ガーベラ・ダイアリー

日々の発見&読書記録を気ままにつづっていきます!
本の内容は基本的にネタバレです。気をつけてお読みください。

河合隼雄 加賀乙彦 山折哲雄 合庭 惇 著「宗教を知る 人間を知る」 講談社

2006-10-31 | こんな本読みました

特別な宗教をもたない自分にとって、ふだんは宗教とは無関係な暮らしをしている。なぜ、この本を手に取ったか?理由は単純。「山折哲雄氏ってどういう方だろう?」ということを思っていたから。あと「信じるってなんだろう?」とか。。。はっきり言って、宗教に関してよくわからないことが多い(汗)。そういう者が以下の記事を書いているので、どうかご承知おきを。。。

以下が目次

序章「宗教は無関係」という人たちへーー河合隼雄、加賀乙彦、山折哲雄、合庭 惇
第一章 人にとって宗教はなぜ必要かーーー河合隼雄
第二章 宗教と出会い、そして得たものーーー加賀乙彦
第三章 日本人の中に生きる仏教ーーー山折哲雄
第四章 宗教がわからないと現代とつきあえないーーー合庭 惇
第五章 宗教を考える手がかり

なお、執筆者について触れておくと。。。
河合隼雄  臨床心理学者。京都大学名誉教授
加賀乙彦  作家。精神科医。日本芸術院会員
山折哲雄  宗教学者。国際日本文化研究センター所長
合庭 惇   国際日本文化研究センター教授  

四人の方々の宗教との出会いや関わり方などが書かれていて、たいへん興味深かった。「宗教」へのとっかかりとしてはいい本だったと思う。以下< >は本書より引用。

<よく聞いていると、自分の生き方の根本問題にかかわってくるということになってきたときには、宗教的な課題が前面に出てくる人が非常に多い。個人個人が直面している問題を考えるうえでは、宗教的要素は避けて通ることのできない課題です。>(河合隼雄氏のことばより)

<私は、それゆえ、宗教がわからなければ人間を本質的に理解することはできないのではないかと考えています。>(同上)

<自分の死をどうとらえるかということを真剣に考えるかぎり、どうしても宗教のことを考えざるをえない。それは人間の宿命だと思います。>(同上)

<.『聖書』は大変におもしろい本で、とくに『旧約聖書』の「創世記」「出エジプト記」「列王記」などに出てくる神話、伝説、歴史、とくに戦争物語などを読んでいくうちに、ヨセフ、モーセ、ダビデ、ソロモンなどのおもしろい人物に魅せられ、だんだんに『聖書』の世界に引きこまれていきました。>(加賀乙彦氏のことばより)

<『法華経』というと、とてもむずかしいお経の本のように思われるかもしれませんが、書かれているのはわかりやすい、しかもおもしろい物語です。>(同上)

<人間はいかに生きるべきかという人生の教師としての親鸞を知ったことから、次第に宗教の世界、あるいは仏教の世界に近づいていくことになりました>(同上)

<そしてこの、人間とは何か、日本人とは何か、自己とは何かという三つの事柄を問詰めていくと、最後はどうしても宗教的な問題にたどり着きます。>(同上)

<そのときにかすかに思ったのは、信ずるというのはこの状態に近いのではないかということでした。「信」とはいっさいの疑問がない状態でその状態に入ることが宗教の入口なのではないか、そんな予感を覚えたのです。>(同上)
*そんなときとは、いつも疑問をもち質問を抱いて生きてきた著者が、四日間の予定で朝から晩まで神父さんを質問攻めにしたところ、ふいに疑問を超えた世界があるのではないかという気が急にしてきた。妻とともにいわば憑依状態におちいったときをさす。(同上)

<けれどもその教授がいうことには、たしかにそれらの思想家の著作は英訳されているし、おもしろいとも思うけれども、西洋人の感性のレベルにまで強い影響を与えた人物と言えば、鈴木大拙(1870-1966)をおいてほかにないだろうということでした。 その場にいた何人かの学者たちもそれを聞いて、みな一様にうなずいていました。>(山折氏のことばより)
*その教授とは、ロンドン大学で日本文化を研究している教授のこと。それらの思想家というのは、明治以降の日本の思想家のことをさす。(*ガーベラによる註)

<外国の人たちは、自然と人間、あるいは宇宙と人間の関係を日本人は俳句というとても短い詩の形式の中で表現していると考えている。日本人の美意識がそこに凝縮して表現されている、日本人の死生観がそこに横たわっているのではないか、と感じています。海外の日本文化研究者のあいだでは、そういう問題にかんするヒントを与えてくれた人としても、鈴木大拙は有名なのです。>(同上)

<川端康成はノーベル文学賞を受賞したとき、ストックホルムで「美しい日本の私」と題して講演しておりますが、その冒頭で、日本人の美意識とか死生観を紹介するのに、道元のこの歌を紹介しています。川端康成もまた、そこに日本人の生き方のもっとも典型的な姿を感じとっていたと考えていたのでしょう。>(同上)
*道元のこの歌とは<「春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪冴えて涼しかりけり」>のことをさす(*ガーベラによる註)。

<遊離魂感覚というのは、たとえば『万葉集』の挽歌(死者を悼む歌)にもさかんに出てきます。死者の魂がその肉体から離れ、山とか空とか、高いところに昇っていくという意味の歌を多くの人が詠んでいますが、こうした心身分離の感覚は神道感覚そのものといっていいでしょう。>(同上)
このあと、西行というひとりの人物の中に、神道と仏教が渾然一体となった状態で生きていたことを述べていく。そしてこれが<日本人の宗教の底流をなす原形のようなものが見える、と山折氏は続けていく。

