放送作家村上信夫の不思議事件ファイル

Welcome! 放送作家で立教大大学院生の村上信夫のNOTEです。

東京ーモスクワーロサンゼルス 20世紀を決めた3つのオリンピック

2008年12月28日 09時33分24秒 | Weblog
 
今年は北京オリンピックの年だった。
振り返れば、戦後の節目、時代を変えた3つの五輪が20世紀にはあった。

◇1964年 東京・オリンピック
・・・「国際化」という言葉に夢見た日本と日本人

☆2000年、毎日新聞が読者にアンケートを取った「20世紀のトップニュース あなたが選ぶこの1本!本」のトップは、東京オリンピックである。
☆昭和史は、敗戦、オリンピックを境に、時代が変わる。
☆三波春夫は♪オリンピックの顔と顔 と歌ったオリンピックは、日本の戦後が本当に終わり、国際社会に名乗りを上げたオリンピックだった。
東京オリンピック以来、日本が狂おしいまでに求めた国際化とは何か?
■エピソード
①オリンピックを決めたワイン
・東京オリンピックの招致合戦が行われていた時、視察に来たIOCのブランデージ会長が、 47年もののディケムが競技会場のレストランにあると聞いて、日本の文化の高さ に感心し開催を決定したという説。
ディケムは、Ch d’Yquem (シャトーディケム)、ボルドー、ソーテルヌ地区の 第1級ワイン。ソーテルヌのワインは、貴腐葡萄からつくられる極甘口の白ワイン が有名だが、ディケムは別格で、このワインのためだけに“特別第1級”という階級があり、20年目頃から飲み頃に達し、50年、60年はゆうに熟成に耐え、当り年だと100年以上熟成する。
・東京の三井綱町倶楽部を訪れたIOCのブランデージ会長が、そこのワインリストをみて「これなら東京オリンピックを開いても恥ずかしくない」と語ったという説
②オリンピックまでに”が国中の合言葉
1959年に東京での開催が決定されてからの5年間、日本は国を挙げて準備を急いだ。国立競技場、東海道新幹線・東京モノレールの開業、名神高速道路・首都高速道路、競技施設と選手村の建設、ホテルの新築。国際化された国の威厳にふさわしく、美しい街づくりと道路整備に力が入れられた。
「オリンピックまでには完成する」という執念にも似た気迫が、日本中に満ちていた。
③銀座では英会話の特訓 銀座はGINZA
新たに必要になったのは、接客の際の英会話だった。
「グッド・アフタヌーン」「メイ・アイ・ヘルプ・ユー?」「ユーアー・ウェルカム」英語の挨拶に笑顔を添えて、各国からの観光客を歓迎するために、特訓が始まった。中心になったのは銀座通連合会。大学卒業間もない石丸雄司氏を講師に、英会話のレッスンが連日連夜、続けられた。
猛烈な特訓に、銀座の商店の人たちは耐えた。商品の説明、値段の言い表しかた、道案内、そして日本の文化や習慣の説明まで。店員の一人一人が“民間大使”になったつもりで、情熱をかたむけて、会話練習した。
「夢の中でも英語で数字をいっていた」と、今でも特訓を回想する人もいる。
■概要
1964年に開かれた第18回夏季オリンピック。<東京オリンピック>は、1940年に第12回夏季オリンピックとして、東京で開催予定だったが、日中戦争開戦に伴い、開催権を返上。ヘルシンキで開催と決定したが、第2次世界大戦の為、結局開催できなかった。戦後いち早く開催された1946年の第1回国民体育大会(京阪神国体)から1964年の東京オリンピックの開催まで競技スポーツの復興期と呼ぶことができる。この時期は、国がスポーツを媒体に国際社会復帰を求めていた時代でもあった。その結果、高度経済成長の頂点期に東京オリンピックを開催し、好成績を収めた
■競技)女子バレーボール:東洋の魔女
マラソン:円谷幸吉の活躍(第三位)。アベベの優勝。
柔道  レスリング  重量挙げ  サッカー  日本選手の活躍

◇1980年 モスクワ・オリンピック
・・・政治に翻弄された選手たちの涙

☆社会主義国ではじめてのオリンピック開催となったが、前年暮れにソ連が
アフガニスタンに侵攻したことが国際問題に発展し、結局 IOC加盟145中80の国と地域が参加するにとどまった。
☆日本国内でも政治とスポーツは別だとするJOCや参加予定選手の懸命な努力も実らず、大会直前正式に不参加が決まった。
■エピソード
①カーターの毅然 大平の曖昧
・日本では日本オリンピック委員会から「あなたは今回のモスクワ・オリンピックの代表に選ばれました」という認定書が1枚来ただけで、不参加についての説明は何もなかった。
・アメリカではカーター大統領がホワイトハウスにオリンピック代表選手、役員を全員招いて、直接話をした。なぜ、アメリカはモスクワ・オリンピックをボイコットしなければならないのか、そのことについての自分の意見を話して、最後に「皆さんには申し訳ないが、アメリカ合衆国のために私の決定を理解してほしい」とすべてのテーブルを回った。
②幻のオリンピック選手
・柔道では、7人の幻のオリンピック選手(森脇保彦(60kg級)、柏崎克彦(65kg級)、香月清人(71kg級)、藤猪省三(78kg級)、恵谷正雄(86kg級)、河原月夫(95kg級)、山下泰裕(95kg超級と無差別)がいて、全員オリンピック初出場だった。しかし、4年後のロサンゼルス・オリンピックまでの間に、山下以外の6人は現役を引退していた。4年に一度のオリンピックは、大半の選手にとっては一生に一度のチャンス。勝負の世界で自分のピークを長い時間維持していく、あるいは世界のトップで頑張り続けるというのは容易なことではないのだ。
・女子バレーボールは、前年のプレオリンピックで旧ソ連に完勝して優勝しており、モントリオールオリンピック(1976年)に続く五輪2連覇は確実視されていた。それだけに当時の小島孝治監督率いる全日本女子チームのショックは量り知れないものがあった。
 この永年の無念を晴らし22年ぶりに決着をつけようと、当時の日ソ女子バレーボールチームが対決する企画が、日本テレビ「24時間テレビ」の番組中に実現。いまではすっかり主婦業、母親役などが身に付いた当時の日ソ選手たちが8月18日、茨城県ひたちなか市総合体育館で対決。25-19、25-16で日本が旧ソ連を一蹴した。
③政治に翻弄され続けて来た男
 南アフリカのローデシアのブルース・ケネディは、1972年にでヤリ投げの選手としてオリンピック代表選手に選ばれた。しかし、1972年のミュンヘンオリンピックに、ローデシアは人種差別問題が原因で参加を認められなかった。しかし、彼は諦めなかった。4年後、すでに体力のピークを過ぎてはいたものの、体に鞭打ちトレーニングを続け、再び代表選手の地位を獲得したのだ。ところが、1976年のモントリオールオリンピックに、南アフリカの国々が人種差別問題で参加をボイコットしてしまったのだ。
さらに4年後、彼の体力はさらに低下していた。しかし、体力に加え違っていたのは、国だった。彼は、オリンピックに出場したい一心で、アメリカに移住、国籍を取得していたのだ。彼のオリンピックに対する情熱は厳しいトレーニングを耐え抜き、奇跡的にオリンピック代表選手に選ばれることになったのだ。しかし、なんとも残念なことに、アメリカは1980年のモスクワ・オリンピックに不参加を決めたのだ。
ブルースは、3度オリンピックに出られなかった男として有名になった。
しかし、さらに悔しいことに、彼のもとの祖国ローデシアは、ジンバブエとなってモスクワ・オリンピックに参加した。

