ガーベラ・ダイアリー

日々の発見&読書記録を気ままにつづっていきます!
本の内容は基本的にネタバレです。気をつけてお読みください。

動物スタンプ

2006-05-31 | 日々のあれこれ
ポストオフィス(郵便局)に行った。
すると、新しいデザインのスタンプ(切手)を発見!
近々この国を去ろうという者が、「切手など買ってどうするんだ!」と自分につっこみをいれながら、ついつい買ってしまったf(^_^; 

だって、かわいいんだもん♪

「絵本の動物キャラクター」が大集合!してるんですよ。

「The Very Hungry Caterpillar」(はらぺこあおむし)
「Maisy」(メイシー)
「Wild Thing」(かいじゅうたちのいるところ)
「Curious George」(おさるのジョージ)
「Olivia」(オリビア)
「Frederick」(フレデリック)
「Fox in Socks」(日本語訳知らず)
「Wilbur」(同上)

1シートに上記の8つのキャラクターが2枚ずつ。1枚39セントの切手です。これは、米国内で封書の普通料金。はがきは23セント。ちなみに、こちらから日本に封書でエアメイルする場合の料金は82セント。(ごめんなさい、はがきの料金はわかりません。多分封書の半額位かと)

でも、こういう切手ってなかなか使えないんですよね。もったいなくって。まあ、それがあちらの狙い目であったりするんでしょうが。まんまとひっかかってる。。。

過去に「オードリ・ヘップバーン」「ディズニー」(ミッキー、バンビ、ライオンキング)のスタンプを購入し、何枚かは記念にとってあります。あと、米国の50州の景色や特産品がデザインされた切手とか(切手シートの裏に各州の鳥、花、木、州都、州立年月日が書かれてあります!)

今や電子メールで連絡やあいさつを済ませてしまう時代だけれど、本当は「手紙」(手書き♪)の方が私は好き。なぜなら、その人の「字」や「文字の流れ」を見ることができるだけでなく、どんな便箋を選んで、どんな筆記具で書いて、まちがえた文字をどんなふうに書き直してるか。。。そういうところから「その人自身」がたちのぼってくる気がするから。その人をより身近に感じられるから(あっ、だから作家さんの生原稿とか見るのも好きなんだ!笑)。

・・・なんてかくいう私もむかーしむかしは「手紙魔」だったが、今ではさっぱり。。。

この切手使いたさに、だれかに「手書きの手紙」出してみようかな。

「だれか、ほしい人ー?手を挙げて!先着3名様までガーベラ直筆手紙を差し上げまーす♪」笑

(ただし私が既知の人、または今までコメントをやりとりしてくださった人に限らせていただきます。ってマジかよ!)

シースターとかくれんぼ

2006-05-30 | 学校
フィールドトリップ(遠足)の引率のボランティアで、某ビーチへ行った。この期に及んで「引率ボランティアしてる場合か?」というむきもあるかもしれないが、実はこのビーチ、過去に2度ほど行ったことがあるのだが、とてもこころが解放され海と山と空をおもいっきり堪能できる所なのだ。だからもう一度行きたくてサインアップしてしまったのだ。(なんて不純な動機!)

到着後すぐに、持参したランチをいただく。道路脇にある一段高いコンクリートの上にめいめい腰かけて。(マットを敷いてみんなでお弁当♪という雰囲気はありませんねー)

引率者の任務は、2人の児童を受け持ち、彼らから目をはなさないこと。私の担当は、我が子ともうひとりの女の子。彼女の食べているランチは「ランチャブル」。

これはどういうものかというと、B5サイズ大のボックスにランチとなるものが入っている。例えば、パックされた「ハム」「チーズ」「クラッカー」「プリングルス(ポテトチップ)」「チョコ味のスティックスナック」など。これは、スーパーで売っており、忙しいお母さんには便利なもの。私も1度だけ試しに買ったことがあるが、2度目はなかった。。。食べなれていないせいもあるのかもしれないが、なんとなく味気なくて、私は食のすすむものではなかった。(ちなみにこの子は、プリングルス(小)から食べていました。でも、これってなぜか子どもは欲しがるんですよねー。全部食べられないのに。なんかちょこちょこいろいろ入ってる感がいいのかな?)

