黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

扨て軍勢の手分けを定め(桐生家中の談判露見の事・その 2)

2024-09-11 13:58:18 | 桐生老談記の世界

今朝はまた猛烈な日差しが復活です

ひめちゃんは、堀之内を西に出て天神田を歩いてきました。

赤城山は少しかすんでるけど、その姿を見せてます。

浅間山は全く姿を見せません。

 

本日は、2019年10月の獅子くんアーカイブです

 

このころ、獅子丸は足の爪を痛めていました

暑い日差しを避けるために、おとうさんがサークルに黒い布をかけたのです。

彼は必死でそれを取り除こうとして、爪を痛めてしまったのです。

養家で、暗闇に閉じ込められたことがあったのでしょう

深い心の傷の一つだったのです

我が家で生まれた子であっても、7年もよそで暮らしているとわからないことがあります。

明るく元気な獅子丸の深い心の傷が明らかになった事件でした

 

この頃は、ひめちゃんと一緒に、よく七海ママのそこらまでのちい散歩(小さな散歩)に同行していました。

諸般の事情で、実家に連れ帰ることを決断して、連れ帰ったことは本当謂良かったと思います。

実家で短かったけれど、みんなと賑やかに暮らせました

 

 

 

 

『桐生老談記』、「桐生家中の談判露見の事」の続きです。

桐生家中の談判露見の事・その2(扨て(さて)軍勢の手分けを定め)

 

扨て(さて)軍勢の手分けを定め、先づ内田庄之介、稲垣主膳、生方治郎右衛門、垣上半五郎、外山重郎左衛門、此れ等は手勢六十騎ばかりを随えて、鐘堂橋の前の際迄出にけり。

蓮太郎右衛門、永井弥太郎、飯塚播磨、長沢幸右衛門、馬見田助次郎、是等は八十騎を随えて、町屋の裏梅原の川原に出張りして、前後見合い待ちかけたり。

稲垣次郎、白石平蔵などは三十騎にて浅部山の麓の小道をふせぎ、峰には遠見の番所を構えたり。

須永八蔵、柴崎九郎兵衛、佐下橋倉之助、小林平八郎、栗原又六などは荒戸の要害の堀の岸に出張りをいたしけり。

藍原左近、須藤帯刀などは其の日早旦に、荒戸の寄居の峯に登り、敵来らばつげ知らせんと生松葉を積み重ね、煙をあい図に待ちいたり。



あらすじです。


さて、裏切り者を血祭りにしたあと、軍勢を手分けします。

内田庄之介、稲垣主膳、生方治郎右衛門、垣上半五郎、外山重郎左衛門たちは、手勢六十騎ばかりを随えて、鐘堂橋の前まで出ました。


蓮太郎右衛門、永井弥太郎、飯塚播磨、長沢幸右衛門、馬見田助次郎たちはは八十騎を随えて、町屋の裏梅原の川原に陣を構え戦闘開始を待ちます。
稲垣次郎、白石平蔵などは三十騎で、浅部山の麓の小道をふさぎ、峰には遠見の番所を構えました。


須永八蔵、柴崎九郎兵衛、佐下橋倉之助、小林平八郎、栗原又六などは荒戸の要害の堀の岸に陣を構えました。


藍原左近、須藤帯刀などはその日の朝早くに、荒戸の寄居の峯に登り、敵来たならば報告しようと、生松葉を積み重ね、煙をあい図にしようと待っていました。




鐘堂橋がどこか、わかりません
桐生川にかかる橋だと思いますけど。
最初に出てくるので、桐生城(柄杓山城)に近いところでしょう

町屋の裏・梅原の川原とは、梅原薬師堂のあたりの川原でしょうか?
梅原薬師堂は、あの桐生六郎の館跡といわれていますね
そして後に由良氏もこのあたりをを居館にしていたと聞いた事があります
七十過ぎて馬上の人となった妙院尼照子は、柄杓山から出撃したのではなく、ここから出たのだと聞いたことがあります

浅部山は旧浅部村の中心の山でしょう。
『桐生地名考』によれば、現在の梅田町2丁目のあたりだそうです
浅部村は承応年間(1652~1655)に上久方村より分村し、村の中心にある浅部山を村名にしたとあります
浅は緩傾斜地の意味で、城への通路があったのでしょうか
柄杓山の真東と云うより、北東になります
敵の来襲を見張る番所を造ったんですね


由良勢はどこから来るのでしょう


荒戸の要害の堀の岸に陣を構えたのですね。
柄杓山よりもっと南ですね。

荒戸の寄居の峯、場所はわかりませんけど、ここも柄杓山より南です。

敵の来襲を知らせようとしたので、かなり南でしょうか?
生松葉を炊くのですね


時間的に、よく間に合ったなと思います。
金山城から柄杓山まで、そんなには離れていないのです

 

初稿  2019.08.22 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.09.11

 

 

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする