、宗教、マスコミなどなど社会の様々なことに言及しているが、私にとっては腑に落ちるところが多々あった(具体的に引用したいのだが、多すぎてできません。汗)。ご本人は、言及の仕方について反省している部分もあるとのことだが。

本書は2004年までの著者の主張であり社会分析だったので、これ以降どのようなことを発信されているのか知りたいと思った。

 


応急手当講習

2007-08-22 | 日々のあれこれ
あなたの大切な人が、急に倒れたら?プールでおぼれたら?

……そんな怖いことを考えたくはない。
……でも。その可能性が無いとは言い切れない。悲しいことだけれども。。。

では、そんな時に備えて今自分はなにをしたらいいのか?何ができるのか?

…というわけで(といってもそれほど深刻ではないのだけれど)、応急手当講習を受けました!

大むかしに(笑)同じ講習を受けたことがあるのだけれども、その当時とは多々違っているところがありました。

例えば、心肺蘇生法の仕方。
今は、人工呼吸を2回。1回あたり1秒程度。
そのあと、胸骨圧迫(心臓マッサージ)を30回やるのだとか。
成人の場合は、4~5cm胸を押し下げるのだそうです。
この2つをセットにして繰り返します。

上のことを行っている間、119番通報、AEDを誰かに持ってきてもらうことを周りの人に依頼します。
実は、このAEDという機器今回初めて見ました。そして使い方を習いました。

これはどういうものかというと、除細動(電気ショック)を与えるもの。駅の構内や各施設に常備されていることが多く、それほど大きくなくて持ち運びのできるものです。

まず電源を入れます(ふたを開けると自動で電源が入るタイプのものもある)。すると、音声指示が流れてきます。これに従って操作していきます。

パットといわれるものがあり、体の2箇所につけます。パットに図が描いてあるので心配しなくてもだいじょうぶです。小児用のパット(1歳から7歳児用)もあるそうです。そのとき、体に水がついていたらふきとりましょう。

電気ショックが必要かAEDが確認(心電図の解析)をするあいだは、倒れている人から離れるように周囲に伝えます。
電気ショックが必要な場合は、音声で指示がありますので、ショックボタンを押します。そのあと、心肺蘇生を行います。

とにかく救急車が到着するまでの間、どれだけ応急手当ができるかによって、命が助かる可能性も高くなるとのこと。

自分が<救命のリレー>のどこにどのようにかかわることができるのか?
あとで後悔しないためにも、どこかで尽力したいものです。

この応急手当を使う日が永久に来ないことを望みながら、この講習を終えました。