<『歎異抄』の中に、「信心一途にあるべし」という言葉が二六回も出てきます。あれは親鸞の語録で、弟子がまとめたものでしょうが、それにしても、なぜ親鸞が信ずると言うことをそんなにしつこく何回もいうのか、まったくわかりませんでした。ところが、自分が信仰をもつようになって、信仰とは信ずることがすべてなのだとわかったんです。信ずることがすべてであって、あとの理論は、それほど重要ではない。イエスもマグダラのマリアに、「汝の信仰、汝を救えり」といっています。イエスがたえずいっているのは、信ずるということがとても大事だということで、親鸞と同じです。>(加賀氏のことばより)

<マルクーハンは、「メディアはメッセージである」と述べました。つまり、人はメディア(媒体)に乗っている情報の内容に影響を受けるのではなく、その情報が乗ってくる器からメッセージ性を受け取るという意味です。>(合庭氏のことばより)と述べ、具体的に鉄道というインフラ(基幹施設)例にとり、これにより、生活圏が拡大され、人間観・世界観が変わることをあげている。そしていま誕生している情報社会というものに直面し、人間観もかわりつつあるのではないか、と述べている。

<インドに発祥した仏教が日本に伝えられたとき、それを日本人は、自分たちの信仰と日本の風土にマッチするようにアレンジしました。><日本古来の神道をベースにして受け入れられましたから、日本に受け入れられて形成された仏教の中には、神道的な観念とか神道的な霊魂観というものが融合しています。>(山折氏のことばより)

<先ほど、近代になって本が普及し、それ以前の「声の文化」の時代から「文字の文化」に変わったことで人間観も変わり、社会も変わったという話が出ましたが、宗教というのは本来的に声の文化ですね。>(合庭氏のことばより)

<地球上に存在するすべてのものに魂が宿っているという考え方が、ひょっとすると、二十一世紀以降、人類が地球と共存する、環境とともに生きていくためにもっとも必要な宗教意識になるだろうと思っているのです。>(山折氏のことばより)

また、本著のなかにコラムが12ほど挿入されているのだが、これは「世界の主な宗教」や「聖典」の話について書かれておりこれもよかった。宗教について本著でいくつかの視点を得たので、カメのあゆみのごとくぼちぼちと考えていけたらなあと思った。

 


多湖 輝著 「子どもの幸せにとって「いるもの」「いらないもの」」 新講社

2006-10-30 | こんな本読みました

<「子どもを不幸にするいちばん確実な方法は、いつでも、何でも手に入れられるようにしてやることである」>

……のっけからドキン!とする文章が「まえがき」の冒頭に出てくる。
これはフランスの思想家ルソーが著した『エミール』に登場する一節であるとの解説がある。

この観点に基づいて、多湖氏は、子どもにモノをかんたんに与えずに「我慢」させることの大切さを本著を通して述べられているように思う。<  >部は本著からの引用部分です。

<「世の中」にはモノがあふれている。友だちは何でも持っている。「でも、お母さんやお父さんはこう考えているんだよ」はっきりそう話して、「わが家」のやり方を子どもにわかってもらうのは、たとえ時間がかかっても、子どもが不満そうな顔をしても、必要なことではないでしょうか。>

<最初は欲しがるモノをすぐに与えないといった程度でかまいません。与える場合でも、手順として我慢を学んでもらうのです。>

<日本の経済はこのところ低迷が続いていますが、子どもを取り巻く環境はモノと情報にあふれています。>

<子どもが欲しがるモノを与えないというのは、親にとってもかなりの勇気や決断を要求されます。自分の子どもだけが仲間外れにされたら、かわいそうだからです。>

<モノを買い与えることを愛情表現と考えるお母さんやお父さんは、大勢いるのではないでしょうか。問題は、そのことで子どもがほんとうに幸福感を味わっているのか?ということです。>

<子どもが学ぶことや知ることに興味を持つ環境。これは、モノや道具で作られるのではありません。お母さんやお父さんが学ぶことの楽しさを教えればいいのです。歴史でも科学でも、あるいは算数でも言葉でも、知っていると便利なことや楽しいことがたくさんあります。>

<家庭での勉強は、お母さんが子どもの「一所懸命」を認めてあげるいいチャンスです。お手伝いやスポーツや何かを習うことでも同じですが、進歩や上達をほめる前に、まずベストを尽くす喜びや、清々しさを教えてください。>

んー。どうしてもわが子にも「結果」に対して評価してしまう面(ほめるにせよ、はげますにせよ)があるかも。。。と反省させられる文章である。

<わたしは家庭で両親ができることは無限にあると思っています。学校の先生が教えてくれないことでも、家庭でなら教えられることがいくらでもあるはずだと思っています。たとえば美しいものに感動する力とか、弱い人や恵まれない人をいたわる気持ちといった、モノやおカネがあっても学べない世界がそうです。>

目に見えないものの大切さを、まず親自身が感じとっていくことができるか?日々感じているか?子どもに教える教えないにかかわらずー。そこが実は重要問題なのかもしれない、と思わされた。

<ゲームに熱中する子どもたちの「列車」に最初から乗ってしまうと、そこはもう、ゲームの世界です。><要は、そこにわが子をいれなければいいのです。そのためには最初が肝心です。友だちがゲームをやり始めても、作戦を立てて時間稼ぎをしてください。><そのあいだに、子どもは自然にゲーム以外のことで時間を過ごす生活になれてしまいます。>

なるほど「時間稼ぎ」。これは、他のことにも応用できそうである。

<我慢の中に楽しさを見出せるようになった子どもは、その意味で、生きる上でのいちばん大切な心構えを身につけたことになるはずです。そのためにも、お母さんはまず、子どもの健全な欲望を育てることです。それは、早くたくさん与えることではなく、むしろ遅くても少しでもいいから、子どもに自分が欲しいものをしっかりと自覚させることが大切なのではないでしょうか。>

<子どもの幸福に「いるもの」は、一緒に我慢してくれる親の笑顔です。子どもの幸福に「いらないもの」は、与えることで我慢を忘れさせる親の笑顔です。>

……今まで、子どもにモノを与えるという行為の意味を強く意識していなかったが、そのこと自体が、子どもへの重要なメッセージだということを認識した。今までどこでどんなふうに与えてきたのか?とふりかえるとこわくなるので、これから先の時間をこころしていこうと思った。

 


感謝

2006-10-29 | 日々のあれこれ
TVのボリュームのことで小さないさかいを起こしている、ガーベラ家。

……そもそも、見たい番組がないのに、つけているのが気に入らない!

