久しぶりの続きです。まだまだ続くようです。
その3
―もう帰らないと。明日、またここに来ます。そう、と相づちをうつようにつぶやいたが、それってどういう意味と考えていたら少年は立ち上がってぺこりと頭を下げ小走りで去っていった。不思議な心持だった。いったいどこの誰なんだ。少年が去ると少年との会話を最初から思い出そうとしたがお互い断片的だったせいかうまく思い出せない。本当にオレは少年と一緒にいて話をしたんだよな、と自分に確かめていた。少年の座っていたところをみて去っていった方をみる。ついさっきのことだ。でもなんだか本当に起きたことの気がしない。
少女の映像が閃いた。青い空に溶け込むように遠くで小さくゆっくりと舞い落ちている。
映像が薄れてオレはベンチにもたれ現実の空を眺めている。なんにしても少年の記憶はある。
うまく話せなかったけどあの少女の映像に悩まされているのは確かなようだ。いったいどういうことなんだろう。
そういえば見て分かったって言ってたけどなんでオレに少女の映像が現れるって分かったんだろう。少年はいつから見えるようになったんだろう。他にもいるって言ってたけどどうしてそれが分かるのか。一人になるといろんな疑問が出てきてなんで聞かなかったんだろうと思うが、オレにはいつもあることだ。なにかが終わってからああすればよかった、こうすればよかったと気がつく。遅いんだよな、いつも。
次の日目が覚めた時から落ち着かなく(このところいつものことだがさらに落ち着かなかった)とにかく外に出てぶらぶらしていたが自然と足が昨日の公園に向いた。まだ午前中で薄曇りの少し肌寒い天気だった。
公園を道からのぞくと誰もいない。犬を連れた老人が通り抜けて向こう側に出るところだった。がっかりしている自分に少し驚いた。別にいつ会うと約束したわけじゃないし昨日はもっと遅い時間だったからこんなに早くからいるわけはないと思っていた。いなくて当たり前だろうがついきてしまっていないと分かってがっかりしている。オレはなにをやっているんだろう。あの日以前とそれからでなにかが変わった。なにが変わったんだろう。あの映像が出てこなくても何かを感じている。口の中にいれてかんで飲み込もうとするけど飲み込めず出すこともできずいつまでも口の中に残り続ける咀嚼物のように。
風に吹かれて両手をズボンのポケットに入れ空を見上げていた。まわりを木やビルに囲まれ見上げた上の部分だけ見える空。いつもの空と変わらない、はずだ。でも、なんだか雲のせいでなく薄ぼんやりしているように見える。そういえばこの大都会に出てきた最初のころ電車から見る空が故郷の空と微妙に違うようにみえたのを思い出した。高層の建物に邪魔されてなんだかなんか申しわけなさそうに広がっている。故郷のはいつもでんと構えている感じだ。つながっているんだから空に違いはないんだろうけど。気持ちの問題か。空を見上げたままゆっくりとした雲の動きを眺めていた。
実家の親はどうしているんだろう。夏休みも帰省はしなかった。一浪してやっと大学に入って都会に出てきて自分なりの生活ペースができてきてバイトも始めたところでペースをかえたくないからと親には伝えたが帰省したいという気持ちがおきなかった。列車で半日かけて帰るのが億劫だった。ホームシックというのになるのかなと来た当時は思っていたが自分でも不思議なほどまったくなかった。母親は列車代ぐらい出してあげるからと言っていたが帰る気にはならず暑い夏をだらだら過ごして気がつけば夏休みも終わりになっていた。母親の作る料理は食べたかったけど。父親とは話すこともないし、5歳上の兄貴は父親の小さな水道関係の工務店を手伝っているはずで兄貴とはいろいろ話したい気もしたが会ってもお互いうまく話せないのは分かっている。兄弟なんてそんなもんなんだろうと思っていた。結局なにもなく夏が終わった。なにを期待していたわけでなくなにをしようとしたわけでもないからしょうがないけど。そんなことをぼんやり考えながら見るともなく空を見る。
