ベツレヘムの家畜小屋発

グレグレ耶蘇・桜泉のブログです。

人効論と事効論と、人間だもの

2010年05月11日 | グレ耶蘇生活
昨日の記事に関して、ある人から「人効論と事効論」(あれ?違ったかな)という神学的な話を聞きました。

またまた考え中の桜泉。

洗礼も聖餐も、幸か不幸か神様から直接はいただけませんからね。
うんこも鼻くそもついた土の器から頂くしかないんですよ。
あえて言うならみんな、神様という直接の水源からは水は得られないんです。
汚れたホースから出る水で洗われ(パプテスト流なら、ボウフラ湧いたプールか汚染した川の水に沈められ)、うんこまみれの手から差し出されたパンを頂き、口の欠けたグラスでブドウ酒を飲むしかない訳です。

もちろん…人間だもの…とも思います。人間だもの、人間同士のつながり、それは無視できないファクターです。
洗礼を授けてくれた、ホースになってくれた誰それ先生、あの日のミサを司り、メッセージも素晴らしかった誰それ神父さま…と尊敬し、人と人として大切な繋がりができましょう。それを無機質に否定はできない、する必要はないといつも思っていました。
逆に何でこんなやつを先生だ神父さまだと呼ばねばならねえんだ?と、性格や思想的に相容れないがためにその教会に行きたくなくなることはありましょう。やはり牧者は奉仕者とは言うけど一方で指導者でして、彼/彼女で教会の空気も変わりますから。
または、うんこまみれの手でよくもパンを渡しやがったなという気持ちになる弱さを、人は大抵持ってましょう。

しかし、これもあえて言うなら、このヒビ入りグラスならではの味わいが、この泥つきホースならではの水が、そのときのその人には神様からの味わい深いプレゼントなのでしょう。
ピカピカの皿では、別の皿なら味わえないパンの味があるのです。きっと…。
今はこの器から味わう時!と、神様が決めることがあるのかなと思えてきます。
(しかし桜泉はその点ずるいんで…やはり器選びをしちゃいます。しかし、今度の怒り一件で、いかなる器にも意味があると認識できてきた気もします…。万事が益になるってこれ?)

それから。
他人を汚らわしいとか思うとき、忌避して非難するとき…実は他人を鏡にして、自分の、私の、汚いところを映し出されている、見せつけられてる、暴かれている、だから人は過剰に反応するのかも…そんなことを言ってくれた人もいました。

だとしたら、桜泉もまた、この話に憤った時点で何か私の、ひどく足らない欠けを見ているのでしょうか…。……。

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