次に、水族館から派遣された女性館員さんから、今日の約束やこれから観察するにあたっての注意などについてお話がなされた。最後に「引率の人に海にいる生き物の写真(パウチした下敷きのようなもの)を渡してあるから、たくさん見つけてみましょう」というような話があった。

そうして、いざ海岸へ!大きな石に小さな貝殻がひっついたもの、わかめや海草などがそこここにねそべり、それらをふみふみ歩を進める。大きな貝殻、小さな蟹、穴のあいた貝、黒い小さい貝など、めいめい観察しながら、どんどん海岸へと近づき、更には左の方へ向かった。

私は内心「写真にはたくさん生き物がのっているけど、どうせ見られるのはたいした数じゃないだろう。。。」とあまり期待していなかった。

なぜ、こんなことを思うのかというと、以前動物園に行った時、檻の外には動物名が表示されているのに、檻の中はもぬけの殻。ということがあったからだ。檻の中といっても結構広く、薮みたいに草や木がはえているまったく自然と同じような状態。なので、動物たちがどこにいるか見つけられなかっただけなのかもしれないし、動物が奥の方にいすわっていて出てこないだけなのかもしれない。

・・・ということがあったので、このビーチでも「期待させときながら、きっと今回もそうだろう」と思ってしまったのだ。

ところがどっこい、思ったよりいました、いました!海の生物たちが。

特にSea Star(ひとで)が。写真で見るとその大きさがわからなかったのだが、異常にでかい!でかすぎ!!人の顔の大きさくらいある。もっとかわいいのを想像していたのだが。とても大きくて肉厚で、なんだか不気味ですらある(シースターよ、ごめんなさい)。色はむらさき、オレンジ、茶(えんじっぽい)の三色があった。

そして、こいつら(もうすでにこいつらよばわり。。。)は、海にねそべっちゃいない。黒い岩が雑然と積まれている一団があったのだが、その岩と岩のあいだや、岩の陰にべったり張り付いているのだ。

生きてるのか死んでるのかわからない状態で。ちょっとだけさわってみた。意外と硬かった。もっとぬるっとしてやわらかいと思っていた。それに触っても、反応ナシ。それをいいことに「シースターの身体の表面についている白い小さな小さな粒粒ってとれないのかなあ?」とふと思い、こっそり、白い粒をガリガリしていた。すると、即座に受け持ちの女の子に「だめだよ」と注意されてしまったf(^_^; 。
いや、ほんのちょっとがりがりしただけですよ。汗

しかし、岩陰におもしろいほどたくさんいる。シースターだけじゃなくて「レッド シー キューカンバー」とか「クリスマス ○○(忘れてしまった泣)」というなまこの巨大版みたいなものとか。とにかくいるわ、いるわ。発見する楽しみがある。子どもたちも「ここにも!」「ほら、ここにも!」ってな調子で、興奮している。この黒い岩の一団に子どもたちが集中していた。「ターキッシュ タオル」という茶色いわかめがのっぺりしたような生き物もいた(なんだがゴムみたいだった)。

まるで「シースター、みっけ!」といって「かくれんぼ」している「おに」のよう。。。見つけるのが楽しくって、わくわくしてくる。

・・・・そう思ったら、動物園の「動物さがし」も案外「みつける楽しみ」をあじわわせるために、あんな風に作ってあったりして。。。と思えてきた。もしくは「あれっ、キリンさんは?」という子どもの問いかけに、「いまねてるんじゃない?」というような親子の会話のきっかけづくりのためかも。笑

