ベツレヘムの家畜小屋発

グレグレ耶蘇・桜泉のブログです。

追体験Jくん

2008年03月21日 | 幼子は身も心も健やかに(育児)
Jくんは最近、追体験ブーム。
印象深いこと、楽しかったこと、ちょっとトラウマなことを何度も話します。

とーと、ばしゅ、いー←お父さんとバスで保健所に歯科健診に行った。

じーじ、ばしゅ、ばいばぃ←爺とバスに乗り、降りたらバイバイした。

Aしぇんしぇい、ぴあ←引退牧師のA先生が聖歌隊指導でピアノを弾いていた。

じんぐー、かめ、いない、べんとー←神宮に遠足行って、池の亀は見えなかったけど、お弁当食べた。

ちくちく、しゃか、しゃわー、びょういん←坂でガラスが足に刺さって血が出たから、シャワーで洗って手当てして、病院に行ったよ。

…。
しかしこれがために、先日困ったことに。

おちゃ、あちち、ばしゃん、ゆか、きょうかい、じゃー、ばたー…と言うのです。

日曜日、体調悪いんだからと婆に止められていたのに教会に行き、帰りにJくんとタリーズに入ったら、Jくんが熱い紅茶をこぼして手に火傷!引き返してK江さん(牧師夫人)に介抱してもらいました。水で冷やしてから、シアバターを塗っていただいたので、翌日には腫れないで済みました。

Jくんの言うのはまさにそれ。
紅茶が熱かった。ばしゃんと床にもこぼれた。教会で手を冷やしてシアバター塗ってもらったよ…てことですから。

後日、というか先の入院中、婆に全てばれてしまいました。

それにしても、気をつけていても子供のイタズラと事故は一瞬!
しばらくJくんとカフェには行きたくないです…。どうしてもカフェなど外食する際は、コールドドリンクにせざるをえないかな。

聖金曜日に寄せて

2008年03月21日 | グレ耶蘇生活
今日は大斎?・・・結局小も大もない、やっぱりやっぱりダメダメクリスチャンの桜泉。
朝からパンを食べ、即席のシチューを食べ、バナナも食べた。
Jくんにはちゃんと食べさせないわけに行かないから・・・とか言って結局同じものを食べる。
臨月になってから、つわりに戻ったみたいな胃の不快がとれない(普通大方の人は臨月になると胃が楽になるんだけど)んだから、そういう観点からも節制すればいいものを。

※大斎とは。一言で言えば、断食するの。はい。何にも食べないってわけじゃないんだけど。

それはさておき、聖金曜日に寄せて。

-----

明後日は復活祭。
十字架刑に処せられたイエスは、日曜日の朝に蘇られた。

でも、ずっとずっと疑問だった。
復活するって分かっていて十字架にかかったの?本当にそうなの?

それじゃあ何だか嘘っぽい。はっきり言って、値打ちが半減。
最後に印籠が出るって分かっていて見ている水戸黄門、最後に犯人が捕まるって分かっていて見る刑事物。それに似ている気がする。

復活するって分かっている死を死ぬなんて、死んだことにならない・・・とまでは言わないけれど、すべてを背負った死の中の死とは言えない気がする。
今はいろんな研究や説や考えがあり、また自由に論じられているので、それについては神学者も信徒も牧師先生も関係ない人も、いろんな説や考えを述べられているけれど・・・。

死をしっかり死に切って、要は復活するかどうかなんか全然分からない、惨めで悲惨で本当にこれで何もかも終わりかもしれない、すべての人の真っ暗な絶望を一身に背負った死を、神様が復活に変えたから、それは本当の復活だし、それに従い抜いたイエスという方はやはり神の御子だったんじゃないだろうか。

