今年は北京オリンピックの年だった。
振り返れば、戦後の節目、時代を変えた3つの五輪が20世紀にはあった。
◇1964年 東京・オリンピック
・・・「国際化」という言葉に夢見た日本と日本人
☆2000年、毎日新聞が読者にアンケートを取った「20世紀のトップニュース あなたが選ぶこの1本!本」のトップは、東京オリンピックである。
☆昭和史は、敗戦、オリンピックを境に、時代が変わる。
☆三波春夫は♪オリンピックの顔と顔 と歌ったオリンピックは、日本の戦後が本当に終わり、国際社会に名乗りを上げたオリンピックだった。
東京オリンピック以来、日本が狂おしいまでに求めた国際化とは何か?
■エピソード
①オリンピックを決めたワイン
・東京オリンピックの招致合戦が行われていた時、視察に来たIOCのブランデージ会長が、 47年もののディケムが競技会場のレストランにあると聞いて、日本の文化の高さ に感心し開催を決定したという説。
ディケムは、Ch d’Yquem (シャトーディケム)、ボルドー、ソーテルヌ地区の 第1級ワイン。ソーテルヌのワインは、貴腐葡萄からつくられる極甘口の白ワイン が有名だが、ディケムは別格で、このワインのためだけに“特別第1級”という階級があり、20年目頃から飲み頃に達し、50年、60年はゆうに熟成に耐え、当り年だと100年以上熟成する。
・東京の三井綱町倶楽部を訪れたIOCのブランデージ会長が、そこのワインリストをみて「これなら東京オリンピックを開いても恥ずかしくない」と語ったという説
②オリンピックまでに”が国中の合言葉
1959年に東京での開催が決定されてからの5年間、日本は国を挙げて準備を急いだ。国立競技場、東海道新幹線・東京モノレールの開業、名神高速道路・首都高速道路、競技施設と選手村の建設、ホテルの新築。国際化された国の威厳にふさわしく、美しい街づくりと道路整備に力が入れられた。
「オリンピックまでには完成する」という執念にも似た気迫が、日本中に満ちていた。
③銀座では英会話の特訓 銀座はGINZA
新たに必要になったのは、接客の際の英会話だった。
「グッド・アフタヌーン」「メイ・アイ・ヘルプ・ユー?」「ユーアー・ウェルカム」英語の挨拶に笑顔を添えて、各国からの観光客を歓迎するために、特訓が始まった。中心になったのは銀座通連合会。大学卒業間もない石丸雄司氏を講師に、英会話のレッスンが連日連夜、続けられた。
猛烈な特訓に、銀座の商店の人たちは耐えた。商品の説明、値段の言い表しかた、道案内、そして日本の文化や習慣の説明まで。店員の一人一人が“民間大使”になったつもりで、情熱をかたむけて、会話練習した。
「夢の中でも英語で数字をいっていた」と、今でも特訓を回想する人もいる。
■概要
1964年に開かれた第18回夏季オリンピック。<東京オリンピック>は、1940年に第12回夏季オリンピックとして、東京で開催予定だったが、日中戦争開戦に伴い、開催権を返上。ヘルシンキで開催と決定したが、第2次世界大戦の為、結局開催できなかった。戦後いち早く開催された1946年の第1回国民体育大会(京阪神国体)から1964年の東京オリンピックの開催まで競技スポーツの復興期と呼ぶことができる。この時期は、国がスポーツを媒体に国際社会復帰を求めていた時代でもあった。その結果、高度経済成長の頂点期に東京オリンピックを開催し、好成績を収めた
■競技)女子バレーボール:東洋の魔女
マラソン:円谷幸吉の活躍(第三位)。アベベの優勝。
柔道 レスリング 重量挙げ サッカー 日本選手の活躍
◇1980年 モスクワ・オリンピック
・・・政治に翻弄された選手たちの涙
☆社会主義国ではじめてのオリンピック開催となったが、前年暮れにソ連が
アフガニスタンに侵攻したことが国際問題に発展し、結局 IOC加盟145中80の国と地域が参加するにとどまった。
☆日本国内でも政治とスポーツは別だとするJOCや参加予定選手の懸命な努力も実らず、大会直前正式に不参加が決まった。
■エピソード
①カーターの毅然 大平の曖昧
・日本では日本オリンピック委員会から「あなたは今回のモスクワ・オリンピックの代表に選ばれました」という認定書が1枚来ただけで、不参加についての説明は何もなかった。
・アメリカではカーター大統領がホワイトハウスにオリンピック代表選手、役員を全員招いて、直接話をした。なぜ、アメリカはモスクワ・オリンピックをボイコットしなければならないのか、そのことについての自分の意見を話して、最後に「皆さんには申し訳ないが、アメリカ合衆国のために私の決定を理解してほしい」とすべてのテーブルを回った。
②幻のオリンピック選手
・柔道では、7人の幻のオリンピック選手(森脇保彦(60kg級)、柏崎克彦(65kg級)、香月清人(71kg級)、藤猪省三(78kg級)、恵谷正雄(86kg級)、河原月夫(95kg級)、山下泰裕(95kg超級と無差別)がいて、全員オリンピック初出場だった。しかし、4年後のロサンゼルス・オリンピックまでの間に、山下以外の6人は現役を引退していた。4年に一度のオリンピックは、大半の選手にとっては一生に一度のチャンス。勝負の世界で自分のピークを長い時間維持していく、あるいは世界のトップで頑張り続けるというのは容易なことではないのだ。
