著者は、作家吉本ばなな氏の父親であり、詩人・思想家・文芸評論家。ちなみに漫画家ハルノ宵子という人の父親でもあるとか。こちらが長女。ばなば氏が次女。
以下が目次。
序章 家族論の場所
第一章 母と子の親和力<乳幼児期>
第二章 「遊び」が生活のすべてである<少年少女期>
第三章 性の情操が入ってくる<前思春期・思春期>
第四章 変容する男女関係<成人期>
第五章 老いとは何か<老年期>
補註 対幻想論
正直、氏の論考的な部分は未消化である。しかし、それ以外(第一章から第五章)の部分は、氏の実際の子育てや、自分の子どものころの体験をもとに書かれているのでわかりやすく、説得力もあった。氏独自の「人間の発達心理学の考察」のようにも感じた。
以下、印象に残ったところを引用する。
<わたしは、子育ての勘どころは二か所しかないとおもっている。そのうちの一か所が胎内七~八か月あたりから満一歳半ぐらいまでの「乳幼児期」、もう一か所は「少年少女期」から「前思春期」にかけての時期だ。この二か所で、母親あるいは母親代理が真剣な育て方をすれば、まず家庭内暴力、けた外れの少年殺傷事件のような深刻な事態には立ち至ることはないとおもえる。>(序章より)
<母親のこころの状態は全部子供のこころに刷り込まれるんだと考えた方がいいとおもえる。>(第一章より)
<小学校の三・四年生になってからも、親もいっしょになって同じ地平で遊んであげたほうがいいようだ。わたしのように、超越的にかわそうとするのは親の態度としてもっともよくないとおもった。>(第二章より)
<いまの父親・母親は責任を負うというより、世間といっしょになって、「うちの子はもともとああいう性格で、幼いときからこんな傾向があったから、こんな凶暴なことをするようになってしまった」というような言い方をする。子供がそうなったのは自分たちの責任であるというふうには考えない。>(同上)
<少年少女期の犯罪も、家庭の窮状も米欧の後を追っている。米欧にはまだ対応する方法が備わっているのに、日本では専門集団もない。>(同上)
<子供がどんな残虐な事件を起こそうと、それは親の責任だと、わたしはおもっている。子供に責任はない。子供がいかに残酷に見えるようなことーたとえば関西の「少年A」のような事件を起こしても、それは親の責任であると決めている。>(同上)
<事件が起きた時点でどうこうしようとしてももう遅い。そうだとしたら、ここは親のほうもよほど気合を入れて子供と真正面から向き合わなければいけないとおもえる。>(同上)
<先生というのは、子供たちにすべて見抜かれているとおもったほうがいいに決まっている。>(同上)
<そっぽを向いて授業をしてもいいから、自分の地を出して、地の性格のまま子供に接すればそれでいい。それが生涯に残るいちばんいい教育なんだというのがわたしの理解といえる。>(同上)
<「女は子育てで損だ」というが、損でもない。子が最愛の人として母親をおもうことはまったく疑いをいれない。>(第三章より)
<人間はこれにくらべて意識することと、それに則して行動することとのあいだに距離とおくれがある。その距離とおくれのはざまに言語・思考力・想像力・思い込み・妄想などを生み出してきた。>(第四章より)
<思春期から成人期への移行のむずかしさは、別の言葉でいえば、家族としては子から親への転換のむずかしさだといえる。もっとつきつめていえば、出生した子供の成育が、否応なしに中心問題としてあらわれる。とくに母親に変貌した女性にとっては専業に近いところから、かつて自分が経験したものを母性として少なくとも前思春期までは背負わねばならない。これはたとえ専業主婦だとしてもたえられないほどの負担にちがいない。かつては母親の母などが分担して援助することがあった。現在の核家族ではままならない。専門の育児や教育の施設に委ねたとすれば、その分だけ子供がどう育つかは、母親の予断を許さないことになる。>(同上)
また、ここでは引用をしなかったが、性教育などしないこと、作家とその妻による夫婦関係、老年期の学問の幼稚性などが興味深かった。
子育てに関していえば、小学校から中学生までは、「何も干渉せずに遊ばせる時期」と氏は述べている。本を読むのも遊び、勉強も遊び。……このようになるのは理想だが、今の時代、どうやってそれを実践するか?が大変難しい。何事もバランスだと思うのだが(汗)。
上記のURLの本も、
読んでみるといいですよ。
吉本氏の、この本の内容と通じるものが
ある、、、と 思います。
また、この著者の
「子供部屋に入れない親たち」という本が
必見です。
(多分、図書館には必ずあるでしょう。)
以上、N氏の蛇足でした。
まずは、図書館にて手に取り読んでみたいとおもいます。タイトルからしてなかなか興味深いですね。