ガーベラ・ダイアリー

日々の発見&読書記録を気ままにつづっていきます!
本の内容は基本的にネタバレです。気をつけてお読みください。

にくいなぁ・・・

2006-03-31 | 日々のあれこれ
「FIVE STAR CAFE」に行ってきた。

そこは、暗い空間。とあるビルディングの一室。
壁には、スターをかたどった青いランプが掛けられ、棚の上には本を読んでいるくまのぬいぐるみがちょこんと置いてある。テーブルの上にはキャンドルがともされ、訪問客のためにコーヒー、紅茶、クッキーが用意されている。

「RESERVED」の札の置いてあるテーブルには、すでに小さな詩人たちが席に着き、ロッキングチェアーの背もたれによりかかっている。
私は、後ろのあいているロッキングチェアにこしかけ、ほっとひと息する。

ブルーのシャツを着た初老のコーディネーターの女性が、会場の人たちに静かに語りかける。
「どうぞ、ポエムをゆっくりご堪能ください」
「終わったら、このように小さく拍手をしてください」
と言って「スナップ」と「左右の人差し指を重ね合わせる」両方のジェスチャーをして見せた。

彼女の促しによって、演台の上に自作のポエムを置き、マイクの前に立つ小さな詩人たち。次々と人が替わり、ポエムが朗読されていく。詩人たちはみな真剣な表情で、なんだかその緊張感がこちらにも伝わってくるようだ。

朗読し終わった詩人たちは、テーブルのジュースとクッキーをつまみがら他の人の朗読に耳を傾ける。自分の詩を無事朗読し終えた充足感いっぱいの顔だ。

ーまさにリラクゼーションタイム♪ー


こんな「空間」を作り出してしまう「演出」。
にくらしほど、うまいなぁ・・・。

えっ、どこにって?
「小学校」の「図書室」に!


働く人びと

2006-03-30 | 日々のあれこれ
朝のニュースでこんなことを言っていた。

「66歳の女性が、スケボーのインストラクターに!」
(アメリカの○○州で←すみません聞き損じました)

彼女が映像に映っていたが、確かに元気そうだった。はつらつとして見えた。

こちらアメリカに来て、「高齢の女性」が働いている場をよく見かける。

例えば、おしゃれなショッピングモールのインフォメーションセンターで。
例えば、某航空会社のフライトアテンダントとして。
例えば、水泳教室のインストラクターとして。

とても意外な気がした。今まで「若い女性」が働く場所というイメージがあったからだろう。

反対に、「男性」の働く場として意外な気がしたのは、「グローサリーショップ」(スーパーマーケット)である。

若いガタイのいいお兄ちゃんが、スーパーマーケットのエプロンを着け、野菜だの果物だの飲み物だのを並べている。はじめて見たのが夏だったで、「学生」のバイトかと思った。しかし、秋になっても彼らは働いていた。鼻歌を歌いながら。「ハーイ」などとお客に声をかけながら(2人でおしゃべりをしていたのが気になったが)。鮮魚コーナー、精肉コーナー、レジスターでも若い男性をよく見かける。

高齢の男性もスーパーで見かける。主な仕事は買い物客の「ヘルパー」である。

乳幼児2人を連れて買い物に行き、レジで支払を済ませると必ず「手伝い」がいるか聞いてくれる。「はい」と答えると、その高齢の男性が大きなショッピングカートを押して、駐車場に停めてある車の所までいっしょについて来てくれる。そのあと、買った品物を自分の指定した場所に積んでくれ、ご丁寧にカートを店内まで戻してくれるのである。子連れのときは、非常に助かった。

もちろんひとりで買い物した時でも希望すれば手伝ってくれる(店内放送でヘルパーを呼んでくれる)。ヘルパーが若い人(男女)のときもある。

個人的には働いている人の「年齢」にかかわらず、良いサービスをしてくれるお店にどうしても足が向いてしまう。

以前、とあるスーパーで若い男性がカートを押してくれたのだが、もう二度とその店に足が向かなくなった。なぜならカートに設置してある乳児用のシートに、わが子を仰向けに寝かせていたのだが、駐車場に向かう際カートの押し方が無造作で子どもが振り落とされるのではないかとヒヤヒヤしたことがあるからである。

サービスの点では、アメリカより日本の方が断然お客さんに対して「丁寧」だと感じる。こちらはスマイルはとてもいいが、なにか問題が生じると「自分の責任ではない」ことを主張してくる気がする。「その店(ホテルや銀行などでも)のカウンターに立っているのだから、その店の顔としてふるまおうよ!」と思ってしまうのだが。これって、日本人的発想なのだろうか。。。

でも何か不備があって、粘り強くこちらの考えを主張すると「謝る」かわりに(?)「料金をサービス」してくれたことがあったっけ。

セーフ!

