今回の番外編は前編です。後編も近日投稿予定。たぶんですが。
ーなにかお困りですか。
振り向くとあどけない顔の少女が立っていた。身長は150センチくらいか、僕より頭一つ分低い。10代半ばぐらいだろうか。薄青い瞳に黒みがかった金髪をぎゅっと後ろで束ねて頭の形がまん丸にみえ額を大きく見せて利発な感じを与える。真っ白なブラウスに濃い緑のロングスカートで地味ではあるがよく手入れのされている清潔感のある服装だ。
長距離バスの待合所で壁に掛けられた大きな路線図を眺めながらぼんやりしている時だった。木製のベンチが四方の壁沿いに置かれちらほらと人が座っている。首都から離れたこの街(この国の第2都市らしい)に外国からの旅行者は珍しく周りからちらちらと視線を感じるのだが話しかけてくる人はいない。これから行こうとしている都市にいくバスの発車場所を探していたのだがいくつも路線があるようでどれに乗るのが一番早いのか路線図と時刻表を見ていても頭の中でひもがどんどん絡まっていくようで集中力の電池が切れかかっていた。
ちらっとまわりをみてその少女に体をむける。まっすぐな視線を僕に向けている。この年代にありがちな大胆さに少し気おされながら共通語が話せるんですねと聞くと嬉しそうにうなずく。路線図に顔を向けて行く予定の都市を指さしてここにいきたんだけど、と事情を説明する。
姿勢よく僕の話を聞いている。教師に教えられている生徒のように。高校生ぐらいだろうかと頭のすみに浮かんだがこの国がどういう学校制度なのかわからないから聞くのもためらわれる。
しばらく路線図の横にある時刻表を厳しい目つきでにらんでいたが私と同じバスに乗れば大丈夫ですよ、このバスですと78という番号を指さす。お礼を言うと控えめだけど大きな目を細めてくすぐられたような表情をする。この国で仕事以外でしゃべった初めての会話だった。旅行者特有の満面の笑みを浮かべるとさりげない日常的な笑顔を返してくれた。壁にかかった大きな時計をみながらもうすぐ時間だから発車場所までいきましょう、こっちです、と案内してくれる。人見知りしないタイプなのか初対面の旅行者にも警戒心もないみたいで窓口で先にチケットを買い僕が買うのを横でみていて小銭がいくらなのか見てもよくわからずもたついているのを手伝ってくれる。僕がチケットをポケットにしまうのをみてからあそこのホームですと指さしながら先をいく。
初めての異国の地で見知らぬ人についていくなんてことはしたことはなかったが相手がまだ10代の女性ということもあって多少の躊躇はあったが後をついていく。道連れができるのはこの旅で初めてだった。ほんのひと時にしろ異国の少女と旅をすることになるなんて思いもしなかったがこの時僕は一つの分岐を選んでいた。あとから何度もこの日を思い出すことになるのだがそのたび不思議な心持になる。
大陸の端の小さな国に行った時のことだ。その国の先には大海が広がる。バスで国境を越え首都を目指したがほとんど人家がみえず森と草原が延々と続いている。たまに羊やヤギ(だとおもう)が捨てられた置物のように点在している。乗り合わせた乗客もお年寄りが多くみんな静かにしている。そっと息を殺している気さえする。もちろん僕の勝手な想像だが。
首都はほかの国と見劣りしない近代的な街で高層ビルが立ち並ぶが少し区画を過ぎると石作りの古い建物も多く残り天気のせいもあり(ずっとしとしとと雨が降っていた)暗い印象が残った。歴史の教科書で名前は出てくるし、かつて栄えていたというのも知っているがそれだけになんだか行きかう人々も寂し気にみえる。落ち着いているという言い方もできるんだろうが、僕の中に浮かんだのは忘れられた国という言葉だった。
ひと月ほどの予定でこの地域をまわって帰国の予定だった。この国には数日だけのつもりで首都で何軒か目ぼしい店を訪ねてまた中心地の国に戻る途中で一か所、二か所寄れれば十分だろうという心つもりでいた。
