下の記事のつながりで、かなり前に書いてそのままになっていた文章も加筆して掲載します。
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主我を愛すという讃美歌がある。
♪主我を愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ…
しかし最近桜泉は思う。
いわゆる強さ、尊さから無縁、弱くてしかし強いイエスだからこそすごいんだ、弱さからこそ力へ繋がっていく、弱さを生きられる、だから強いんだと。
前に、ぶどうの木という話で書いたけど、幹だって枝が必要だ。イエスは、枝よ、繋がってなさいと言ってるけど、多分彼は分かっていそうな気がする。枝が繋がってるから幹がある、もちろん幹があるから枝は生きられると。
そうだ、福音書を読めば…。
喉が渇けば、へたってサマリア女性に水を乞う、しかし水を乞ううち、しかし逆に女性を目覚めさせ力付ける。
故郷ではペタペタにこっけなされて、結果として失意に去る羽目にもなる、でも、また行く先々で人々の中に入り、語り、癒す。
ゲッセマネでは苦しみうろたえて、弟子たちに「起きててよ(T_T)」。でも孤独で苦しい祈りの最後には、どーしても去らない杯(十字架の磔刑)なら飲む!となる人…。
でも十字架で「我が神×2、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫び、殺されていく人。
弱さなんかごまかさない。弱さと弱さの先に力がある。マイナス×マイナス=プラスのごとく。
弱さと弱さが共鳴したとき、なぜか新しい音が生まれる。
私の出会った神様は、私の出会った神の子は、そんな方なのではないか。
いわゆる昔的な意味での神様なんか無い、あると言っても無理が生じる、でも、弱い神様と弱い私達のコラボ…それなら、それこそ、こんな時代の私達を生かしめてくれるだろう…。
神様と語りながら、しかしむやみに神様のせいにせず、私と私達人間の生を生きてゆくことを、弱くて強い方に見い出し聞いて行きたい。
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主我を愛すという讃美歌がある。
♪主我を愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ…
しかし最近桜泉は思う。
いわゆる強さ、尊さから無縁、弱くてしかし強いイエスだからこそすごいんだ、弱さからこそ力へ繋がっていく、弱さを生きられる、だから強いんだと。
前に、ぶどうの木という話で書いたけど、幹だって枝が必要だ。イエスは、枝よ、繋がってなさいと言ってるけど、多分彼は分かっていそうな気がする。枝が繋がってるから幹がある、もちろん幹があるから枝は生きられると。
そうだ、福音書を読めば…。
喉が渇けば、へたってサマリア女性に水を乞う、しかし水を乞ううち、しかし逆に女性を目覚めさせ力付ける。
故郷ではペタペタにこっけなされて、結果として失意に去る羽目にもなる、でも、また行く先々で人々の中に入り、語り、癒す。
ゲッセマネでは苦しみうろたえて、弟子たちに「起きててよ(T_T)」。でも孤独で苦しい祈りの最後には、どーしても去らない杯(十字架の磔刑)なら飲む!となる人…。
でも十字架で「我が神×2、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫び、殺されていく人。
弱さなんかごまかさない。弱さと弱さの先に力がある。マイナス×マイナス=プラスのごとく。
弱さと弱さが共鳴したとき、なぜか新しい音が生まれる。
私の出会った神様は、私の出会った神の子は、そんな方なのではないか。
いわゆる昔的な意味での神様なんか無い、あると言っても無理が生じる、でも、弱い神様と弱い私達のコラボ…それなら、それこそ、こんな時代の私達を生かしめてくれるだろう…。
神様と語りながら、しかしむやみに神様のせいにせず、私と私達人間の生を生きてゆくことを、弱くて強い方に見い出し聞いて行きたい。