2006-03-29 | 子育て
「片付けないものは、捨てるからね」
と子どもには言い聞かせている。
そして、警告の3~4回に1度はそれを「断行」する。
キッパリと。

今回もそれをしたのだが、ある失敗をおかした。

それは子どもの「手作り」のものを捨ててしまったのだ。
その手作りのものとは「ごみぶくろ」。

ハート型に切り取ったピンクの画用紙。かわいいリボン。サインペンで描いた絵。子どもなりに工夫してデコレーションした「ごみぶくろ」(おととしの夏休みに作成)。

その中には、鉛筆削りのかすだの、ティッシュだの、お菓子のふくろだのいろいろとごみが詰め込んであった。いつもは、中味だけ自分で捨てているのだが、見ると中味がぱんぱんにふくらんでいる。その袋が無造作に部屋のすみに置いてある。

一瞬どうしようかと迷ったが、「まあ、約束は約束」だし「袋は日に焼けて汚い」し「また作らせればいっか」と思い、その手作りごみぶくろを大きなビニール袋に入れて、捨ててしまった。

さて、先日その手づくりのごみぶくろがないことに気づいたミミコ。ものすごい勢いでごみぶくろの行方を私に尋ねてきた。わたしが処分したことを伝えると、泣くわ泣くわ。この世の終わりかと見まごうほどに。

(ひぇー、そんなに大切に思っていたの?)とこちらが驚くくらいだ。

こんなとき、妹のららがミミコのそばに寄り添いなぐさめている。
(まあ、美しい姉妹愛だこと。。。)と思ったのもつかの間。

「ママって、ひどいね。冷たいよね。聞いてくれればいいのにね」
というような二人のひそひそ声が、耳に入ってくる。
内心穏やかではないが、素知らぬふりで夕ごはんを作る私。

あまりにも泣き止まないので、こんなことを言ってみた。
「約束は約束だよね」
「それは、そーだけど・・・」
(なんだ、わかってるのか。。)
 
「また、新しいのを作ればいいじゃない。きれいな紙袋あげるよ」
「いやだ、あれは私が一生懸命作った、世界でたった一つのものなんだから」
(あきらめきれてないな、おぬし。。)

「デジカメに撮ってあると思うから、それを見てまた作ればいいよ」
「そんなこといったって、前みたいに下手に絵が描けないよ」
(うーむ、それは一理あるなぁ。。)

それらの言い分にいちいち感心したが、当然顔には出さない。
ひとしきり大泣きしていたミミコだったが、突然姿を消した。

(どこいったんだろう?)

そっと耳をそばだてるとどうもガレージに行ったようだった。大きなポリバケツの中をごそごそ探しているらしい。こちらはごみの回収が週に1回なので、運がよければそこにまだ入っているかもしれない。実は、私自身いつそのごみぶくろを処分したかも覚えていないのだ。

「あったー!」と遠くで明るい声がした。
「よかったねー」と喜び合う姉妹。
「ママ、見つかったよー!」とキッチンに駆け込んできた。
「あらそう、よかったね」

「約束を断行」する前にちょいと一考。「手作りのもの」にどう対処するか。これだけは取り返せませんやね(その子のその物への思い入れ度にもよるだろうけど)。まあ見つかってなにより。


けんかの当事者

2006-03-28 | 日々のあれこれ
日頃から「けんかの当事者」にはなりたくないと思っている。
しかし、そんな思いとは裏腹に時にそうなってしまうことがある。

「なぜそんなちっぽけなことで腹をたててしまったのだろう?」
つい先日、自分と一番身近な大人との間に起こってしまったことを考えていた。

すると、こんなことが浮かび上がってきた。
ひとつに、私のこころに「けんかをする土壌」がすでに出来上がっていたことである。それは自分でも気づかないうちにじわりじわり熟成されていたようなのである(今だからわかるのだが)。

