ひめはぎのはな

踏青。翠嵐。蒼穹。凛然。…爽やか、山日和。by sanpoiwa1736

師走の平凡な一日

2010-12-14 21:50:07 | 安逸.一陣の風

なかなか、山へ行く機会が訪れません。

あぁ~あ、・・・山に行きたい。

その代わり、年賀状のデザインは、ほぼ完成。
あとは、印刷してみて細かいところを修正していくだけとなりました。


こっからは、ゲームの世界。

会津の蘆名盛氏・盛隆二代に渡って、ついに天下統一が果たされました。

武田、織田、島津、里見、浅井、尼子(西日本を制し、天下の情勢がほぼ決まる)、蘆名。
ときたので、次は・・・。

う~んと、陶家です。
まずは、名門・大内家から独立しないと・・・。


陶家は・・・
天文九年。毛利家の吉田郡山城が尼子軍に包囲されます。
天文十年。毛利家からの要請に応えた大内家は、尼子軍を破り、陶晴賢もこの戦で手柄を挙げます。

天文十二年。勢いのまま大内軍は尼子家の月山冨田城を包囲。

しかし、進展がないままときを過ごし、遊撃軍に補給路を断たれるなど、滞在もままならず退却を開始。尼子軍の追撃によって、大内家当主義隆の養嗣子・時持を失なうなど、大内軍は大損害を受けてしまいます。

これ以降、大内義隆は遊芸に勤しみ、文治派の相良武任を重宝するようになり、陶晴賢の諫言は聞き入れられず、遠ざけられるようになります。

天文二十年。陶晴賢は、大内譜代の杉家や内藤家などの他、毛利家の支援を得てクーデターを起こします。
大内義隆を自害に追い込んだ晴賢は、豊後大友家の当主宗麟の弟・晴英(大内義長)を大内家当主にすえて、晴賢自らが実権を握ります。

しかし、厳島にて毛利軍に敗れ、晴賢は自刃して世を去りました。ときに天文二十四年(1555年)。大内領は毛利家によって奪われ、名門大内家が滅びるとともに、毛利家は中国の覇者へと駆け上がっていきます。

主家殺しの大義名分を掲げた毛利家に敗れはしたものの、陶晴賢は武断派でありながら、右筆の能力も一級品。老練な毛利元就がお隣にいただけに残念な結果になっちゃいました。
くぅ~、憎き、毛利元就。
・・・以上。


陶家のお城は、周防に三つ、長門に二つ。
周防と長門は、主家大内家の築山館によって分断され、長門の二つも分断されちゃっているので五つのお城が三分割。

主家の要請で尼子家攻め。
その間、長門の渡川城・青景城の守備力を上げるため、増兵し兵糧を運び入れます。

主家が豊後大友家と不戦同盟を結び、豊前に展開していた武将達が、石見の尼子領に迫ったときを狙って・・・。

1550年8月。大内家から独立。



長門を平定しちゃいました。

今では、九州は筑前・筑後で龍造寺家、同じ筑後で下蒲池家と九州最大勢力の島津家と戦の最中。島津家とは豊後・日向でも交戦中です。
豊前口から吉川元春軍団、豊前口から杉原盛重軍団が攻め込んでます。

四国も残すは阿波と土佐だけ。こっちは小早川隆景軍団に任せてます。

陶家本隊は、丹後で一色家、丹波で山名家、摂津で三好家・池田家、和泉で河内畠山家と戦ってます。

陶家と一二位を争う勢力だった河内畠山家を破り、1566年2月現在、六百万石に迫る陶家に迫るは、三百万石を越え、第二勢力に登りつめた美濃斎藤家。丹波でぶつかりそうです。

ちなみに、三位は今川家、四位は島津家、五位は僅差で佐竹家、六位は長尾上杉家です。

ここまで同盟はもちろん従属、臣従大名をつくらず、志願も全て拒否してきたから、周りはすべて敵。武将の頭数が足りず、斎藤家と争うとなると、かなり苦戦しそうな状況です。




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