◇1984年 ロサンゼルス・オリンピック
・・・商業主義オリンピックに抗した日本人

☆当時、オリンピックは「お荷物」と化していた。1972年ミュンヘン大会はテロで血塗られ、大赤字の76年のモントリオール大会、そして、ボイコットに揺れた80年のモスクワ大会と相次ぐ災厄に見舞われ、また、参加国と選手が増えるに連れで膨らむ経費のために負債を抱えるのを敬遠しオリンピックを開催する都市が減り、細りが予想されていた。しかし・・・。
☆1984年のロサンゼルス・オリンピックは、巨額のテレビ放映権料や、公式スポンサーからの莫大な協賛金を運営費として大幅な黒字をだした。また開催地も、経済が活性化し、オリンピックは“世界のお荷物”から“金のなる木” へと変貌を遂げた。
☆しかし、商業主義を導入してからのオリンピックは、企業スポンサーとテレビが資金力で動かし、 IOCはその意向に沿って競技者を動員世界的なプロダクションのようになった。
■エピソード
①IOC会長サマランチ。1980年に、IOC会長に就任したサマランチがオリン 
ピックに商業性を持ち込んだ。さらに、オリンピックが商業主義になり多くの都市がその経済効果を求め、立候補すりようになると、開催地を決める立場のIOCに対して“接待”が始まった。オリンピック施設の視察に訪れるIOC委員に、ショッピング、観光、ゴルフ、高級ホテルが用意された。しあkし、サマランチ会長は、世界中で招致熱が高まればテレビ放映権料がつり上がると、できるだけ多くの都市に立候補を促し、そうした接待に対する批判があっても変わらなかった。
②ロサンゼルス・オリンピックの立役者ピーター・ユベロス(アメリカ)こそ、オリンピックを一気に再生させた男である。1976年のモントリオール大会は、3億ドルの予算は10億ドルと膨張し、市民は大会後10年以上も返済のための税金を払った。1980年のモスクワ・オリンピックの経費は、モスクワ市の発表では13億ルーブル(日本円で約4420億円)、実際は、5千億円を超すという巨額となった。
そんななかで、ロサンゼルス・オリンピック組織委員長ピーター・ユベロスは、「民営方式」を導入し、1億5千万ドルの黒字をもたらし、大会を成功に導いたのである。そして彼が用いたやり方が「ロサンゼルス方式」と呼ばれ、テレビの放映権契約やスポンサー契約などで、オリンピックの運営費をまかなったのである。
③アマチュアスポーツの良心・元IOC副会長・清川正二。1983年4月13日86歳で、すい臓がんのため亡くなった。1932年のロサンゼルス・オリンピックに19歳で参加、背泳ぎ100mで優勝し、2位入江稔夫、3位河津憲太郎両氏とともにメダルを独占し、36年ベルリン大会でも同種目で銅メダルを獲得。また、第2次世界大戦直後から日本代表チームのヘッドコーチを務め「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進氏らを率いて、国民に活力を与えた。69年にIOC委員に就任。75年には理事に就任。ボイコットに揺れた80年モスクワ・オリンピックでは、政治の介入を阻みIOC憲章に則って参加すべきだ、と日本のボイコットに強く反対。ブランデージ、キラニン、サマランチと3代の会長に接し、オリンピックが商業主義によって肥大化するのに抵抗し続けた古き良き時代のオリンピアンだった。

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12月23日(火))「新・温故知人」(柳家花緑)は100回目!

