今ある顧問先で頼まれてあるプロジェクトに携わっている。その会社に滞在する時間が長くなるので、社長が手当を◯◯増やすからどうですか?と切り出した時、私は「堪忍分の合力米」という言葉を思い出していた。
「堪忍分の合力米」という言葉は、司馬遼太郎の「真説宮本武蔵」に出てくる。
司馬遼太郎によると、自尊心の強い武蔵は高禄で召し抱えられることを望んで各地の大名からの数百石レベルのオファーを袖にしていた。武蔵の目線は将軍家から一万石を支給されている柳生宗矩にあったようだ。
だが大名の家老達は、戦場で命がけの働きをして得た家禄に等しい禄を一介の剣術者に過ぎない武蔵に支払うことを家中の統制上好ましくないと考え、やんわりと殿様を諭し、武蔵の高禄召し抱えの話を消してしまう。
やがて武蔵も歳をとっていく。そんな中で武蔵は細川家三代目の忠利(幽斎から数えて)に召し抱えられることになった。
手当は十七人扶持三百石というから中々のものであるが、以前の武蔵の望みに比べると低いものだ。
「真説宮本武蔵」によると、「武蔵は『客分』の位置をのぞんだ。これならば食禄の多寡によって自分の名誉が左右されることはあるまいと計算したのである」
これに対し忠利は「『兵法に値段がついては悪しかろう』と役人に命じて『堪忍分の合力米』という給与行政にない術語を使わせた」
また「武蔵の身分を重からしめるために、家老なみに鷹野をすることもゆるした」
武蔵は忠利の知遇に感動するのである。
このエピソードが真実であるかどうかはわからない。司馬遼太郎は時々真説などという冠をかぶせながら、一部に流布した話をあたかも真実のように語ることがあるからだ。もっとも司馬遼太郎が書いているのは小説なのでそのことをとやかくいう必要はない。
だがこのエピソードに何らかの共感を覚えるのは私だけではあるまい。ある年齢になると人は頼りにされると微力を尽くしたくなるものだと私は思う。
剣技抜群の武蔵だがその狷介な人物を藩の給与体系に取り込むのは難しかったはずだ。それをなし得たのは名君と呼ばれた細川忠利にして可能だったのかもしれない。それにしても「堪忍分の合力米」ということば、払う方にも貰う方にも中々都合の良い言葉である。