故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

吉田松陰の誕生と、後藤象二郎が亡くなった日

2013年08月04日 09時06分08秒 | 幕末史

今朝は5時ごろからすごい雨に。だから歩きは取り止め。自治会の清掃が7時からあったので参加した。その頃には雨も上がり涼しく、お喋りをしながら空き缶・ペットボトル等を拾って歩いた。40分位だったろうか? でもゴミ等のポイ捨ては多いなぁとつくづく思った。 自分の出したゴミは自分で片づけて欲しいものだ。

今日は吉田松陰の生まれた日だ。文政13年(1830)8月4日、萩松本村で藩士・杉百合之助の次男として生まれた。天保5年(1834)、山鹿流兵学師範の叔父、吉田大助の養子となるが翌年大助は死亡、叔父の玉木文之進に指導を受ける。11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義で才能が認められる。西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850)に九州に遊学。その後、江戸に出て佐久間象山に師事する。嘉永5年(1852)宮部鼎蔵らと東北旅行を計画、出発日の約束を守るため、長州藩からの通行手形を待たず脱藩する。江戸に帰着後、士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。嘉永6年(1853)ペリーが来航すると、佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれた。外国留学を決意し、金子重之輔と長崎に寄港していたロシア軍艦に乗り込もうとするが、同艦が予定を繰り上げて出航した後だったために失敗する。安政元年(1854)ペリーが再航した際には金子重之輔と二人で停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否され失敗。伝馬町の牢に送られた。松陰は、長州へ檻送され野山獄に幽囚される。安政2年(1855)に出獄、杉家に幽閉の処分となる。安政4年(1857)に叔父の松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義等を教育することとなる。再び松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。幕閣の大半は「遠島」が妥当だと考えていたようである。しかし松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供する。松陰自身「死罪」が妥当だと主張する。井伊直弼の逆鱗に触れ、安政6年(1859)10月27日に斬刑に処された。享年30。 獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残しており、その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。また、家族に対しては“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”を、これも辞世として知られている。   また松陰の残した言葉で私が好きな言葉は『志を立てて以て、万事の源と為す』=万事、しっかりとした志をたてることが、すべての根本である。 と!      これは、萩市内の吉田松陰と金子重之輔の像。

 

また今日は、後藤 象二郎が亡くなった日である。 明治30年8月4日の事である。

幼名は保弥太、良輔。象二郎は通称。諱は正本、のち元曄。  慶応3年(1867)、龍馬の提案とされる船中八策に基づいて将軍・徳川慶喜に対し大政奉還論を提議。その努力を続け、10月3日に大政奉還建白書を提出。10月14日に慶喜がこれを受けて大政奉還を行った。 後藤象二郎は中老格700石に加増され、役料800石を合わせて計1,500石に栄進する。慶応4年(1868)、パークス襲撃事件鎮圧の功により、中井弘と共に英国ビクトリア女王から名誉の宝剣を贈られている。新政府では大阪府知事や参与、左院議長、参議、工部大輔などの要職に就くが、明治6年の征韓論争に敗れて下野する。その後、板垣退助や江藤新平・副島種臣らと共に愛国公党を結成し、民選議院設立を建白する。明治14年、自由党の結成に際しては、板垣退助に次ぐ副党首格で参加したが、のちに政府への協力に転じ、明治20年5月、伯爵を授けられる。進歩党結成にも尽力し、黒田内閣や第1次松方内閣で逓信大臣、第2次伊藤内閣では農商務大臣などを歴任。しかし、明治27年5月、商品取引所の開設にまつわる収賄事件の責任をとって大臣職を辞した。    明治29年夏頃に、心臓病を患って箱根で療養していたが、翌年の明治30年8月4日死去した。享年60歳。

 

って事で今日はこれまで。じゃ~またネ



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