2008年12月20日 11時41分07秒 | Weblog
 おはようございます。12月23日(火)9時25分頃~のフジテレビ「トクだね」(小倉智昭、佐々木恭子、笠井信輔)「新・温故知人」(柳家花緑)は100回目!
2008年、今年、亡くなった方々のメッセージ総集編。
常に挑戦し新しい分野を築いた人々のエネルギーや、挫折や不遇の時代をどう乗り切ったか。一つ一つの言葉に、時代を創った人々の鮮やかな人生があった。

赤塚不二夫 漫画家
「仕事っていうのは、誰もやらないことをするのが面白い、やってないからやりたいんだっていったんですよ、そうしたら、ヒットした」。

片岡球子 103歳まで現役 画家
「まずやろうと決心すること。絶対やめないで続けること」。

中村寅吉 昭和10年デビュー 生涯現役のプロゴルファー
「練習といわないな。おもしれーからやっていたな」。

市川崑 93歳まで現役の映画監督
「僕らの仕事は苦労する事がやっぱり楽しみなんで、少し逆説的なんだけど、苦労しなきゃこういう仕事は楽しくないんですね」。

遠藤実 5000曲を超える作曲 作曲家
「絶対いいものを作ろうと思わず、自然体で作ることですね。頭で書いて歌った歌は、絶対に売れてないです」。

水野晴郎 映画評論家
「映画は青春でもあり映画は人生ですからね。いやぁ本当に映画っていいもんですね」。

緒形拳 俳優
「立派な役者っていうより良い役者で終わりたいかなーって。まだ終わることなんて考えていないけど」。

加藤博一 プロ野球
「男は辛い時ほど笑うんだ。心で泣いても笑うんだ。それがプロだ」。

峰岸徹 俳優
「人間って結構未知の力がありますからね。時間はかかるけど、諦めなきゃ、諦めなきゃ何かあるような気がしますよね」。

筑紫哲也 キャスター
「あの当時の自分を考えていると止まらないまま走っていて、あそこでガシャンとならないと止まらなかったんだよね。<止まって考えるって物凄く大事だね>」。

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不祥事対応事例 「パロマガス湯沸し中毒事故」裁判始まる

2008年12月19日 07時35分26秒 | Weblog
2006年に起こった「パロマガス湯沸し器中毒事故」は、不祥事事例の一つとして、
企業は誰に対して責任を負い、誰を守るべきかの「判断ミス」が、企業を危うくすることを如実に表した例である。
発生時の事故の概容は、下記の通りである。

2006年7月14日、経済産業省が報道発表した「パロマガス湯沸かし器中毒事故」においては、同日、小林弘明パロマ工業社長(当時)が記者会見。
席上、一連の事故原因は、器具の延命等を目的に安全装置を解除したサービス業者による不正改造が原因として、
「製品にはまったく問題ないという認識です」
「(不正改造に)非常に憤りを感じる」
と発言、犠牲者に対して
「心からお悔やみを申し上げる」
としたものの、一切、謝罪表明をしなかった。
そのため、報道論調はパロマ工業の責任を追及する方向に向い、社会問題となった。その後、事故原因の一部が安全装置の劣化であることや、最初の事故発生当時、社長だった小林敏宏会長へ一連の事故報告がなされていたことが明らかになり、小林会長は辞任表明することになる。
また小林社長は、
「経営者としての認識の甘さや社会的責任に関して、本当に申し訳なく思う。深くおわびしたい」と謝罪表明し、7月31日「事故対策が不十分であったと反省している」と謝罪した。(山陽新聞,2006.3.14)

つまり、事故発生時の何を優先させるか、当然、被害者救済であるが、パロマは創業者一族を守ろうとした。大殿 小林敏宏会長の首を差し出すことはもちろん、頑張っている若殿 小林弘明パロマ工業社長(当時)を大殿の家老がお守りしなければというまるで「暴れん坊将軍」か「水戸黄門」のような構図が登場、記者会見も
若はお疲れなのでっていう雰囲気だった。
若殿は若殿で、古くからの家臣にいい所見せようと、大殿が出馬するまでなく、「余がちょちょちょい」って感じで記者会見にのぞみ、「ちょちょちょい」とやられ泪を見せることになった。

あれから 2年9ヶ月たち、結局 大殿 小林敏宏会長は刑事事件の容疑者として、裁判を受けている。(下記 記事) 危機発祥時には、対応の優先順位を間違えないよう、日頃からマニュアルなどで確認しておくべきだ。
そのツケは大きくつく。大日本帝国も、終戦時に判断を誤り、悲劇を拡大してしまった。

http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20081219AT1G1804418122008.html

パロマ湯沸かし器事故:元社長ら無罪主張 「事故想定できず」--東京地裁初公判

パロマ工業(名古屋市)製湯沸かし器による一酸化炭素(CO)中毒事故で、業務上過失致死傷罪に問われた元社長、小林敏宏被告(71)は18日、東京地裁(半田靖史裁判長)の初公判で「修理業者による不正改造で事故が発生するとは思ってもみなかった」と無罪を主張。元品質管理部長、鎌塚渉(かまつかわたる)被告(58)も起訴事実を否認した。
検察側は冒頭陳述で「元社長らは修理業者が実際に不正改造を行い、事故が多発していたことを認識していたのに、注意喚起の徹底や点検・回収を行わず放置し、新たな事故を招いた」と指摘した。
一方、弁護側は「独立した事業体の修理業者が不正改造をしても制御できる立場になかった。元社長らは文書配布や講習会の実施など、できる限りの対策を取った」と反論した。
起訴状によると、元社長らは事故対策を怠り、05年11月に東京都港区のマンションで大学生の上嶋浩幸さん(当時18歳)をCO中毒で死亡させ、兄(28)に傷害を負わせた。【伊藤一郎】

 ◇遺族「息子を返して」
「18歳の浩幸を返してほしい」。事故で死亡した上嶋浩幸さんの母幸子(ゆきこ)さん(55)は初公判後に会見し、改めて悔しさをにじませた。小林元社長らが起訴事実を全面否認したことに対しては「浩幸より前に多くの人が亡くなっているのに、なぜ事故を防げなかったのでしょうか。無罪なんてありえません」と憤った。
初公判で元社長は「浩幸さんのご冥福を心からお祈りします。ご遺族の皆様にも心からお悔やみを申し上げます」と述べた。これまでに元社長から直接謝罪されたことはなかったといい、幸子さんは「なぜ、もっと早くトップの謝罪が聞けなかったのか。罪を軽くするために言ったとしか思えない」と語った。
パロマ工業は、浩幸さんが亡くなった8カ月後の06年7月に自主点検を開始。先月時点で約2万台を回収し、約4万7000台の点検を済ませたという。同社は「裁判の成り行きを真摯(しんし)に見守りたい」とコメントした。

