放送作家村上信夫の不思議事件ファイル

Welcome! 放送作家で立教大大学院生の村上信夫のNOTEです。

伝説の深夜放送「ミッドナイト東海」

2009年07月13日 03時20分54秒 | Weblog
 かつて、名古屋に伝説的な深夜のラジオ番組あった。東海地方のローカル放送でありながら、深夜放送全盛の時代に、15年もの間、東京の人気番組に伍して深夜枠を席巻した。深夜帯のため全国広範囲に電波が届き、その人気は全国的となり、今も、40代以上のファンの間で語り継がれている。この番組が育てた音楽が、70年代、80年代、若者たちの心を歌ったフォークソングである。

 1960年代、東京や大阪で始まっていた深夜放送を自社制作で作りたいという名古屋のラジオ局の悲願から生まれた番組は、パーソナリティに、森本レオや笑福亭鶴瓶という、当時、全く無名の若者を起用した。
かける音楽も、井上陽水、さだまさし、荒井由実(当時)(松任谷由実)、財津和夫など、生まれたばかりのフォークソングを歌う、無名の才能ばかりだった。
実を言えば、キャスティングの力も金もなかったからだが、プロデューサーだった塩瀬修充はそれを逆手にとった。彼らを次々と起用しこの番組を若者のためのフォークソングの解放区に変えた。(・・・ 財津は、これに感謝し、テレビ・ラジオを通じ、今もレギュラーは塩瀬の番組だけである。)
若き才能はここから開花し、フォークソングは若者の歌となっていった。同時に、名古屋はフォークソングの聖地となり、毎週土曜日にリスナーを集め東海ラジオの第1スタジオ(当時)で行われたアーティストの視聴会は、さしずめ日本で最も先進的なフォークソングのライブハウスだった。
 伝説の番組は、「ミッドナイト東海」(1968年3月―1983年8月)という。

 鶴瓶は、この番組で才能を見出された一人である。
当時、東京進出も失敗し、地元の大阪ですらレギュラーのなかった鶴瓶を、「ミッドナイト東海」は起用した。当時の1スタ(*第1スタジオ)で行ったトークライブが大受けだったからである。それを信じ、プロデューサーの塩瀬は、局内の反対を押し切ってパーソナリティに起用した。
「笑福亭鶴瓶のミッドナイト東海。ほな、始めまっせ!」
 塩瀬の狙い通り、笑福亭鶴瓶はスターとなった。
 現在、東海地方の人気パーソナリティとして、活躍している宮地佑紀生の起用も同様である。

 ◇名古屋の小さなラジオ局の深夜放送が全国を席捲した。

 1968年、創業9年目の「ミッドナイト東海」は、 “深夜放送”を作ろうと企画が起こった。キャバレーやラブホテルのCMを深夜に流そうという営業要請があったからだが、プロデューサーだった塩瀬修充はそれを逆手にとった。
 当時、生まれたばかりのフォークソングの可能性に賭け、番組を確立しよう考えたのだ。賭けは当たり、番組は、東海地方のみならず、日本各地で若者たちの熱狂的な支持を受ける。名古屋の小さなラジオ局の番組が、全国に電波が届く深夜帯に、東京・大阪の深夜放送にも負けない番組になっていく・・・。
(*それに伴い、ラブホテルなどの当初のスポンサーを外す苦労をすることになるが)

◇若き日の森本レオと「アマチン・リコタン・レオ」トリオ

 名古屋の舞台で活躍していた天野鎮雄、東海ラジオのアナウンサーだった中神靖、そして岡本典子(よりこ)の3人で番組が始まったが、間もなくして中神靖が辞め、天野鎮雄が森本レオを連れてきた。今でこそ穏やかな語り口調で知られる森本だが、自己流の型破りな表現をみせ、2代目のパーソナリティとなった。またこの時に、口癖であった俺をひっくり返して芸名を「森本レオ」とした。3人とも同じ2月13日生まれのパーソナリティ「アマチン・リコタン・レオ」のトリオが誕生し、最初のブームを作った。
 以後、鶴瓶、宮地佑紀生、兵頭ゆきなどが起用される。

◇フォークソングの時代を切り拓いた「ミッドナイト東海」

 塩瀬は、番組内で流す音楽も拘った。フォークソングの新人アーティストを次々東京から呼び、前述、“1スタライブ”に上がらせ反応をみながら、番組に登場させた。
 へビーローテーションと言う言葉もない時代に彼(女)らの曲を繰り返し流した。また、彼(女)らを番組のゲストに出演させ、音楽だけではない全人格的な魅力もアピールした。
塩瀬は言う。「フォークソングは、既成の歌と違う。歌手の生き様そのものだ」

 財津和夫 ♪心の旅。荒井由実(当時)(松任谷由実)♪ルージュの伝言 ♪いちご白書をもう一度(荒井由実作詞作曲) 井上陽水 ♪心模様 ♪人生が2度あれば さだまさし ♪精霊流し その他 松山千春 吉田拓郎らの曲を毎日のように流した。
 若者の心を本音でメッセージする彼らの歌は、たちまちリスナーの心をとらえ、それらの曲は、名古屋で認められ、全国的なヒットになっていった。
「名古屋でヒットしたフォークソングは、全国で当たる」と、業界で言われ、‘70年代、名古屋が日本の音楽シーンをリードしていた。

◇竹下景子もファンだった!

 当時、「ミッドナイト東海」に夢中になっていたのは、女優・竹下景子。竹下は熱心な一ファンからファンたちの間のマスコットのような存在となり、やがてNHK名古屋の「中学生日記」で女優デビューする。

 日本の音楽が若く熱かった日、名古屋が発信した熱気があった時代のことだ。

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