「詩ってなんですか?」という質問をよく受けるという著者。そのたびに困る。なぜなら<詩とは何かという問いには、詩そのもので答えるしかないと思うから>だという。
本書は著者によってたくさんの詩が選ばれ載せられているが、いわゆる<アンソロジー>とはちょっと違うという。谷川氏の<考え方の道筋にそって詩を集め、選び、配列し><詩とは何かを考えるおおもとのところをとらえたいと願った>という。
どうしてそのような考えにいたったのかというと、そもそも現行の小学校国語教科書にのっている詩の扱い方、子どもたちに教えていく方法論に危機感を覚えたからだそうだ。
以上は本書のあとがきに述べられているものだが、では実際本書に選ばれている詩はどんなものがあるのか?
目次を見てみるとこんなふうにカテゴライズされている。
わらべうた/もじがなくても/いろはうた/いろはかるた/ことわざ/なぞなぞ/したもじり/あいうえお/おとまねことばの詩/おとのあそびの詩/しりとり/いみのあそびの詩/アクロスティック/はいく/たんか/さんびか/ほんやく詩/あたらしい詩/ふしがついた詩/つみあげうた/きもちの詩/いろんな詩をよんでみよう/ほうげんの詩/詩ってなんだろう
実に多種多様な詩が集められ、それについて著者によるひとことが添えられている。これが「詩」です。。。と説明するのではなく、読者は掲載されている「詩」を読み、著者のことばをてがかりに自分で感覚的につかみとっていくかたちの本である。
例えば「この道」(北原白秋/山田耕筰)の詩にはこんなひとことが添えられている。
<わらべうたとはちがって、しじんがことばをかき、さっきょくかがさっきょくしたうた。あたらしい詩がうまれると、あたらしいうたもうまれるようになった。うたのことばも、うたわずによめば、詩のなかま。詩とうたのねっこは、ひとつ。>
最後のまど・みちお氏の「どうしていつも」のあとには、こんな文章がある。
<おどりだしたくなるような詩、じっとかんがえこんでしまうような詩、かなしくないのになみだがでてくる詩、さがしていたこたえが、みつかったようなきがする詩、つぎからつぎへとでてくるおいしいごちそうのようだね。そう、詩はわからなくても、たべもののようにあじわうことができるんだ。詩をよむと、こころがひろがる。詩をこえにだすと、からだがよろこぶ。うみややま、ゆうやけやほしぞら、詩はいいけしきのように、わたしたちにいきるちからをあたえてくれる、ふしぎなもの。詩ってなんだろう、というといかけにこたえたひとは、せかいじゅうにまだひとりもいない。>
この文章に著者の「詩」にたいする思いがこめられているとおもう。「詩」は頭で理解するものではなく、こころでかんじるもの。あじわうもの。逆にいうと読む人のこころをうごかすもの。。。といえるのだろうか?そんなことを思った。