Yukoの日記

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最近読んだ本

2013-10-17 14:32:39 | 日記
まほろ駅前多田便利軒

著者   三浦 しをん     第135回 直木賞受賞

「まほろ駅前多田便利軒」は、東京郊外で便利屋を営む中年男の多田啓介と、そこへころがりこんできた元同級生の行天晴彦のふたりを主役にした物語だ。便利屋の元に舞いこんでくる仕事は、犬の飼い主探しだったり、小学生の通塾の迎えだったり、恋人のふりだったり、ところが、決まってヤクザがらみなどの厄介事に巻きこまれて、綱渡りをする羽目になる。便利屋というより、巷の事件をなんでも引き受ける私立探偵のノリに近いものがある。
 多田、行天、どちらにも離婚歴があり、子供はもうけたが、いまは別れ別れ。これまでの人生の経緯はまったく似ていないふたりだが、正反対であるが故に相通じる部分もあるようだ。多田はもしかしたら自分の子ではないかもしれない子をわが子と思い、行天は生物学的には間違いなく自分の子とわかっている子を、その子の母親とパートナーに託している。多田のほうは家族をなくしたことで心に傷を負っているし、行天はどうやら幼少時に親から受けた行為が一因で、だいぶ「変わった」性格の人間になった。感受性、感覚の一部がそこなわれてしまったかに見える。人といっぺんも口をきかなかったという高校時代には、友人たちの不注意で小指を切断する事故にあい、幸い指はつながったが、いまもその先端は青白く、神経がかよっていない。そんな行天の指を見て、多田がこう思う場面がまず印象的である。
 一度肉体から切り離されたものを、また縫いあわせて生きるとはどういう気分だろう。どれだけ熱源にかざしても、なお温度の低い部位を抱えて生きるとは。
この二行は、おそらくこの小説のモチ-フのようなものを表しているだろう。人は生きていれば、いろいろなものごとから、いろいろな事情で切り離されなくてはならない。それも、再三にわたって。自分をほったらかす両親を恨む小学生の由良くんと多田のこんなやりとりもある。
「由良公」。おまえはあのアニメ(「フランダースの犬」)を、ハッピーエンドだと思うか?」
「思わないよ」
由良は振り返った。「だって死んじゃうじゃないか」
「俺も思わない」
多田は由良のまえにしゃがんだ。「死んだら全部終わりだからな」
「生きてればやり直せるって言いたいの?」
由良は馬鹿にしたような笑みを浮かべてみせた。
「いや。やり直せることなんかほとんどない」
多田は目を伏せた。行天が後ろで冷たい部分を抱え、自分たちを眺めているのを感じた。
 一度切れた冷たい部分は二度ともとにはもどらない。「歩み寄り」や「癒し」が効かない領域というのが、人生のなかには確実にある。この小説はその厳然とした事実を繰り返し書く。しかし多田は、由良の両親が彼の望む形で愛してくれることはもうないだろう、と淡々と答えてからこう言うのだ。「だけど、まだだれかを愛するチャンスはある。与えられなかったものを、今度はちゃんと望んだ形で、おまえは新しくだれかに与えることができるんだ。そのチャンスは残されている」
 あるいは、行天の元妻の三峯凪子はこういう言い方をする。「はるのおかげで、私たちははじめて知ることができました。愛情というのは与えるものではなく、愛したいと感じる気持ちを、相手からもらうことをいうのだと」
 そして「不幸だけど満足ってことはあっても、後悔しながら幸福だということはない」と言う行天自身は、こんな風にも言う。「傷はふさがってるでしょ。たしかに小指だけいつもほかよりちょっと冷たいけど、こすってれば、じきにぬくもってくる。すべてが元通りとはいかなくても、修復することはできる」
 こうしたものが、最後に多田のつぶやく「幸福の再生」ということなのだろう。(解説より)

