今回は連作です。続きはオッペン氏の気分次第なので随時投稿となります。
「ひらひらと舞い落ち、緩やかに流れる」
序
頭を下にまっすぐに伸びた体。腰のあたりで手の指がわずかにひらいている。肩を覆い隠す黒髪。青みがかったワンピースのような服が足元で膨らんでいる。
目を閉じて夢見るような表情。ゆっくりと、わずかに髪や服をなびかせてひらひらと舞い落ちている。
時間にすればほんの一瞬。ニ、三秒の映像が頭の中に鮮明に浮かび上がる。現実と区別のつかない夢のようにありありと。指は何かをつかむ寸前のようにも見える。カーデガンなのか胸の前で開いた白い布がたなびいて黒いボタンが見え隠れする。
その映像はうっすらとぼやけ消えていく。少女の輪郭が薄れ全体に溶け込んで白く靄に包まれオレの脳裏のどこか深い闇へと吸い込まれ跡形もなくなる。目覚めた後の夢のように。完全に消えてもう浮かび上がってこない。だがオレの知らないところを漂って少しづつ変わりながら流れ続けている。大事な人と別れたあと街角を曲がって見えなくなってもその歩いている姿を感じれるように。
やがて木立に紛れた小鳥が突然飛び出すように映像が閃いてくる。
ひらひらと舞い落ちる少女。映像の中でそれほど動きがあるわけではない。ほとんど静止してるように見えるが消えていったあとにそういう印象が残る。
ーどんな少女が見えるの?
ーひらひらと舞い落ちる少女。
優雅に、ゆっくりと、落ちていく。
ほっそりとしたシルエットが幼さを感じさる。少女の姿はいつも同じだ。服も髪もわずかになびかせているのも目を閉じ眠っているような表情なのも同じ。ただ背景が時々で違っている。
ある時は海の中を上から太陽の光に照らされながら深海に沈んでいくように見える。透明な大きなものにとらえられているようにゆっくりとだが止まることなく下へ下へ。夢見るような表情で。
ある時は山脈の織りなす峰の一部なのか木々の緑が作る巨大な壁の前をあまりに小さく、無力さの象徴のように。
ある時は真っ暗な中白く浮かび上がった少女が永遠に続く時間の流れにくぎ付けにされたように揺らめいている。
晴れているのにどこからか降ってくる雨が顔を濡らすように確かにオレの中に存在していた。みんなと出会ってあの出来事がおこるまで何度浮かび上がってきたことか。
飛び降り自殺を遠くから見たあの日からすべては始まった。でも実際に飛び降り自殺だと分かったのは次の日にアルバイトをしているショットバーで常連のお客さんに教えてもらったからだ。16,7の高校生ということだった。
最初気がついたのは何かがまっすぐ落ちている、鳥なのか、鳥にしては大きい、何かが。
どうしてその時顔を上げたのかそのあと思い出すたびに不思議になる。街中を歩くときは人混みが苦手でいつも下を向いているのに。街で一番大きいデパートの壁を何かが瞬間通り過ぎていくのを確かに見た。大学の授業が午前中で終わる日で部屋に帰る前に食料や日用品を買いに行って両手に荷物を持って何も考えずぼんやり歩いている時だった。
鈍い音がかすかに聞こえた。つかの間静寂が覆ったが女性の悲鳴や誰かのの怒鳴り声が聞こえ、それに反応するようにざわめきが波立ち気がつけば喧騒に飲み込まれていた。オレが立っていた目の前はオープンテラスのカフェでちらほらいたお客さんもみんな立ち上がって何事かとみていた。立ち並ぶお店からも店員が出てきて不安そうな顔をしてささやきあっている。走りだす人や車が立ち往生してクラクションがなり混乱を絵にかいたようでどこか既視感を感じながらただ立ち止まって周りを眺めていた。遠くからサイレンが聞こえてきてパトカーが一台現れたと思ったら救急車のサイレンが鳴り響き気がつけばそこら中パトカーだらけになっていた。
道の端によってのぞき込むようにしていたがそこからでは人の背中しか見えず何が起きたのか知りたかったがここにいても分からないだろうと部屋へ帰りかけた時にあの映像が飛び込んできた。頭の後ろから小突かれるように、小さな虫がぶつかってきたみたいにはっきりと。一瞬逆さまの女の人が見えた。思わず後ろを振り返ったのを覚えている。人はますます増え警官が何か叫んでいた。