臨時の仕事で古いワインや家具などの買い付けの下調べをしている。この地域の共通語が分かるので知り合いの会社の社長に頼まれたのだ。僕の遠い親戚になる。法事で親戚が集まっている時にぶらぶらしてるならちょっと頼まれてくれよと声をかけてくれた。金融機関の営業をしていたがいろいろあって体を壊し少し引きこもっていた時期だった。もともと旅好きで若い時はあちこち放浪していたのも知っていたし社会復帰の足掛かりになればいいと思ってくれたのだろう。僕の中では悩むところがあったが金銭的に余裕がなくなっているしとにかく体を動かした方がいいだろうと腰をあげることにした。なにかきっかけがないと気だるい日々にずぶずぶ沈みんでいきそうだった。あとすこしで30歳を迎える時期で僕の中では30というのがなにか大きな節目のように感じていてそれまでに生活を立て直さないとという焦りもあった。ふとした時に背中に冷気が這い上るような寒気を感じて暗いところに落ちていくような恐怖を感じることさえあってそんな日常から早く抜け出したかった。
ーきれいな発音だね。途中で売店で買ったジュースを渡しながら話しかけるとすっと屈託のない笑顔になって幾つか幼くなった。またすぐ取り澄ました感じになるが緊張しているんだろうなと思う。初めて会う外国人といるのだからふだんと同じというわけにはいかないだろう。バスを待ちながら飲み物を手に二人でベンチに座る。目の前を大型バスが並び入っては出ていく。ごった返すほどではないがつねに人々が行き来する。学生らしき一団や背広姿の人達もいるがこころなしかみんなのんびりしている気がする。お国柄だろうか。自分の国ならもっとせわしないだろう。
自己紹介がてら東の遠い島国から来たことを教えるとにっこり微笑む。相手に安心感をあたえる素敵な笑顔だ。家族に大事にされているんだろうなと思わせる。どんな家族なのか想像もつかないが。
ーたぶんそうじゃないかと思いました。むかしあなたと同じ国の人が私たちの村にいたことがあるんです。なんだか雰囲気が似ていて懐かしくて声を掛けました。お邪魔でしたか。ごめんなさい。
ーいえいえ、ありがとう。教えてもらって助かりました。
この地域の共通語で話すわけだがお互い外国語(彼女にとってはまだ身近だろうが)だからかえって気楽に話せるのかもしれない。この国の言葉も少しなら話せるがたどたどしくなって会話にならないだろうし彼女が僕の国の言葉を話せるわけもない。学生ですかと聞かれる。仕事で来ているんだよというと少し意外な顔をしている。中型のザックを担いでいる格好だし学生の旅行と思われたのだろう。いままでまわっていた国の名前を言う。いいですねと肩をあげておろす仕草をして私もいろんなところを旅してみたいと待合所の屋根のあいだからのぞいている空を見上げる。そこに将来世界を飛びまわっている自分が見えるように。少女に対する好感度がぐっと増してくる。僕も小さいころから外国を旅するのが夢で学生時代に何度かいっていろいろと経験したことを思い出す。かなりの貧乏旅行で体力的にも財布的にもきつかったがそれを楽しめる若さがあった。
ーどこまで行くの。これから家まで帰るところということだったが彼女が言ったのは初めて聞く地名(発音が難しく何回も聞きなおす)でザックの中からガイドブックを出して地図で探してみたが出ていないようだ。この辺なんですけど、と細長い指が地図の上を行き来する。その白くつるっとした指が僕になにか遠い記憶を呼びさます。
そうこうするうちバスが入ってきて一緒に乗り込み隣り合わせに座ることになった。窓際の席を譲ってあげると小さくありがとうと言う。運転手が何か大声で叫ぶとそれが合図みたいにエンジンがかかり一度大きく車体を揺らせ半分ほど埋まっている乗客も大きく揺れてバスが走りだす。石作りの建物が続く街中はすぐに抜けて新しい建物はすぐ見なくなり道沿いにぽつぽつと古い民家のような建物が時々現れるていどになる。低木の生い茂る草原や森の中をほとんどカーブのない道をエンジン音をうるさく響かせながら単調にバスは走る。最初は思い出したように止まり乗り込む人が少しいて席はほぼ埋まってくる。
やがてあまり止まらなくなり上りの道がしばらく続きやがて見晴らしのいい平原にでてバスも気持ちよさそうにかたかた小さく振動させながら走っていく。延々と続く遠くの山並みとすぐそばに広がる草原とこんまりした森の眺め。ときどき草原の中にポツンと小屋のようなものがあるが人は見かけない。彼女もバッグを膝の上において背筋を伸ばし外の風景に目をやっている。エンジン音がうるさくて話すと大声で耳を近づけないと話せないので自然黙って二人とも外を眺めることになる。僕としてはそのほうが気楽でよかったが。彼女のほうもそうかもしれない。年の離れた外国人同士でそう話題があるわけじゃない。でも横に少女がいるだけで何か安心感があった。彼女もそうだといいんだけと思うがどんな気持ちでいるのだろう。