「行ったら必ず見られますよ、はいどうぞご覧下さい」というのが当たり前だと思っていたのだが、案外その感覚自体「?」だったりして。。。

しかし、話は違うが、まぁ、先生は今回のフィールドトリップ楽勝だろうなー。だって子どもを見てくれる親が14人もいるし、子どもの発する質問に丁寧に答えてくれる専門家もいるしで。。。実際先生を見ると、保護者と楽しそうにおしゃべり♪してるし。。。

なんだかまとまりない文章だなー(ごめんなさい)。
ということで、今日の報告おしまい(←って誰に?)(眠)。。。


ひとりの時間

2006-05-29 | 子育て
久しぶり(8年ぶりぐらい?)に、ひとりの時間を味わった。ひとりで寝て、ひとりで起きて。。。

「子どもが寝ている時間」=「ひとりの時間」ではあるのだが、なんだか根本的に違うように思った。子どもが家にいるのといないのでは。

身体の中心(はらわた)が、なんかこころもとないのだ。ふわっとゆれてしまう感じ。子どもがいないと。逆にいうと彼らがいる時って、無意識におなかに力が入っているのかもしれない。

ひとりの時間を堪能した。
解放感も味わった。
そして、なんと子どもらの存在に「感謝」の念すらいだいてしまった。

なぜか?

「彼らに食事を作る→食べさせる」=「自分も食べる」
「彼らを起こす」=「自分も起きる」
「彼らに何かをさせる」=「自分もなにかをする」

ということに気づいたのだ。

つまり、彼らのおかげで自分も「規則正しい」生活をしていた気づかされた。それだけ、今回「ひとりの時間」をだらだらと過ごしてしまったことの裏返しなのだけれど。

例えば「おなかがすいていない」という理由で、夜おそーく夕食を食べたり。昼食はコーヒーとお菓子、とか。
「起こす必要がない」という理由で、自分も朝寝坊したり。

もともと、怠惰な人間の私は、彼らのおかげでどうにか「人間らしい生活」を保てていることに気づかされたのだ。
これは、子どもたちに感謝せずばなるまいぞ(あれっ、この文章表現であってるかな?)もちろん口には出さないが。

そして、もうひとつ感じたことがある。
それはひとりだと、家の中がみょうに「しーん」としていること。
私の耳には、冷蔵庫の音だけがやけに響いてくる。

なんでいつもは、聞こえないのだろう。。。

子どもの声がうるさいからか?

いや、子どもの声もそうだが、実は「自分のキンキン高い声」を常に「聞いている」からではないかと思った。

たしかに、彼らに注意とか、指示とかしている。その意識はあった。

しかし、その「聞くに絶えない声」を「自分自身が聞いている」ことを全く意識していなかったのだ。

「ひとりの時間」が私にもたらしたのは、「子どもへの感謝」と「自分のキンキン声」。。。

こんなんだったら、もっと早くから「ひとりの時間」をもっていればよかったのかもしれない。。。などと、思ってみたり。

まっ、もちろん「漫画」の世界にどっぷりつかり、堪能することもできたのだけれど♪(いやー、一条ゆかりさんってすごい。人間洞察がスルドイわ。。。、むかーしむかし、好きで読んだことあったのに(違う作品だけど)。今頃気づいてるワタシ泣。。。)

「ひとりの時間」バンザーイ!!

しかし、今度はいつとれるのだろうか。。。


スリープオーバー

2006-05-28 | 子育て
子どもたちが、友だちの家にスリープオーバー(お泊り)に行っていていない。
 
ミミコは2回目。ららはなんと初めての経験。
初めは、どうしようかと戸惑っていたららだったが、何を決意したか行く気になったようだ。
夕方4時くらいにお迎えに来てもらって。。。
それからひとりのワタシ。

ウワー、ドオシヨオー。ドオシヨオー。(興奮状態)

何がって?