毎日新聞 2008年12月19日 東京朝刊


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村上 信夫,吉崎 誠二
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JR西日本福知山線尼崎脱線事故 もう一つの真実

2008年12月18日 04時34分25秒 | Weblog
「企業は不祥事によって批難されるのではなく、起こしたことにどう対応したかで非難される」といわれる。まさに、「JR西日本尼崎脱線事故」は、クライシス・コミュニケーションと不祥事報道の関係性において、二次不祥事の拡大ともいうべき事例と見ることができる。不祥事事故は起こる。しかし、その不祥事に対し、どう対応するかで、企業イメージはその後、どう展開するのか。本来、そこに介在し、不祥事後の対応に当たるのが、トップの役割である。 
 しかし、そのためには、記者会見のトップの言葉は信用され、重みを持って受け入れられなければならない。だが、垣内社長以下トップの記者会見内容は、記者たちに信用されず、かえって紛糾させた。
まず、JR西日本トップの発言に対し、記者たちがどのような心象を受けたのか、聞き取り調査した記者たちの指摘を挙げる。

 不祥事発生時には、広報は、社長に情報を一元化し、社内コミュニケーションの統一をはかるべきである。しかし、JR西日本においては、その努力は見られず、朝の記者会見を午後には否定し、同席した幹部が他の幹部の言葉を否定、記者たちの質問に答えられなくなると「記憶にない」「個人的意見」という言葉が平気で出てくる。さらには、事故発生時にボウリング大会、宴会を行う社員について意見を求めると、平然と「企業の風土」と会見で繰り返す幹部たち。幹部たちの当事者意識のなさ、安全意識の低さや同社の構造的欠陥が浮かぶ。(在阪局・30代・記者)

「けがをした乗客を放置したのは非常に遺憾」と記者会見したその日に、「JR西日本の職員が乗客を放置したかの調査は無理」とコメントを出した。そこから不都合な事は理屈で逃げようとしていると感じられた。普通ならば、見つけることが出来ないかもしれないが、調査を行うぐらいのコメントをするべきであったであろう。自らのやる気のなさを露呈しているだけである。(在阪局・40代・記者)

事故発生2日後の記者会見だった。「私個人の意見」と言いながら、文章を読み、打ち合わせしながら答える。JR西日本は公の会見で、このような重大な災害のときに、個人的な意見を言うような人間を人事で選んでいるのだろうか、記者たちの間で、JR西日本の事態に対する真剣度に疑問符がつき、(取材は)徹底的にやるべきだと思った。(全国紙・40代・記者)

本事例から、不祥事報道は「クライシス・コミュニケーションの失敗が起こる度に拡大する」こと、特に、象徴的な発言があれば、繰り返し使われること。「情報の隠蔽は、記者たちの関心を、当該事件・事故だけではなく、過去の不祥事や企業体質そのものに向わせる」ことで拡大することが指摘できる。本事例では、JR西日本社員の事故当日の行動が関心の対象となった。つまり、JR福知山線の脱線事故では、事故原因の究明だけでなく、JR西日本の体質とも取れる問題点が次々と明らかになっていった。そんな状況の中で5月4日のボウリング宴会のスクープが起こり、スクープはさらに拡大していったのである。
本事例の報道の流れとその潮目は以下の通りである。

●4/25 事故発生当日 事故原因に置き石の可能性を示唆
●4/26 JR西日本の三浦英夫運輸部長「もっともあってはならない…」のため息。その他、度重なる訂正発言と情報開示拒否。
●4/27 JRの村上恒美安全推進部長、三浦英夫運輸部長のチグハグ
三浦部長は「私が類推して言ったまで。非常に誤解を招き申し訳ございません」
●5/3  事故車両に乗り合わせた運転士二人が、けが人を救助せず出勤とJR西日本が発表。実は、上司の指示である事が発覚。
●5/4  天王寺車掌区が事故当日にボウリング大会を開催した事が発覚

 この事故においては、当初の3日間は、JR西日本トップの記者会見の対応が混乱を招いている。この間、JR西日本は「捜査中」を盾に、情報開示を拒む。それに対し、マスメディアは独自の調査をはじめ、それが噴出すのが5月3日以降。それは、5月3日、事故車輌に乗り合わせたJR西日本社員が事故現場を見捨てて出社した事に対し、JR西日本が写真個人の責任にしようとしたところ、労組の反発及び調査報道により、「上司の指示」であることが判明、「組織の体質」への批判に変わる。筆者は、これが底流となって、翌日以降の報道の流れ、「JR西日本社員の行動」(=組織体質)批判を作ったと考える。
 5月4日、ボウリング問題が発覚紛糾した記者会見。当初は、社長不在で幹部のみの定例記者会見だったが、「社長を出せ!の大合唱」(在阪局40代記者)であった。この記者会見での垣内社長のコメントと役割に焦点を当てる。
まず、この日の社長の記者会見の前提だが、もう一度、確認する。前日からの、事故電車に乗り合わせた運転士が救助活動をせずに立ち去っていた問題に加え、事故3時間後に社員43人がボウリングに興じていたという新たな不祥事がテレビニュースのスクープで発覚した。それに対し、JR西日本幹部の(相変わらずの)要領のえない記者会見に業を煮やした記者たちの大合唱を受け、JR西日本の垣内剛社長が5日未明、緊急記者会見した。   
記者たちは、辞任について繰り返し質問。それに対し、垣内社長は疲れ切った様子で謝罪の言葉を連ねたが、辞任については否定した。この日の社長の記者会見の言葉は次のようである。(朝日、毎日、読売、日経より抜粋)