のだが、そーとも言えず。。。(なに、タイドにあらわれてるって?汗)

この頃は、ついていても気にしないように自分の聴覚を麻痺させる練習を日々積んでいる(笑)。

まー、そんなどこにでもあるようなフーフの実態なのだが、今日という今日は本当に夫に「感謝」した。

……日中、いつものように、タダついている画面にフト目をやると。。。

えーーー、私の好きなA氏が画面にーーー!!
それは、イタリアに行って、本場のピザやパスタを食べよう!というような番組だった。
A氏というのは俳優さんではなく、どちらかというと作家活動を中心にされている方。なので、TVの露出度はかなり低いと思われる(最近はよくわからないが)。本はよく読ませていただいているが、TV画面でお顔を拝見するのは、かれこれ十数年ぶり。

……とってもうれしかった……
……正直、顔がにやけた……

おそらく、私と子どもだけが家にいたら、絶対にお目にかかれなかったであろう。
……A氏と私をひきあわせてくれた(?)、夫に感謝!なのだ。

……あー、でも再びこのテの感謝の念を抱くのは、おそらく数年後だろうなー(汗)

ところで。A氏についてなのだが。。。

ひとめ見て、胸がきゅきゅっとしてしまった。。。
……なぜなら、A氏の右後ろの髪の毛の先が、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけハネていたから!(正面からはわからない)。横を向いて話すときだけチラチラッと見える。
あのような、チテキでスキのなさそうな方がちょっとだけ見せるスキが。。。

……けっこうたまらないなーーーーー(あっ。失礼しました。汗)


村上 龍著 「恋愛の格差」 青春出版社

2006-10-28 | こんな本読みました

この本は、<現代日本の「格差を伴った多様性」の中での、恋愛の可能性について書かれたものだ。>と著者は、はじめにの部分で述べている。

そして、<恋愛はその時代のライフスタイルに大きく依存している>という著者の考えのもと、現代の日本の社会の状況について述べていく。私は本書のなかでとくに「自立」「フリーター」についての部分が心に残った。
以下< >部は本書より引用。

<没落の可能性と混乱が支配する社会では、どう生きればいいのかということを考えなくても済むような文化が準備される。その文化は受け手の思考を奪うようなものでなくてはいけない。それはたとえばダイエットであり、エステであり、ブランドであり、ファッションであり、テレビのバラエティ番組であり、コミックであり、テレビゲームであり、すぐに消えてなくなるポップスであり、カラオケのようなものだ。>

今の日本を<没落の危険に直面している>という著者。その理由は、<これまで繁栄してきたからだ。繁栄しない国には没落もないし、一度繁栄した国には必ず次に没落の可能性が起こる>から。<繁栄から没落へと向かう国では価値観が混乱する。今まで良いことだとされていたことが、間違ったこととされる>とする。そして、<若い人たちは混乱に巻き込まれて、どう生きればいいかわからなくなる。将来が不安なので、ものごとを考えるのがいやになってしまう>という。

しかし、ほんとうはみんなどこかで考えている。考えているから不安になり、その不安を忘れるために暇つぶしの文化が流行る。誰もがただ浮かれているわけではない、という。

今の社会に「格差が生まれている」という例をいくつも挙げている。そして格差の問題点を指摘する。経済面から、人間の意識の面から。

<市場社会は残酷だ。訓練と学習による知識や技術のない者、容姿が美しくない者、資産のない者は、市場に対し売るものも持たないから、貧弱なサービスしか受けられない。恋愛はいずれもっとはっきりしたビジネスになるだろう。>

<市場社会には悪い面ばかりがあるわけではない。これまで愛情や誠意やボランティアといった口当たりのいい言葉でごまかされてきた行為が経済的に評価されるような仕組みが生まれる可能性もある。>しかし、<市場社会の本質を知らせるアナウンスがないことがフェアではない>とも言う。

<男に依存しなければ生活していけない女は、自分の運命を他人に託すことになる。それは多大なリスクだ。賢明な女は、男を選べるようなポジションを得たいと思うだろう。それは生活費を自分で稼ぐことができるかどうかにかかっている。それでも、リスクを実感できる分、女の方が男よりも有利かも知れない。社会の階層化の影響は、どちらかというと女よりも男のほうがシリアスだ。男は、これまで一律に威張ってきたが、たぶん今後そういうことはできなくなる。>

<昔の女性は社会進出の機会が極めて限られていたので、大前提的に結婚を考えるしかなかった。生きていく上で、他に選択肢がほとんどなかったのだ。雇用における男女差別が完全になくなったとわたしは思っていないが、女性の雇用機会や職種は昔に比べると格段に増えている。女性が結婚に頼らなくてもとりあえず生きていける社会になりつつある。>

<教育や家庭のことを考えると、これまでの制度が大昔から永遠に続いてきたものではないことがわかったこと思う。結婚も制度だ。今後どう変化するのかわからない。>

また、著者は、教育問題にも触れる。

<引きこもりはそのほとんどが男性だそうだ。つまりひょっとしたら何も対策を考えずに放っておくと、若い男は生まれ育った家を出たがらないのかもしれない。とりあえず家にいれば危険はないし、食料や生活環境を確保することができる。>