こんにちは、と後ろから声をかけられ振り向くと昨日の少年がいた。
ー早かったですね。オレが上を見上げいていたので何かあるのかないうふうに上を見上げている。不意を突かれて、いや、別に、とか口の中でもごもご言って少年を見る。昨日と同じような服装で明るい色の長袖シャツにクリーム色のズボン。洗い立てみたいな清潔感がある。オレの格好とはだいぶ違う。どんな家に住んでいるんだろう。もちろん家族と一緒なんだろうけど平日の昼間から学校にも行かずこんなところで過ごしていて怒られないんだろうか。
とりあえず座ろうか、と昨日と同じベンチに二人で腰を掛けた。少年はリラックスしている感じで浅く腰掛けゆったりしている。横目で見ながら疑問が次々湧いてくる。
ーあのさ、と声をかけたがなんだか眠いのか反応が鈍くこっちをふりむかず足元を見ている。オレも目をやるがなにも珍しいものがあるわけじゃない。
ー昨日言ってた他にもいるっていうのはどういうこと?なんで分かるの。っていうかそもそもどうしてオレに声をかけたの?なにか、なんだろう、印みたいなもんでもあるの?
ひとつ聞き出すとつぎつぎ口をついてでた。ちょっと驚いた顔をしてオレを見るとしばらくそのまま見つめ合う。なんかペースが狂う。
ーごめんごめん、なんか聞き過ぎたね。そうだな、えーと、まずは昨日オレに声をかけたのはどうしてなの?
こっちを見て深呼吸するみたいに息を吸って吐いてから
ーお姉さんがが目の前に出てきてお兄さんの中に吸い込まれていくんです。
言ってることがよく分からない。お互いにしばし黙っている。
―お姉さんって。
―あの日から僕の頭の中に出てくる人。最初の時僕が落ちてたんです。夢じゃないんです。ほんの一瞬だったけどあのデパートの屋上から。たぶん飛び降り自殺した女性と同じことをしたんだと思う,ていうか同じ体験、じゃなくて、同じ光景が見えたっていうか。
まったく意味が分からずオレもどう反応していいのかわからずまたしばらく沈黙があった後とぎれとぎれに説明してくれた。なにが起きてるか本人もよくわからないのだからうまく説明できるはずもない。それはなんとなくわかる。あの日少年がいたのはオレとは反対側、デパートの正面入り口のほうだった。何かを目撃したわけではなく騒ぎを少し離れてみていただけらしい。飛び降り自殺らしいというのは野次馬の会話で知ったようだ。オレのあの時の体験を話すと僕はそんなのはなかったですとすまなさそうに言う。家に帰ってひとりでご飯を食べようとした時に突然少女の映像が目の前に現れ続いて飛び降りている瞬間の風景を体験したらしい。お姉さんの中から外を見るっていうか視線が同じになるっていうか、とまた黙りがちになる。なんとなく伝わるがオレにはなかった体験でそれはそれでかなり強烈そうだ。飛び降りている途中を体験する?
そして昨日は少女の映像がオレと重なり吸い込まれるように消えほのかな輝きをはっしていたらしい。ほのかな輝き?
そういうことが前の日にもあったそうだ。少女の映像が人混みの中に現れる。オレの経験とはだいぶ違う。前を歩いていた女性の後ろにすっと現れた少女が吸い込まれるように消え、その女性がほのかに輝きを放っているのをびっくりしてとにかくその人の後をつけたらしい。他の人とは違って見えるから見失うこともない。でも駅に入っていったのでそれ以上つけていくのをあきらめた。
ーなんだかここら辺にいると気配があってときどき人のあいだに漂ってたりするんです。
―お姉さんが?