午前0時過ぎに会場に現れ、「数々の不手際、誠に申し訳ありません」陳謝する垣内社長の表情は青白く、硬くこわばっていた。
「大変なさけなく、残念な気持ちでいっぱいです。私たちにできることは安全を一から見直し、生まれ変わったJRをお見せすることによって信頼回復に努めます」
垣内社長は冒頭で深々と頭を下げた。

脱線事故当日の社員の非常識な行動が相次いで発覚したことについて
「会社全体の意識、仕組みの問題だと思う、誠に申し訳ない」。

運転士2人が救助活動をせずに現場を離れたことについては、垣内社長は
「大惨事を前にしてまず行うべきは被害者の救助。それができなかったのは非常に残念」「まず救助活動、あるいは現地でのお手伝いをしてほしかった。それができなかったのは非常に残念」と唇をかみしめた。

天王寺車掌区のボウリング大会については
「事故を知らなかったと済まされる問題ではない。40人が事故のことを知らなかったと言うのは疑問に思う」と述べ、事実関係をさらに調査する方針を明らかにした。 また、ボウリング大会を中止しなかったことには、
「同じ鉄道人の1人として情けない」と突き放した。

一連の不手際の責任について問われると、
「再発防止と安全確保に全力を挙げることが最大の責任と考える」などと話し、改めて辞任を否定した。そのうえで「私の問題ともなりある」と語った。

ただ管理者としての進退を問われると
「生まれ変わったJR西日本を作り上げることが私の使命。おわびとお見舞いに全力を挙げる」とこれまでと同様の発言を繰り返す。

 この日の記者会見を分析すると、ここに、トップとしてのリーダーシップと事態の収拾にあたる意思は感じられないことが、問題である。記者たちに迫られ、後手に回っているだけである。このような社長の姿に、被害者はもちろん、社員、取引先、株主は、信頼を持ちえるのだろうか。
 さらに、自分のリーダーシップ不在を吐露したような「信じられない」を何度もコメント。安全のために最大限の努力をすると言っても、具体的にどのような努力をするのか、いつまでに具体的な方針を決めるのかについては、一切触れなかった。これでは、被害者、被害者の家族及び利用者が、JR西日本の安全のために最大限の努力について評価さえも出来ない。記者たちの感想は、一様に「謝って済ますだけなのか」だった。
 さらに、脱線した電車に乗りながら現場を離れた運転士、事故当日にボウリング大会を開いた社員らが救助せずに勤務、ボウリング大会、宴会、旅行について「遺憾」なのであれば、処分を公表するべきだった。記者会見で謝ったり、安全のための努力をすると言って、信用を得ようといのうであれば、社長自身が認めるようにJR西日本の体質に問題があり、改善するつもりがあるのであれば、具体的な今後のJR西日本の方針を明確に提示し、方針の達成状況をHPで開示するべきであった。しかし、垣内社長の記者会見の中に、それらは何等触れられていない。繰り返すが、「謝って済ますだけなのか」だった。
 これにより、報道の論調は「JR西日本の無責任体質」を象徴する「社員の当日の行動」に対する魔女狩り的なものへと向う。これは、事故の一旦でしかないのだが、そこへ集中していった。やがて、報道は、垣内社長らトップ3人の辞任を求める方向へ向かっていき、5月17日、辞任表明ともに終息へ向った。

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犯罪心理学者 花見小路珠緒の不思議事件ファイル (グラフ社ミステリー)
村上 信夫
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JR西日本尼崎脱線事故 報道されなかったもう一つの真実

2008年12月15日 02時45分58秒 | Weblog
2005年4月25日に発生したJR西日本尼崎脱線事故は、死者107人、負傷者500人を超える日本鉄道史上有数の大惨事となった。これに対し、事故発生後のJR西日本の対応はお粗末を極め、二転三転する発表内容、責任逃れ、官僚答弁、そして、隠蔽体質と事故発生時の情報開示のあり方が問題になった。
しかし、同時に報道のあり方にも多くの課題を投げかけた。悲しみに暮れる遺族を大勢で取り囲む取材や、会見での行き過ぎた質問は批判を浴びた。個人情報保護法をめぐっても、新たなあつれきが起った。

「線路上に石があった」事故発生2時間後の不信

◆JR西日本尼崎脱線事故

事故は、2005年4月25日午前9時18分頃、兵庫県尼崎市久々知のJR福知山線尼崎~塚口駅間で、宝塚発同志社前行き上り快速電車(7両編成、乗客約580人、高見隆二郎運転士(23))の前4両が脱線し、先頭車両が線路脇のマンション1階にめり込む形で激突。死者107人、負傷者500人を超える大惨事となった。

◆4月25日 事故発生直後の記者会見で何が語られたか

JR西日本は、事故を起こした4月25日から連日、大阪市内の本社会議室で会見を開いた。横一列に10台ほどのテレビカメラが並び、新聞、テレビ、雑誌記者が会場からあふれ、一時100人くらいに膨れ上がった。
最初の会見は、事故発生から約二時間後の午前11時15分。
JR西日本は、車との接触事故として発表するなど、事実確認さえもできていなかった。まだ車内に閉じ込められている乗客も相当残っており、死者、負傷者とも増える恐れが有るとされているなかで、この重大事故に対する記者会見が行なわれていた。さらに、犠牲者の数が次々と増えるにつれ、会見は異様なムードになっていった。それは、まさにJR西日本への不信の序章となった。なかでも、捜査途中を理由に他の説明を拒みながら、「線路上に石の粉砕痕があった」と、早々に置き石の存在を、写真まで用意して示唆する発表をしたことは、被害者、遺族、救助関係者、取材する記者たちの感情を逆なでした。
後日、この摩滅した石の成分は線路内にある小さな敷石の成分と同一で、故意に線路外から運ばれて置かれた大きな石ではないことが実証される。