<好きなことをもっていない人間は時間だけは充分に持っている。彼らは余っている時間に何をすればいいのかわからない。彼らが余っている自分の時間を消費できるような業態・製品はヒットする。>

<わたしが問題にしたいのは、日本社会がどうしてフリーターという言葉を簡単に受け入れてしまったのだろうということだ。フリーターという言葉を受け入れるということは、フリーターという存在を現象として容認するということだ。>

<今のフリーターも非常に危険だ。彼らの多くはいつかは気づくことになる。三十五歳になって何の知識も技術もない人間は、社会の底辺でこき使われるしか生きる方法はないのだということに気づく。そのことに愕然として、社会を嫌悪する者が今よりも圧倒的に増えるだろう。彼らは反社会的で犯罪的な組織に吸収されるかも知れないし、そういう組織を作るかも知れない。いずれにしろそういうときに社会は多大なコストを払うことになる。>

<自立した女は男から敬遠されがちだというような嘘は、一人で生活できて、自分自身でものごとを判断できる女は支配するのがむずかしいので面倒だという、自立できない男たちの勝手な都合によって成立している。自立した人は、自立していない人にとって、また自立していない人の集まりの中で疎んじられる。>

<愛情というのは相手がぼくのために我慢してくれること、という誤解をした男が案外多い。耐えて我慢をして、必死に尽くす母親に育てられた男は、そういった誤解をしやすい。>

<母親の犠牲的な愛情を受けて育った男は、ぼくのことを好きだという女はぼくのために犠牲的・献身的に尽くしてくれるはずだという誤解をしたまま大人になってしまう。そういう男は、相手の自由や時間を尊重するという概念がない。>

<五十歳になってやっと気づいたのだが、人間関係におけるわたしの価値観には母親が強く影響している。わたしは、わたしの母親の仕事を尊重することで、たとえ親でも相手の自由と時間を束縛してはいけないのだと実感しつつ育ったのだった。>
*著者の母親は、教師をしていたという。きついとか大変だと言いながら、充実しているように見えた。仕事に誇りをもっているとか、この仕事で自立しているとか、一切言わなかったとも書かれてある(*ガーベラによる註)。

……裏を返せば、母親はどんなふうに子どもを育てていったらいいかという、ヒントが隠されているように思った。

おそらく、今の時代どんな「恋愛」をしていったらいいか。。。というような視点で本書を読まれる方とは、おおよそかけはなれた読み方になっているかと思う。どちらかというと、自分自身が「養育者」であるという視点から、この記事が書かれていることを、どうかご了承ください(ぺこり)。


 


鏡リュウジ著 「タロット」 河出書房新社

2006-10-27 | こんな本読みました

「鏡リュウジ」といえば、よく女性雑誌で名前を見かけますよね?
ほら、「占いページ」で。「今月の運勢」なんていう欄で(すみません、男性雑誌は知りません。汗)。西洋占星術(星占い)で。

その方が書いた本なのですが、これがいたって学問的なのであります。本のサブタイトルに「こころの図像学」なんてついています(図像学ってなんだ?汗)。

この手の本は初めてよむのですが、なにやらとってもおもしろかったです。

「タロット」というと、「占い」のために使うカードというイメージだったのですが、むかしは「ゲーム」用としてつかっていたんだとか。タロットの500年にわたる歴史とか。タロットが神秘主義とむすびついたり。タロットを心理学的に理解した人がいたり。『民族』タロットがあったり。。。

……とにかく、知らないことばかり!汗。

はじめの章では、「タロットを読む」として、大アルカナ22枚の図像を鏡氏が読み解いていくのですが、本書の下に3種類のカードの写真がのっています。これらのイメージの変遷を追いながら、そのカードからどんな心の世界が読み取れるかということがていねいに述べられています。

*3種類のカードとは、「ヴィスコンティ・スフォルザ版」「マルセーユ版」「ウエイト版」のことをさす(*ガーベラによる註)

個人的にむかーし、タロットカードでひとり遊び(要するに占い!)をしたことがあったので、カードの大まかな 意味を読んだことはありましたが、鏡氏のこの解説を読んで、タロットの奥深さに触れたような気がします。

例えば、「愚者」!。
実は、あんまりいいイメージを抱いていなかったのですが、この本を読んで、「愚者」に魅力を感じてしまいました!

ウエイト版(20世紀に描かれたもの)によれば<経験を求めるスピリット>であり、ユング心理学でいうところの<永遠の少年>(理想に向かって大地から離れてゆく心性)の元型とつながっているとか。ウエイト版の構図もこころが解放されるようなもので、とてもいい。

しかし、15世紀までさかのぼったもの(ヴィスコンティ・スフォルザ版)になると、「悪徳」をあらわす図像で、「愚行」のモチーフだと思われるとか。16世紀になると(マルセーユ版)、少し変容して「道化」の姿をとる。

このように、カードの図像をはじめ、意味するところも時代によってかなり違うようです。しかし、すべてに共通する<日常の秩序やらを一気に無化させてしまう力をもつ>という共通点。<「外部」のまなざしがもつ魅力と危険を、同時に伝えている>という。扱いにむずかしい「愚者」。タロットの解説をよみながら、なんだか自分のこころのなかを探っていくような気になっていきます。

例えば「太陽」!
これは、<ルネサンスから現代までのどのカードを見ても、太陽のカードには、晴れやかなイメージが込められているように感じる><人に生命の躍動感と、生き生きとした無垢さ、神聖なる単純さを暗示しているように思える>と述べられています。そして、太陽の図像には「幸福なる子どものイメージの絵」がいっしょに描かれているのです(単に太陽だけというカード、恋人が語り合っているカードもある)。しかし、なかには、「太陽に向かって進む馬車から、落下する子ども」を描いたものが紹介してあり、読み物としてもおもしろかった。カードを多面的にとらえていかないといけないのだな、と思いました。

また、最後の章にはタロットを使っての「占い」について。そのやり方とカードの読み方、事例などがのっています。一枚のカードにもいろんな意味があり、それとともに他のカードとのかかわりを読んでいかねばならないようです(ひどく、むずかしそう)。

秋の夜長。タロットカードをひっぱり出して、「これからの自分」を占ってみようか?