世界から猫が消えたなら

著者  川村 元気      映画プロデューサー
                       本屋大賞ノミネート!!  17万部突破


世界から、もし猫が突然消えたとしたら。
この世界はどう変化し、僕の人生はどう変わるのだろうか。
世界から、もし僕が突然消えたとしたら。
この世界は何も変わらずに、いつもと同じような明日を迎えるのだろうか。
くだらない妄想だ、とあなたは思うかもしれない。
でも信じて欲しい。
これから書くことは僕に起きたこの7日間の出来事だ。
とても不思議な7日間だった。
そして間もなく、僕は死にます。
なぜこうなったのか。
その理由について、これから書いていこうと思う。
きっと長い手紙になるだろう。でも最後まで付き合って欲しい。
そしてこれは、僕があなたに宛てた最初で最後の手紙になります。
そう、これは僕の遺書なのです。
月曜日  悪魔がやってきた
あれは7日前の出来事だった。
僕はずいぶん長いこと風邪をこじらせたまま、毎日郵便配達の仕事をしていた。微熱が続き、頭の右はじがジリジリと痛んでいた。市販の薬でなんとかごまかしていたんだけれど(ご存知の通り僕は医者が大嫌いなんだ)、2週間が経ち、いよいよ治らないということで病院に行くことにした。
そしたら風邪じゃなかった。
脳腫瘍。ステージ4.
それが医者が僕に告げた診断だった。余命は長くて半年、ともすれば1週間後すら怪しいという。放射線治療、抗がん剤治療、終末期医療、さまざまな選択肢を医者が提示する。だが、まったく耳に入らない。
僕はずいぶん時間をかけてゆっくりとアパートに帰ってきた。ようやく絶望が自分に追いついてきた。文字通りお先真っ暗になって、僕は倒れた。
何時間経ったのだろうか。僕は玄関で目を覚ました。白と黒とグレーが混じり合った、丸いかたまりが目の前にあった。こいつはぼくの愛猫。もう4年も僕と2人暮らしだ。
猫がそばに寄ってくる。また「みゃあ」と心配そうに鳴く。とりあえずまだ死んではいないようだ。体を起こす。相変わらず熱はあるし、頭は痛い。死は現実のようだ。
「はじめまして!」やたらと明るい声が部屋の中から聞こえてくる。
「えっと・・・・・どちら様ですか?」
「アタシ、悪魔っす!」ということで、悪魔が登場した。簡単には受け入れがたい状況ではあったのだが、僕はとにかく目の前に現れたずいぶんと陽気な悪魔を、ゆるやか~に受け入れていくことにした。
アロハ(今後悪魔のことを心でこう呼ぶことにした)は、「実は・・・明日あなたは死にます」「え!?」「明日死ぬんです。アタシはそのことをあなたに伝えに来たんです」僕は絶句した。
「ひとつ方法があるんです」「魔法とでもいいますか。あなたの寿命を延ばすことができるんです」
「何かを得るためには、何かを失わなくてはならない」「この世界からひとつだけ何かを消す。その代わりにあなたは1日の命を得ることができるんです」にわかには信じられない話である。
「それだな」気付くとアロハが携帯電話を指差している。「どうします?電話と引き換えに1日の命です」「最後に1回だけ消すものを使ってもいいという権利」。もうすっかり忘れていた。でも体が覚えていた。携帯に登録されていないその番号を、僕はゆっくりとダイヤルした。
火曜日  世界から電話が消えたなら
水曜日  世界から映画が消えたなら
木曜日  世界から時計が消えたなら
金曜日  世界から猫が消えたなら
土曜日  世界から僕が消えたなら
自分が幸せか、不幸せか。自分ではよく分からない。
ただひとつだけ分かることがある。
自分が思うだけで、人はいくらでも幸せにも、不幸せにもなれるということだ。
そういう意味では、僕はこの数日間、限りなく不幸せで、限りなく幸せだった。
朝起きると、キャベツ(猫)が隣で眠っていた。
フーカーフーカーとした感触。トクトクという心臓の音。
世界から猫は消えていなかった。
つまりそれは、僕がこの世界から消えることを意味している。
世界から僕が消えたなら。
想像してみる。それが、どれほど不幸なことなのだろうか。
人である以上、誰もがやがては死ぬ。致死率は100パーセントだ。そう考えると死がイコール不幸だとは言えない。その死が幸せか不幸せかということは、どう生きたかということと関連するのだ。
「何かを得るためには、何かをうしなわなくてはね」母さんの言葉を思い出す。
僕は自分の命と引き換えに、世界から電話と映画と時計を消してみた。でも猫は消せなかった。
猫の代わりに自分の命を諦めるなんて、馬鹿げた男だと思われるかもしれない。
その通りだ。なんともバカバカしい。でも僕は誰かから何かを奪って、生き延びることが幸せだとは思えなかった。僕は僕なりに、自分に与えられた他人よりも少し短い寿命を受け入れることにしたのだ。
日曜日  さようならこの世界

  (映画監督)  参った。泣けて泣けて仕方がない。映画を作っているときの川村元気は悪魔のような男なのに、この小説はまるで聖書じゃないか! 


手紙
著者  東野 圭吾    第6回本格ミステリー大賞
                     幅広い作風で活躍し、圧倒的な人気を得ている



強盗殺人の罪で服役中の兄、剛志。弟・直貴のもとには、獄中から月に一度、手紙が届く・・・。
しかし、進学、恋愛、就職と、直貴が幸せをつかもうとするたびに、「強盗殺人犯の弟」という運命が立ちはだかる。人の絆とは何か。いつか罪は償えるのだろうか。
犯罪加害者の家族を真正面から描き、感動を呼んだ不朽の名作。                                           (解説)井上夢人

ほとんどの人は、自分は差別などとは無縁だと考えている。世の中に存在する差別に対して怒りを覚え、嫌悪を感じることはあっても、自分が差別する側に立つことは断じてないと信じている。
この小説は、そんな我々に問いかける。
では、この鏡に映っているのは、いったい誰なのだ、と。
気がつけば、この小説に描かれている風景は、我々が住んでいるこの街にそっくりだ。
我々は日常的に、この小説が持っている不安と隣り合わせている。 (作家)