報道されなかった記者会見の真実

◆4月26日「ため息」

事故発生の翌4月26日、多くの乗客の目撃証言よりも車掌の証言を採用して公表したオーバーラン距離は、車掌が運転指令に虚偽報告をしていたことが明らかになった。その記者会見では、JR西日本の三浦英夫運輸部長が「もっともあってはならない…」と表情険しく、ため息をつく。さらに、昨年、橋やトンネルなど地上設備の点検記録を改ざんしていたことが相次いで発覚した。保守管理部門の深刻なモラル低下が、運転部門にも波及していた。という、事故と直接関係のない周辺事情までが、ため息と共に印象付けられた。
この日、JR側が「積極的に情報を開示する」と言いながら、捜査への協力を盾に 説明しないなど、言葉とは裏腹に情報開示に消極的な姿勢が目立つようになり、記者会見でもJR幹部の発言訂正が相次ぐ。被害者から「JRは正確な情報をくれない」などの声が強まっていく。そのため、記者たちの取材意欲に逆に火をつける格好となった。

◆4月27日「紛糾」

「事件に予断を与えるような事実の公表は慎んでほしいと、県警と事故調査委から強い要請がきている」
 27日の会見で、JRの村上恒美安全推進部長が、三浦英夫運輸部長の説明に割って入った。それまで報道陣の質問に答えていた三浦部長は「私が類推して言ったまで。非常に誤解を招き申し訳ございません」とすべての説明を取り消した。別の質問で三浦部長が述べた発言にも、村上部長が「コメントできない。ご理解いただきたい」と打ち消し、その後の質問には押し黙ったまま。 このため村上部長は大半の質問への回答を事実上拒否。「なぜ言えないのか」と詰め寄る報道陣との間で約1時間半にわたり紛糾した。
 同じJR西日本が、記者会見で見せたチグハグな発言は、もっとも大きな隠蔽があるのではないかと不信を記者たちに与えた。

◆「事故現場からの逃亡運転手発覚」 5月3日

この日、事故車両に乗り合わせた運転士二人が、けが人を救助せず出勤していたことが判明。いずれも救助活動に加わらずに職場の電車区に向かい、通常通りに乗務していた。
鉄道本部長の徳岡研三専務は、3日の記者会見で、「救助にあたるのが当然だったと考える。誠に申し訳ない」と謝罪。2人をそのまま乗務させたことについては「点呼などで精神的、肉体的に乗務につけると判断した」と話した。さらに、乗り合わせていた電車が事故に遭遇した際の行動マニュアルはないが、社員には日頃から、異常事態に遭遇した場合は救助活動に加わるよう指導していると話した。是に対し、「運転士だけに責任を押し付けるのか」と労組が猛反発。翌日、うち1人は電話で、職場の上司に快速に乗り合わせていたことを報告したが、上司は事故現場に戻るよう指示しなかった。「報告を受けた上司が出勤を指示していた」と修正するなど、迷走を続けた。
だが、27歳の運転士は「気が動転していた」と釈明したが、この日の勤務は午後2時9分から。遅刻の心配はなかったが、実際には、午前10時開会の橋本光人・同社大阪支社長の講演会に出る予定だったことも分かった。

◆5月4日「事故当日のボーリング大会発覚!」

4日、事故後に定例となった記者会見が午後5時から開らかれた。席上に座ったのは村上恒美・安全推進部長と三浦英夫・運輸部長だった。2人は脱線した快速電車に乗り合わせていた運転士2人がそれぞれの上司と携帯電話でやり取りした内容や、社内調査に対する証言の中身について発表した。しかし、両部長が推測をまじえて説明するなどしたために会見は中断。再開は、午後8時15分、大勢の社員が証言内容の確認に走り回った後、再開された会見でA4判の紙3枚が配られた。「まだ時間があるので、遅れないできてください」3枚目の最後に運転士に定刻出勤を求めた上司の言葉が記載されていた。 

◆読売新聞 某記者はなぜ怒鳴ったのか?

※けっして“某記者の暴言”を擁護するものではないが、その暴言に至るプロセス

4日の会見は、五日未明に及んだ。脱線事故を知りながら車掌らがボウリング大会を開いていた事実をテレビ朝日の報道ステーションがスクープ。JRは調査していたのに公表しなかったことで紛糾した。JR西日本を糾弾するトーンに変わっていった。「あんたたちは、ちゃんと仕事してるんか!」。記者が声を荒らげる。厳しい質問攻めには「記憶にございません」。不誠実な答弁を繰り返す徳岡研三・鉄道本部長に、取材陣はいら立った。
事故直後のJRの調査の際に「垣内剛社長は一緒にいたのか」などの質問が出ると、再び「記憶にございません」とし、型をはめたような答えに終始した
「どのつら下げて遺族を回ってるんや」。読売新聞記者が発言した。
 後に、この様子がテレビや雑誌などで報道されると、批判が噴き出た。「どう喝するような記者の姿勢は見苦しい」「JR西日本をたたけば読者が喜ぶという安易な記事になっていないか」などの意見が寄せられた。
この日の記者会見は、村上、三浦両部長は事実関係を認めて謝罪したが、「社長は遺族にこのことをどう説明するつもりなのか」と垣内社長の会見を求める質問が出て会見は再び中断。垣内社長が会見場に姿を見せたのは日付が変わった5日午前0時20分過ぎだった

個人情報の扱いめぐり生じた摩擦

 尼崎JR脱線事故は個人情報をめぐり、警察や病院、遺族とメディアの間でさまざまな問題が起きた。原因や責任を解明し教訓とするため、個人情報を社会全体で共有すべきとするメディア。四月の個人情報保護法の全面施行を受け、被害者のプライバシーをいっそう保護しようとした関係機関。両者が生んだ摩擦だった。妥当な取り扱いをめぐる模索が続く。

◆ 負傷者が搬送された病院には記者が詰め掛けた。

 関西労災病院(尼崎市)は、事故発生の4月25日の午後3時と26日朝に会見。約30人の入院患者のうち、報道への情報提供に同意した11人分の名前を公表した。それ以外は個人情報保護法の「第三者提供の制限」(23条)を理由に性別と人数にとどめた。
 対応に悩んだ県立西宮病院は兵庫県に問い合わせた。今回は「人命、身体、財産の保護のために必要な場合」という23条の例外規定に当たると説明を受け、公表に踏み切った。厚生労働省も県と同じ見解を示したものの、事故直後は混乱が起きた。

