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黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

奥州紀行総集編 5(多賀城以前の陸奥国府・郡山遺跡)

2020-03-24 15:47:35 | 奥州紀行

ひめちゃんと獅子丸は、風花の中をお散歩スタートです

途中で風花は止みましたけど、寒い朝でした。

赤城山は、その姿を現しませんでした。

 

昼間も時折風花が舞いましたけど、ひめちゃんと獅子丸は、元気に七海ママの昼散歩にお供です

木々の間から見える赤城山には、雪があります

今夜も寒そうです。

また湯たんぽの出番かな?

 

 

仙台2日目は、気温も低い雨の一日でした。

昨日に引き続いて多賀城に行こうとの計画変更です。

多賀城以前に国府があったという郡山遺跡に向かいました。

 

実はひめちゃんちのおかあさんは、ほんの数ヶ月だけど、郡山に住んだことがあります。

もう遠い昔の話だけど、仙台で最初に住んだのが、郡山なのです。

通学に不便なので、八木山に引っ越しました。

まさか、郡山を再訪するなんて思ってもいませんでした。

 

東北本線で南に 1 駅、長町駅で降ります。

まず駅の大きさに驚き、町の大きさに驚きました。

駅前の大通りを下ります。

道路の大きさもさることながら、歩道と自転車道もしっかりとってあります

通勤通学時間帯には、人と自転車があふれるのでしょう。

 

名もない交差点を右折、心細くウロウロします。

間違えたかな?

でも、もう少し行ってみよう。

突然、郡山遺跡の看板(かなり劣化してますけど)が出現しました

よかった、間違えていなかった

さらに進んで、「郡山中学→」の表示を見付けて、左折します。

郡山遺跡は郡山中学の近くということなので、ホッとします。

 

道ばたに郡山遺跡の説明板です。

ちょっと古いけど、さっきのよりはズーッとましです。

下にわかりやすい地図もありました

左上のJR長町駅から現在地まで歩いてきたのです。

 

どうして国府は多賀城に移ってしまったのでしょう?

 

角を曲がってさらに行くと、この2枚にさらに新しい説明板がありました

詳しい説明がありますので、詠みやすいように4分割してみます。

郡山官衙は、宮城県北部や山形県内陸部の最上・置賜地域までを受け持つ国府として選定された。

多賀城は、此れ等の地域が和銅5年(712)に成立した出羽国に移管され、陸奥国の領域が太平洋側のみになった後の国府で、仙台平野北端で海路にも近い所が選定された。

また、養老4年(720)の蝦夷の叛乱も原因の一つと考えられる。

 

だいたいこんなことで、国府は多賀城に移ることになったようです。

 

この遺跡が発掘調査される前に、ひめちゃんちのおかあさんは、仙台を去りました。

知らなかったわけです。

 

何にもないということでしたけど、本当に何もありませんでした

 

駅に戻ります。

キョロキョロしても、昔住んでいたところの見当も付きません

全く変わっているのです

 

長町駅前に、宮城交通のバスが見えます

電車ではなく、宮城交通のバスで、キャンパスのある川内まで通っていたのです

 

長い時を経て、郡山を訪れたことは、何かの因縁なのでしょう

 

 

 

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奥州紀行総集編 4 (多賀城紀行・多賀城廃寺跡)

2020-03-23 16:02:40 | 奥州紀行

ひめちゃんは、昨夜大脱走しました

ここのところ、ハイシニアの七海ママと小次郎パパが、晩ご飯の後にそこらまでのちい散歩をしています。

いつの間にか、みんなが寝る前のちい散歩をするようになっていたのです。

帰ってきて、ハーネスをはずしてもらった瞬間に、ひめちゃんは大脱走したのです

大脱走と見せかけて、居間の前に出現、「入れて、入れてよ

昨夜は室内犬で過ごしました

朝一で、パパ&ママと軽めのお散歩です

帰ってきて、待っていた獅子丸と、2度目のお散歩です。

獅子くん、今朝はじゃじゃ馬の妹をやさしく見守るお兄ちゃんでした

菜の花の向こうの豚舎のあたりは、葛塚城堀之内の内曲輪です。

 

 

(2018年6月19日)今野家住宅から東北歴史博物館・脇を通って、多賀城廃寺跡を目指します。

 

坂がきつい

特別史跡多賀城廃寺跡です。

国府多賀城にあったのに、国分寺ではありません

けれども、ここに壮麗な国府付属の寺院があったのです。

堂宇の跡が復元されています。

史跡巡りのおじさんおばさんが、何人もいました。

黒柴を連れたおばさんもいました

地元の人々の、散歩ルートでもあるようです。

子どもたちもいます

緑いっぱいの史跡で、市民も訪れる所のようです

 

出口がわからなかったので、入り口に戻り、北にある多賀神社をめざします。

上り坂の脇に、紫陽花(あじさい)が咲いていました

悠久の時が流れる空間には、最新品種ではなく、普通の紫陽花が似合います

 

