16年間組織に属し(ベネッセコーポレーション)、高校生のための小論文編集長として務めてこられた方。しかし志あって会社を辞め、フリーランスの道を模索し始められる。試行錯誤しながら自分自身の生き方をみつけていく過程を通じて、表現することの意味を深く掘り下げて考えている。
本書は、『ほぼ日刊イトイ新聞』に連載された著者のコラムの中から26本を選び、加筆訂正したものである。「ほぼ日」に、「考える力」をキーにした新しい読み物として無償で書き始められたという。また、これのシリーズとしてⅡ、Ⅲとある。Ⅲの『17歳は2回くる』も併せて読んでみた。
どちらも、著者のそのときそのときの心情なり、悩みなり、思いなりが伝わってくる。飾らないことばで。素直なきもちで。何でもまっすぐに受け止め苦しんでいる姿、勇気をもって進んでいこうとする姿。著者のいろんな姿を見ることができる。そしてその姿を目のあたりにして読者である私はなぜか励まされるのである。ああ、ここにもがんばっている人、悩んでいる人がいるのだ、と。
<考えない、あるいは、考えられない、そんな頭が止まってしまってた状態を、小論文では、
「問い」が立たたない。
と言います。裏返すと、考えるとは?そう、
「問い」を発見することです。>(『おとなの小論文教室。』より)
<作家でなくとも、アーティストでなくとも、日常や、仕事のシーンで、生活者として、仕事人として、自分の思いをきちんと言葉にして伝えられる人は自由だ。>(同上)
<関係把握にすぐれた子は、まず、読む力がすごくあるのに驚きます。人の意見を、聞く・読む・理解する、というのは、外界との接触の第一歩のような気がします。そして、絶対に、長い難しい複雑な話を一発でポン!と読める、聞けるようにはなりません。まず、やさしいものから難しいものへ、単純なものから複雑なものへ、具体的なものから抽象度の高いものへ、とコツコツ積み上げた結果、長い文章を、正しく読めるようになっています。こうした積み上げがあるからこそ、未知の大人に出会っても、その発言を正しく、核心を外さず聞けるのです。>(同上)
<自分の道を歩き出し、未来が見えなくて、だれにも何にも頼れなくて、どうしようもないところに追い詰められたとき、瞬間瞬間で、手探りするように、自分を生かす道を選び取っている。その思考法にきらめきがある。そのきらめきは、成功してしまった人が秘訣を法則化して向こう側から照らす光とは違う。進行形の迷いの中で、自分で解決できる限界に達し、行き詰った人間が、それでも進もうともがくときに、双葉がパカッと割れるようにして、自分の潜在能力が顔を出す。>(『17歳は2回くる』より)
<人には、追い詰められたとき、自分で、自分を生かす道を考え出す力がある。>(同上)
<長く組織にいて、離れたばかりの人に会うと、一様に不安を訴える。働いていないと自分を肯定できない。人に会わない生活が寂しい。このまま社会から取り残されるのではないか。私も2年間に、何度このデカイのが襲ってきたか。そういう状況から脱出することばかりを考えていた。でも、なかなか出口が見つからなかった。ただ、2年して、意外な出口が見えてきた。出口と言えるのかどうか、とにかく予想外のことだ。恵まれた環境というのは、多くを与えられすぎ、もしかしたら自分の中から湧きあがってくるものまでふさいでいるのかもしれない。>(同上)
<批判というものは、よほど相手を継続的に、よくみていなければできないし、相手の感情的抵抗も受ける。アドバイスでさえ、相手を傷つける行為なのだ。そのリスクを人に負わせるのか、ということになる。>(同上)
<本気で、客観的な意見を聞くには、具体的なものを用意し、質問をつくり、話しやすい雰囲気づくりをして、自分から、聞きたい相手に、つっこんで聞く必要があるのだ。これは、試してみたら、自分の位置を知るのにとても効果があった。つまり、自分の何が評価され、何が求められているかがわかる。>(同上)
<つまり、映画はAがいいかBがいいか?でなく、Aがいいと切り出したこの人が、言いたいことは何だろうか?Aがいいって言うこの人は、いったいどんな人なのか?映画の話をきっかけに、相手という人間を掘り下げてみる。人間同士が顔をつきあわせて話す面白さは、むしろこちらにあるのではないだろうか?>(同上)
以上、< >は著書からの引用部分です。
……著者の本に共鳴している今の自分。
著者が味わったであろう模索の日々に、多少なりとも似通っている部分があるからであろうか。程度の違いこそあれ(汗)。
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