本書のタイトルの上に<知らないと恥ずかしい>と書かれてある(苦笑)。
先日、評論家の樋口恵子さんの女性差別と立ち向かうまでの経緯を知った(読売新聞)。それを読み自分は女性差別を知っていたけれども、体験としてわかっていなかったということに気づかされた(汗)。ゆえに知識としてあっても某大臣の女性差別的な発言に憤ったとしても持続性がない。はずかしながらそんなことを痛感した。
……そこで。この本だ。これで学ぼう!。
どうしてこの本か?と問われても書店でたまたま目についたからと答えるしかない。薄くて、読みやすそうだったし「入門」とタイトルにある。
かつて上野千鶴子氏の著作を読んだことがあったので(2006年1月5日ダイアリー)、それ以外の人という思惑もなきにしもあらずなのだが。…とは言っても、本書の帯に上野千鶴子氏の推薦文らしきものが載っているが。
という前置きはさておいて。。。
本書は、「ジェンダーの理論」のエッセンスを語ることが目標とのこと。知識を増やすためのものではなく、「考える」ための問題集であり参考書であるという。ジェンダーという概念そのものの分析であり、それを現実認識のための道具として鍛え上げる特徴をもつ本だと著者は述べる。
また、著者が述べる意見を補完するものとして何冊かの参考文献を挙げられている。そちらも読みあわせるとより納得する形で著者の意見を理解することができると推察する。
さて、その内容とは?以下が目次。
第1章 ジェンダーって何のこと?
― おおまかな見取り図を描く
第2章 「ジェンダー」は何を訴えてきたか
― 先駆者たちがめざしたもの
第3章 「男」「女」って何だろう?
― 性別の起源
第4章 「男とは~」「女とは~」なんて雑すぎる
― 性差・ステレオタイプ・差別
第5章 「女なら女らしくしなさい」は論理ではない
― 性役割と「らしさ」の罠
第6章 セクシュアリティはジェンダーではない
― 「性」に潜む二つの意味
第7章 ジェンダーの平等に対するバックラッシュ
― 自由と平等を問い続ける
では、ジェンダーが実際にどういう意味で使われているのか?大きく分けて四通りあると著者はいう。
①性別そのもの
②自分の性別が何かという意識(ジェンダー・アイデンティティ、性自認)
③社会的につくられた男女差(ジェンダー差、性差)
④社会的につくられた男女別の役割(ジェンダー役割、性役割)
どのような使い方をとっても、ジェンダーには<社会的>という含意があるという。それに対して、肉体的な次元の性をセックスと呼ぶという(ジェンダー/セックスという二分法そのものを著者は疑っているらしいが)。
また、本書はフロイトが<性>をかたちづくる生物学的な次元と社会的な次元を明確に区別してきたこと。ボーヴォワールが<女>を「他者」である(人間の「主体」は男であることに対して女は男から見た客体という意味)と位置づけたことなど二十世紀前半の男らしさや女らしさの考え方を紹介し考察している。
これらの後に、アメリカでもっとも注目を集めたジュディス・バトラー(アメリカの哲学者。カリフォルニア大学バークレー校教授)、ジョン・マネー(アメリカの心理学者)、ロバート・ストーラー(アメリカの精神分析学者)のジェンダーについての理論を紹介していく。その後『性の政治学』(ケイト・ミレット著)、『性の弁証法』(シュラミス・ファイアストーン)などが出てきたという。
<「性差とは男女間の記述的差異のことである」><「性役割とは、ある人が、その性別ゆえにとることを社会的に期待される行動パターンのことである」>と著者は定義づける。
「性役割」には「そうあるべきだ、そうでなければただではおかない」という強い意味があり、このような期待を「規範」と呼ぶという。しかし、表面的には「べき」という語句を含まない文が、実は規範的な意味を隠し持っていることがあるという。
この規範の概念についてはドイツの社会学者二クラス・ルーマンという人の、ジェンダーに限定されない理論を挙げながら説明している(認知的予期と規範的予期)。その理論をもちいると、<性役割とは、つまり「ある人に対して、その人が全体としてどういう人物であるかということをありのままに知ろうとしない、すなわち現実を認めずに、その人の属性の一部である性別だけによって、一連の行動パターンを相手に期待する規範である」ということ>だという。
これは規範である以上、それに違背した人は責められる。それを社会学の用語で「負のサンクション」あるいは単に「サンクション」という(らしい)。これは当人の外部からだけでなく、自分自身の内側に染みこんだ規範の観念が、その規範に違背した自分自身を苦しめるということは稀ではないという。
