故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

山口県柳井市の幕末史の旅

2013年10月22日 19時03分00秒 | 幕末史

先日、妻と二人で広島市に住む長男宅を訪ねた。その時1日早く出かけ、山口県東部、柳井市にある月性展示館に行った。幕末時に海防五策をたてて外夷に備え、士農工商を問わず志の有る者をもって新しい軍制作りを主張した「内海杞憂」は、後の高杉晋作の奇兵隊結成の元となったという。その月性という人物を見てみたいのが目的であった。

 

先ずは柳井市の白壁の町並みを歩いた。歩いていると何故か倉敷の美観地区を思い出した。雰囲気が似ているのか、でも観光客は少なかった。

 

町歩きを終えて、国道188号線を東に向かって走る。妙円寺という浄土真宗本願寺派のお寺がある。お寺の門を入ると正面が本堂である。

 

門の右脇にその日の本来の目的地、月性展示館がある。本堂左側には月性が嘉永元年春に開いた清狂草堂(別名・時習舘)がある。郷土民族資料館の前に受付があり入館料200円を支う、住所・氏名を記帳し、書き終わると受付の女性が「私が今から説明しますから、しばらくお待ちください」と言い、大きい封筒に入った資料を戴いた。

 

最初は清狂草堂である。

 

雨戸を少し開け、中を見せてくれた。屋根は藁ぶきで8畳が2つ並んだ質素な建物である。何故か懐かしく心和らぐような気分。この小さな2室で幕末に月照から教えを受けた若者は、動乱の中へとつき進んでいった。

 

清狂草堂の右横には月性の墓があり、自然と手を合わせた。

 

続いて寺門の西側に「男児立志の詩」の碑がある。天保14年夏京阪遊学に際し作られたものである。

『男児 志を立てて郷関を出づ 学 若し成る無くんば復還らず 骨を埋むる何ぞ期せん 墳墓の地 人間到る処 青山有り』

訳=男児がいったん志を立てて故郷を後にしたからには、「万が一学業が成就しないのなら死んでも帰郷しない」という決意を持ち続けるべきだ。先祖と同じ墓地に骨を埋めなければならないということもない。世の中どこにでも活躍の場はあるし、どこにでも骨を埋める場所はあるものだ。

 

その左側には前半の詩が『二十七年 雲水の身 又師友を尋ね三津に向かう 児鳥反哺応に日無かるべし 忍びて廻る北堂 垂白の親』

訳=生まれてからの27年間、行方が定まらず諸国を巡っている私は、再び師友を尋ねるため三津浜へ向かう。小鳥が反哺するように親に対して恩返しする日もなく、忍んで別れる母親は、頭が薄くなって年老いている。

 

最後に月性展示館へ。こじんまりとしているが2階建ての立派な建物である。展示物はそれほど多くはない、館内でも受付の女性の本当に親切丁寧な説明に恐縮し見学を終えた。

 

月性は文化14年(1817)に周防国遠崎(現・柳井市遠崎)の妙円寺に生まれる。母の尾上は岩国の光福寺の住職、祇城(ギジョウ)に嫁いでいたが、不縁となり妙円寺に戻った。その時すでに一子を宿していた、その生まれた子が月性であった。幼名を知円、名を月性、号を清狂と名乗る。

村田清風・吉田松陰・秋良貞温・僧黙霖と意気投合し、憂国の気概をもって交わり、思想的な影響を与えた。

幕末当時、日本各地に私塾があり学者・先覚者が多くの弟子を教えていた。その中で毛利藩では、西の松下村塾・東の時習舘と並び称されていたという。西の松下村塾の門弟たちには、高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・伊藤博文・山県有朋・前原一誠・品川弥二郎がいて、尊王攘夷から明治維新に至る討幕の舞台での立役者で明治政府の中心人物である。松陰が教えた2年余りの短期間にこれほどの人材を育て上げたのは素晴らしいことだと思う。東の時習舘(清狂草堂)の月性は僧侶であったが千篇を超える優れた詩を作った詩人でもあった。清狂草堂で月性の教えを受けた門人には、赤根武人・世良修蔵・大洲鉄然・大楽源太郎・入江石泉・和真道・天地哲雄・芥川義天等がおり、志士の交流の場となっていて維新の原動力となる人材を育成している。第3代奇兵隊総督の赤根武人や奥羽鎮撫使参謀の世良修蔵等は現在の歴史から軽蔑されたように伝えられているが、もっと評価されても良いのではと思う。地元の人の中には吉田松陰は日本中で知らない人が居ないほど有名なのに・・・。同じ呼名であるために「月性」と「月照」が同人物であるかのように扱われている。見方によれば月性は吉田松陰以上に明治維新における功労者であるはずなのに知名度があまりにも低い。なぜか一部分にだけ光が射していないような気がするが?・・・。


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