子どもがいなくてさびしい~(>_<)

……なんてことじゃなくて(なんてヒドイ親なんでしょう!)
ながーい夜をどうやって過ごそうか。

映画を見ましょうか。(でも、雨が降っていて借りに行くのがおっくう。。。)
漫画にしましょうか。(ちょうど、一条ゆかりさんの本「うそつきな唇」「正しい恋愛のススメ」が手元にあったわ。ちょっと読んでみたがこれツボにはまりそー♪)

あー、おもいっきりだらけたーい♪
すごく解放的な気分♪

しかし考えてみたら、ららが生まれてからこのかた、一日たりとて離れて暮らしたことがなかったのよね。。。
だいじょうぶだったかしらん、あの子。。。

まっ、親が思う以上に子どもはさっぱりしているものだし、だいじょうぶでしょう!

・・・ということで、今夜から翌朝にかけて「日常からの脱出」だぁー(*^-^)

(明日29日はメモリアルデーで祭日なのだ!ラッキー♪)


ピアノリサイタル

2006-05-27 | 子育て
ピアノのリサイタルが無事終わった。会場はとある教会。グランドピアノが正面に置かれている。ステージはない。フラットなところに、ピアノとイスが並べられている。シンプルだが、天井が高くなんだか落ち着ける場所である。

今回のリサイタル、私にとって一番楽しむことができた。

・・・というのも、思い起こせば2年前。
私は、このリサイタルのためにかなり「やっき」になっていた。
1回目の時は、ミミコも小さいし初めてだったので、何がなんだかわからずに終わってしまった。しかし、2回目はちがった。気負った、かなり。

なぜなら、自分が中学生の時にピアノの発表会で「大恥」をかいた経験があったからである。暗譜で弾くのだが、ある部分にきたら頭が真っ白。すっかり忘れてしまい、にっちもさっちもいかなくなった。二ガーイ思い出があったからだ。

だから、わが子にはそんな思いはさせたくない、と。

毎日練習につきっきり。時間も大幅に延長。間違いやすいところは徹底的に練習させ。。。と、毎日とにかくがんばっていた。いや、がんばらせていた。

そんな日々を過ごしていたある日、鏡を見たらなんと自分の顔がボロボロなのである。お化粧ものらない。

なんで?どうして?理由がわからなかった。

そうして、はたと思い当たった。

これは「過度のストレス」ではないか。

自分では気づかないうちに、かなり子どもと自分を追い詰めているのではないか?「ああ、まずい、まずい」と思いながらも、もう回りだしたサイクルはとめられず。とうとうリサイタル当日を迎えた。

結果、ミミコの演奏は「完璧」だった。会場の賞賛を浴びた。私も親バカながらすごくうれしかった。

リサイタル終了後に、みんなからお褒めの言葉。
「ミミコちゃんすごいわねー」「上達したわねー」
初めは、私も得意になっていたが、だんだん違和感を覚えるようになった。

そんな言葉をもらえばもらうほど、なんだか私は「虚しく」なっていったのだ。

(だれも、私をほめてくれない。。。)なのか
(もっと、ほめて。。。)なのか
(あれだけ練習させて、これだけの見返り?。。。)なのか
とにかく、すっきりしないのである。

そのすっきりしない理由はまだ判然としない。でも、わかることは私はこころのどこかで「自分がほめられたい」と思っていたのだ。それは「見返りをもとめていた」のかもしれない。とにかくそんな「欲」まで出てきていたことに気づかされた。

そこで思った。「自分がほめられたい」なら、「自分の力で勝負しなくちゃいかん」と。近視眼的に子どもの成功を望み、それを自分の手柄にしようなどとゆめゆめ思うなかれ。。。

そして子どもに「失敗させたくない」という、一見すると「親心」に思える考えも、果たしてどんなものなのだろうか?という疑問もわいてきた。

たしかに自分は失敗した。しかし、だからこそ次の年の発表会には、「選曲」の段階で先生に「覚えやすい曲にしてほしい」とか「まちがえやすいところは徹底的に練習する」とかいうことを「学んだのではないか」。それによって、翌年は間違えずにバッチリ演奏することができたのじゃないか。

