(明治の十二傑と称された加藤弘之、
明治、官界・学界の総師として君臨)
「広報とよおか」を区内の事業所に届けます。
この二、三日の間に、市役所の各課や公民館などから、区に宛ててどっと通知が舞い込みます。十通近くもあり、その処理にてんてこ舞いです。
夜は区の役員会、商売そっちのけで大忙しが続きます。
「広報とよおか」、今月の文化施設巡りは、出石の「加藤弘之生家」です。
広報には、毎回豊岡市にある有名人の記念館や施設が紹介されます。
先日、出石のYさんが親しみ込めて、「出石の加藤さんや、斉藤隆夫さん」と云ってた、あの加藤さんです。
斉藤隆夫は、粛軍演説であまりにも有名な政治家、加藤弘之(かとうひろゆき)は、東大初代総長でこれまたあまりにも有名な明治の重鎮です。
出石藩士・加藤正照の長男として出石に生まれた加藤弘之は、江戸末期、佐久間象山の門下として学び、
明治新政府の文部大丞(たいじょう)(現在の文部事務次官)に就任します。
明治以前、江戸幕府の蕃書調所(東大の前身)に任用されていた頃から、幕府の御用学者、権威主義的学者と云われていました。
初代東大総理(総長)を12年間も務め、その後も官界、学界の総師として君臨したすごい人物、
平成に入って、評論家・立花隆氏に云わせれば、「東大の権威主義の権化」と云わしめるほどの人物、氏の評論「東大論」でそう述べています。
二代目東大総長が、これまた豊岡藩出身の浜尾新(はまおあらた)です。
東京大学と共に生きたと云われる人物、大学構内に浜尾新の立派な銅像、浜尾が植えた銀杏並木は東大の名物、
但馬が生んだ加藤弘之・浜尾新のコンビは、東京大学育ての親と云われているのです。
えらい人物が、わが郷里・豊岡の出身なんてとっても誇りです。
明治、官界・学界の総師として君臨)
「広報とよおか」を区内の事業所に届けます。
この二、三日の間に、市役所の各課や公民館などから、区に宛ててどっと通知が舞い込みます。十通近くもあり、その処理にてんてこ舞いです。
夜は区の役員会、商売そっちのけで大忙しが続きます。
「広報とよおか」、今月の文化施設巡りは、出石の「加藤弘之生家」です。
広報には、毎回豊岡市にある有名人の記念館や施設が紹介されます。
先日、出石のYさんが親しみ込めて、「出石の加藤さんや、斉藤隆夫さん」と云ってた、あの加藤さんです。
斉藤隆夫は、粛軍演説であまりにも有名な政治家、加藤弘之(かとうひろゆき)は、東大初代総長でこれまたあまりにも有名な明治の重鎮です。
出石藩士・加藤正照の長男として出石に生まれた加藤弘之は、江戸末期、佐久間象山の門下として学び、
明治新政府の文部大丞(たいじょう)(現在の文部事務次官)に就任します。
明治以前、江戸幕府の蕃書調所(東大の前身)に任用されていた頃から、幕府の御用学者、権威主義的学者と云われていました。
初代東大総理(総長)を12年間も務め、その後も官界、学界の総師として君臨したすごい人物、
平成に入って、評論家・立花隆氏に云わせれば、「東大の権威主義の権化」と云わしめるほどの人物、氏の評論「東大論」でそう述べています。
二代目東大総長が、これまた豊岡藩出身の浜尾新(はまおあらた)です。
東京大学と共に生きたと云われる人物、大学構内に浜尾新の立派な銅像、浜尾が植えた銀杏並木は東大の名物、
但馬が生んだ加藤弘之・浜尾新のコンビは、東京大学育ての親と云われているのです。
えらい人物が、わが郷里・豊岡の出身なんてとっても誇りです。