三笑会

三笑会は、平成30年6月1日~陶芸活動と陶芸教室、喫茶室、自家野菜販売、古美術・古物商経営を総合的に活動していきます。

『太永浩元駐英北朝鮮公使講演会』その2

2019-06-27 11:38:25 | 日記
『太永浩元駐英北朝鮮公使講演会』その2

※講演会配布資料から
※人名、地名の一部にフリガナを付けました。
※令和元年(2019)6月20日(木) 東京・文京シビックセンター

「ポストハノイ 金正恩(キム・ジョンウン)の核交渉戦略と私たちの対応」
講師:元駐英北朝鮮公使・太永浩(テ・ヨンホ)氏


3.ハノイ会談決裂が北朝鮮にもたらした余波は三つ

ア.最高尊厳は常に百戦百勝するという北朝鮮の「偶像化理論」が根元まで揺れた。
 ハノイ会談は決裂したが、3月1日の北朝鮮メディアはハノイ会談が米朝関係を新しい段階に跳躍させ得る契機になったと祝った。毎晩TVではハノイ会談の成果をはやし立てるドキュメンタリーが放映された。しかし3月8日、北朝鮮労働新聞はむっとしたようにハノイ会談で合意文が出なかった事実を北朝鮮住民に間接的に知らせた。3月15日には崔善姫(チェ・ソニ)外務省副相が平壌で緊急記者懇談会を開き、金正恩が新たな勇断を下すことができる、と威嚇と挫折半々の発言をした。3月22日、開城(ケソン)工業団地の南北連絡事務所で北側の人員を撤収したが、25日それとなく復帰させた。
 3月には硬軟入り混じった一進一退の歩みを見せた。
 4月の第一週に入って、ポストハノイ核戦略を仕上げた金正恩は三池淵(サムジオン)と元山(ウォンサン)市の葛麻国際海岸観光地区建設場を訪問し、建設を本来の計画よりも遅らせる「速度調節」を指示した。
 3月末から4月初めにかけて北朝鮮の労働新聞など北朝鮮メディアは突然、制裁に備えた自力更生のスローガンを叫び「水と空気だけあれば生きられるという信念で武装せよ」と住民たちに訴えた。
 ハノイ会談後、明るかった北朝鮮メディアの論調が暗く重くなり始めた。次第に軍事演習と新型武器導入による韓国に対する腹いせも始まった。北朝鮮の歴史で、常に百戦百勝すると言っていた最高尊厳がハノイに出発した時と到着した時に見せた錦衣還郷(故郷に錦を飾る)の姿はこれ以降見られず、4月9日の党政治局拡大会議で二つの拳を固く握り締めた姿は、挫折感と怒りを越えて鬱憤晴らしのレベルであった。

イ.ハノイ会談決裂で対南ラインは萎縮し、外務省ラインも交渉の位置づけが狭くなった。

 過去30年間の核ゲームの中で国際社会は、誤った判断、試行錯誤、放置で30年を無駄に送った。
 北核解決で意味ある合意だとみているジュネーブ合意と9.19共同声明(6ヵ国協議共同声明2013.9.19)も、実は北朝鮮の核開発を保護して助けるのに悪用された。北朝鮮は、ジュネーブ合意で核凍結期間に米国から毎年1億ドル相当の重油支援を受けながら、制裁と圧力がない状況で核開発にまい進した。
 9.19共同声明も結局、ウラニウム濃縮問題を解決できないあつかましい合意であった。北朝鮮は2008年、寧辺の5MW原子炉冷却塔爆破ショーを行い、米国から同年10月テロ支援国解除というプレゼントを得た。初めて核実験をした2006年から国連制裁が始まったが、話だけが騒がしかっただけで実質的圧迫を加えていない。
 金正恩執権以後、北朝鮮経済はむしろ好転した。もし、2006年や1993年の1次北朝鮮核危機時に強力な制裁案が用意、履行されたなら北核問題は解決されたかも知れない。よって、金正恩は外交的勝利を確信してハノイ行きの列車に乗った。ところが歴史上初めて北朝鮮は失敗を味わった。
 金正恩は、失敗の原因を米国の特性をよく知らない対南総責任金英哲(キム・ヨンチョル)に任せたことに原因があると見て、今後、対南は本来通り党統宣部が、対米交渉は外務省が主管する原点に戻した。
 ハノイ会談で制裁解除に過度に執着した戦術が、結局、米国に戦略的弱点を露出させたとして、制裁解除に執着しない長期戦を宣言した。米国が計算法を変えない限り会談に応じず、ただ北朝鮮式は段階的合意、段階的履行が含まれた文書にだけ署名することで、今までの「トップダウン」方式を取り入れた。
 米国が応じなければどう出るかという打算もなく、年末までという時限を定めたことで、自ら手足を縛った。米国側にポンペイオを交渉から排除しろとの無理な要求までしながら、北朝鮮交渉チームの交渉幅を狭めた。
 ただ、まだ米国が提起した寧辺+αに対する具体的な言及はせず、双方が自らの一方的要求を下ろそうという妥協の兆しも見せている。

ウ.最高人民会議第14期1次会議を契機に新しく構成された指導部構成に軍需工業の人物を引入させ、軍需工業を民需に渡す構造改編も始めた。






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