「失敗」イコール「良くないこと」ではない。実は、失敗こそ「学びのチャンス」なのだ。

そう思うようになってから、自分自身ものすごく「気負い」がなくなった。そして、ピアノリサイタルも楽しめるようになったのである。

今日のリサイタル終了後、ミミコもららも満足げな顔。自分なりに一生懸命やったという充実感があったのだろう。「楽しかったー」と言っている。帰りの車の中でミミコは、「あたし、ショパンが弾けるようになりたいなー♪」と無邪気に言っていた。そういえば、20代の男性がショパンの「革命」を弾いていたっけ。。。

ピアノリサイタルは、自分が弾くことも大切だが、案外いろんな曲を聴くことも子どもにとっていい刺激になると感じた。「~できるようになりたい」という「憧れ」をいだくことこそ大事にしていきたいと感じた。


本日遭遇したもの

2006-05-26 | 日々のあれこれ
時間を決めて「物」の整理をしている。

が、当然のことながら「仕事の出来」は「時間の長さ」では測れない。
3時間も片付けに費やした。。。といえば聞こえはいいがその実、単なる「思い出との遭遇」をしていただけに過ぎない(いばって言えることではないが)。

本日遭遇してしまったもの

1.『「もののけ姫」を読み解く』(雑誌)

ページをパラパラめくると・・・「もののけ姫を読み解く参考書籍」ほほー。「宮崎駿を読み解く」ほほほー。『出発点 1979~1996』(徳間書店)というのが妙に気になった。

2.知人、友人から頂いた手紙・年賀状

中味に目を通す。年賀状の写真に見入る。「そういえば、この頃手紙出してないなー。どうしてるんだろ。。。」などといろいろ思いをめぐらす。しかも、自分が帰国することも報告してないし。。。どーしよー。。。(なにかというと、人を驚かせてしまうワタシである)

3.夫からもらったラブレター

これは、かなりこっぱずかしい。。。しかも、自分が夫に宛てたものも違うところから出てきた!おなかの中心がもぞもぞしてきた。。。しかし、ついつい読んでしまう(汗)。

こんなのを目の辺りにすると、自分のブログが稚拙なことにも「肯定的」になれる。なぜなら、「今、この時、この瞬間しか書けないもの」を書いているわけだから。
「人生わかってないなー」と10年後の自分に笑われたっていいじゃないか。

うろうろ悩んで、じたばたしている自分があってこその、10年後の自分なのだからー。

(ああー、完璧自己正当化の文章だわ。。。)


桑原隆一・文/栗林慧・写真 「アリからみると」 福音館書店

2006-05-25 | こんな本読みました
ミミズだって オケラだって あめんぼだってー♪
と、ここのところ「手のひらを太陽に」を口ずさんでいる私だが、先日(5月22日)この記事を書いたところ、ある方がコメント欄にこんな文章を寄せてくれた。

<かれらは、かなり命の瀬戸際で生きているんだから、人間よりもっとつらいかもしれない>
(ドイルボーティさん、勝手に引用ごめんなさい)

うーん、なるほど。。。と思っていたところ偶然、この絵本に出会ってしまった。

それが、タイトルの絵本である。<かがくのとも傑作集>と表紙に記されている。

内容は、<アリからどう世界が見えるか>という視点で、アリの「ひとりごと」とアリから見た「物体の写真」で構成されている。

まず表紙。ショウリョウバッタが正面から、うわーっと覆いかぶさってくるような写真。

次に、「アリの巣穴」(けっこう大きく見える)→「草むら」(アリから見たらほとんどジャングルだろう)→「バッタの大きな足、顔」→「いろんな虫」→「アマガエル」→「イナゴ」と、どんどんアリの探検は進んでいく。

