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黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

米沢の宇都宮神社

2019-09-16 16:12:11 | 群馬県・旧桐生市

ひめちゃんちの近所で、早くも稲刈りが始まりました。

後ろ姿は、ますます茶髪(ちゃぱつ)になる七海ママです。

でも、体調はいいようです

ジャンプが復活しています。

 

案山子が移動しています。

稲刈りといっても、実だけ収穫してあとは刻んでしまうようです。

 

 

 

米沢薬師を目指す途中で、おや、宇都宮神社だ

駐車場が見当たらず、ちょっと路上で失礼します。

 

 

 

額には宇都宮大明神とあります。

社殿と社務所が一緒のようです。

サルスベリの季節です。

 

社殿の東には、川が流れます。

 

おや、向こうに見えるお堂は、見たことがあります。

米沢薬師です

やはりサルスベリが見えます。

 

菱カルタがあります。

1丁目の米沢にある宇都宮神社は、細川丹後守が宇都宮二荒山神社から分祀して米沢地区で一休みしたという場所に、元文元年(1736)に創立したものといわれる。

 

細川氏ですか

「細川丹後守が宇都宮二荒山神社から分祀して米沢地区で一休みした」、そこには分祀してきた神様は、置いて行かなかったのですね。

どこか、他の場所で鎮座したのですね。

後にその場所に、元文元年(1736)に、米沢の宇都宮神社は創立されたのですね。

では、細川丹後守は、どこに宇都宮二荒山神社から分祀した神様を持って行ったのでしょう。

 

実は、菱にはもう一社、宇都宮神社があります。

 

応永19年(1412)菱領主細川丹後守の勧請で、宇都宮二荒山神社から分神して祀ったと伝えられる。

こちらに持ってくる途中、一休みしたのが米沢の宇都宮神社の所だったのです

 

ヒイラギはわかりませんでした。

そんな大木あったかな?

大きな切り株がありました、もしかしたら?

 

 

菱領主細川氏については、史料がほとんどありません。

『桐生老談記』によれば、

細川内膳家は摂津国細川分流で、京都にいた細川丹後という者が初代である。

細川丹後は、野州小俣の渋川氏に跡継ぎとして迎えられる約束で応永19年(1412)に小俣に下った。

ところが、家中は外腹の隠し子を取り立て、細川丹後に従わなかった。

細川は関東公方足利持氏に訴え、少しの領地をもらい、その秋から下菱に住んだ。

其の子修理祐、其の子丹後、其の子主膳、其の子内膳と5代にわたり繁栄した。

内膳の時、都の八条殿から小雀という名馬を拝領した。

その名馬小雀を桐生氏から何度も所望されたけれど、渡さなかった。

桐生氏は天文十三年(1544)三月二日、津布子常陸之介を大将として襲い名馬を奪い去った。

内膳夫妻は自害した。

内膳の妻は膳城主因幡守の妹であった。

 

 

老談記は歴史的事実をそれなりに表現したものでしょうけど、あくまでも物語です。

菱領主細川氏が登場するのは『桐生老談記』だけのようです
その細川内膳の妻は、山上城のおとなり膳城主・膳因幡守の妹だったといいます

 

さあ、米沢薬師に行きましょう

 

 

 

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伝えきくくらみ沢の古戦場

2019-09-15 21:51:01 | 群馬県・旧桐生市

ひめちゃんは、七海ママのちい散歩によく付き合います。

む、ママが茶髪になってる

ひめちゃんと色がちがいます。

年のせいで、まあ人間が白髪頭になるようなものでしょうか?

15歳になって、白髪は全くないわけではありませんけど、あまりないようです

 

 

 

山上城の隣、膳城の最後の城主・膳備中守宗次は、上杉勢と小俣城攻撃中に暗闇沢で討ち死したと云います。

この付近には、数年前に行ったことがあります。

現地のおばさんに、「暗闇沢はくらみざわと読むんだよ。」と教わりました。

また、気になって出掛けてみました。

記憶を頼りに、路地を入ります。

 

菱カルタ「伝えきくくらみざわの古戦場」が、ありました

 

残念ながら、おばさんには再会できませんでした

説明板では、膳備中守宗次の討ち死は書いてありませんね。

『新田老談記』からの小俣城攻撃のあらすじ(現代語訳)です。

元亀3年(1572)4月20日、上杉勢は、膳備中守の案内でくらやみ沢から攻め上った。ちょうど小俣城主渋川相模守が小田原に出かけている留守を狙った。小俣勢いはやっと防戦していたが、その日の申の下刻(午後4時ごろ)突然強風が吹き、大雨が降り始めて、登る敵の正面から吹き付けはじめ、二時ばかりの間、さながら闇のようになって敵も味方も見えなくしまった。その風雨の中で、先頭に立って攻め登って来た膳備中守の一族家人五六十人は、城から落としかけた大岩や丸太の下敷きになって残らず死んでしまった。

 

この菱カルタの所を、奥に進みます。

ここは群馬県桐生市菱町1丁目です。

そして、さっきのカルタの隣に、古い米沢(よねざわ)地区案内板があります。

米沢なのですね

向こうの山に小俣城があったのでしょう。

 

さらに進みます。

沢と云えば沢のような?

 

さらに進みます。

む、ゴルフ場の車

この向こうは、城山カントリークラブというゴルフ場になっています。

向こうは足利市です。

やむなく、ここで退却です。

 

小俣城攻撃の時に亡くなった人々の墓(供養塔)がある、米沢薬師にも寄って行きましょう

あれ、ここは米沢です。

米沢薬師は栃木県足利です。

もしかしたら越県合併したときに、米沢は二つに分かれたのでしょうか?

 

 

 

 

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