ーいえ、お姉さんは一瞬だけふっと浮かび上がるように見えて、歩く、っていうか流れるような、とオレの顔をみてそのあとを続け欲しそうだがオレにはどんな感じなのかうまく想像することもできない。
ーすぐいなくなるんです。なんか細かい粒になってばらばらにになるような、もともと、うーん、と言葉に詰まる。-すぐ近くなのに遠くの景色を見てるみたい、というと、うんうん、と嬉しそうにうなづく。
ーそのあと薄ぼんやりした気配が残るっていう感じかな。
―薄ぼんやりした気配?何だろう、よく言われるような死んだ人の霊みたいな。
ーいや、そんなのとは違います。ごく普通の、、、靄っていうか、霧?手で触れるような気配っていうか。霧を見ても怖いとは思いませんよね。
ーそりゃね、霧とか自然現象を怖いとは思わないよね。でもお姉さんはどう見えるの?顔がはっきり見えるわけじゃないの?
それはと言って両手を顔の前にあげて何かするのかと思ったらすぐすとんと力が抜けたように下ろした。
―はっきり見えるといのは違います。なんていえばいいのか、ぽっとうかんでくるんです。顔も見えます。後ろ姿だったり横を通り過ぎたりするけど毎回同じ人なのは間違いないと思います。お兄さんの時は前から見えたから顔も見えました。くっきりじゃないからどんな顔かうまく言えないけど、表情までは見ないぐらいうっすらなんです。お兄さんはそういうのはないんですか?その、あれ以来。
ーオレにはそういうのはないな。逆さまに落ちていく映像がくっきり目の前に出てくるけどこの、と言ってまわりを眺め、ーこの現実の世界っていうのか、人混みの中に気配っていうのは感じないな。それで少女が消えていってその人がほのかに輝くってどんな感じなの?
ーうまくいえないけど、お兄さんはぽっと明かりがつくみたいな感じでした。なんか変な言い方なのはわかるんですけど、それ以外どういえばいいのか。なんか変だなと思って目を閉じたりこすったりして見直してもとにかく違ってるんです。蜃気楼っていうんでしたっけ、もわもわっとその人のまわりがぼやけるってときもあるし。でもだいたいすぐ消えるんです。でもお兄さんははっきりしていたからなんだか思わず声をかけたんです。なにかわかるかなと思って。
―今のオレは?
ーふつうに見えます。
ーオレみたいな人が何人もいるんだ?
ー薄ぼんやりっていうのが誰かと重ならないのがほとんどなんです。はっきりしてたのはお兄さんで3人目かな。
ー3人。多いのか少ないのかなんとも考えようがない。ーそれであの日って言っていいのか、あれからこのへんをずっとうろうろしているわけ?
ーうろうろといっても夕方には帰らないといけないから半日ってとこですけど、とにかくお姉さんが目の前に出てくるからなんかじっとしてられなくてとりあえずこの場所に来れば何かわかるかなと思って。わかるっていうか、なんだろう、ぼくがどうかしてるのか、なんなのか。
呆然とした表情で口をつぐむ。
ーうん、わかる、とオレが相づちをうつと目を輝かせてオレの方に身を乗り出してくる。分かりますか、そうですか、と無防備に向けてくる笑顔に幼さがあらわれる。
ーそもそもなんであの日あそこにいたの、平日の昼間に。学校には行ってないって言ってたけどどういうこと?
