ひとつの糸がすっきりまっすぐになった。
そうしたら他の糸もするーっとほどけた。
不思議なくらいにー。
そうしたら生きるのが少しだけらくになった。
でもー。
そうしたらー。
次の山が見えてきた。
ちがう景色が広がってきた。
さてさて、最強の(?)武器を手に入れたことだし。
また荷物を背負いなおして進んでいくか。
つらくなったら自分がやれたときのことを思い出して。
寄り添ってくれる人たちの顔を思い浮かべながらー。
むかし右膝の靱帯を切ったことがある。
それゆえ、脚を石膏で覆い松葉杖をついて歩いていた。
……治療を終え石膏を切った。3ヶ月ぶりに自分の右脚と対面した。
なんと、右脚が細くなっている。力なくひょろりとしている。
細くなってうれしい!という次元をはるかに超えてー。
使わないとこんなになってしまうのかという驚きと不安。
その後、リハビリに通い1ヵ月後ぐらいにはふうつに歩けるようになったと記憶している。
そしで今の自分自身ー。
筋力の落ちた右脚のようー。
何年もの間、社会という冷たい風にさらされることなく、家庭という石膏で守られてきた。それがいいとか悪いとかを言いたいのではなくそういう事実がある。
たった今。その右脚を鍛えている。
リハビリ中!(笑)
……自分で言うのもなんだが、大分ず太くなってきている気がする(苦笑)
でも。まだまだなんだろうなあ。。。過去の自分と比べるとー。
友人からメールをもらった。
私のブログをのぞいてくれているらしい。
私の書いたことからなにかを感じてくれたらしく、
彼女の思いがつづられていた。
なんだかうれしかった。
不覚にも涙が出た。
友人から最近仕事がいきづまっているということを聞いた。
私も昔、悩んでいたことだったので
こんなふうに考えてみたら?と言ってみた。
「きょうの、お言葉!」
と言って彼女の顔が明るくなった。
明日から、彼女の仕事がちょっとでもうまくいくといいな。
みんながんばってる。
ふだんは、口には出さないけど。
誰かがふっとことばを発したとき、受けとめられる人になりたいな。
ある言葉をさがすために、10代から断続的につけていた「読書ノート」のようなものに目を通してみた。(なぜかこれだけは、転居のたびに持参している)
どこにあるかわからないので、全部に目を通す。
その頃の自分が何を考えていたかを思い出す。
誰に見せるものでもないので、そこにはありのままの自分がある。
それを読んでいるといくつかの発見があった。
ひとつは、「その頃、本を読んで”わかった”ことが実は”わかっていなかった”」ってこと。
これが、ノートを読み返していて一番の大きな発見である。
なぜそう言えるのかというと、自分が大事だと思っていた箇所が抜粋してある(=わかった)にもかかわらず、そうやって生きてこなかった(=わかっていなかった)ことが多いからである。
いや「そうやって生きてこなかったということに”気づいた”」というのが正解かもしれない。何度かこのノートを読み返しているにもかかわらず、今さら「発見」しているのだから。
例えて言うなら、「数式」を覚えて理解したのだけれど、問題を解いてみたら「解けなかった」というようなものである。数学の問題なら解くのにそう時間はかからないし、答えはすぐ出る。しかし「生きる」ことには、なかなか「答え」が出ない。また、人に聞いてもわからない。なぜなら人それぞれにその「答え」に向かっていく道筋が違うものだから。「答え」そのものが違う場合もあるかもしれない。
もう一つの発見は、「なんだ、むかしと同じことしてるじゃん」ということである。
本を読み、感想を書き、好きな箇所を引用する・・・。
これって今の私のブログ(「こんな本読んだ」)のスタイルだ。
「そういえば、何年もの間そういうことをしていなかったなー。
でも、結局ここに戻ってきてしまった」
そういう「発見」があった。
今自分に必要なのは「過去の自分」から「現在の自分」を知り、そこから一歩踏み出すことなのかもしれない。