街の騒ぎも一角だけのことで少し歩けばいつもの平穏な日常だ。すぐにアパートやマンションがならぶ住宅街になりオレの住んでいるボロアパートについて買ってきたものをその辺において脱ぎっぱなしの服が散らばっているベッドの上に寝転がった。さっきの騒ぎはすぐ忘れヘッドフォンで音楽を聴きながらぼんやりしていた。
この大都会での学生生活も半年が過ぎた。知り合いもまったくいないこの大都会に一人で出てきて文字通り右も左もわからない中をとにかくまともに生活して大学に通うのに全力で走ってきてやっと自分なりのペースができて一息つけたころだった。でも一息ついて辺りを見回すと自分は何を求めてここにいるんだろうと知らない間に巨大な迷路に迷い込んだ気分になっていた。それなりに刺激があって楽しいといえば楽しい日々かもしれない。でもなんか違うという感触がいつしか影のようにつきまとっていた。見ようとしなければ見ないで済む。でも振り返ればかならずそこにある。このままこんな調子で大学4年間が終わるのか。見た目にはかっこよく作られている箱だが扉を開けて中を見れば空っぽ。
その時もそんな漠然とした無力さとあてどのない焦燥感やこれからオレにやってくるだろう寂寞とした時間に心の奥底で感じている恐れをなんとか目にしないよう、とりあえずやり過ごそうとお気に入りの音楽で耳と目ををふさいでいた。しょうがないじゃないか、どうすればいいのかわからないんだし。
そんな淀んだ想いにまとわりつかれているうちにいつの間にか眠ってしまっていた。そしてあの映像がやってきた。自分の意思とはまったく関係なく。遠慮や躊躇なく。知らぬ間にまかれた種の芽が出るように。
その1 「フーコーを読んでもフーコーは分からない。」
言葉を返すこともうなずくこともできずただ固まっていた。何の話だ。ふうこって本の話なんだろうか。昔の漫画で風子というのがあったような、でも漫画の話をしているとも思えない。とりあえずグラスをとって酒を流し込んだ。ごちそうしてくれた酒だがオレには癖が強すぎてうまいとは思えない。といっても残すわけにもいかない。アルコール度数も強くて悪酔いしそうだ。
早く店から出たかった。
住んでいる街の繫華街からすこしはずれた隠れ家的なバーの店内。暗めの照明にバックバーに並ぶ酒瓶になまめかしいスポットの光が当たって
目にするものの気を引こうとしている。カウンターが10席。その後ろの狭い空間に小さめの丸テーブルが三つ。仕事帰りの会社員や近くの定年を迎えたおじさんたちがやってくる、古いジャズが流れる落ち着いた雰囲気のお酒を純粋に楽しむ空間。
その店でオレがバイトすることになったのはほんの偶然だった。地方からこの大都会に出てきて大学生活を始めやっと慣れてきて、そろそろ働いてこずかい稼ぎをしなくちゃと思っていた夏前だった。部屋の近くの商店街をふらふら歩いていたら男性が店の前に張り紙をしているところにいきあってなんとなく目をやるとバーとバイト募集の文字が目に入った。あれっと思って立ち止まったらその男性が振り返ってオレを見て自分の手にした張り紙を見てオレを見た。
「バイトやる?」
すごく自然な口ぶりで気がつくとオレはハイと言ってうなずいていた。バーと名前のつくところになんて入ったことはなんてもちろんなかったが漠然とした憧れみたいなものはあってその時目に入ったバーとバイトという文字につい引き込まれ勢いというか流れみたいなものにのってその男性の後についていったわけだ。偶然なのか必然なのか。
狭い階段を上がった二階の店舗で入り口は狭いが奥行きが思ったよりあって狭さはあまり感じない。一番奥のテーブルに案内されその男性が向かいに座り、どうぞ、座って、まあ、気楽にして、と気がついたら面接が始まっていた。学生さん?そう、この近く?いえ、住んでるのが近くなんです。大学の名前を言っても特に感想を言わず、ここから電車で30分くらいかな、と聞いてきただけだった。大学の名前を言って聞き返されなかったのでほっとした。
誰かに大学名を言うとたいてい聞き返されなにか白けた顔をされて終わることが何度もあった。けっこうつらいもんだ。ここで面接のようなものを受けながら改めて応募できなかった理由が分かった。
