……どうしよう。感想が書けない。
手元に欲しい、この本……!
なぜなら全部を理解できたわけではないので、後日再読したいから。そしてなにより、こころに残る文章やことばがたくさんあったからー。
「本」「読書」「言葉」「図書館」などについて著者の考えがつづられていく。ひとつのことばを著者独自の視点でかみくだいている。それを読むのがとても楽しい。普段考えてもみなかったことについて考えさせられることがたくさんあった。
以下が目次。
はじめに
1 本はもう一人の友人
2 読書のための椅子
3 言葉を結ぶもの
4 子どもの本のちから
5 共通の大切な記憶
6 今、求められること
7 読書する生き物
8 失いたくない言葉
あとがき
<友人と言うと、人間のようにしか聞こえないかもしれませんが、人間だけでなく、たとえば山もそうです。そこに山がある。その山を見て、そこにひとは、さまざまなものを見る。緑を見る。晴れたり、曇ったり、天候を見る。過ぎてゆく季節、やってくる季節を見る。山を見ているうちに、自分の思いを見ていることに気づくことも、きっとあります。状況、年齢、環境、その日の気分の問題まで含めて、それぞれに、さまざまに、そこにある山を見る。そうやって山を見ることができるためには、大事なのはただ一つ。そこにその山がずっとある、ということです。ずっとあるのが、山なのです。>
「友人としての本」というふうにして本をとらえ、その前提として著者は、「友人というあり方」を考えている。友人を<その場限りではなく><ずっとつづく>関係であると述べている。親しい、よく知っているという以上に、友人というあり方の根をなすのは、「ずっとつづく」ということ。日常的にたとえ連続していなくとも、続いているという感覚がずっとつづいている、ということだと述べる。
そして先人のことばを二つほど挙げている。一つが啄木のうただ。
<石川啄木が「ふるさとの山に向かひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」と歌った「山」は、山すなわちふるさとであり、ふるさとすなわち友人です。そこにずっとある山が、「石をもて追はるるごとくふるさとを出でし」啄木には、終生の友人でした。>
そしてもう一つが幸田露伴。
<どんな人もその気になれば友だちは見つけられる。現実生活に友だちがいない人にも、唯一友人を準備してくれるものがあるとすれば、それは書籍だ」。幸田露伴はそう言いました。>
<伝承によって、文字によって、そうして本によって、わたしたちに手渡されてきた、ここにあるもののむこう側にある、もう一つの文化というものの大事さ、人が死んだあとにものこってゆくもう一つのもの、「ずっとある」ものに対する想像力が、今はなんだかひどく削がれているように思います。>
また、本とはどういうものか。<本は、人間のあり方、人生のつくり方、毎日毎日の過ごし方、そういうところに密接に、深く係わってきた。>ものだという。本と自分とのかかわり方を意識すること。そのことが大切だと気づいた。
<もう一つの時間への入口を気づかせるということが、そもそものいちばん大事な仕事だからです。こちら側だけの考えでは計れないものが、そこにあるということを思いおこさせるのが、本のひそめているちからです。>
<言葉のゆたかさというのは、たくさんの言いまわしをあれこれ揃えることではありません。美辞麗句は言葉のゆたかさを意味しないのです。そうでなく、むしろ限られた言葉にどれだけ自分をゆたかに込められるかが、ことばにとっては重要なのです。(中略)言葉というのは、言葉の使い方の問題です。自分がどういう言葉をどう使うか、その言葉のなかに自分をどう表現してゆくか、それができるか、できないかが、これからは社会のいちばん重要な錘となってゆくようになるのではないかと思うのです。>
<「……のように美しい」というそれだけのごく短い表現一つを考えてみても、すごく簡単なのに、「……」に何を入れるか、どんな言葉をそこに使うかで、一人一人の自分、一人一人の経験が、その言葉のなかにそっくり出てきます。それが言葉です。自分が選びとった言葉のなかに、じつは選びとられるのが自分なのです。何を美しいと思うかというそれだけのことでも、その人をもっともよく語りうるというのが言葉です。>
おりしも、某大臣が国会で発言した一連の言葉が大変問題になり取りざたされている。その言葉を使ったことを謝罪する以前に、そういう考えをもっているということに愕然としショックを受けた人が多いのではないだろうか。しかもそういう人が、わが国の少子化問題についてリードしていくとなると。。。この発言によって厳しい局面に立たされているということをご本人がどれだけ意識されているのか。。。
また、子どもの本についてもいろいろな示唆がありたいへん興味深かった。
本は年齢で読むものではなく、むしろ子どもの本というのは、実は大人こそ読むべきもの。大人になるとともに自分たちがいつか失った疑いや希望といったものがそこに見いだされるような、確かめられるような、そういう入り口をもつ本として捉えこと。
子どもの本になくてはならないものが三つあること。一つは、「古くて歳とったもの」。人でもものでも。二つめは、「小さいもの」。生き物、人、植物、玩具、道具など。三つめは、「大切なもの」。わたしたちの日々にとって、何が大切かを語るもの。
また、言葉について著者のこんな考えがある。
<言葉を使うというのは、他者とのつながりをみずからすすんで認めるということであり、言葉を自分のものにしてゆくというのは、言葉のつくりだす他者とのつながりのなかに、自分の位置を確かめてゆくということです。人は何でできているか。人は言葉でできている、そういう存在なのだと思うのです。言葉は、人の道具ではなく、人の素材なのだということです。>
<経験というのは、かならず言葉を求めます。経験したというだけでは、経験はまだ経験にはならない。経験を言葉にして、はじめてそれは言葉をもつ経験になる。経験したかどうかでなく、経験したことも、経験しなかったことさえも、自分の言葉にできれば、自分のなかにのこる。逆に言えば、言葉にできない経験はのこらないのです。>
<言葉と経験を載せている心の秤が、感受力です。感受力というのは、だれかに教えられて育つというものではなくて、自分で、自分の心の器に水を入れてやってしか育たない、そういうものです。>
そこでそのやりかたを、良寛の「耳を洗え」という詩を例にひいて述べている。「我見」によってしかこの世を見ないというのは危ういこと。「耳を洗う」=「耳をきれいにする」=「耳を澄ます」=「心を澄ます」こと。「洗う」ということを「行為」としてでなく人の生き方の「隠喩」として、大切につかっているということを読者に示している。
言葉は器量である。心の容積をおおきくしてゆく言葉を自分のなかにたくわえること。また本をどの椅子で読むかということが大事。いい椅子を一つ、自分の日常に置くことができれば、何かが違ってくる。。。と著者はおっしゃるが。。。ここらへんはまだまだ修行が足りず実感できないなぁと思う次第である(汗)。