道なりに登って行くと、多賀神社がありました。

説明板由緒によると、

この地は、かつて陸奥国多賀郡の中心地で陸奥国府鎮護寺の境内にあり、当時赴任に赴いた国司、開拓移民が崇敬していた江州多賀神社(現滋賀県多賀神社)を遷祀したとされている。~中略~しかし、朝廷が陸奥征服を果たし、軍事拠点であった多賀城の繁栄も途絶えるに伴い、当社の所在も不明になるほど一時衰退した。

そして、明治時代に復活して、多賀城廃寺の東基壇上に鎮座し、史跡公園の整備でここに移転したということです。

 

ここに来て、間もないのですね

でも、山神と刻んだ石造物もあったので、それなりの場所だったのでしょう。

 

あれ、多賀城廃寺跡の駐車場です

付近の地図があります

入り口(裏口)が小さいけどあります。

説明板もこちらの方が、劣化がウチバです。

 

廃寺跡を横断して、博物館のほうに向かいます。

博物館は閉館間近で入館禁止でした。

素通りして駅に行けません

何度もきていますけど、始めて南側に出ました。

今野家住宅も見えます

モダンとレトロが溶け合った風景です

 

博物館の西を通って、国府多賀城の駅に向かいました

 

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奥州紀行総集編 3 ・多賀城紀行(今野家住宅)

2020-03-22 15:31:57 | 奥州紀行

ひめちゃんは、痛みを訴えることはなくなりました。

今朝は獅子丸と、控えめ散歩です。

珍しく、朝から南に出ます。

ここは、以前は沼でした。

葛塚城の堀切の南端だったと思われます。

埋め立てられても、耕作放棄地のような感じで、何も作物が作られていません。

ひめちゃんも獅子丸も、一生懸命草を食べています。

よくよくみると、名もないなんの変哲もない草です

彼らは、よくこの草を食べます

 

ちょうど西には、双体道祖神のある庚申塚古墳(こうしんづかこふん)です。

画面中央の石造物がある所が、庚申塚古墳です。

古い地図では、この古墳の真東には、沼があります。

 

 

 

お天気がよいので、今野家住宅(こんのけじゅうたく)にも、足を運びます

横目には何度も見ていますけど、訪れるのは初めてです。

村の責任者の住宅なのですね

明和6年(1769)春の建築ですか、250年前ですね

 

門をくぐります。

その奥は、中門です。

 

中門を通り抜けて、やっと母屋です。

母屋は大きすぎて、2枚の写真でアップです。

 

こんにちは、お邪魔します

管理人さんが、囲炉裏でいぶしていました。

 

ひめちゃんちの近くに、群馬昆虫の森があって、やはり古民家があります。

「いぶしていなくてはならない」ということで、しばらく前まで老人ボランティアが、いぶしに行っていたといいます。

ここでは、「いぶしていなくてはいけない」ということではないそうです。

 

懐かしい光景がありました

 

とにかく広いです。

いただいたパンフレットによれば、安政2年(1855)この家に住んでいたのは、家族5人と他に2家族7人(家を失った村の人たち)が寄食だそうです。

 

獅子丸家(獅子丸が養子に行っていた家)が、思い浮かびます。

広大な土地を持ち、頼られれば嫌と言わず人々の世話を焼き、ついには軒先貸して母屋を取られる如く没落し、誇りと伝承のみ残して消え去ろうとしています。

 

村の実力者は、困った人々の世話もちゃんとしたんですね

 

母屋からは、中門の向こうに博物館が見えます

中門は、牛や馬を飼っていたそうです。

 

これから、博物館脇を通って、多賀城廃寺跡を目指します

 

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奥州紀行総集編 2 ・ 多賀城紀行(東北歴史博物館・サングラス土偶)

2020-03-21 15:22:43 | 奥州紀行

ひめちゃんは、お医者で痛み止めの注射をしてもらって、落ち着きました。

痛みをこらえて、お散歩していた昨日の写真です。

ちょっと物憂い表情です。

昨日は祝日で動物病院はお休みでした

今日はやっていてよかったね

 

ひめちゃんちに、椿・玉の浦が、今期初めて開花しました

今年は花芽が、とても少ないです

お手入れが必要かな?

お名前知れずですけど、桜も開花しました

葛塚の春も満開に近づいてきました

 

 

 

東北歴史博物館で、復興祈念特別展「東大寺と東北」を見た後、常設展に行きました。

意外なものを見つけて、思わず「写真撮っていいですか?」

「フラッシュをたかなければいいですよ。」

 

サングラス土偶です

正式には遮光器土偶(しゃこうきどぐう)といいます。

まるでサングラスをかけているような、不思議な形をしています。

衣類の模様も、現代に通じそうなデザインです

完全な形はめったにないといいますけど、2体ともほぼ完全に近いです

 

群馬県では、2016年の秋に、遮光器土偶の一部が発掘され、公開されました。

その時に、渋川市北橘町の発掘情報館まで、行ってきました

実物大モデルは、東北歴史博物館の図録とあります

 