面接なのかおしゃべりなのか、その人と話しているうちにここはバーなんだからお客さんと会話しなくちゃいけないんじゃないか、オレにできるのかと不安になっていった。あの、オレ、なまりがあるんですけど、ああ、北の方だよね。出身どこなの?ここらへんはみんな地方から出てきてるから、となんでもない口ぶりで話を進めて簡単な仕事内容を説明された。とりあえずはマスターの横にいて補助をすればいいということだった。お酒のことは居酒屋で飲む甘い酒ぐらいしか知らないんですけど、と遠慮がちにいったが最初はみんなそうだから、徐々に覚えていけばいいよということであとオレとしてもなにを聞いたらいいかもよくわからないので黙っていたら、じゃあ、そういうことで、とバイト募集の紙をきれいに四つに折ってごみ箱に入れた。採用が決まったみたいだ。
白と黒で統一された内装で小さな絵がいくつもかかっていて花(なんていう名前か分からないけど)まで活けてある、こんなしゃれた空間でいきなり働けるなんて不思議な気分だった。
あらためてよく相手の顔を見てみた。どっちかというと背が高く細身で四角い黒メガネをしてパリッとしたクリーム色のシャツにきちんと折り目のついた黒ズボン。真っ黒い髪は短く刈り揃えられている。でもオレが一番印象に残っているのは肌がきれいだなと思ったことだ。ほほ笑んだ時の目じりや口元にできるしわでなんとなく30代後半ぐらいかなと思ったがもっと若いのかもしれない。とにかく怒鳴ったりしなさそうな人だからここでならオレでも仕事ができるかなと自分勝手なことを考えていた。
その日のうちに始める日が決まって週末の2,3日バイトをすることになった。最初に日のことはよく覚えている。開店前にお店に行って真っ白な長袖シャツと紺と赤のストライプのネクタイを渡され緊張しながら着替えネクタイをうまく絞めれずマスターに直してもらった。普段のよれよれの服と違って気分が引き締まったが誰に見られてもいないのに気恥ずかしさで顔を赤くしていた。
仕事は洗い物中心でパンを切ったりレタスをちぎるとかの簡単な調理(というほどでもないけど)でお客さんとはほとんどしゃべることはなかった。お店に来る人はほとんどが大人(当たり前だけど)でオレよりかなり年上だから話し相手にもならない。地方からでてきた何も世の中のことを知らない大人になりかけのまだほとんど子供のオレに話かける人もいなかった。常連の人(だいたい常連さんにみえた)にはマスターが紹介してくれて、がんばってねとほほ笑まれて終わりであとはカウンターの奥で与えられて仕事を黙々とこなしている感じ。
でもオレとしてはそのほうが楽でマスターの横でいろんな人が来ては酔ってしゃべって(中には一言も話さない人もいた)帰っていくのを見ているだけで夜の大人の世界を垣間見るみたいでなんだか楽しかった。
マスターはおしゃべりではないけど丁寧に仕事を教えてくれいつも穏やかにしている。姿勢はよくするんだよ、お客さんの前では背筋を伸ばして前を向いてというのが最初に教えてくれたことだった。なるほど、と初日はそれだけ気にしていたが案外難しくて気がつくとうつむいていたりして仕事ってやっぱり大変ですね、と終って帰り際にマスターにつぶやいたら声を出して笑われた。その笑顔を見てここで長くやれそうだと思えた。
この店自体は3年ほど前に開店したらしい。借金返済に追われてるよ、と楽しそうにほほ笑んだ。昔に比べれば楽なもんさ。昔はなにをやったんですか?ワルをやってたんだよ、とニコニコしながら言うから本当のことはよくわからない。とてもそうは見えないしどう聞けばいいのかもオレにはよくわからないからうなずくだけだったけど。本格的に暑くなりかけた梅雨明けのことだった。
その日は昨日のことがあってなんとなく気分が落ち着かなくて大学もいかず部屋でゴロゴロしていたが一人でいるのが辛く感じて誰かと話したくて外に出たもののどこに行く当てもなく結局マスターのところに足が向いた。何回かお酒の勉強を兼ねてお客としてカウンターに座ったことはあった。勉強と言ってもマスターが従業員割と言って安くしてくれるので酔いたいから行っているだけだけど。
