巨人軍の大投手、大友工(たくみ)の展示室を訪ねる

2015年08月18日 | ふるさと




 嬉(うれ)しさは   メジャー相手に  大友は  完投勝利  凄さ知るとき



出石に仕事の帰り道、
「出石明治館」に寄りました。

ここの建物は、旧郡役所として使われていた明治の貴重な建築物です。
その中には、歴史を彩った人物の足跡をとてもたくさん展示してあります。

歴史ある出石からは、数多くの偉人が輩出されました。

応仁の乱の西軍の総大将となった「山名宗全」。時の権力に媚を売らず、こよなく出石を愛した「沢庵和尚」。

新生日本を夢見て奔走した維新の志士たち、

東京帝国大学初代総理の「加藤弘之」。軍部の横暴を生命を賭けて糾弾した、粛軍演説の「斎藤隆夫」。

女性の教育に生涯を捧げた「木村熊二」。日本の気象予報の創始者である「桜井勉」。

その他、多くの業績を残された先人が紹介されています。

入口の一室に大友工(おおともたくみ)展示室がありました。
今から62年前、日本人投手として初めてメジャーリーグ球団相手に、完投勝利を挙げた往年の名ピッチャー「大友工」なのです。

大友工は、ふるさと但馬は出石町材木町の出身なのです。
展示室に書いてありますこんなこと、いろいろ読んで驚きますね。

広島の選手が、
「今日の試合先発は大友工か。広島の負けに決まっとるわ」と試合する前に口をそろえて言いました。

大友投手はムチャクチャ強かったのです。
チーム創成期の広島カープには特に強い強い、

ある年のことです。
対広島戦18連勝です。そのあと後1敗しますが、さらに広島と対戦し続けて12連勝してしまったのです。
結局、7年間で41勝3敗とめっぽう広島に強くて、広島ナインは対戦する前から勝つ気がしなかったそうなのです。

当時、速球では金田正一と大友が双璧をなしていたが、
金田も「大友さんの球が一番早い」と一目置いていたといわれます。

その威力は、当時の正捕手だった広田順が取り損なった球で、左手の指を骨折してしまうことがあったそうです。
ニックネームが「キンさん」、筋肉隆々の金太郎かキングコングのイメージの力持ちだったそうなのです。

出石出身の大友工は、
電信兵から戦後は炭焼き、但馬貨物で軟式社会人野球をしていた頃スカウトの目に留まって、巨人の二軍に入団します。

それからがムチャクチャ凄いことなのです。

昭和25年から昭和33年ころの活躍です。
1年目こそ4勝だったのですが、2年目11勝、3年目17勝、4年目27勝、5年目21勝、6年目はなんとなんと30勝なのです。

讀賣巨人軍の第二期黄金時代を、別所、中尾投手と大友工の三本柱で支えたのです。

昭和27年には松竹相手にノーヒットノーラン完全試合、
これから3年間の、勝つわ勝つわの最多投手、最優秀防御率、最優秀勝率の投手三冠で、沢村賞やらなんやら数々のタイトルを総なめ状態だったのです。

昭和28年の日米野球で来日のニューヨーク・ジャイアンツに、巨人軍は9連敗のあとの10試合目です。
大友投手が投げます。

メジャーリーガーたちが「地面の底から浮き出す球は打てない」と、
小柄な体から流れるような、美しいフォームで投げ出されるサイドスローに驚き、監督のレオ・ドローチャーからも、メジャーに連れて帰りたいと言わしめるほどだったようです。

日本人投手で初の、メジャーリーク球団相手の完投での勝利だったのです。
球場の観客はわんわの歓喜に沸く大興奮で、実はムチャクチャに凄いことだったのです。

大友投手は、10年間で通算130勝57敗、これだって球史に残る勝率の投手だったのです。

ああそれから、出石出身の能見投手も大先輩に倣って、今年も阪神で頑張っています。