要因① 「首が痛い」…左側が特に痛く、回すと激痛が走る。
要因② 「8日間軟禁状態」…子どもの体調不良により外出困難(13歳以下の子どもを家に置いて外出するのは法に触れる)。
要因③ 「情緒不安定」…春先はだめだめ。

このようにしっかり土壌ができあがっているところに「火種」が持ち込まれた。すると、どうなるか?(火種は省略させてくださいね)。

これはもう想像に難くないだろう。とにかく私の方は制御不能状態である。
ちっぽけなことなのに、それを相手にやってもらわないと「気がすまない」状態にまで追い込まれ、相手をも追い込んでいる。

すると、相手も「なんでそんなに意固地になるの?」ということで不快な顔になる。しかし、私の尋常でない状態を察知したのか、結局そのことをしぶしぶ行動に移し、出社していった。そのことにより、私のこころは幾分鎮静化した。

今考えると、「朝っぱらから何をしとるんじゃ!」と自分に突っ込みをいれたくなるが、そのときはとにかく「ダメダメ」である。

さて、その状態を遠くの方で聞いていた(見ていた?)子どもたち。そういう時は、なぜかおとなしいものである。

「どうしたの?」と私に無邪気に問いかけてくる。
「う、ううん。。。」

私ははたと困った。
そのときの感情にまかせて私の「火種」を話したところで、子どもは「役不足」だろうし、わかってもらえることはできまい。

「ちょっと、言いたいことを言っただけ」ととりあえず答えておいた。
「フーン」とニヤッと笑ったきりいつのまにかちがう話題となった。

しかし、冷静になって考えると「自分の要求」は通したが、この「けんか」は実質自分が負けたと思っている。くやしいが「冷静」に対処した方が勝ったと思えるのである。なぜならその火種があまりにもちっぽけすぎるので(火種の種類によってその勝負の行方はかわってくると思うが)。しかもシュウタイをさらしてしまった。。。

「よーし、次のけんかは私が勝つぞ!」(←ちがうか。。。)


これって・・・

2006-03-27 | 日々のあれこれ
日曜の午後、用があってひとりで車で出かけた。
その帰り、少し遠回りして私のお気に入りの場所へと足を運ぶ。

そこは、静かな住宅街のヒルトップ。
S市が一望できる。
道の脇に車を停めて、眼前に広がる景色を目のあたりにする。
大きく息をすいこむ。

雪をかぶった山が横いっぱいに広がり、その前にわずかに海が見える。
その自然に抱かれるようにビル、タワー、住宅、道路そして湖。
自然と人工物との融合。
奇妙にマッチしている。

晴れた日にこの景色を見ていると
なぜだかとても悲しくなってくる。

「この美しい景色をあと何回見られるんだろう」
この道を通るのが週1回として、そのうち快晴の日は何回あるのだろう。
そうすると、この景色と出合えるのはあと何回。。。?

自分がちっぽけな存在だということをつきつけられる。
この海の先には日本という国があって、
そこには、私の知るたくさんの人が住んでいる。
なのに私は日本を出て、異国の地に住んでいる。

私はなんでこんなところにいるんだろう。
一体何に向かって生きてるんだろう。

どうしてその景色の美しさを素直に受けとめられないのだろう。
悲しくなることなんかないのに。

なんだか人は、同じ景色を見て自分と同じ気持ちを共有してくれる人を
さがして漂っているだけなのかもしれない。

ただ、その瞬間自分といっしょになにかを感じてくれる人がそばにいてくれれば。。。


ハルサキはダメだ・・・

時代小説

2006-03-26 | 日々のあれこれ
友人からメールをもらった。

「申し上げる。かたじけない。宴」ということばの入った文章。
彼女のいたずらごころから綴られた文章だった。
いつもおしゃべりしている友だちなのに、ふと見知らぬ人に思えた。
私の知らない彼女の一面を見た感じがした。