……んー。いや、いや。こわいからやめておこう(苦笑)。
……それとも、自分勝手によい物語をつくってしまおうか(笑)。

あ、これは余談ですが。。。
つい先日たまたまテレビをつけたら、鏡氏がこんなことをおっしゃっていました。
とあるアメリカの最近のタロットについて。このタロットは、ふつうのと違うところがある。それは、枚数が多いこと!

なんのカードが多いのかって?

……それは、「恋人」のカードです!

ふつうこのカードには「男性と女性」が描かれている。が、これには「男性と男性」「女性と女性」が描かれたカード、2枚が多くはいっているのだとか。さすが、アメリカらしいエピソードですね!

 


田中 喜美子著 「子育て大崩落」 毎日出版社

2006-10-26 | こんな本読みました

10月14,15日に紹介した本の著者の第二弾!です。

以下が目次
はじめに
第一章 育児論の混迷
第二章 子育ての現実
第三章 裏目に出た伝統
第四章 子育てがつらい!
第五章 母親に「しつけ」はできない
第六章 女性が働き続けられない日本社会
第七章 正しい子育てはどこに
おわりに

これもやはり乳幼児の育て方について書かれている。前に紹介した本(『母子密着と育児障害』)と違うのは、ご自分の主催されるNMS(ニューマザーリングシステム)の方の育児に関する悩みや、通信教育を受けての感想。そして各種データ、母親の世代の特長などを具体的に挙げているところ。なので現代の母親像や育児の様子が、よりつかみやすくなっている。

<>は、本書からの引用部分です。

<現代の母親たちは、「貧しさ」のなかでの子育てのノウハウは心得ていても、「豊かさ」のなかでのそれを知ってはいない。いや母親ばかりでなく、日本人全体が知らない。>
同感である。母親は常に悩んでいると思う。うまくいかないことも多々ある。いや、そのほうが多い?その「豊かさのなかでの子育て」の方法。それを手探りでさがしているのが現代だと思う。

<赤ちゃんの欲求はすべてかなえてやることが善である。これがいま、日本で流行している子育ての基本思想である。>むかしは、かなえてやりたくても、母親のが忙しくてかなえてやれなかった。しかし、今は<「家事」の名で呼ばれていた労働のほとんどは家庭から姿を消してしまっている。><いまや、子どもをいじくりまわしてでもいなければ、母親が何のために家庭にとどまっているのか、言い訳のできない時代がやってきている。>

そこで、<親が赤ちゃんを一日中抱いたまま育てている><泣かれればすぐ抱く><泣けばおっぱい>。つまり、<母親たちは心ゆくまで子どもに手をかけるヒマを手に入れている。>

しかし実は、<赤ちゃんが寝てばかりいるこの時期に、親が子どもをどう扱うかということにこそ、赤ちゃんのその後の人生を左右する鍵が潜んでいる。>という著者。

以下のように、池田市の小児科医・槙野幾之輔の研究(リーフレット)より引用している。

<赤ん坊が生まれます。母親は本能的にこの可愛い子のためなら何でもしてやろうと思います。だから赤ん坊が泣くとヨシヨシと声をかけ、抱き上げ、お乳を与え、オムツを替えたりします。しかし母親が、泣く度に反応していると、泣けば何でもしてもらえるという「悪い条件反射」が生まれます。泣けば思い通りになることを覚えた子はどんな性格になるでしょう。そんな子は「辛抱」する心が育ちません。>

上記のような声を発する人がきわめて少なく、逆に母親の愛の不足を言挙げする「先生」の言葉ばかりがマスコミに出現することが不思議でならないと著者は言う。

<こうしてわがまま勝手な幼児が大量生産され、乳時期を脱して行動半径が広がってくると、そのわがままっ子に振り回される母親のイライラは増幅してくる。>

<母親が育児の失敗に気づくのは、Yさんのように二番目の子どもの誕生を機とすることが多い。それまで王様・女王様として育ってきた長子が、二番目の出現にパニックになり、猛烈な抵抗を始めるからである。>

*Yさんというのは、「とある育児の会で、母乳は本人からやめるまで、何歳になってもあげていい。おっぱいは泣いたらあげる。夜は添い寝でいい。と言われ、下の子が生まれるまでずっと実行してきた」方(*はガーベラによる註)

<この時点でたいていのお母さんは、ガミガミ型の母親に変身していく。それまでのように、子どもを全面的に受容していては、日常生活まで成り立たなくなってしまうからだ。><「先生」たちが母親の変貌のすさまじさに呆れているが、しかし母親の変貌の遠因は自分たちが彼女に教え込んだ母子密着の子育てにあることに気づいていない。>

著者は、この「先生」にも目を向ける。
<彼らの「やさしさ」はもっぱら子どもだけに向けられていて、母親の存在は視野の外にある。自分たちの勧める育児法が、母親にどんな負担を与え、結果としてどんな母子関係をもたらすかということが見えていない。>