・女子バレーボールは、前年のプレオリンピックで旧ソ連に完勝して優勝しており、モントリオールオリンピック(1976年)に続く五輪2連覇は確実視されていた。それだけに当時の小島孝治監督率いる全日本女子チームのショックは量り知れないものがあった。
この永年の無念を晴らし22年ぶりに決着をつけようと、当時の日ソ女子バレーボールチームが対決する企画が、日本テレビ「24時間テレビ」の番組中に実現。いまではすっかり主婦業、母親役などが身に付いた当時の日ソ選手たちが8月18日、茨城県ひたちなか市総合体育館で対決。25-19、25-16で日本が旧ソ連を一蹴した。
③政治に翻弄され続けて来た男
南アフリカのローデシアのブルース・ケネディは、1972年にでヤリ投げの選手としてオリンピック代表選手に選ばれた。しかし、1972年のミュンヘンオリンピックに、ローデシアは人種差別問題が原因で参加を認められなかった。しかし、彼は諦めなかった。4年後、すでに体力のピークを過ぎてはいたものの、体に鞭打ちトレーニングを続け、再び代表選手の地位を獲得したのだ。ところが、1976年のモントリオールオリンピックに、南アフリカの国々が人種差別問題で参加をボイコットしてしまったのだ。
さらに4年後、彼の体力はさらに低下していた。しかし、体力に加え違っていたのは、国だった。彼は、オリンピックに出場したい一心で、アメリカに移住、国籍を取得していたのだ。彼のオリンピックに対する情熱は厳しいトレーニングを耐え抜き、奇跡的にオリンピック代表選手に選ばれることになったのだ。しかし、なんとも残念なことに、アメリカは1980年のモスクワ・オリンピックに不参加を決めたのだ。
ブルースは、3度オリンピックに出られなかった男として有名になった。
しかし、さらに悔しいことに、彼のもとの祖国ローデシアは、ジンバブエとなってモスクワ・オリンピックに参加した。
◇1984年 ロサンゼルス・オリンピック
・・・商業主義オリンピックに抗した日本人
☆当時、オリンピックは「お荷物」と化していた。1972年ミュンヘン大会はテロで血塗られ、大赤字の76年のモントリオール大会、そして、ボイコットに揺れた80年のモスクワ大会と相次ぐ災厄に見舞われ、また、参加国と選手が増えるに連れで膨らむ経費のために負債を抱えるのを敬遠しオリンピックを開催する都市が減り、細りが予想されていた。しかし・・・。
☆1984年のロサンゼルス・オリンピックは、巨額のテレビ放映権料や、公式スポンサーからの莫大な協賛金を運営費として大幅な黒字をだした。また開催地も、経済が活性化し、オリンピックは“世界のお荷物”から“金のなる木” へと変貌を遂げた。
☆しかし、商業主義を導入してからのオリンピックは、企業スポンサーとテレビが資金力で動かし、 IOCはその意向に沿って競技者を動員世界的なプロダクションのようになった。
■エピソード
①IOC会長サマランチ。1980年に、IOC会長に就任したサマランチがオリン
ピックに商業性を持ち込んだ。さらに、オリンピックが商業主義になり多くの都市がその経済効果を求め、立候補すりようになると、開催地を決める立場のIOCに対して“接待”が始まった。オリンピック施設の視察に訪れるIOC委員に、ショッピング、観光、ゴルフ、高級ホテルが用意された。しあkし、サマランチ会長は、世界中で招致熱が高まればテレビ放映権料がつり上がると、できるだけ多くの都市に立候補を促し、そうした接待に対する批判があっても変わらなかった。
②ロサンゼルス・オリンピックの立役者ピーター・ユベロス(アメリカ)こそ、オリンピックを一気に再生させた男である。1976年のモントリオール大会は、3億ドルの予算は10億ドルと膨張し、市民は大会後10年以上も返済のための税金を払った。1980年のモスクワ・オリンピックの経費は、モスクワ市の発表では13億ルーブル(日本円で約4420億円)、実際は、5千億円を超すという巨額となった。
そんななかで、ロサンゼルス・オリンピック組織委員長ピーター・ユベロスは、「民営方式」を導入し、1億5千万ドルの黒字をもたらし、大会を成功に導いたのである。そして彼が用いたやり方が「ロサンゼルス方式」と呼ばれ、テレビの放映権契約やスポンサー契約などで、オリンピックの運営費をまかなったのである。
③アマチュアスポーツの良心・元IOC副会長・清川正二。1983年4月13日86歳で、すい臓がんのため亡くなった。1932年のロサンゼルス・オリンピックに19歳で参加、背泳ぎ100mで優勝し、2位入江稔夫、3位河津憲太郎両氏とともにメダルを独占し、36年ベルリン大会でも同種目で銅メダルを獲得。また、第2次世界大戦直後から日本代表チームのヘッドコーチを務め「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進氏らを率いて、国民に活力を与えた。69年にIOC委員に就任。75年には理事に就任。ボイコットに揺れた80年モスクワ・オリンピックでは、政治の介入を阻みIOC憲章に則って参加すべきだ、と日本のボイコットに強く反対。ブランデージ、キラニン、サマランチと3代の会長に接し、オリンピックが商業主義によって肥大化するのに抵抗し続けた古き良き時代のオリンピアンだった。
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