返事を書いた。
「拙者、難儀、次第」ということばの入った文章。

そんなやりとりをするうち、はたとことばに詰まった。

続かないのだ。ことばが浮かばないのだ。
それもそのはず、私は時代小説、時代劇にほとんど接していないのだ。

「文体」を変えるだけでこんなに人が新鮮に見えるなんて。
とても新しい発見だった。

時代小説を読んでみようと思った。文体を知るために。

誰にしようか?
そうだ、やはりここは池波正太郎先生だろう。
なんといっても私は氏の「エッセイ」が大好きなのだ。

「男の作法」「食卓の情景」「散歩のとき何か食べたくなって」「むかしの味」(どれも新潮文庫)が今手元にあるがどれもとてもいい。スカッときもちよくなるエッセイだ。

メールをくれた友人も氏のエッセイのファンなのだが(私が紹介した)、以前ふたりでこの本について盛り上がった。しかし、最後にはなぜか二人とも不機嫌になってしまった。

「おいしいソバとか天ぷらが食べたーい!!」というどうしようもない欲求が噴出してしまうのだ。

日本に帰りたいと、切に切に願う瞬間である。




浦沢直樹著 「MONSTER」第10~18巻 小学館 ②

2006-03-25 | こんな本読みました
(はい、3月19日の続きです。これからこの漫画を読もうとしている方は注意してお読みください)

9巻読了時に思い描いていたテーマと最終的には違った。
私が予想していたテーマもエピソードの一部だったのだ。
一番大きなテーマは「人間の根幹」にかかわるものと言えると思う(ここでテーマをいうのはしのびないので、ふせておきます)。

「あたりまえ」だが「とても大切なこと」を大きなテーマにして、ミステリー調に話を展開していく。とても上手い手法だと思った。

また、最近漫画を目にしていなかったのでより強く感じたのかもしれないが、「絵のもつ力」というものにあらためて感服した。文章だけだと人物造詣や背景について何行か費やさなければならないが、「絵」なら「視覚」に訴えるので作者のイメージをより強く読者にアピールすることができる。実際ドキリとさせられる場面がたくさんあった。

しかし、そのわりに「読み飛ばして」しまうことが多々あり、漫画家の方にはすまない気持ちになった。「1頁描くのに何時間かかるのだろう?」・・・と考えると「ほんと、ご苦労様です」と頭を下げたくなる。

「人間」のこころほどわからないものはないし、不確かなものはない。
けれど「確か」なものは一つだけある。それが揺らいだとき(揺らいだと感じた時)、人は恐怖に陥る。そしてそこからはじまる「恐怖」。それがたっぷり味わえます。

そしてもうひとつ感心したのは、「人間を育てることはある種『実験』である」という作者の切り口。それがとても新鮮で、それを表現するのに上手な舞台設定をしているということだ。

まず「大きな目的」をもち「仮説」を立て「実行する」。そして出来上がったものを「考察」する。それを「人間」にあてはめてみたら・・・。

そう考えると怖くありませんか?そういう意味での「恐怖」も味わえます。裏を返せば、「人間を育てること」はそれだけ素晴らしいこととも言えるわけですが。


おまけ:たくさんの人物が登場し、ラストに向けて過去に登場した人物たちがからみう。なので「漫画」という表現方法はとてもよかった。「絵」を見れば、どんなことをした人かが一目瞭然だからだ。「文章」だけだと、ものすごくこんがらがると思う。「あれっ?この人何した人だっけ?」というように(私だけ?)。

そうそう、だれか「カラマーゾフの兄弟」を漫画化してくれないかなー。あのカタカナ人名とその数の多さに完璧に頭がヒートして、読むのを断念してしまった過去をもつので。。。ちなみにどんなストーリーか全く知りませんが(もう出版されてたりして?)。


ウワッ!

2006-03-24 | 日々のあれこれ
またやってしまった。。。
これで何度目?
ほとほと自分にあきれるわ。。。
みんなにもあきれられてるんだろうな。。。おちこみ。

注:今日の記事は何の実りもありません(いつもか?)。時間の無駄になるかと思いますので、よっぽどお暇な人でない限り、読み飛ばしてやってください(ガー)

結論から先に言うと、車のバッテリーがあがってしまい、動かなくなってしまったのだ。12時までに病院に着かねばならない(こちらの病院は予約制)。あせって友人・知人に電話をかける。どうにかひとりつかまって、わが家に駆けつけてもらった。(ありがたやー)。こうやって、最終的に周りの人に助けてもらってるから、同じ失敗を繰り返すのだろうな。。。泣


<車のバッテリー・チャージの仕方覚書>
1)赤(+)と黒(-)のラインを同色同士でつなぐ(2台のバッテリー)。
2)正常な車のアクセルをふむ
3)バッテリーのあがってしまったほうの車のエンジンをかける

