長保三年(1001)
正月宮中では、無病息災を祈る儀式。
宣孝は、帝がのみきれなかった薬を飲み干すという名誉な役割。
宣孝が、まひろの所へ。
親子三人の姿は、微笑ましいです。
除目の季節。
為時は、越前守の職をとかれます。
理由は、宗人を宗へ帰すことができなかったから。
でも、誰が国司になったとしても、無理だったような気がします。
ききょうが、まひろの所へやって来ます。
枕草子を書いていたようで、書くきっかけを作ってくれたまひろにみせに来たようです。
まひろが、「人には光もあれば影もあります。」と言ったのに対して、ききょうが、「皇后様に影はございません。」とキッパリ。
ききょうの定子に対する忠誠心というのか、凄すぎるなあと思いました。
定子には、人を惹きつける魅力があったのでしょう。
宣孝が、三人の面倒をみると約束してくれた矢先。
突然亡くなってしまいます。
北の方からの使者で、にわかな病とだけ。弔いは済ませたとか。
当時、正室でなければ、こんな対応をされたものでしょうか。
賢子を抱きながら泣いてしまうまひろ。
宣孝、いい人でしたよね。まひろのことを愛してくれて、あたたかくて。
宣孝ロスになるかもしれません。
百舌彦が、左大臣の使者としてやってきて、為時に、左大臣お抱えのご指南役を頼みにきます。
断ってしまう為時。
まひろは、生活のために引き受けるよう為時に懇願。結局、どうなったのでしょう?
詮子が道長に、敦康親王を彰子に養育させるようにと。
かつて兼家が使った手ですね。
詮子40歳の賀が、華やかに行われます。
40歳で祝いとは、時代を表していますね。今なら、60歳の還暦という感じになるのかな。
詮子の前で舞を舞うのは、母違いの道長の息子たち。誰が、こんな演出を考えたのか。しかも、二人の妻を同席させるとは。
上手に舞をこなしたのは、明子の息子の方でした。
将来的には、逆になるのですから、運命とはわからないものです。
詮子倒れます。
ということは、40歳にして亡くなったということになるのでしょうか。
数え年だったかもしれないので、39歳で亡くなった?
遺言により、伊周の位が戻されます。
伊周は、帝に、枕草子を献上。
物語を書き始めるまひろ。源氏物語を書き始めたのでしょうか。
いつどんな形で、まひろが、彰子の教育係となるのか興味深いところです。