10年ぐらい前、ユンギアンの心理学、箱庭療法などの学びにちょっとはまったことがあった。
あの人たち、やたら「死と再生」なんてテーマが好きで、そういう言葉でくくって説明したがっていて、すごく反発を感じたことがあった。
苦しみにある者にとって、あなたは再生できますよ、なんて言い草自体が、鼻に突き、また却って苦しみを増し、疲れや悲しみを招くことだって大いにあるのだ。
苦しみは苦しみ、死は死。ただ、それをあるがままに受け止めるしかない、そう思っている。もし本当に寄り添ってくれるなら、一緒に苦しんでくれ、死んでくれ、ただこの苦しみを、死を、一緒にそのまま受け止めてくれ!そう思う。

人間にできるのはそこまで。
惨めさ弱さ、悲しみ、苦しみに、じっと従うしかない。
復活は、新しい命は、自分ではない「外」から、神様からだけ、本当の力ある方からだけやってくる。だからそれは強くてすばらしくて、神様は人間じゃなくて神様なんじゃないだろうか。

イエスという方がそれを、死を死に切って、そしてその後のことまで見せてくれた。
だから私たちは、・・・・・・少しは(人によっては大いに、完璧に)、苦しみ悲しみ、そして絶望的な死を恐れずにいられるんじゃないだろうか。彼は私たちの苦しみ・死に、どこまでも一緒に寄り添ってくれた。そして神様はその人を復活させてくださった。

このあいだみた夢、処刑されそうになる夢。土壇場で「Jくん!」と叫び、逃亡しようとするあの夢を思い出す。死は終わり、すべての終わり、愛するものと引き裂かれ、すべての望みが消えるもの、恐ろしい悲しみしか胸に去来しなかった。母として、愛児と引き裂かれるのは、すべてにまさる絶望だった。
それから、4月9日がだんだん近づくにつれ、あのボンちゃん(ボンヘッファー)のことを思い出す。堂々たる、静かな態度で処刑されたと伝わるけれど、彼の胸の中に、今際の際には、やはり「お父さん!お母さん!マリーア!」と、愛する人と引き裂かれる叫びが無かったとどうして言えるだろう。祈り、信じつつも、やはり叫びたかったであろうに。私は彼のそういう叫びを、耳の奥に聞いてしまう。

弱いものは弱い、悲しいものは悲しい、苦しいものは苦しい。
この世のモノサシで測る限り、人間の掟に従う限り、それは無価値で惨めなものばかり。
そして生きる限り、やはりこの世のモノサシから完全には逃れられない。

でも、神様のモノサシは違い、神様の力は違う。きっと違う。
この無価値、惨めさを、輝かしいものに変え、愛で包んでくださる。

思えば、今この現実の桜泉も惨めだ。いや、35年の人生を振り返ると、情けなくて情けなくて、みっともなくて恥ずかしくて腹立たしくて、そして、これからどれだけ生きても、それが人の世の価値的に、挽回できるとか、変えられるとか、埋め合わせられるとか、どうしても思えないのだ。(詳しくここに書くようなことじゃないから書かないけれど。)
消すこともできない、これからカッコいいものや良いものや善いものに変えることもできない。
多少は自分の努力や運で何かいいこともあるだろうけれど、根本は換わりそうにもない。まして過ぎたことは消えやしない。惨めは惨め、無価値は無価値、失敗は失敗。

十字架にかかったあのイエスの弟子となり、あとに従っていくということは、こんな自分をそのまま受け止めて、じっと歩んでいくこと、まさに弱さを強さにしてくれる、死を復活にしてくれる、神様を信じて、それがいつなのかどういう風なことなのかどういう意味なのか、分からなくてもじっと従う・・・そういうことなんじゃないだろうか。つらいけど、ほんと、つらいけど。

今すぐ幸せに、自分の望む幸せにしてくれる、恥をすすぎ、力をくれるような別の神様の方に従うなり、自分で何とかするなりすればいいのかもしれない。
でも。
きっとそんなことをしても、やはり苦しみは、惨めさは、なくならないって気が、直感だけどしているから、今日は、今日も、今日特に、あの十字架のことを思いたい。