さらに、「トンボ」→「ショウリョウバッタ」→「モンシロチョウ」→「ハナムグリ」→「オオカマキリ」→「ノコギリクワガタ」→「カブトムシ」→「クワカミキリ」と、いろいろな昆虫に出会う。

クワガタとカブトムシの黒光りした身体。するどいつの。迫力がある。アリから見るとものすごく怖い存在だろう。

そして、最後に世界がひらけて「海」をながめる。バッタといっしょに。

と、こんな絵本である。昆虫好きの子どもにとってはうれしい本だろう。

人は、自分の見える世界が全てだと思っている。特に子どもは。
しかし、ちょっと視点を変えて、「もし自分がアリだったら」。
そんなことを想像しながら、ページをめくっていくと「新たな世界が見えてくる」。

アリにとって「人間」はどううつるのだろうか。いや、人間の全体像はつかめていないかもしれない。それにしても、靴底が自分の真上に来たら「たまったもんじゃない」だろうな。きっとイヤな存在なんだろうな。いや、それとも甘いもの(食料)をくれるイイ存在でもあるのかな。いずれにしてもあんまり嫌われたくないものである。むかし、自分がアリをいじって遊んだことを棚に上げてこんなことを言うのもなんなのだがー。


未来のスペース

2006-05-24 | 日々のあれこれ
「物」ってなんだろう?そんなことをふと思った。

今日引越しやさんが来て、用事を済ませた折に、ついでに不要なものも引き取ってくれた。「ゴミ」として分別したものをあらかじめガレージに出しておいたのだが、「まだありますか?」のひとことで、もういちど各部屋を回った。

すると、あるわ、あるわ、出てくるわ。
それらは、トラックの荷台につまれて、去っていった。
私は、それらを出した後、なんだかとってもスッキリした気分になった。

先日、帰国経験者からこんな話を聞いた。しかも2人から。
最後に残った荷物がどうにもならなくて、ダンボール10箱ぐらい近所の人に渡してしまった、と。

私は、他人事として聞くことはできなかった。おそらく自分もそうなるだろう。

だったら、はじめからサッサと処分してしまえばいいのに。。。
と頭ではわかっているのだけれど、それができないのはどうしてだろう?

それは、「物」に対して「執着」している部分があるからだと思う(実際最後の最後まで生活しているので処分できないものも多々あるとは思うが)。「もったいない」という気持ちもある。でも、捨てるとスッキリする自分がいる。どっかで「思い切る」ことが必要なのだろう。

しかし、それができない。どうしたらいいのか。。。

そこで「物」といってもいろいろある。3つに分けて考えてみた。

ひとつめは「思い出の品」。アルバム、日記、子どもの作品など「過去」のもの。
ふたつめは「日常の品」。食器、洋服など「現在」の生活になくてはならないもの。仕事関係もここに入るだろう。
みっつめは「ゆとりの品」。リース、絵画、ゲームなど「こころ豊か」にしてくれるもの。

この3つのうち、どんな配分で物をもつか。そこにその人独自のものが表れる気がする。そして、自分はどんな配分?書物はどこに入る?

日本に帰る際、持って帰れる物には限りがある。経験者から口をすっぱくして言われている。とにかく「物を減らすこと」。

すごい、プレッシャー。。。

そこで、思いついた。

そうだ、私には「未来」がある。日本に帰ったらしたいことがたくさんある。それに伴い、当然「物」も増えるだろう。

そのために今現在、極力「物を減らして」、「未来のスペース」をたくさんとっておこう!

そう思うと、なんだか「どんどん捨てられる」気がする♪

って、ほんとにできるかな。自分?!