オレの顔をなんだか疑わしそうな表情でみて口をすぼませている。話したくないということなんだろう。
ーいや、まあ、いいんだけど、と話をかえようとしたら
ーとくに行くとこもないからいろんなところをぶらぶらしていたんです。たまたまあの日あそこにいただけで。と微妙に違う答えをしてきた。
ーそれで、どう、どうっていうかその時どんな感じがするの?感じっていうか、どう思う、うーん、どうなんだろう。
最後は独り言になっていた。少年もそうですね、どうかな、どうなんだろう、よくわかんないですね、と二人でしゃべっていても会話にはならない。でも通じ合っているという安心感がある。こうして隣に座って少女について話せている。他の誰とも話せないことを。話しても通じないことを。
見ず知らずの中二の男子とほかに話すこともなく言葉は途切れがちになりなんとなくお互い自分の中に閉じこもっていく。まだまだ話すべきことがある気がするしもう何もない気もする。深い霧の中道に迷った二人がたまたま体をぶつけあってお互いがいることを確認はしたものの道に迷っている状況に進展はない。
ーほかにもオレ達みたいな人がいるっていうけど同じような目にあってるかは分かんないよね。そもそも飛び降り自殺した少女とオレに現れる少女と君に見える女性とどういう関係があるのか、なにもないのか。
ーそれはそうですけど。なんにも関係がないっていうほうが変っていうか、無理があるっていうか。
そう言われると反論できない。確かにそうかも。でも、と理性というのか常識というのかが頭をもたげて疑問を差し出してくる。それを無視するのも難しい。ここ数日オレの中で繰り返す堂々巡りというやつだ。
ーなんだか同じことが起きてるような気がしますけど。
ー同じこと?でもさ。といって後が続かなかった。ーいるなら会って話したいけどね、と力のない言葉が力なくでてくる。
ーきっといますよ。弾むように言ってオレの顔をじっと見る。
二人でデパートの前の交差点の一角に陣取って行き来する人の流れを見つめる。平日なのにとにかく大勢が行き来する。絶えることがない。なんでこんなに人が多いんだろう。みんな何をやっているんだろう。ここに来る前にコンビニにいっておにぎりを買って公園で食べ腹を満たしておいた。少年のとにかくこのままだとなにも分からないままだし、何かしないと、という意見に説得された。確かに何かしないでいつまでもこんな状況が続いたらたまらない。ただ問題はなにをすればいいのかさっぱり分からないことだ。
少年は悪いことをして立たされているみたいにまっすぐ背筋を伸ばしている。オレは自動販売機の横面に背をもたせ掛けて少年と人の流れを交互に見る。
学校も終わる時間でますます人が増えてくる時間になっていた。そろそろ終わりにするか、いつまでもここでじっとしているわけにもいかない。そう思って声をかけようとした時、あ、あの人と右腕をまっすぐのばし指さした。
人混みを指さされても誰をさしているかなんてわからない。誰、どこ?ほら、あの女性、髪の長い、今、道路を渡った、
髪の長い道路を渡った女性は大勢いた。少なくともオレにはそう見える。少年が足早に先を行く。オレも人にぶつからないよう追いかける。信号が赤に変わりかけているのを強引に渡ってほとんど走るように進んでいく。小柄なせいかうまく人の間をすり抜けていくので少年を見失いそうだ。少年が一人の女性の真横にいってちらっと見てから後ろに下がって同じ歩調でついていってオレを振り返る。うなづいて少し小走りでその女性の前にでてさりげなく様子をうかがう。
高校生ぐらいの女子だ。少年を振り返り目を合わせる。少年がオレに目で促す。いやいや、促されても。どうしろっていうの。しばらくつかづ離れづの距離で歩いていたがその女子がビルの一階に入っている大型の書店に入っていった。オレたちは書店の前で立ち止まる。
ー話しかけてくださいよ。
ー無理だよ。そんなの。いきなりなんて言えばいいの。
ー少女の映像が出てきませんかって聞けばいいんじゃないですか。
ーいきなりかよ。突然そんなこと言えないだろ。頭のおかしな人だと思われるよ。変質者だと思われて騒がれたらどうするんだよ。
ー走って逃げる。
お互い顔を見合わせオレは首をふり少年はため息をつく。
どうするんですか、どうしよう、ここにいても、中に入っても、と二人であれこれ言っているうちに少女が出てきて駅の方へ歩き出した。少年がオレの肘をつついて、あ、ほら、行っちゃうと促すがオレとしても話はしてみたいがどう考えてもきっかけを作れない。無理、無理と顔をしかめていると少年がオレの肩越しに見やって驚いた表情をする。つられて後ろを向くとさっきの少女がこっちに向かって歩いてくる。書店になにか忘れものでもしたのか目をやらずうかがっているとオレたちの前に立ち止まった。少年と素早く目を交わしてお互いあらぬ方向に目を向けていると、なにか用があるんでしょ、とはっきりした口調で話しかけてくる。え、オレに話かけてるの、と顔を向けるとまっすぐ目をみつめてくる。どこかであった子だということにその時気がついた。
―用があるんじゃないの。
オレたちの顔を交互にみる。少年がうん、うんとうなづいている。オレもこう正面から話しかけらると腹が座るというか妙に落ち着ちけた。
ーうん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。とそこまで言って後が続かない。どう切り出せばいいのか。少年のほうを見るが完全にオレの役目だと思っているようで興味津々の感じ丸出しで女子を見ている。気楽な奴だ。どう話せばいいんだ。
―このあいだデパートから飛び降り自殺があったことで話があるんじゃない?
