時々考えることがある。
10年巻き戻して、もう一度結婚式をやれるとしたら、どうしたいか。
まず、会場を東京にするだろう。来ていただく人のほとんどが東京方面からだったことを考えるとそうしたい。
次に、バリアフリーで暖房もしっかりした設備の教会を選んだだろう(そしてそしたら今頃その教会に通っていただろう…)。
もしくは、教会とつながりをつけたうえで、式場はあくまでホテルを選んで、寒空の下、お客様を移動させる手間がないようにしただろう。(つまりデリ牧していただく。)
それから、引き振袖が着たかった。ので、着ただろう。
あ、そうそう、ドレスコードはちゃんと明記しただろう。「平服でお越しください」と。これを書かなかったが故に大混乱をきたし、一部のお客さんから後で苦情がゴーゴーだった。(でも、振袖を一度着てみたいから着たという従姉と、たとえレストランウェディングだからって本当の普段着で来た義従姉一家は、自己責任だろう。)
なーんて書いたけれど……やっぱりあの時、現在母教会と呼ぶあの教会で挙式する道しか、なかったように思う。曲がりくねってあーなってこーなって現在があることを、しょっぱい思いも含めて、そのまま受け入れたい。
ドレスも、今思い出しても、あのドレスで良かったのだ。あれが一番自分らしかったと思う。どんなすごいレースやトレーンがついたものよりも、そして、どんな格調高い引き振袖よりも。あのドレスは、もし首尾よく私が老いるまで保管しておけたら、最後は棺桶に入れてもらうつもりだ。
ドレスコードは、書く必要はないと言い張ったパパガスがお馬鹿さんなのだ。十分その代償は支払って、学習をしたし、学習したところで、もう結婚式のやり直しは原則ないはずなので、どうでもいいことだ。
足の便が悪いところだったこと、バリアフリーじゃなかったこと、それだけはお客様皆さんにお詫びしたい。
ただ結局、真の主賓は、4月から「学長先生」とお呼びするべきシオミ御大でもなければ、岩手からはるばる出てきてくれた桜泉の幼稚園の担任でもなく、パパガスの母方のお祖母ちゃん@当時85歳・2010年秋に死去、だったのだと今改めて思う。花束も彼女に(だけ!)贈呈したのだ。父母とも学者、超多忙で、特に父はずーっと単身赴任だったパパガスにとって、実質の育て親は母方の祖父母だったのだから。そのお祖母ちゃんにとって足の便の良い藤沢での挙式は、当然のことだったのだ…。
結婚式も、結婚生活も、人生も、巻き戻ってのやり直しは決して利かず、そして、いろいろあっても、来た道はそれなりに、自分のものとして、受け入れていけるものなのかも…そう思う。
結婚式も、結婚生活も、人生も、それはどんなに工夫しても吟味しても、「最上のもの」にはならないのだ、きっと。でも、あとで振り返ったとき「まっ、いいか、こんな感じかな」と思えれば、ハッピーなんじゃないだろうか。
(なんてことをわざわざ書く今の心境は、パパガスに見下され、腹煮えくり返って、子らの手ぇ引いて出てったろーか、一人がいいなら好きにしやがれ、バカ学者、て感じ。しかし無職の学生母に何ができるか…。腹いせにせいぜいしっかり飯を用意し、パンツを洗ってたたんでやる。)
10年巻き戻して、もう一度結婚式をやれるとしたら、どうしたいか。
まず、会場を東京にするだろう。来ていただく人のほとんどが東京方面からだったことを考えるとそうしたい。
次に、バリアフリーで暖房もしっかりした設備の教会を選んだだろう(そしてそしたら今頃その教会に通っていただろう…)。
もしくは、教会とつながりをつけたうえで、式場はあくまでホテルを選んで、寒空の下、お客様を移動させる手間がないようにしただろう。(つまりデリ牧していただく。)
それから、引き振袖が着たかった。ので、着ただろう。
あ、そうそう、ドレスコードはちゃんと明記しただろう。「平服でお越しください」と。これを書かなかったが故に大混乱をきたし、一部のお客さんから後で苦情がゴーゴーだった。(でも、振袖を一度着てみたいから着たという従姉と、たとえレストランウェディングだからって本当の普段着で来た義従姉一家は、自己責任だろう。)
なーんて書いたけれど……やっぱりあの時、現在母教会と呼ぶあの教会で挙式する道しか、なかったように思う。曲がりくねってあーなってこーなって現在があることを、しょっぱい思いも含めて、そのまま受け入れたい。
ドレスも、今思い出しても、あのドレスで良かったのだ。あれが一番自分らしかったと思う。どんなすごいレースやトレーンがついたものよりも、そして、どんな格調高い引き振袖よりも。あのドレスは、もし首尾よく私が老いるまで保管しておけたら、最後は棺桶に入れてもらうつもりだ。
ドレスコードは、書く必要はないと言い張ったパパガスがお馬鹿さんなのだ。十分その代償は支払って、学習をしたし、学習したところで、もう結婚式のやり直しは原則ないはずなので、どうでもいいことだ。
足の便が悪いところだったこと、バリアフリーじゃなかったこと、それだけはお客様皆さんにお詫びしたい。
ただ結局、真の主賓は、4月から「学長先生」とお呼びするべきシオミ御大でもなければ、岩手からはるばる出てきてくれた桜泉の幼稚園の担任でもなく、パパガスの母方のお祖母ちゃん@当時85歳・2010年秋に死去、だったのだと今改めて思う。花束も彼女に(だけ!)贈呈したのだ。父母とも学者、超多忙で、特に父はずーっと単身赴任だったパパガスにとって、実質の育て親は母方の祖父母だったのだから。そのお祖母ちゃんにとって足の便の良い藤沢での挙式は、当然のことだったのだ…。
結婚式も、結婚生活も、人生も、巻き戻ってのやり直しは決して利かず、そして、いろいろあっても、来た道はそれなりに、自分のものとして、受け入れていけるものなのかも…そう思う。
結婚式も、結婚生活も、人生も、それはどんなに工夫しても吟味しても、「最上のもの」にはならないのだ、きっと。でも、あとで振り返ったとき「まっ、いいか、こんな感じかな」と思えれば、ハッピーなんじゃないだろうか。
(なんてことをわざわざ書く今の心境は、パパガスに見下され、腹煮えくり返って、子らの手ぇ引いて出てったろーか、一人がいいなら好きにしやがれ、バカ学者、て感じ。しかし無職の学生母に何ができるか…。腹いせにせいぜいしっかり飯を用意し、パンツを洗ってたたんでやる。)