この「先生」とは、泣けば抱っこ、泣けばおっぱい、寝かしつけは抱っこで揺らしながら……という育児を推奨する学者や小児科医のことをさす。

<親のしつけがもっとも効率よく子どもの身につくのは、ゼロ歳から二歳ぐらいまでの時期なのだが、この大切な時期に親たちは「まだ小さいから」と何から何まで面倒を見、どんなわがままも許してしまう。そしてすっかり「やらない」生活が身についてしまった頃、口やかましく「言ってきかせて」やらせようとする。しかし時はすでに遅い。>

<たしかに親の「厳しさ」が理不尽なものであった場合、思春期になった子どもに手ひどいしっぺ返しを受けることはある。しかし私は、親の「筋の通った厳しさ」が親子仲を破壊した例は見たことがない。>

また、日本社会が母親に冷たいことにも言及している。

<たとえば子連れの母親が電車のなかで冷たく扱われる情景などにも、その現実は象徴的に現れているような気がする。人々は、子育てというものをまったく私的な営みと取り違え、とくに家庭で子育てをしている母親を支えようとはしない。>

筆者は、子どもをどうしつけていくか。そのために母親はどうすべきか。その母親はどうして子どもに密着するようになったのか。その母親をめぐる社会はどうなっているのかなどについて述べていく。そして、女性が働き続けることがむずかしい日本社会について言及していくのである。また、ごく一部を除いて、出産・育児でごくすんなりと職業を中断する実情があることも。

では、政財界を動かしている人が女性のライフスタイル(「中断再就職」)を変えようとしないのはなぜか? それは、<主婦たちは介護の担い手として期待されている>からであるという点をついていく。

<家庭にとどまる母親に、仕事の名にふさわしい家事労働がある間はまだよかった。いま、生きるにふさわしい「仕事」を失った彼女たちは、「ラクで楽しい生活」の頽廃の中に沈み込み、唯一の生きがいとして子育てにすがりついている。>

……子育てを母親の生きがいにしてはいけない。では、その母親はどうやって生きていくのか?日本の男性の過重な労働。はたまたリストラ。子どもをめぐる家族のあり方。。。なかなかにむずかしい問題が山積している(と思いませんか?汗)。。。 

 


「読み聞かせ講座」に行った③

2006-10-25 | 日々のあれこれ

本講座の第三回目。今回が最後。これをもって講師大井むつみ氏による講座終了。

今回は、実技指導が中心。ひとりずつ持参した本を、みんなの前で「読み聞かせ」する。3人~4人をひとまとまりにして、その都度先生からひとこと。11人の受講者が順々に前に出て発表した。

また、実技の前にこんな話をされた。

・読み聞かせの際に、作品の「作者名」を言うかどうか
→どうせ子どもはわからないから、言う必要がないという考えもある。しかし、作者名を言うのは、エチケットではないか?。作者名→題名、もしくは題名→作者名どちらでもいいが。

・小学校の読み聞かせの実技講座の指導に行ってきたが、安心して聞いていられなかった。その理由について。
1)読み手が落ち着いていない
2)声音、芝居っけが入ってしまっている→作品に色をつけるのは、子どもの役目。熱演しすぎないこと。
3)本が動くので集中を妨げる→まっすぐしっかり持つこと
4)声が十分届いていない。
5)作品そのものに魅力がない→選書眼を養う

・読み聞かせはシンプルに。子どもがどう受け取ったかは、こちらのあずかりしらぬこと。

・「読んでやる 聞かせてやる 感動させてやる」はだめ。「本は楽しいものだ」という経験をさせることが大事。細々と勉強を続けること。そのために仲間がいるとよい。

・子どもには一番真剣に向き合う。「読み聞かせ どうせやるなら 極上を」
子どもにとっては「誰」が読むかではなく、「何」を読むかが大事。

・上手くなってきたと思ったときが要注意。

・赤ちゃんへの読み聞かせ。湯河原の町立図書館の実践について。
生後まだ間もない赤ちゃんに、きちんと大人のことばであいさつをする。そういう姿勢があった。以下の2冊を紹介。
『おくちをあーん』 さかい きみこ 作
『なーんだ なんだ』 カズコ ジー ストーン作(…と聞こえました。汗)

実技指導では、以下の注意が個別になされた。
・めくりが早い ・語尾がのびる ・文字が少ない本は、ゆっくり読む ・声を聞き手に向けて話す など。

個人的には、以下の本がこころに残った。
『まほうつかいとねこ』 せな けいこ 作 ……とにかく楽しかった!
『山んばあさんとむじな』 いとう じゅんいち 作 ……少年4人が登場!
『ロージーのおさんぽ』 パットハッチンス作 ……絵が楽しい!
『わたし』 谷川 俊太郎 作 ……他人から見ての「自分」を考える。

また、先生が紹介してくださった本では。。。
『つきよのおんがくかい』 山下 洋輔作
 ……さすが、一流のジャズピアニスト!。すごく面白い!4つの楽器の音やリズムを「文字」であらわしているのだが、とてもぴったりくる。演奏しているのが「動物」というのもいい。色使いもよかった(絵は山下氏ではないが)。ただし、これは読むのにかなり練習を必要とするかも。。。

また、質問に答えるかたちで、最後に先生より。。。
・「読み聞かせ」ということばがあまり好きではないという受講者の意見があった。「教えてやる」「やらせる」という上からの色調があり、自分も好きではない。他にいいことばはないか?いっしょに考えましょう。

・新しいものも手にとって読んでみること。いい本が必ずしも、読み聞かせにあうものとは限らない。集団にあうかどうか。

・「気をつけよう 暗い夜道と ボランティア」(岡山のほうから出てきたことばだそうです)というのがあるが、「子どものために」やっているつもりが、いつのまにかおばさんのひまつぶしになってきてしまうということがある。謙虚な姿勢が必要。基本に立ち返ること。