耳に届いて理解するまでほんの一瞬固まったが思わず二人で激しくうなづく。そんな様子を見て女子が笑った。自然な笑顔だ。つられてオレが笑い、続いて少年が笑う。何年かぶりで会う幼馴染のように不思議な和やかさがあってついさっきまでの緊張感は風に吹かれた落ち葉のようにどこかにいっていた。
細い目が印象的で正面から見た時は挑むような迫力を感じたが笑うと目じりが下がってがらっと雰囲気が変わる。背丈はオレより少し低いぐらい。オシャレじゃないな、もうちょっとファッションに気を使えばいいんじゃないかと自分の身なりは忘れて勝手なことを思った。ゆったりめの白っぽいジーンズに濃い青のパーカーをきてフードはかぶらず両手をパーカーのポケットにつっこんでいる。髪は短くうなじがみえている。
ここじゃ話もできないからとさっきの公園に三人で向かう。少女は人混みの中少し離れてつい来る。公園につくと小さい子を連れた母親が上り下りできる遊具で遊ばせていた。少年はベンチの端に座りオレが真ん中でどうぞと女子を隣に座らせる。オレが年上みたいだからなんとなくこの場を仕切らなきゃいけない雰囲気だ。でもどう話せばいいんだ。
―昨日の昼デパートの屋上にいたでしょ。そう言われてすれ違った子だと気がついた。―彼女が見えるんでしょ。
単刀直入にいってくれた。細い目をさらに細めてさすような真剣さでみつめてくる。
ーどうしてわかったの?
しばらく間があった後、ー昨日昼デパートでエレベーターに乗って屋上で降りて外を見た時彼女が立っていたの。本当にそう見えた。びっくりして足が止まって息も止まってた。でも次の瞬間には立っていたのはあなただった。
ーえっ。
ーとにかく確かめたくて屋上に出ていったの。彼女はどこにもいなくて目の前にいるのは若い男の人だっていうのを。一瞬彼女が見えたのはただの私の錯覚だって。
ーえっ。それしか言葉が出てこない。
ーその子も、といって少年に目をやる。ーそうなんでしょ。さっき私の横に来た時オーラがでてたからあれっと思ってたらあなたが出てきてついてくるからそうなんだと思って、話しかけてくるのを待ってたんだけど。
うっと言葉に詰まる。
ー彼女が出てくるんでしょ。その、目の前に。
ーつまり、君も、といってその先の言葉が消えていく。心臓が激しく動き出して鼓動が二人に聞こえるんじゃないかと変な心配をする。
ー私も見えるから。
ーでもどう、どんなふうに、その、見えるの?っていうか何が、女性が?