邪魔にならないようお客さんがまだ来ない早い時間に行ってマスターのおすすめのバーボンをロックででちびちび飲んでいた。少しオレにはまだきついけどカウンターで一人でバーボンを飲んでいる自分に酔っていい気分になっていた。マスターは氷を割ったり、サラダの仕込みをしたりでテキパキ動いて準備をしていく。そんな姿をぼんやり見ながらきれいに磨き上げたカウンターに座ってお酒を飲んでいると大人になった気分でじわじわと喜びが沸き上がってくる。体質的にアルコールには強いみたいで2,3杯なら平気で飲める。次は何にしようかなと酒の並ぶ棚を眺めていたら、たまに来る大学教授とマスターに教えてもらった初老の男性が入ってきた。
あれ、君は、とマスターにいつものやつとあいさつ代わりに注文してオレの隣に腰かけた。いつも一人できてマスター相手に話しているのをオレは横で洗い物とかしながらみているだけで直接話したことはなかったけどマスターはつまみの仕込みであれこれ手を動かしているので話し相手にでもと思ったんだろう。
小柄というか全体に小さい印象を与える人でオレが見るときはだいたい酔っているわけだけど(店に入ってきた時から酔っていることもたまにある)口が回らなくなってきても背筋は伸びてどこか威厳のある雰囲気をもっている。大学の先生ともなるとやっぱり普通とはちがうんだな、とぼんやりカウンターの中から思っていたが横に座られると居心地が悪いというか緊張してしまう。なにを話せばいいんだか。いつもはマスターや顔見知りのお客さんと和やかに話して口数の多い方じゃないのに今日は舌が回るようでいろいろ話しかけてくる。オレもなんとか大人っぽく振舞おうとしたがいかんせん知識量が違いすぎて何を言っているのかほとんどわからない。しゃべっている合間にマスターに彼にも同じやつを、とオレの次の酒を注文してくれた。話につき合わせるだけじゃ悪いと思ったのかもしれないがウイスキーの癖の強いやつで一口飲んで思わず顔をしかめてしまった。参ったな、と顔をあげたらマスターと目があって苦笑いされてしまった。先生は気にせず同じ調子で話し続ける。
ーフーコーを読んでもフーコーはわからん、そうだろ。
ナントカ主義とか英語なんだかよくわからない単語が次々出てきてとにかく聞いているふりをするだけで精一杯。気力がつきてぼんやりしているところにこっちを向いて問いかけてきた。固まるしかなかった。
反応がないから言葉をつなげていろいろ聞いてきた。なにを勉強しているんだっけ?経済?まだなにも、か。大学って勉強するところじゃなかったけ。まあそんなもんだろうけど。独り言とも一方的な会話ともつかない言葉がオレにふりかかる。黙ってつもるにまかせるしかない。ただそれほど嫌な感じはしない。最後の一押しはしないというかオレを困らせるのが目的じゃないのはなんとなくわかったから。オレのことなんて気にしてるわけじゃなくただ誰かに向かって話したいんだろう。
「若いもんをいじめないでくださいよ」オレが困っているのを見かねたのか仕込みの手を休め教授の前にいってチェイサーのグラスに水をつぎ足しながら言ってくれた。
「おやおや、励ますのがいじめになるのか。困った時代だな」やれやれという感じでウイスキーを飲み干し氷が当たる音を楽しむようにトンとグラスを置いた。
入り口が開くカランという音がして三人が同時に振り向く。まだ外に明るさが残っていて一瞬シルエットになって目に入ってきたがすぐ誰か分かった。
証券会社で働いているというたぶん20代後半の女性。マスターは証券レディと呼んでいる。それほど頻繁に来るわけではないけどかなりのやり手らしい。どういう仕事なのかオレにはよくわからないが要するに稼いでいるということだ。背が高く(オレと同じくらい)いつも頭の先から足の先までぴしっと決まってオレの想像していた都会の大人の女性のイメージそのままだった。目が細くショートカットで表情にちょっときつい感じがしてとても話しかけらることはできないがそれがまたオレの中の存在感を大きくしていた
「あら、先生、久しぶりですね」軽く微笑みかけるがどことなくいつもの用意しておいた笑顔という感じでいつもまわりと一定の距離を作っている気がする。
「これはこれは、姫の登場だ」この先生にとって若い女性はみんな姫になるみたいだ。