・読み手として大事な姿勢……めげない。あまり気にしないこと→聞き手の子どもの反応は、担任のカラーの影響もあるだろうし、その日のコンディションも左右する。

・いろんな方のうまい読み聞かせをたくさん聞くとよい。また、年配の人の読み聞かせにはなんともいえない味がある。

以上3回の講座で学んだことを記してみた。自分が最近の絵本をあまり知らないことを痛感した(汗)。ぼちぼちと練習・勉強をしていこうと思った。

 


村上 春樹著 「アフターダーク」 講談社

2006-10-24 | こんな本読みました

1回読んだだけでは、正直言ってよくつかみきれなかった。部分的に好きなところはあったのだが。

……そして、もう一度初めから、サーッと読み直してみた。

……う~む。こういうことかなー。こういうことがいいたかったのかなー。そんなことがぼんやり見えてきた。それは、作者の意図するところとは違うものかもしれないけれど。

……というわけで、おそれながら感想を記してみます。(未読の方は、ネタバレの部分があるのでご注意を。笑)

‘私たち‘の視点から書かれているので、非常に淡々とした印象で文章で話全体が進められていく。

ちなみに、ここでいう「私たち」というのは、作者の文章表現によると<ひとつの視点となって>対象を見る、あるいは<窃視している>。<視点は中に浮かんだカメラとなって、部屋の中を自在に移動することができる>。しかしそれは<架空のカメラ>であり<目に見えない無名の侵入者>である。それは起こっていることに<関与する資格がない>し、<観察はするが、介入はしない>。

つまり、この作品全体が、神の視点から描かれており、それをあらかじめ読者に宣言することによって、起こっていることをより客観的に描こうとする作者の意図が感じられた。また、起こっていることと読者との間にある距離感を持たせているようにも思えた。それは、もしかしたら、「今」を生きる主人公マリとその姉エリ、そして登場人物のもっているキャラクターゆえからかもしれない。

そのキャラクターとは、熱くもなれないし、かといって、冷めてもいない。ある程度の距離をおいて人とつきあうー。そんな人たちを描くための作者の手法なのか?

・また、これはある日の、午後11時56分から午前6時52分までに起こったことを、時間を追って描いている。それによって、登場人物の行動が把握できる。そして、ある人がある行動を起こすことによって、ある人の状態が変わる。その様子や関連性がわかるのである。ただし、わかるといっても、それは作者によって因果関係が明記されていない。ので、あくまで読者である自分の「想像」の範囲を抜け出ないのだが。

・さて、そこで自分が「想像」した内容は。。。

マリの姉エリは、<誰かから意味のない暴力を受け><無言の悲鳴>をあげ<見えない血を流している>ゆえに<2ヶ月ねたきりになっている>。
……その「誰か」とは、<罪のない女の子を必要以上に殴った>人。自分の負の感情をコントロールすることなくー。おそらく、同じ職場の人間だと思われる。

・人に相談するということ。悩みを話すということ。それは、案外身近な人にはむずかしいことかもしれない。この作品でも、その晩偶然出会った人もしくはちょっとした顔見知りの人の悩みを聞き、かつ自分の心のもやもやを話している(マリとコオロギの会話。マリと高橋もか)。「自分」(話者)をなんの色眼鏡もかけずに見てくれる。でも、目の前にいる人を「信用できる」と相手は思っていてくれる(そこが大事だと思うが)。

本文中の表現によれば<適当に相づちをうってくれる、多少は人間味のある壁みたいなもの>

身近な人だと、話す方も相手に「遠慮」したり「心配かけたくない」とか「自分がどう思われるか」などもろもろの思惑が入り込んでしまう。また、相手にも何をか(アドバイスとか解決策)を意識的にせよ無意識的にせよ望んでしまうのではないか。自分の話を「傾聴」してくれる。ただそのことの重要性を感じた。第三者的な人だから話せること。そういうこともあると思った。

・誰かに対して、非常に心配していて、気にかかることがあるのなら、今までの思いとか、こだわりとかを一切打ち捨てて、その人のことをひたすら、ただひたすら「思い出す」。記憶という記憶をたぐりよせて。そうすることによって、ある人の意識になんらかの影響が与えられるかもしれない。そういう可能性があるのではないかと思った。

<「そやから、マリちゃんもがんばって頭をひねって、いろんなことを思い出しなさい。お姉さんとのことを。それがきっと大事な燃料になるから。あんた自身にとっても、それからたぶんお姉さんにとっても」>(P.245 コオロギのことば)

その前に、コオロギは「大事な燃料」(記憶)について、こんなこともマリに言っている。少し長いが引用してみる。

<「人間の記憶ゆうのはほんまにけったいなもので、役にも立たんような、しょうもないことを、引き出しにいっぱい詰め込んでいるものなんよ。」>

<「それで思うんやけどね、人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。ー中略ー大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくタダの燃料」>

<「それでね、もしそういう燃料が私になかったとしたら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。大事なことやらしょうもないことやら、いろんな記憶を時に応じてぼちぼちと引き出していけるから、こんな悪夢みたいな生活を続けていても、それなりに生きていけるんよ。もうあかん、もうこれ以上やれんと思っても、なんとかそこを乗り越えていけるんよ」>

誰かのことが気がかりで、心配でどうしようもないとき。でも自分ではどうしていいかわからないとき。こうしてそのひとのことを思い出す。ひたすら思う。それは、もしかしたら「祈り」につうじるものなのかな。。。。ということを思った。

 


金盛 浦子著 「あなたらしい あなたが 一番いい」 PHP文庫

2006-10-23 | こんな本読みました

あー、ちょっとこの頃元気でないなー……とか、
やる気がでないなー……とか、
自分ってほんとになにやっても中途半端……とか。
落ち込むことってありますよね?