うまく言葉が出てこない。やっぱりそうなのか、というのとそんなことがあるのかという矛盾した感情が頭の中を渦巻いてなにも考えられなくなる。隣で少年がなぜか激しくうなづいている。しばらく女子はうつむいて黙っている。髪が頬にかかって表情はわからない。
ー飛び降りがあった日の夜に彼女の姿が、と言って言葉につまる。この子も混乱しているんだろう。そりゃそうだ。混乱しないわけがない。
ーわけがわかんないよね。思わずつぶやくと、ーそう、そうなの、とさっとこっちを向いてそのまま見つめ合う。
でもそれを合図にしたように少年と女子が同時にしゃべりだす。そこからオレも思わず言葉が口ををついて出て三人でいっきにしゃべりだした。とっかえつっかえ言葉がオレを真ん中にして行きかう。
三人でつたなく自分に降りかかっている状況を話すがますます混乱するばかり。あいまでそれぞれ自分の事も話す。女子はこの先の高校に通っていて通学でこの街を通るらしい。少年は僕は一つ隣の駅の名前を言って住まいがそこで中2ですと言った。オレは地方から出てきた大学1年生というと女子が意外な顔をしていた。
逆さまに少女が出てくるのはオレだけらしい。二人は遠くにたたずんでいるように見える映像がほとんどみたいだ。女子は顔がはっきり見えると言っている。じっと正面から見つめられるらしい。それも辛そうだ。言葉は発しないのと聞くとそれはないらしい。少年もしゃべりはしないという。出てくるタイミングも回数もまったくでたらめで予測がつかない。少年が今日はでてこない、とつぶやいてオレも今日は見てないのに気づく。彼女の写真を見たことを二人に話す。少年はまだ見たことがなく女子高生は知っていた。女子高生ははっきりと私の中に出てくる少女と同じ人だと言った。間違いないと。最初に見たのはあの日の夜だが三人とも微妙に時間は違う。ただ寝ている時に夢ででてくることがないというので三人が一致した。起きている時に見る夢。
夢かな。夢じゃないですよ。そう、夢じゃない。じゃあなんだろう、まぼろし、幻覚みたいな。
ひとしきり話した後放心したように沈黙が降りた。その沈黙には両手で捕まえていたばたばたする小鳥をやっと外に向かって放してやったような解放感と少しの寂しさがあった。
ーなんだか共通点があるような無いような。
ーでもこれって僕たちにどんな意味があるんでしょう?
―意味?
そんなの分かんないよとオレと女子は同時に首を振る。そんなの分かんない。その時オレの頭の中で何かの音がした。固いドアを拳で叩くような音。誰かが何かを知らせようとノックするような音が。でもすぐに二人との会話に戻ってただの気のせいだと思おうとした。目の前の現実、二人(ほとんど初対面なわけだけど)としゃべってちゃんとした現実とつながっているという実感がその時は必要だったんだろう。まだオレはそれに気づくことができなかった。
ー僕、そろそろ帰らないと。
そう言われて日が傾いて夕暮れ時が近づいているのに気がついた。自転車を駅の反対側に止めているらしい。今日はこのへんで終わりにすることにしてまた明日三人で会おうと自然と約束していた。三人とも口にしなくても会わないといけないような気になっている。
少年が立ち上がると―なんだか二人雰囲気が似てるね。と女子が言ってーえっ、と二人で同時に驚く。
女子が笑っていると少年が昨日と同じようにぺこりと頭を下げ去っていく。オレと女子も立ち上がり駅の方に歩き出した。オレはこっちのほうだからと駅と逆方向に行こうとしたら、女子が立ち止まって後ろに見えるデパートを見上げ、なんでなの、とつぶやくように言う。大勢の人や車が行きかう中オレ達だけ違う空気を吸っているような気分だった。
