放送作家村上信夫の不思議事件ファイル

Welcome! 放送作家で立教大大学院生の村上信夫のNOTEです。

映画「君はノーサイドの笛を聞いたか!?」(4)

2009年07月04日 05時36分11秒 | Weblog
日本とオーストラリアの関係を考えると、ブロウ・イデの頃は、光と陰でいえば、戦争という狂気の中で、陰。オーストラリアにいた日本人・日系人は、否応なしに強制収容所に入れられた。
日本人はすっかり忘れているが、このことともうひとつ、日本がオーストラリア本土を攻撃した唯一の国でもある。
無念のイギリス遠征から帰ったブロウは、青年らしい興奮から軍隊に志願、やがて父の国・日本との戦争に巻き込まれていった。

◆ヘナ強制収容所

1941年12月8日、日本軍のマレー半島奇襲上陸、ハワイ真珠湾攻撃により、日本と連合国の戦闘も始まった。太平洋を戦場とした日本軍だが、オーストラリア本土へも攻撃を仕掛けている。
ダーウィンには65回の空襲、シドニー湾にも潜航艇で侵入した。
オーストラリアにとって、日本は初めて、本土を攻撃した国である。
オーストラリアでは、日本人・日系住民の強制収容が行われ、収容所生活を強いられた。日本人・日系人は合計4301人、ドイツ系、イタリア系、日系の居住者を約7〇〇〇人強制収容された。
ブロウの父秀一郎も、その一人である。
平和に暮らしていた日々が、ある日、突然、敵国とされて、途切れる。家族と離され、手持ちのバックだけで車に乗せられ運ばれる。その恐怖と悲しみ・・・。

◆ブロウの無事を祈り続けたオーストラリア

ブロウは,シンガポールの戦闘で日本軍の捕虜となった。
意外なことに、ブロウが出征してから、オーストラリアのメディアはブロウの情報を集め、無事を報じ続ける。そして、捕虜になったことがわかると、日本の裏切り者として処刑されるのではないかとまで心配する。
ブロウ個人の人気とも、戦争という狂気の中にみせたオーストラリアの良心とみることができる。

◆アイザックディには、日本人は歩くな

日本人は忘れているが、オーストラリア人にとっても、日本軍は恐怖と怨嗟の的だった。「本土に侵攻する恐怖」そして、「捕虜になったオーストラリア兵に対する強制労働」。
これは、今も、オーストラリア人の心に傷跡を残している。

4月25日、アンザックディ「戦勝記念日」は、オーストラリアでもニュージーランドでも祝日。この日、第一次世界大戦時に編成された豪州とニュージーランドの連合部隊(アイザック軍団)は、現在のトルコ領にあるガリポリでドイツ軍と激しい戦闘を行う。この日は、「世界に誇り得る正義の戦いをしたという自負」の日、だが、今は、第二次世界大戦がテーマとなり、「敵国」とか「敵の飛行機」と表現するとき、豪州を攻撃した唯一の国・日本、ここでいう「敵」とは明らかに日本のことだ。
かつて、この日、日本人は外を歩くなとまでいわれていた。

◆ブロウはなぜ死んだ。

1944年,捕虜収容船「楽洋丸」はこの捕虜たちを乗せて日本に向かう途中、米潜の雷撃を受ける。
ブロウ・イデは、満杯の救命ボートに乗る事を拒否し,負傷した仲間と楽洋丸に残って沈んでいった。(海上に漂っている最中に、仲間に場所を譲ったという説、溺れている仲間を救おうとして海に潜ったという説など数説ある)

◆オーストラリアに生きる日本人

オーストラリアの有名レストランのオーナーシェフに、日本人シェフ・和久田哲也がいる。
1982年にオーストラリアに渡った和久田哲也は、ワーキングホリデー先のシドニー市内のレストランで皿洗いの仕事などを経験。1989年、レストラン「Tetsuya's (テツヤズ)」を開業した。
今、この店は、シドニー優秀レストラン賞の年間最優秀レストランに毎年選ばれているオーストラリアでも最も有名なレストランの一つで、和久田自身も何度もオーストラリアのナンバーワンのシェフに選ばれている。その料理は、フランス料理の技術をベースにオーストラリアと日本の食材を融合したもの。和久田はオーストラリアの食文化の発展に大きな貢献を果たしたといわれる。
和久田がオーストラリアで認められるまでの物語は、ブロウに重なる。
和久田はいう。
「どこの国にも欠点はある。だが、オーストラリアはフェアを大事にする。例え、誰であろうともフェアでいたいと考えるのだ。だから、認められた」

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