破片ですけど、確かにサングラスかけてます

説明は、さらにロマンいっぱいでした

入手困難なブランド品ともいえる、北東北地方のオリジナルの遮光器土偶が、400kmも離れた西群馬の遺跡から出たのです

新幹線なんかなくとも、直接か間接かわからないけれど、400km離れていても、交易していたのです

文化は西からき来ただけでなく、北からも来ていたのです

 

 

多賀城碑のレプリカを確認してから、そとの古民家に行きます。

 

東北歴史博物館には、多賀城碑のレプリカがあります。

本物の雰囲気を壊さず、なお分かり易く復元されています

本物は、去年(2017)行きましたが、覆屋の中で薄暗いので、文字までははっきりわかりませんでした。

碑を見ながら、開設が見られるのは、とてもいいです

今年(2018)も行きます

 

ひめちゃんちの近くにある山上多重塔も、新里村の時代に、役場前にレプリカが建てられました。

コンクリート製の味気ないもので、最初は「何だろう?変なものがあるな

人に言われて、初めて認識しました。

今でもあります。

おそらく誰も気に止めていないでしょう。

桐生市になってしまったので、このまま捨て置かれるでしょう

もっと魅力的な山上多重塔のレプリカが、上野第四の碑にふさわしいレプリカができるといいですね。

 

いいお天気なので、来るとき見えた今野家住宅のほうにまわります。

横目には何度も見ていますけど、訪れるのは初めてです

 

 

 

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奥州紀行総集編 1 ・多賀城紀行(東北歴史博物館・重源上人)

2020-03-21 13:48:50 | 奥州紀行

ひめちゃんは、首の痛みを訴えて、動物病院に行ってきました。

特に傷等はなく、鎮痛の注射とお薬をもらって帰ってきました。

2、3日前、ひめちゃんには首を痛めるような出来事があったのです

ひめちゃんは、驚異のジャンプ力の持ち主です。

なかなか、現場写真はありませんけど、一昨年の11月の写真です。

それを忘れた家族が、ひめちゃんをミニドッグランのフエンスの外側につなぎました。

ミニドッグランには、犬猿の仲ののこねーちゃんいたのです

気がつくと、ひめちゃんはフエンスを飛び越えて中にいました

リード付きでハーネス付きで、きつかったようです。

いわば首つりをしてしまったのです

連休中の土曜日、動物病院に☎すると、診療中とのことです

よかった

お薬を飲んで、何日か安静に過ごすようにとのことです。

七海ママとお散歩するくらいでいいかな

 

 

 

ここ数年、年に 1 ~ 2 回、命の洗濯に仙台に行ってます

遠い昔、青春を仙台に埋めてきました。

第二の故郷が持てたことは幸せだと思います。

そして遅ればせながら、仙台で4年間過ごさせてくれた実家の両親に感謝です。

残念ながら、直接「ありがとう」と、もう言えません

そして、実家のご先祖様にも感謝です。

 

2018年6月19日~22日に、仙台を中心に少し動き回りました。

その時の記憶を、奥州紀行総集編という形で、残しておこうと思います。

ひめちゃんたちの記事は、もちろん最新版です

時折、葛塚や山上の話題も挟み込みながら、しばらく「奥州紀行総集編」です。

よろしく、お付き合いくださいませ

 

 

 

新幹線で仙台駅に着いて、コインロッカーに荷物を預けて、そのまま国府多賀城駅に向かいます。

仙台市内までの切符だから、国府多賀城駅で精算します。

 

駅を出ると、すぐに東北歴史博物館です。

企画展「東大寺と東北」を開催中です。

入り口前のいつもは無人の休憩所も、今日は人がいます

やはり、中高年が多い

 

入り口には、大きな大仏の右手があります。

大きい

この企画展の為に作ったのかな?

 

重源上人像があります。さかんにカメラをむけているおばさんがいます。

いいのかな?

会場前でよくみると、復刻とあります。

企画展の図録によると、

治承四年(1180)源平の争乱により、東大寺は大仏殿をはじめ、寺内堂塔伽藍の多くが焼失しました。復興には後白河法皇や後鳥羽上皇の援助のもと、多くの人が力を合わせて取り組み、その財源として奥州藤原氏や源頼朝を通して東北地方の金が注目されました。中心となって復興事業を進めたのは、大勧進重源上人(ちょうげんしょうにん)でした。

 

どうも「復興」と「勧進」がキーワードのようです。

そして、そのために上人はここにいるのです

 

「勧進」とは、「寺院の建立や修繕などのために、信者や有志ものに説き、その費用を奉納させることをいう。(ウィキペディア)」だそうです。

東大寺は、今勧進の必要はないでしょう。

勧進の必要があるのは、東北です。

そのために、大勧進重源上人がここにいるのです

 

企画展の内部は撮影禁止でした。

 

常設展の方にいきます

 

 

 

 

 

 

 

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