なにか悪いことしたのかな、と街の喧騒の中言葉が聞こえた。彼女をみると下唇を軽くかんで足元を見ている。ふっとオレをみると(気のせいか目が潤んでいる)、明日ねとわずかにほほ笑みながら言ってくるりと背中を向け人混みの中に消えていった。
一人になるとなんだか取り残されたような心もとなさに襲われた。見知らぬ人達がオレのまわりを次々と通り過ぎていく。ある人達は笑いあい、ある人は速足で、またある人はなにかぶつぶつとつぶやきながら。ついさっきのことを思い出すが現実感がない。見えないなはずのものが見える。いや見えるといえるのか、感じるだろうか。どっちにしてもそんなことが本当に起こるんだろうか。ただの錯覚じゃないのか。二人ともただしゃべっただけで本当のことを言っているのか確かめようもない。昨日少年と別れた時と同じような自分が少し地面から浮き上がっているような現実感のなさに取りつかれていた。ついさっきまで公園で三人で会って話していたのは本当のことだろうか。
まだバイトの時間には早かったが自然とバー「アール」に足が向いた。知っている人と会って言葉を交わしたいという欲求が足を自然と速足にする。今のオレに浮かぶのはマスターの顔だ。買い物とかあればオレが行ってくればマスターも助かるだろうしとさっきのみんなとの会話を思い出しながら狭い階段をあがり木製の重いドアを勢いよく開けた。
カウンターに男性が座っている。最初陰になっていてわからなかったが何度か見かけた人でお客さんとしてきていたこともあったし遅い時間にきて店を閉めた後マスターと一緒に帰ったりしていたこともあった人だ。少し白髪がはいったボリュームのある髪を後ろになでつけて、口と顎にグレーがかったひげをはやしている。年はマスターよりだいぶ上に見えるが精悍な感じの男性だ。オレには酒の話をよくして何かと教えてくれるので同業者でマスターの先輩かなとぐらいに思っていた。
ーマスターは買い物にいったよ。留守番を頼まれてね。
目じりにしわを寄せ笑顔を浮かべながら、まあ座りなよ、と隣の椅子をすすめてくれた。思いもしなかった展開で意表を突かれ言われるまま何も考えず足の長い椅子にカウンターに手をついてよじ登るかっこうで座る。まだこのカウンター用の高い椅子に座るのに慣れていなのがばれたみたいで顔が赤らむ。
だいぶ仕事も慣れたみたいだね。大学はどう、楽しんでる?と小声だけどよくとおる声で話かけてくる。
しばらく前にあったことを思い出していた。その日バイトにきて店内に入ると奥のテーブル席でマスターと男性がなにやら話し込んでいた。一瞬二人が驚いたようにこっちに顔をあげた。その時に二人が手を握り合っているように見えて、あれっと思い二度見したが目をやった時は離れていた。見間違いかなぐらいに思って忘れていたがなぜかあの時の二人の手が思い浮かんできた。
ーここでの仕事は楽しいです。
ーそう、最近はカウンターの中の立ち姿が様になってきたよね。
そうですか、とまた顔が赤らんだ。オレの出身地や大学のことを聞いてきてオレもあれこれ話した。お客さんとして顔は知っていてもほとんどしゃべったことのない年上の人と話すなんていつもだったら臆してほとんど言葉が出てこないのだが男性の聞き方がうまいのかなぜか言葉が出てくる。
ーなんだか、ちょっとがっかりしてる感じです。
ーがっかり?