◆兵庫県警の匿名発表

 兵庫県警は今回、事件事故に関する広報で続けてきた「実名発表」の原則を、事実上覆した。実名、匿名の判断はメディア側が各自にするとして、県警記者クラブは従来通り実名で発表するよう再三申し入れた。しかし県警は「実名が公表されれば(県警を)訴えるという遺族もいる」などと説明。見直し要求を受け入れていない。 会見や発表は取材の一部にすぎない。真相や背景に迫るため、関係者を通じて日々事実を積み上げている。だが、被害者が「どこの、だれ」という基礎情報までが非開示となれば、取材への影響は避けられない。
メディアスクラム

◆遺体安置所での出来事

 四月二十五日から二十八日にかけ遺体安置所となった尼崎市記念公園総合体育館には、報道陣が二十四時間張り付いた。こわばった表情の家族や友人が姿を現すたびに、報道陣が一斉に駆け寄った。「どなたをお探しですか」「今のお気持ちは」。矢継ぎ早に質問が飛んだ。 事故直後だからこその不安、怒りがある。それをストレートに伝え、社会と共有する。遺族にじっくりと向き合い、寄り添えば、報道が遺族を支える力にもなる。 だが、混乱する安置所の囲み取材では、趣旨を説明することは難しかった。「あんたらに遺族の気持ちが分かるのか」。無遠慮な取材が不信感を生み、溝を深めた。
メディアスクラムをめぐっては、新聞、テレビ、雑誌など媒体ごとに対応している。発生三日目の27日、神戸新聞社が問題を提起。神戸に取材拠点を置く新聞社などの代表で構成する兵庫県編集部会が「メディアスクラムに発展しかねない過剰な取材がみられる」と確認し、各社が節度ある取材をするようアピールした。
事故の責任を追及するのにマスコミの役割は欠かせない。今回もJRの体質など、報道があぶり出した問題は多い。遺族と協力し、真実の解明と再発防止の努力ができるような関係を築くことができて、初めて、マスコミはその役割を本当に果たしたといえる。

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100年後の未来人からの警鐘。地球温暖化進行のシナリオ。

2008年12月14日 07時47分39秒 | Weblog
〈2100年 水没都市TOKYO〉
 21世紀の終わりの年に地球は、南極とグリーランドの氷ははや溶け、海面が70m上昇した最悪のシミュレーションが現実となっている。

中央区、港区、品川区、江東区など東京の湾岸エリアは水没。佃のタワーマンション群、汐留の高層ビルは、群礁のように僅かに上部がその姿を晒しているだけ。そこに立つと遠くに、お台場の某テレビ局の頭を波が洗う。
その海を泳ぐのは色鮮やかな熱帯魚。雷が鳴り、急にスコールが降り出した。
2100年、夏の降水量は100年前の20%増となり、100mmを越える豪雨が頻繁に降るようになりました。気温も25度を下回ることは、殆どありません。テレビのニュースは、北極の氷が完全に消滅したことを伝え、関係各国による北極グマなどの動物の避難、救出の様子が伝えられたが、幾つかの種は、死滅したという。(ACIA予測)
続いてニュースは、日本の0m地帯がまた拡大したことを伝え、町や村、地域ごとに集団移動を始めた。住み慣れた故郷が水没していく様になすすべもない人々の嘆き・・・。

「・・・どこで間違えたのだ」

原因は明らか。・・・人類の活動が原因で起こった地球温暖化だ。
だが、もっと最悪の未来を示している。
「シベリアの永久凍土が溶け、温室効果ガスが放出され、温暖化が加速する」
地球はウォーターワールドになってしまうのだ。

2100年の未来人は、タイムマシーンで過去に遡り、人類に警鐘を鳴らす。
〈地球温暖化の百年〉
タイムマシーンで過去を遡り始めた女性科学者と子供たち。
温暖化が引き起こす異常な自然の変化。それを見ながら沸き起こる疑問。
「人類は何度かの節目になぜ、適切な手を打たなかったのだろう?」

2090年、世界遺産白神産地のブナ林が消滅した。
2050年、日本の真夏日は100日を越えた。熱中症の死者15000人を越え一時間50mmを越える局地的集中豪雨が頻発に起こり、その度に新宿、渋谷などの繁華街が浸水した。海水温の上昇で白化現象が進み、世界のサンゴ礁の半分は消滅。日本は亜熱帯になり、和歌山では気温が高くなりすぎて栽培ができなくなった温州ミカンが、新潟の山間部で栽培されるようになった。デング熱、黄熱病などの熱帯性の動物感染症が増加し、日本もマラリア感染地域に指定される。

「こうなる前に、人類は何もしなかったの?」
子供の問いかけに母親は、答えにつまります。
さらに、タイムマシーンは地球温暖化が顕著になる21世紀初頭に。

〈2005年 地球は悲鳴を上げていた〉

「21世紀冒頭、2003年~2005年、地球は悲鳴を上げている」

2003年、フランスを襲った熱波で15000人が死亡。
2003年から2005年にかけて、北半球を史上最多の巨大ハリケーン、台風、モンスーンが観測され、次々と上陸、甚大な被害が発生した。2004年、アフリカの風土病「西ナイル熱」がアメリカで大流行9000人感染、222人死亡。この年、熊本では105日の真夏日が観測され、大阪93日、東京70日と全国各地で最多を記録する。
2005年、ヒマラヤの氷河が溶け、湖が出現。中国では6月豪雨で204人死亡、一方、雨の国雲南省で旱魃が起こり、1108万人もの人が渇した。この年、IPCCは、今後百年で5.8度気温が上昇するだろうと発表した。