「お元気そうですね。この前は大丈夫でした?だいぶ酔ってたからみんな心配してたんですよ」
なんだか嬉しそうに、申し訳ない、年だねと言って、マスターに最初の一杯は僕のごちそうだからとさりげないけどカウンターの端まで聞こえる声で言った。
あら、すいません、じゃあ最初はジンバックにしようかしら、とマスターに言ってⅬ字型のカウンターの壁際に座った。いつものお気に入りの席だ。入口に近いけど入り口からは見えない。働いている時はオレから遠くなってよく見えなくなるのでいつも悔しい思いをしている。
今日は早いですね。今月は成績良かったから今日は早じまいしたの。それはけっこうだね、二杯目はおごってもらうか。あらいいですよ、たまには。手ごろなのにしておいて下さいね。じゃあ、マスター得意のホワイトレディを。いいですね、二杯目は私もホワイトレディで。マスターが手際よくカクテルを作るのをじっと見る。いつもオレは横で見ているけどカウンターに座って目の前で流れるような動作で酒瓶がカウンターに並びシェーカーに次々液体が入りシェイクされカクテルグラスに注がれる。なんかカッコいい。先生とレディにすっとグラスが出される。オレもいつかこんな風にできたらと素直に思える。
二人はグラスに口をつけマスターは瓶を戻し道具を洗う。ひとしきりそれぞれが自分の中でいろんなことを反芻する間があって、オレはただぼんやりしていたらーそういえば昨日の飛び降りした人、高校生だったんだってね。とレディがつぶやくように言った。
「情報を仕入れてきましたね。さすがに早い。」
「何だい、昨日のデパートでの話?」
「ええ、記者の知り合いがいて教えてもらったんですけど、そんなに若い人がって、ちょっとショックですね」
「女性でしたよね、そうか、高校生なんですね」
「あの屋上から飛び降りるなんてよほどの度胸がないとできないね」
「昼間だったし、車も人も狭い道にたまっちゃってここらへんまでえらい騒ぎでしたよ」
洗ったグラスをきれいに拭きあげて棚に戻しながら、そういえば遺体にほとんど損傷がなかたって聞いたんですけどと証券レディに向き直って少し小声で話しかけた。
レディはカクテルグラスをコースターにそっとおいて「そんなわけないでしょ。屋上から飛び降りたんだから。食事をしながらじゃ言えないけど原型はとどめてないでしょ」
飲みかけていたグラスを思わずおいて酒がのどを逆流するのを抑えた。言ってるじゃないですか。
「近くの雑貨屋の主人が担架で運ばれていくところをたまたま見たらしいんだけど、なんだか眠ってるみたいな顔だったって」
「顔を見たのかしら」
「ええ、体はシーツに覆われてたけどまっすぐ横になっていてただ気を失っているだけみたいだったって。きょう商店会の事務所に寄った時に聞いたんですけどあれは遺体には見えなかったってしきりに不思議がってましたね」
「ふーん、でも変ですよね。飛び降りした子とは別の人とか」
「どうでしょう、現場から運ばれてくるのを見てたらしいから別人ってわけじゃないとは思いますけど。でも変ですよね。
あの高さから落ちたらそりゃ、まあ、眠っているみたいに運ばれるってわけにはいきませんよね」
「たまたま現場を目撃して気絶しちゃった人とかね」先生の言葉にあ~なるほど、というふうにみんながうなずいた。
「でも亡くなった子が高校生だったのは確かです。警察にも確かめてるし、身内や学校にも取材して記事にしてますから」
「そうですよね。まあ、なにかの勘違いなのかもしれないですね。現場はそうとう混乱したでしょうから」
「ええ、あそこから飛び降りるなんて初めてのことだしいろいろうわさも飛び交ったみたいで。その知り合いがきちんと取材したらしいんですけど、なんでもすごく聡明な子であんなことするなんてって友達とか知ってる人はみんなびっくりしてるみたい」
「親御さんの気持ちを考えるといたたまれないですね。どういう事情があったのかわからないけど」
「だいたい死んだ人間はみんな聡明で良い人になるからね。とくに若くして死ぬと。飛び降りる度胸を別にむける分別があればね」
「まあ先生、そんな言いかたしなくても・・」
ーオレ、見ました
「あ、しゃべった」
(続く)
その2の投稿をお待ちください。