ーもっとなにかあるんじゃないかと、漠然とですけど、なにを期待してたっていうわけでもないんですけど。地元にいてもやりたいことがあるわけじゃないし、こっちに出てきたらななにかあるかと思ってたんですけど。
―「なに」が多いね。
ーすいません。
楽しそうな顔でオレを見る。おもしろいことを言ってるんだろうかと不思議に思うが嫌な感じはしない。
ー昔から若者は迷い惑うもんさ。これからだから。
ーそうはいっても二十歳過ぎたし。大学生だし。
ー焦る気持ちはわかるけどね。気持ちばっかり先にいって手ごたえが無い感じだろ。でも大学といっても教室のなかで学べることなんてほとんどないからね。
―そういうもんですか。ここ数日ぜんぜん大学に行ってない後ろめたさを取り除いてくれる
ーそういうもんだよ。ここでのバイトなんていい経験だろ。目の前をいろんなことが通り過ぎていくだろうけど、よく見ておくことだね。じっと目を凝らして。
目を凝らすのか、と思っていた刹那少女の映像がほんの一瞬閃いた。ほんの一瞬だったけど時間がだいぶ過ぎたような奇妙な感覚にとらわれて気が動転してしまった。気づかれたかなと男性を見やるが置いてあったコップで何かを飲んでいる。
ー分からないんです。やりたいことが。そう口にしてその言葉がオレに舞い戻って口や鼻からオレの中に吸い込まれる。ーオレにはなにもないんです。
男性がオレの方をじっと見つめる。視線が揺るがないから入り口を見ているのかと思っていたらーこういう風景を想像してごらん。と話し始めた。
ー多くの人が歩いている。見渡す限り暗く広がる地面を大勢の人たちが歩いている。でも本当は足元にあるのは細い紐なんだ。
紐?何の話だろう。
ー固い地面だと思っていても本当にあるのは一本の紐だけ。両手を胸の前で広げて紐を引っ張るしぐさをする。
ーあまりにしっかりした感触だから紐の上を歩いていることをみんな忘れる。でも紐だからね、すごく危ういわけだ。踏み外せば落ちてしまう。暗くて深いところに。でもそれもゆっくりだから気がつかなかったりするんだ。自分が紐から落ちているのを。
暗くて深いところ?何の話なのか。聞こうとした時にマスターが仕入れてきたお酒などを入れた段ボールを両手に抱えて入ってきた。
ーお疲れさん。彼とおしゃべりしてたよ。男性が雰囲気を変えて明るい声でマスターに声をかけた。
マスターがオレと男性を見比べてちょっととまどったような顔をした。荷物をカウンターの中に置きながら-早かったね。と話しかける。
-すいません、なんか手伝うことがあればと思ってきちゃいました。
-いや、いいんだよ。買ってきた酒瓶や食材を出して整理しながら何げない調子で話す。ーじゃあ、これを奥の棚に収納しといてくれないかな。と缶詰や袋詰めの食材とかを目で示す。わかりましたと手伝いを始めた。男性は買ってきた酒瓶を手に取ってマスターに金額とかを聞いている。
しばらくして男性はカウンターの端でマスターと小声で少し話していたあと、じゃあ、僕はこれで、とオレの方に手を振って帰っていった。
―なんだか変わった人ですね。なにをしてる人なんですか?
ー何をしてるんだろうね、と笑いながら言って、ー詩人なんだよね、自称だけど。と付け足した。
その日部屋に帰って布団に入って眠りにおちながら今日あったことを順番に思い出そうとしたがばらばらに少年や高校女子やマスターや男性が出てきて混ぜられたジクソーパズルの大量のピースを眺めているようで途方に暮れるしかなかった。これを意味ある形にすることがオレにはできないんじゃないか。いつまでもこの夜が続きそうな気分になっていた。最後に浮かんだのは自分の言葉だった。
オレにはなにもないんです。
次の日の昼前三人で前の日に少年と立っていた交差点で行きかう人を見ていた。オレには違って見えるというのはないからただぼんやりするしかなかったが(じっと目を凝らしてみていても何も変わったものは見えない)二人は真剣な眼差しを人の流れに投げかけている。いつものことながら人の流れが尽きることはない。祭りがあるわけじゃなし、どうしてこんなに人が集まるのか。集まってるわけじゃないか。ただどこかからどこかへ向かっている。オレが大学に行って(何日行ってないんだろう)帰ってと繰り返すのもこの流れの中にいるわけだ。いまここで立ち止まって見ているがいったん歩き出せば流れに飲みこまれて流れの一部になる。
少年が小さく、あっと声をあげる。高校女子が同じところを見やる。少年が女子を見やり、二人が視線を交わす。うなづきあう。オレを見て人混みを指さす。追いかけるのはオレの役目らしい。誰を指さしているかさっぱり分からないが。
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