そんなときこの本の文章を読むと、ちょっとだけ自分を好きになれます。
そんなダメな自分もいとおしく感じられる、というのでしょうか。

この本の著者は小学校教諭を経て、セラピスト、臨床心理士、絵画療法士となった方。子育て関連の本も出版されています(読んだことはありませんが。汗)。名前は知っていたのですが、今回初めてこの方の著書を読みました。

その中から……。

<「自分らしい自分」を掘り起こす作業って、通常案外と手間がかかります。場合によっては大地震の後の瓦礫の底から、ふと思い出した大事な何かを掘り出すほどの手間がかかります。>

<いつもいつも、その時々にやりたいことをやり切れてきた私は、何と幸せなんだろう。やりたいことをやるたびに、私は私自身の本質に近づいてきた。>

<「一つのことを極めよう。やり遂げよう」などと思い詰める必要はありません。必要がないどころか、思い詰めは、あなたの行く末を邪魔することのほうが多いのです。>

<お金も物も無駄づかいしない。それは試行錯誤ができていない、試行錯誤を許されていないことを意味しています。>

<本当にその人のためを考えたら「あなた(お前)のため」なんて言えないはずです。何かを言うとしたら、次のように言うのがせいぜいだと思います。「私はこう思うけど、でも、あなたがどう思うかは別のこと。決めるのも選ぶのもあなただよ。本当にあなた自身のためを考えられるのは、あなただけなのだから。」>

<「自分らしい自分」として生きられてこそ、最後には「世のため人のために役立つ人生を実現できる」>

<本当に素晴らしい結婚生活を送っている人々は、かなりの意味で自立している人であり、相手に依存してはいません。依存する部分があるにしても、必要に応じて「自分自身を律する力」つまりは自律することで適度な距離を保つ知恵を身につけています。>

<みんな、誰ひとり欠けることなく、想像を絶するほどの膨大な物事や経験を積み重ねた結果として、今そこにそうして生きているんです。>

<まずは何よりも先に、自分を愛すること、自分に優しくすること、自分を尊重すること、自分を許すこと、自分自身を受け入れることを大切にしてください。それは素敵なことです。>

……どうですか?
もしも、いま現在落ち込んでいらっしゃる方、少しは楽な気持ちになれましたか?(なに、これだけじゃだめだって?汗。そういう方は、この本を手にとってみてください笑)
身近にこういう人がいて、適切なときに声をかけてくれたらそれにこしたことはありませんよね。もう、うるうるきちゃいます。。。弱っているときに、人のやさしさにふれると。。。
でも、自分に自信がなくなっているときって、人と会うのすらちょっと。。。という状態なのではないでしょうか。

そんなとき、こんなあったかいメッセージを受けとれたなら。。。

……「笑顔でがんばろー!」までいかないにしても、「まあ、ぼちぼちいこか」……という気にさせてくれます。

そういえば「楽しいから笑うんじゃない。笑うから楽しくなるんだ!」……なんてことばもどっかにあったなー。。。

よしっ!まずは鏡の前で笑ってみよっか。にっ!(←こっ、こわいよ、自分!汗)

 


ウォーキング

2006-10-22 | 日々のあれこれ
秋晴れの一日。家から高速で北上すること約2時間。とある公園へ行ってきた。そこの県は「老後に住みたい」場所にあげられているのだそうだ(そこそこ田舎でそこそこ都会に近いからだろうか?)。

何しにいったかというと「あるけ・あるけ大会」に参加するためだ。健康推進協会のようなところで主催している。わが家もそこへ参加したというのは自主的というよりも、夫の仕事がらみという消極的な理由なのだが。

……行ってみたらけっこう楽しかった。

その公園内には、大きなプールあり、バラ園あり、運動場あり(運動会をやっていた)、大きな池あり。それらの施設の外周が4キロメートル。

そこで、その外周をとにかく歩くのだ。自分のペースでよい。時間内(1時間10分くらいだった)で2周歩いてもよい。

1周歩くのにが約30分。わが家は、子どもがいたので1周にとどめておいたが、大人の男性は2周歩いている人もいた。けっこうしんどそうだった。

1周して、ゴールすると「抽選券」がもらえる。最後に各企業から協賛された品物をくじ引きするのだ。

……これは、完全にアメとムチだな(笑)

子ども達は、その賞品が並べられている山を見て、「ティシュなんかやだー!」とか「ミッキーの紙袋のがいいー!」と口々に言い合っている。私はといえば、あの「某デパートの青い包み紙のがいいな~」なんてことを勝手に思い描いていた。

……いよいよ抽選会が始まった。

まず、はじめは「キャ○ン」さんから出された「腕時計」!いきなり高価な賞品でどよめきが。。。

450名近い参加者のうらやましそ~な視線を思いっきりあびながら、司会者のところへ賞品を受け取りに行く2名のラッキーな人!

そして、次々と賞品が渡されていく。司会の方が番号を言う度に、いちいちガックリする長女。山のように並べてあった賞品が減っていくたびに「あー、もうこうなったらティッシュでもなんでもいいからーあたれ~」と言い出す始末。

……その執念が通じたのか……

なんとティッシュボックス10個が当たってしまった。。。ただし、次女の番号で。

子どもらは、よろこびいさんで、ティッシュを前に取りに行った。

しかし、私はミョーに不安になってしまった。この後の次女の行く末に。。。

以前DSを買う際に行った「抽選」でも当たり、今回も当たった。

もし、一生の間で、ひとりの人の「運の総和」が決まっているとしたら……
はたして、こんなことで「運」をつかってしまっていいのか?

むしろ、全然当たらない長女の方が、この先ドッカーーーンと大きなものを引き当てるのではあるまいか?

……ああ、次女の行く末に幸あれ!……