こんな簡単なことなのですが、いつも忘れるのでここに記させていただきました(どこかに書いておいても、それを探すのがひと苦労だし、書くことによって覚えられるかもしれないので。あしからず)

しかし、未だにバッテリーがあがった原因がわからないでいる。室内灯がついていたのではないかというのが、今のところ有力なのだが。

教訓:車は毎日乗りましょう(なんのこっちゃ)


ある老人のつぶやき

2006-03-23 | ショートストーリー
ああ、今日で4日目だ。
家から一歩も外に出ていない。
ワシの健康づくりに大切な、ジムでの運動もおあずけだ。

まったくムスメというのは、ワガママでかなわん。
なにが「おじいちゃん、ヒマでしょ」だ。
確かにワシは定年退職して家におる身だが、それなりに忙しいのだ。
「ヒマ」ということばが一番ハラが立つ。それに傷つくのだ。
まあ、そうは言ってもはたから見れば「ヒマ」な身分なのだろうが。

マゴをワシに押し付けて、自分は仕事か。
ワシが「たまには外に出たい」などと言おうものなら、
「少しは、赤ちゃんを抱えている世のお母さんたちの気持ちがわかったんじゃない」などとぬかしおる。そんなもんわかりたくもないワイ。
でもそんなこと口に出そうものなら、その10倍は返ってくるからだまっておるが。まったく、オンナというのはなぜにああ、口が達者なのだろうか。

「おじいちゃん・・・」
おお、マゴがよんでおる。
「まだ、腹が痛むのか?それとも頭か?」
「ううん・・・、トランプやろ」
「トランプ?」

さすがに、マゴもあきたのだろう。
発熱、頭痛、腹痛。
よくなったと思うとまたぶり返す。
2週間前に発熱し、これで3回目のぶりかえしだ。
ムスメの話によると、この前はクラスで6人も休んだそうな。

かわいいマゴのたのみじゃ、「神経衰弱」につきあってやった。
「頭を振るとクラクラする」というわりには、なかなか強かったな。
勝てるとは思っていなかったが、まさか10枚以上差をつけられるとは思わなんだ。子どものアタマってのはやわらかいもんじゃ。

しかしあしたも、マゴの面倒をみさせられるのだろうか。
いいかげん、外に出て春の風にあたりたいものだ。
天気予報で今日は最高気温16℃って言っておったからな。
ワシは、春が近づいてくるあのにおいが大好きなんじゃ。
全身をあたたかい風がつつみこむような。息を大きくすいこみたくなるような。

春は、どこまで来てるんじゃろうか。
マゴよ、たのむからそろそろこのジイを自由にさせてくれ。


子どもの声

2006-03-22 | 日々のあれこれ
今朝見たテレビ番組(日本発)で、こんなことを言っていた。

「子どもの声の音域が、30年前より4度低くなっている」
つまり、高い声が出なくなっているということだ。

20年近く、子どもたちに歌の指導をしている作曲家の方が言っていた(ごめんなさい、名前は忘れました)。

例えば「チューリップ」の歌。
「さいたー、さいたー♪」の部分の音について。
30年前は「ファソラー、ファソラー♪」だったそうだ。
だが、今は「ドレミー、ドレミー♪」となっているという。

「へーーー」と思った。

では、どうしてなのか?

その方によると、理由のひとつは「住環境の変化」であるという。
昔は、家にすきま風が入ってくる。
よって、家のなかの「反響」が悪い。
だから「大きな声でしゃべっていた」。
なので、声が前に出てきていたというのだ。

なるほど。

子どもの変化をさぐると、日本の変化がわかってくる。
私にとって「住環境」という視点がとても新鮮だった。
(この方の説の真偽については、正直いってよくわかりません)

そういえば、こんな文章を目にしたなあ。

<「僕が会社勤めやなんかで体得したことでは、会社において、上司のことより重要なのは建物なんだってことです。明るくって、気持ちのいい建物が、少し歩けば、コーヒーを飲めるとか盛り場に出られるような場所にあるっていう…そっちのほうが重要なんだってことなんです」>(「吉本隆明・糸井重里(聞き手)著 「悪人正機」 新潮文庫より)←この本もかなりいいです♪

ちなみに、子どもの声を出させる練習として、ある学級では
・朝の会、帰りの会で歌を歌う
・発声練習をする
・山びこごっこをする
を実践されているそうです。