2004年12月15日、水戸市で梅が開花。この時期、横浜ではタンポポが咲いた。蝶、蜻蛉、セミは年々北上、何よりも、猛毒セアカゴケグモは、熱帯原産にも関わらず日本で越冬し、じりじり北上している。
東京の公園は、亜熱帯性植物シェロが大繁殖井の頭公園の一部など、まるでジャングルのようになった。造礁サンゴの北限はどんどん高緯度となり、南房総まで北上した。本来いるはずのない熱帯魚さえ、越冬するようになった。
冷水性の海藻が減り、これを食べるアワビやサザエ、ウニなどの生物が減し、沖合漁業は、マイワシ、サバ、サンマが増えるものの、紅サケなどの漁場は遥か北方に移動し、漁獲量が減り始めている。

未来人は、警鐘の叫びをあげている。
「気がつかないのですか・・・!?」

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下町の銭湯は56度、笑っちゃうほどアチチ。

2008年12月13日 05時40分18秒 | Weblog
昨夜、久しぶりに銭湯に行った。
僕の住んでいる地域は、下町なので銭湯が充実している。

昨日、入ったのは、初めての銭湯だった。
湯船は次の3種類。
*電気が流れてビリビリ刺激の電気風呂(決して、拷問ではありません)
*どこかの温泉の素が入った(たぶん)薬湯
*「痩身効果抜群!」(本当かよ!)の看板が大きく怪しい、アワアワ風呂。
と、内容も充実。
・・・ちなみに、あの懐かしい富士山のような、背景の画はない。
で、兎に角、アツい!入った途端「痛い」。アチチチ。人間は、アツイ湯に入って
どうしようもなくなると、笑いが出てくる。あははは、あちち、あははは、あちちち。みるみる身体が真っ赤になって、イタタ。
水でうすめたいんだけど、周囲を見ると、角刈りの玄さん、山さんって感じの典型的な職人風な方々。水でも出そうものなら、「江戸っ子の風呂はアツいんだ!」と怒鳴られそうで、じっと我慢。
と、玄さん系オジサンの一人が、威勢よく入ってきた。そのせいで波立つ熱湯が押し寄せアチチ!「アツい、動くな」と怒鳴りたいのだけど、コワいので我慢。せめて、睨んでいたら、「アツいね。ここの湯、56度もあるんだぜ。信じられない」と独白しながら、玄さん、水をジャバジャバ入れだした。
(・・・江戸っ子は、アツい湯に我慢して入るんじゃ?)

さて、風呂から上がり、更衣室で目立つのは、何十年前のと突っ込みたくなる、丸いゴリゴリが2つあるタイプのマッサージ機。10分100円。
ドライヤーは10分(たぶん)10円で、温風より冷風が長い。
大きな窓の外、半畳ほどの小さな中庭で、裸でタオルも巻いていないオジサンたちが前をブランブラさせながら、煙草を吸い、大きな声で景気について話している。
「アソウ、ダメだな」。
その背中は素敵なアート。

下町の銭湯は、ワンダーランドだった。

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来週のフジテレビ「とくダネ」「新・温故知人」(柳家花緑)は、Sugarの毛利公子さん。

2008年12月12日 09時18分56秒 | Weblog
 おはようございます。12月16日(火)9時25分頃~のフジテレビ「トクだね」(小倉智昭、佐々木恭子、笠井信輔)「新・温故知人」(柳家花緑)は、Sugarの毛利公子さん。1981年にデビュー曲「ウエディング・ベル」を大ヒットさせた女性バンド“Sugar”、ミキ(笠松美樹)、クミ(長沢久美子)、モーリ(毛利公子)のアイドルのような3人が、綺麗なハーモニーで、別の女と結婚する昔の彼氏に悪態をついて、最後に「アーメン!」と決め、大人気だった。
 結婚式で絶対歌えないウェディングソングとして、今も人気だが、ベースの毛利は、グループ解散後タレントとして活躍したものの、1990年4月7日、出産に伴う羊水栓塞が原因となり、29歳の若さで急逝した。
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地球環境サミット’92で、少女が訴えたこt。

2008年12月10日 07時03分06秒 | Weblog

16年前、リオデジャネイロで開催された「地球環境サミット’92」で、12歳の少女・セヴァン・カリス=スズキが、世界中に向けてスピーチをした。それは、後に“伝説のスピーチ”と呼ばれるようになる感動的なものだった。

「私の世代には、夢がありますよ。いつか野生の動物たちの群れや、たくさんの鳥や蝶が舞うジャングルを見ることです。でも、私の子どもの世代は、もうそんな夢をもつこともできなくなるのではないか?あなたがたは、私ぐらいの年齢の時に、そんなことを心配したことがありますか。・・・(中略)・・・ どうやって直すのかわからないものを、壊し続けるのはもうやめてください」

 翻って、今、16年前と地球はどう変わったのだろうか・・・。
 人間は、自分たちの行為が、自分たちのこの星を殺そうとしていることに気づかないのだろうか・・・。

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今日の「新・温故知人」(柳家花緑)は、筑紫哲也さん。

2008年12月08日 23時36分57秒 | Weblog
おはようございます。今日12月9日(火)9時25分頃~のフジテレビ「トクだね」(小倉智昭、佐々木恭子、笠井信輔)「新・温故知人」(柳家花緑)は、「NEWS23」(TBS)のキャスター筑紫哲也さん。筑紫哲也さんは、10歳の時に大分県日田市で終戦を迎えるのだが、この時、見たのは、大人たちの豹変ぶり。これで、一つの意見に支配されることへの疑問を抱き、「多事争論」こそが民主主義と考えるようになった。後に、朝日新聞のスター記者となった筑紫哲也さんだが、最初は口ベタで自分でも、10年で記者を辞めようと考えたとか。筑紫哲也さんの意外な側面を紹介する。来週は、「ウェディングベル」のSUGARの毛利公子さんです。
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