800編もの短編小説を生み出した直木賞作家による、短編小説についての解説・案内本。また「小説家の工房の秘密」について想像し、何をヒントにどのように作品ができたかを推論している。あとがきによると本書は、<2002年1月から6月までの朝日カルチャーセンター新宿での講義を中心にまとめたものである>そうだ。
以下が、本書で採り上げている小説家と主な短編作品である。
向田邦子<鮒>
芥川龍之介<トロッコ><さまよえる猶太人>
松本清張<黒地の絵>
中島敦<文字禍><狐憑>
新田次郎<寒戸の婆>
志賀直哉<赤西蠣太>
R・ダ-ル<天国への登り道>
E・A・ポー<メエルシュトレエムの底へ>
阿刀田高<隣の女>
以下、心にとまったところを引用してみる。
<短編小説には技巧の冴えが欠かせない><短編小説の書き手が周辺の会話や会話のようなものから発想をえて作品を作るケースは多い><短編小説のストーリーは多彩である>と、「短編小説」についての特長を述べている。
私が特に印象に残った箇所は、「志賀直哉」についての章である。
まず、志賀直哉の作風について。以下引用する。
<作品を貫いているのは、理知的な観察力であり、強烈な自我である。精緻な文章は天賦の才らしく、早くから完成されていた。また卓越した美意識の持ち主であり、鋭い感性で周囲の出来事を捉え、強烈な自我と美意識のフィルターを通してそれを訴える>
そうだったか?確か、曽野綾子氏も志賀直哉を絶賛していたような。若い頃は小説の筋だけ追っていた。作品を分析するような深い読み方をしていなかった。「暗夜行路」をはじめ他の作品も再読したくなった。
また「城の崎にて」は15枚足らずの短いものである。高校の教科書にも掲載されていた。よって、作品の解釈とか著者の意図や心情そういったものを「勉強」したはずである。しかしあまり心に残っていない。正直言うと、この作品を「つまらない」とさえ感じていた。しかし、今読み返すと存外深いものを感じる。
この作品は3つのエピソード(小動物の死)によって成り立っているのだが、阿刀田氏が見事に「小説家の工房の秘密」を推論している。以下<>部引用。
<城崎温泉の宿に暮らして部屋の窓から蜂の死骸を見たのは事実だったろう、と私は思う。そこにさびしさと静かさを感じたのも本当だったろう。
だが、そのすぐあと、鼠のあがきを実見するのは、少しくさい。話がうま過ぎる。事実ではない、とは第三者には断言できないことだが、事実であったとしても、このときではなかったのではないのか、そんな気がする。>
<蜂の死を通して抱いた想念が、かつて見た鼠の断末魔によって小説的に増幅され、ふたつがまとまって作品のモチーフが鮮明になってくる。もしそうなら作者がこの方法を避ける理由はどこにもない。
イモリの場合も同様だ。本等に石を投げたかもしれないが、それが偶然命中するのは・・・ゆっくり考えてみると、これも話がうま過ぎる。蜂の死骸、鼠のあがきと来たあとで、
ーここらあたりで偶然の死があってもいいかなあー>
<題材を身辺の事実に求め、事実にそって作品が進展していくことが多いけれど、この自意識旺盛な作家は、入念にみずからのモチーフを出来事に反映させることを忘れない。さりげなく装っているが方法は執拗である。>
志賀直哉の作品をはじめ、かように「小説家の工房の秘密」は阿刀田氏の想像からなるものだが、「創作のヒント」が得られるという意味で私にとっては、楽しくもあり刺激的な著書でもあった。
ご丁寧に最後の章ではご自身の「創作の手の内」を見せていらっしゃる。世に「名店シェフのレシピ」がいくら出回ろうとも、素人がそっくりそのまま美味しく作れないのと同様、「短編小説のレシピ」として手の内は明かしてはいても、素人は簡単に名作を生み出せるものではない。阿刀田氏自身の作家としての自信と力量を見事に表している一冊でもあると感じた。
以下が、本書で採り上げている小説家と主な短編作品である。
向田邦子<鮒>
芥川龍之介<トロッコ><さまよえる猶太人>
松本清張<黒地の絵>
中島敦<文字禍><狐憑>
新田次郎<寒戸の婆>
志賀直哉<赤西蠣太>
R・ダ-ル<天国への登り道>
E・A・ポー<メエルシュトレエムの底へ>
阿刀田高<隣の女>
以下、心にとまったところを引用してみる。
<短編小説には技巧の冴えが欠かせない><短編小説の書き手が周辺の会話や会話のようなものから発想をえて作品を作るケースは多い><短編小説のストーリーは多彩である>と、「短編小説」についての特長を述べている。
私が特に印象に残った箇所は、「志賀直哉」についての章である。
まず、志賀直哉の作風について。以下引用する。
<作品を貫いているのは、理知的な観察力であり、強烈な自我である。精緻な文章は天賦の才らしく、早くから完成されていた。また卓越した美意識の持ち主であり、鋭い感性で周囲の出来事を捉え、強烈な自我と美意識のフィルターを通してそれを訴える>
そうだったか?確か、曽野綾子氏も志賀直哉を絶賛していたような。若い頃は小説の筋だけ追っていた。作品を分析するような深い読み方をしていなかった。「暗夜行路」をはじめ他の作品も再読したくなった。
また「城の崎にて」は15枚足らずの短いものである。高校の教科書にも掲載されていた。よって、作品の解釈とか著者の意図や心情そういったものを「勉強」したはずである。しかしあまり心に残っていない。正直言うと、この作品を「つまらない」とさえ感じていた。しかし、今読み返すと存外深いものを感じる。
この作品は3つのエピソード(小動物の死)によって成り立っているのだが、阿刀田氏が見事に「小説家の工房の秘密」を推論している。以下<>部引用。
<城崎温泉の宿に暮らして部屋の窓から蜂の死骸を見たのは事実だったろう、と私は思う。そこにさびしさと静かさを感じたのも本当だったろう。
だが、そのすぐあと、鼠のあがきを実見するのは、少しくさい。話がうま過ぎる。事実ではない、とは第三者には断言できないことだが、事実であったとしても、このときではなかったのではないのか、そんな気がする。>
<蜂の死を通して抱いた想念が、かつて見た鼠の断末魔によって小説的に増幅され、ふたつがまとまって作品のモチーフが鮮明になってくる。もしそうなら作者がこの方法を避ける理由はどこにもない。
イモリの場合も同様だ。本等に石を投げたかもしれないが、それが偶然命中するのは・・・ゆっくり考えてみると、これも話がうま過ぎる。蜂の死骸、鼠のあがきと来たあとで、
ーここらあたりで偶然の死があってもいいかなあー>
<題材を身辺の事実に求め、事実にそって作品が進展していくことが多いけれど、この自意識旺盛な作家は、入念にみずからのモチーフを出来事に反映させることを忘れない。さりげなく装っているが方法は執拗である。>
志賀直哉の作品をはじめ、かように「小説家の工房の秘密」は阿刀田氏の想像からなるものだが、「創作のヒント」が得られるという意味で私にとっては、楽しくもあり刺激的な著書でもあった。
ご丁寧に最後の章ではご自身の「創作の手の内」を見せていらっしゃる。世に「名店シェフのレシピ」がいくら出回ろうとも、素人がそっくりそのまま美味しく作れないのと同様、「短編小説のレシピ」として手の内は明かしてはいても、素人は簡単に名作を生み出せるものではない。阿刀田氏自身の作家としての自信と力量を見事に表している一冊でもあると感じた。
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