また「性差」といううのは本質的に統計学的な概念だとする。自分の知っている数少ない事例をいきなり一般化することはよくない。ステレオタイプは差別とむすびついていると述べる。
ここで「区別」と「差別」はどう違うのか?ということについては、著者は「差別とは不当な区別」と定義し、「不当な区別」とは、人間を等しく扱うべきところで扱いに差をつけることだという。
また、<差別はステレオタイプを前提としている>ということもできるという。<人間を一人ひとり異なる人格として見るのではなく、その人が持っている特定の属性だけに注目して、他の点は切り捨てる。すなわち、人間というものを、かけがえのない存在として尊重することなく、ある属性を共有する集団の中の一つの「例」としてしか扱わない。>
<差別という以上、そこには集団ごとの序列化があり、差別する側と差別される側がある。そして、ジェンダーに関わる限り、男性が優位で女性が劣位というのが私たちの生きる社会の現実です。>と最低限の基本的な意味をキープしておかなければいけないと述べている。
そして、「性差」と「性役割」は、論理的には無関係であると結論づける。誰々が女である、あるいは男であるという事実から、だから女らしくするべき、男らしくすべきという価値(役割規範)を直接に引き出すことはできないと述べる。
最終章では、現代におけるジェンダー論への攻撃(いわゆるバッシング)とその背景としてのバックラッシュについて述べられている。ちなみに一般的な意味でのバックラッシュとは、政治的・社会的な改革運動に対する反動全般を表す言葉だという。
以上、ざっと自分が印象に残ったところを<>にて引用・抜粋しながら覚書として記してみた。
最後に著者が述べているのだが、ジェンダーの概念をくわしく説明するというテーマに取り組んでいたら、いつのまにか平等とはなにか、自由とは何か、民主主義とは何かという別の問題群が見えてきたという。
自分自身も本書を読んで、もっと知りたいことがみつかったし、はからずも自分自身が「女だから……しなさい(するべき)」と言われたことがないことに気づいた。これも自分の母親(産後も働き続けた)が体験的に差別の痛みを知っていたからだろうか…と今さらながらに気づいた次第である(汗)。
*樋口恵子氏についてのくわしい記事を知りたい方は、私がひそかに読み勉強させてもらっている樹衣子さんのブログ「千の天使がバスケットボールする」(2008年2月21日)をお読みください(左のブックマークにあります)。とても簡潔にまとめてくださってます!。
息子の学校はジェンダーフリーに熱心なのか、男子も女子も全員「○○さん」と呼び、
運動会も名簿も男女混合。
参観日の授業は、毎年性教育・・・~ん?
「男の子の色、女の子の色なんて無いんだよ・・・」
それは大賛成。でも「○○さん」呼びは、未だに慣れない。そしてこんな低学年からの性教育なんて・・・
(お母さんは魔法使いだから、魔法で生まれたことにしていたのに・・・)
こういうお仕着せっぽいジェンダー教育をしなくても
社会の意識や大人が変われば、子どもたちも自然に男女平等の意識になってくる気がする。
でも、それにはまだまだ長い時間がかかりそうですが。
そういう私も、息子が「踊りを習いたい」と言うのを却下し続けてる。(あなたは男の子だから・・・という私の傲慢な気持ちが彼の夢を阻んでる・・・)
ジェンダー関連の本を読んでいたら、自分がいかに恵まれた環境(職場、家庭)にあったのかを認識した次第です(汗)。
ドイルボーディさんのおっしゃるように社会の意識が変わることが第一義なのでしょうが、まず「形」から入ってしまうことも必要な気がします。日常的に目に触れるものって無意識にその人の規範をつくっているものだと思いますので。
…しかし。授業参観が毎年「性教育」ですか。興味津々です!機会があったら是非ご教授ください!
ジェンダー教育を考えていくと、「異端」(と見える)を周りが受け入れるかということにつながっていくように思いました。それは都市部と地方ではかなり温度差がありますよね、たしかに。。。
そしてその周りの目と闘うためには勇気と強さが必要でもあり、それと闘っていく親の姿を見せるのもひとつの教育なのかなと思います。現実問題としてなかなか難しいことだけれども。
小さな自分の世界で精一杯がんばる。そういう人が増えると少しずつ全体が変わっていくのだと思います。「異端」というのはある意味、時代の先駆者であったりもしますものね。