「青空や 花は咲くことのみ思ひ」は、2,3日前の日経新聞文化面「空の青」に出ていた桂 信子の俳句である。この句の季語は「花」で、「花」は桜の花である。青空に向かって競うように咲く桜を歌ったのだろう。
だが私が新聞でこの句を見た時は、初夏の尾瀬に咲く色々な花を思い浮かべていた。理由は簡単、先週の週末青空の下、花を愛でながら尾瀬を歩いたからである。俳句の約束事や作者の意図を無視して勝手な解釈をすれば、青空は初夏がふさわしく、花は草原に咲く花が良いな、と私は思ってしまう。
6月下旬の尾瀬は水芭蕉が最盛期を過ぎ、ニッコウキスゲには早く、主役不在の時期である。
燃えるようなレンゲツツジの花がところどころ目に付くが、横綱・大関格ではなく、前頭の上位といったところだろう。
あじさいに似たムシカリという白い花は木陰に咲いていて、地味な脇役だ。
木道の脇には黄色いリュウキンカ(多分)が健気に咲いていた。
「花の主役が不在」などというのは、人間中心の思い上がった見方なのだろう。総ての花はその生命の限りを咲かせている。
草木は生まれ育つ場所も、花を咲かせる時期も選ぶことはできない。できることは生まれ育つその場所で、精一杯花を咲かせることである。
花は随所で主となっているのである。