故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

松崎渋右衛門 の辞世の句

2013年06月13日 09時02分03秒 | 幕末史

今朝も相変わらず5時からの歩きになった。 ここは松屋。朝早くから開店してる。こんな感じで、吉野家・すき家と、この松屋が近くで頑張っているが早朝に関しては、この松屋が一番だと思う。他の2店に比べて朝のお客さんが何時も席に着いているようだ。吉野家・すき家も頑張って!

 

今年は梅雨入りしてから雨という雨は殆ど降っていない。我ら農家にとって雨が降らないと大変困る。第一例年ならば終わっている田植えが、田んぼの中はカラカラに乾いている。でも地域によっては既に終わっている。ここは土器川から見た田畑。田植えが終わった様に見えるが苗がそのまま。この写真に写っている所は終わっているが、まだまだ田植えは終わらない。

 

そんな感じで今日も約2時間の歩きだった。  そんな讃岐の農家はため池も頼りに、これは、日本一のため池『満濃池』の修復に力を入れた高松藩士 松崎渋右衛門 の辞世の歌碑を。 松崎渋右衛門佐敏は高松藩尊皇派の藩士で榎井村勤王の志士日柳燕石とも交流があり幕末には入獄の憂き目にあっている 明治維新により出獄し藩の家老職となり農政長をつとめた。 ときに満濃池は安政元年に決裂したまま放置され、復旧のめどがたたなかった。彼は榎井村の勤王家・長谷川佐太郎の要請を受け丸亀・多度津藩や倉敷県の間を本葬して藩論をまとめ明治2年着工にこぎつけた。このとき松崎は自ら満濃池の現地を視察し従来の木造底樋管に代えて岩山を石山を石穴で貫く画期的な工法を実現させている満濃池の用水は現在もこのトンネルを通って配水されている。 彼は満濃池の完成を見ないまま明治2年9月8日高松城内桜の馬場で旧佐幕派集団に謀殺され43歳の生涯を終えたがかねて覚悟の辞世を常に用意していたという。 『君の為国の為には惜しからじ  仇に散りなん命なりせば』(説明文より)

 

って事で。今日も今からお出かけを。じゃ~またネ



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