goo blog サービス終了のお知らせ 

桜子でーす

日々の感想や思いついた事柄を写真や文章に表しました。ビジュアルに表現出来ると嬉しいな!

梅子さん

2012年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
Img_2470

2012年5月12日(土)
相変わらず、グズグズしていた。『朝ドラマ』の梅子先生の一週間分をBSで再放送するので、見損なった部分を見た。

このドラマは我が家からそう遠くではない場所が舞台らしい。彼女の行っている学校は現在の東邦医大の前身の様だ。

昔、姉はこの学校へ進学したかったので資料を取り寄せたと言う。しかし、戦争が激しくなって、結局は行けなかったと言う。「エー?お医者さんになりたかったの?解剖なんてあるのに…」と私は驚いた。「うん、私は平気よ」「私だったら嫌だなぁ!」と二人の会話は続いた。同じ姉妹でも随分違う。私は血を見るのは大嫌い。ましてや、死人の姿を見るのは恐ろしくて、まともに見られないし、体に触れるのも怖いのだ。

梅子の様なのんびりした子が解剖を出来るなんて、私には想像し難い。
彼女は私と同じ年頃だと思う。しかし、町の様子は終戦後間もないから、当時は滋賀県に住んでいた私には想像出来ない。
戦後引き揚げてから、東京へ出た姉が感じた事は「世間では衣食住が大切と言うけれど、私に言わせると住、衣、食の順番だと思う」と言った。成る程、いろいろな物資が出て来ても、大都会の東京では、住居はそれ程簡単には見付からなかったから、何らかの伝手の無い者には厳しかったに違いない。

私は学校を卒業してから、米原から東京まで東海道本線で半日かかって上京した。東京の大学に通っていた兄の知り合いの家を借りて、私達兄弟姉妹の家にした。と言っても、この部屋はNさんの持ち家で、階下は工場の機械置き場になっていた。そう言う家でさえ、当時は有難い住居だったのである。

まだ、食糧は配給制度で、米だけで無く、サツマイモまで主食として配られた。隣のおばさんとリヤカーをひいて、道路一杯に置かれたサツマイモの山?(量は少ない)をスコップですくって帰った思い出は未だに忘れられない。芋は腐って緑色になっていた。しかし、その腐り掛けた緑色の部分が、私のお気に入りだった。その話をすると「エーッ!腐った芋が?」と友達は驚いた。

以前は、魚までが配給制度だったと聞く。食糧切符で鍋を持って饂飩?を買いに行ったり、遠く離れたパン屋で食糧切符でコッペパンを手に入れたりした。若さ故にそれが楽しみだった様に思う。

そう言う思い出をもとにしながら『うめ子先生』を見ると、苦い思い出とそれがかえって、懐かしいと感じるようなドラマになっている。

私は特に自分から蒲田ヘ行こうともしなかったから、殆ど知らなかった。多分、現在の蒲田とは比べようも無いのだろう。
久し振りに蒲田で行われたコーラスのコンサートへ出掛けた。音楽鑑賞など、私にしては珍しい事だが、Nさんがチケットを送って下さったので、重い腰を上げたのだ。何となく鑑賞をした後、彼女とお喋りを思い切りした事が収穫だった。   

久し振りに見た蒲田は、人の動きが多くて、騒々しいような雑然とした町である。ああ、町って、こう言うものかと思うだけである。