日本語のわかるネコ④

2006-05-23 | ショートストーリー
あいつがいつのまにかやって来ていた。
窓の外にちょこんと行儀よくすわり、すました顔でわたしの方を見ていた。
目が合った。

「おおー、また来てくれたの?」
「ニャー、ニャー、ニャー」
あいかわらずの、高いか細いソプラノ。

いろんなところをなでた。
あいつも、耳をこすりつけてきた。

すると、前足を上げ舌でぺろぺろなめだした。
その足で、時々顔をこする。
その仕草が、なんともいえずかわいい。
そんな無防備な姿を私に見せてくれるなんてー。

うれしくなって、ちょっとおなかのしたに
手を入れて強くなでた。
すると、いきなりあいつが噛んできた。

(ご、ごめん。。。)

頭から背中にかけて、おわびのつもりで何回かなでた。
すると、またすばやく噛んできた。

「いたっ」

(なんで、噛むの…?)

わからなかった。
わからなかったけど、なんだかうれしかった。
私とあいつとの距離がちょっとだけ縮まったようでー。



てのひらを太陽に♪

2006-05-22 | 日々のあれこれ
今日は、久しぶりに「生きている実感」を味わった。

それは一本の電話から始まった。
用件は、私への「お怒り」の電話だった。
何も知らずに留守電メッセージを聞き、その方へ折り返し電話をした私は脳天ズキューン!

なんか、雲行きがあやしいゾ。。。と思ったがもう遅い(そうとわかっていたら、電話しなかったのにー笑 ←ってちがうか。。。)

その方のお怒りは、本当に「ごもっとも」なことだったので(疑う余地なし)私は、平謝りに謝った。
電話をきったあとは、ほとんど「抜け殻」状態。ティシュを目頭にあてがってー。

そうして、冷静になってよーく考えてみた。
なぜ、その方がご立腹されたかをー。

それは、<自分に伝えるべき用件を伝えていない>ということだった。

つまり、私の「忘れっぽさ」をズバリ指摘されたのだ。
その前科もある。
その方にしてみれば、なんて「不真面目な奴」とうつったことだろう。

私にしてみれば、その前科とは「いつ伝えてもいい」=「まだ伝える必要性を感じていなかった」ことなのである。まだ先のことであるし。

そして、今回の件は、単純に連絡ミス(もうひとり共犯者がいるが)。
しかし、よく考えてみると、その連絡ミスを指摘するというよりも、その仕事の話を「自分を通していない」ということへのお怒りも含まれているように思えてきた。いや、その方の「仕事を奪ってしまった」というべきか。

もし、そうであれば、私にもオチ度がある。

なぜなら、その仕事(無償)をはじめからその方へ「移譲」してしまえばよかったからである。しかし、自分の勝手な思い込みで「その仕事を自分が行うことがいいこと」と信じ込み、「自己犠牲」などという思い上がった感情まで抱いていたからである。

はじめからその方へ「直接、意向をたずねるべきだった」。。。と痛切に感じた。

仕事を自分の考えでおしすすめていきたい人ならば、仕事の「移譲」はありがたいことだろうし、もし、その仕事に時間をとられたくない人ならば、こちらの「奉仕」はありがたいこととうつるであろう。

何度かご一緒に行動をともにしたことがある人だっただけに、無意識にその方への”甘え”もあったのかもしれない。。。
こんなことでショックを受けているということは、裏を返せばそれだけ”ぬくい”世界に生きている証拠でもあるのだが。

日本に帰ったら、どう身を処するか具体的に決まってはいないが、この先制パンチは、涙がちょちょぎれるくらい痛かった。「社会復帰」するつもりなら、これくらい耐えねばならぬぞ!というその方のメッセージと受け取ろう。

しかし、今日はやけに「ぼーくらはみんな 生ーきている。生きーているから かなしいんだ♪」のフレーズだけが、リフレインして困るゾ!

<5月23日追記>
今日その方とお会いしたのだが、「へっ?」と思うくらい普通で、にこやかだった。もしかして、全部私のもーそー?。。。
私への苦情・お怒りは是非「直接、顔を見て」言ってくださーい♪