<イタリア料理の巨匠、片岡護の原点は幼少の頃初めて食べたカルボナーラ>
1948年(昭和23年)東京都生まれ。
美大を志すが受験に失敗。その時母が家政婦として勤めていた先の外交官だった人がイタリア総領事として赴任することが決まり、
「コックとして付いて来ませんか?」と誘ってくれたのがコックになるきっかけとなった。
母が外交官の家からもらってきたカルボナーラの旨さが、イタリア料理への目覚めの原点。
それから出発までの3ヶ月は「つきじ田村」で鍋洗いと刻みの修行。イタリアに渡ってからも総領事付きのコックとして日々修行の毎日・・・。暇を見つけては足繁くレストランに通い、その数は数え切れないほど。
そして5年後に帰国。帰国後は「小川軒」「マリーエ」を経て「アルポルト」を開店し、現在に至る。
■番組は、恩人の外交官を訪ね、思い出のカルボナーラを作る。美食家だったという恩人の舌に、成長した護少年の作るカルボナーラの味は?
<和の巨匠、野崎洋光の基本は、西洋料理レストランでの修業>
1953年(昭和28年)福島県生まれ。
西洋料理の名店「花の木」「ティファニー」「東京グランドホテル」、「八芳園」での修行経験を経て「とく山」へ。とく山では料理長を務め、1989年に支店「分とく山」(わけとくやま)を開店。
伝統的な和食の技法をふまえつつ、シンプルで美味しいもの、体にいいものを主眼にした独自の料理を展開し注目を集める。
アテネ五輪では、日本代表野球チームの料理を担当し話題になる。
■意外なことに和の巨匠の味は、西洋料理にあった。番組は、「花の木」「ティファニー」で野崎が師事したシェフとの再会、料理に目覚めた一品を作る。洋から和へ、道は違っても辛かった修行は、今も生きている。
<キハチの人気シェフ及川裕光、初めての料理はすいとん>
1969年3月15日生まれ。神奈川県出身。
プリンスホテル、ホテルイースト21などで中国料理の研鑽を積む。ホテルイースト21で現・キハチチャイナ統括料理長の大久保武志シェフと出会い、その仕事ぶりに感銘を受け、キハチチャイナに入店。現在は,キハチチャイナ ダイニングバー・横浜店のシェフとして腕をふるう。
料理を志した原点は、幼い日、母のために作ったすいとん。
料理人になってからは、そぼろ丼。その時に食べてもらった人のことが印象に残っているので鮮明に覚えているという。
<四川の佐竹秀公、料理の原点は、師匠の楊幸一にはじめて作ったエビチリ>
1959年6月8日生まれ、三重県出身。
高校卒業後、料理人を志して名古屋都ホテルに入社。
四川料理の神様と言われた陳建民の愛弟子・楊幸一に師事。名古屋に四川料理を初めて定着させた楊幸一の力量に惚れ込み、他店を渡り歩くことなく楊料理長のもとで22年間腕を磨く。名古屋都ホテル閉館後2000年4月にオープンした中国四川料理「川菜」の料理長に就任。陳建民、楊幸一と続く四川料理の本流を伝えるその味は、通が認める本物。
※以下本人のインタビュー
12年ほど下積みを経験し、やっと鍋をやり始めたのは30歳前後。あるときエビチリをつくったら、先生が味をみて「お前、これ誰にきいて作った?」と聞いた。「先生のやってるのを見てつくりました」と答えたら「そうか」と、それだけです。先生はほめない人で、逆にだめだったらいろいろと言う。「そうか」とだけ言ったのは、先生の最大のほめ言葉だったと思います。認められたんだ、と思った。僕にとってすごく重いひとことだった。
1948年(昭和23年)東京都生まれ。
美大を志すが受験に失敗。その時母が家政婦として勤めていた先の外交官だった人がイタリア総領事として赴任することが決まり、
「コックとして付いて来ませんか?」と誘ってくれたのがコックになるきっかけとなった。
母が外交官の家からもらってきたカルボナーラの旨さが、イタリア料理への目覚めの原点。
それから出発までの3ヶ月は「つきじ田村」で鍋洗いと刻みの修行。イタリアに渡ってからも総領事付きのコックとして日々修行の毎日・・・。暇を見つけては足繁くレストランに通い、その数は数え切れないほど。
そして5年後に帰国。帰国後は「小川軒」「マリーエ」を経て「アルポルト」を開店し、現在に至る。
■番組は、恩人の外交官を訪ね、思い出のカルボナーラを作る。美食家だったという恩人の舌に、成長した護少年の作るカルボナーラの味は?
<和の巨匠、野崎洋光の基本は、西洋料理レストランでの修業>
1953年(昭和28年)福島県生まれ。
西洋料理の名店「花の木」「ティファニー」「東京グランドホテル」、「八芳園」での修行経験を経て「とく山」へ。とく山では料理長を務め、1989年に支店「分とく山」(わけとくやま)を開店。
伝統的な和食の技法をふまえつつ、シンプルで美味しいもの、体にいいものを主眼にした独自の料理を展開し注目を集める。
アテネ五輪では、日本代表野球チームの料理を担当し話題になる。
■意外なことに和の巨匠の味は、西洋料理にあった。番組は、「花の木」「ティファニー」で野崎が師事したシェフとの再会、料理に目覚めた一品を作る。洋から和へ、道は違っても辛かった修行は、今も生きている。
<キハチの人気シェフ及川裕光、初めての料理はすいとん>
1969年3月15日生まれ。神奈川県出身。
プリンスホテル、ホテルイースト21などで中国料理の研鑽を積む。ホテルイースト21で現・キハチチャイナ統括料理長の大久保武志シェフと出会い、その仕事ぶりに感銘を受け、キハチチャイナに入店。現在は,キハチチャイナ ダイニングバー・横浜店のシェフとして腕をふるう。
料理を志した原点は、幼い日、母のために作ったすいとん。
料理人になってからは、そぼろ丼。その時に食べてもらった人のことが印象に残っているので鮮明に覚えているという。
<四川の佐竹秀公、料理の原点は、師匠の楊幸一にはじめて作ったエビチリ>
1959年6月8日生まれ、三重県出身。
高校卒業後、料理人を志して名古屋都ホテルに入社。
四川料理の神様と言われた陳建民の愛弟子・楊幸一に師事。名古屋に四川料理を初めて定着させた楊幸一の力量に惚れ込み、他店を渡り歩くことなく楊料理長のもとで22年間腕を磨く。名古屋都ホテル閉館後2000年4月にオープンした中国四川料理「川菜」の料理長に就任。陳建民、楊幸一と続く四川料理の本流を伝えるその味は、通が認める本物。
※以下本人のインタビュー
12年ほど下積みを経験し、やっと鍋をやり始めたのは30歳前後。あるときエビチリをつくったら、先生が味をみて「お前、これ誰にきいて作った?」と聞いた。「先生のやってるのを見てつくりました」と答えたら「そうか」と、それだけです。先生はほめない人で、逆にだめだったらいろいろと言う。「そうか」とだけ言ったのは、先生の最大のほめ言葉だったと思います。認められたんだ、と思った。僕にとってすごく重いひとことだった。
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