1時間ほど走ったところで休憩所みたいなところに止まった。トイレ休憩というところだろう。四角いコンクリート作りのなんの飾りもない建物で店頭に軽食や飲み物を置いている売店があり奥の方が食堂になっているようだ。殺風景な店内であまり食欲をそそる感じではなかったけど少女に何か買ってあげようと思って一緒に売っているものを見に行ったが揚げ物とパンが並んでいるぐらいで僕としては買う気がしなかったが少女に何かいると聞くと彼女は笑顔で首を振る。外に出て木のベンチに二人で腰かける。
学校に行っているのと聞くと村から自転車で一時間ぐらいかけていっているようだ。どんな村なのと聞くとしばらく思案顔になっていたが小さい村でなにもないけどとてもいいところということだった。両腕をひろげ自然に囲まれて美しい村ですと。自分の国の田舎の風景を思い浮かべなんとなく近い感じなんだろうなと想像する。こっちに来ても都市ばかりまわって人に疲れているところだったから(言葉がしゃべれるといっても流暢とはいかないから仕事の会話をしたあとはけっこうぐったりする)そんなところも行ってみたかったなとぼんやり思う。
運転手も降りていて売店のおじさんとなにやら大声でしゃべって乗客と一緒に大笑いしている。みんな先を急いでいないようだ。あとどのくらいで出るんだろうと少女に聞くと肩をすくめ運転手の方をちらっとみて分からないというふうに首を振る。僕も苦笑いして固い椅子に座りなおしてなまぬるくなったジュースを一口飲む。空を見上げると雲がだいぶ薄くなって青空がのぞいている。少し埃っぽいけど街中とは違う乾いた風が心地いい。
ー君の村に泊まるところはあるのかな?
自分でも深く考えず言葉がでてきてしまった。彼女はしばらく首を右に傾げ間があってからー一つだけ。食堂の上に泊まれる部屋があります。泊まるんですか。珍しい虫を見つけた小さな子供のような目でオレを見る。外国人が訪れることなんてほとんどないんだろう。
―なんだかよさそうな村だから一日二日泊まってみようかな。
自分で言っておきながら意外な展開に驚いていた。仕事の合間の息抜きになりそうだし急ぎの案件もないしちょっと寄り道しても問題ないだろう。そもそもそんなに成果を期待されているわけでもないし。
ー出発したらあと一時間もしないで私の村に着きますけど。ほんとうに観光するようなところはない村ですよ。
―自然に囲まれたところで少しのんびりしたいなと思って。
その言葉をしばらく頭の中でかみ砕くようなに眉間にしわを寄せていたがーそういうことなら私たちの村はぴったりかもしれません。と僕にというより自分に向かってつぶやいてそっと視線を僕に向ける。その視線に最後の後押しをされた。それに気がつくのはずっと後のことだけど。
再び走りだしたバスに揺られながら自分でも半信半疑な気分でいた。僕は本当に彼女と一緒に降りて見知らぬ村で滞在するんだろうか。彼女はどう思っているんだろう。あまり衝動的な行動はしない性格な自分がしようとしていることに自分で驚いている。仕事とはいえかなり自由に動ける旅の影響だろうか。いままでこんなことはしたことはなかった気がする。バスはだいぶ高地にきたみたいで窓から入る風が冷気を含んでくる。少女はとなりで相変わらず姿勢よく座って窓の外をみている。
バスが突然止まる。彼女が当たり前のように、ここです、と言ってかばんの紐を肩にかけて立ち上がる。僕が通路に出てザックを担いでいると運転手になにか声をかけている。窓から外を見るが建物のようなものは何も見当たらない。木々と草原が広がる気持ちの良さそうな場所だ。ただ人が住んでいるようにはみえない。彼女は運転手のそばでなにやら会話を交わしオレを振り向き少し肩をすぼめなにか言いたそうな顔をしてステップを降りて外に出る。運転手も一緒に降り車体のわきにある荷物入れから彼女の荷物を出してあげている。ドアのあいた出入り口からその様子を見ながらオレはなにか勘違いしているんじゃないか、彼女の話を誤解して聞いていたのかもしれない、と頭の中でついていってはまずいだろう、こんな辺鄙な誰も知り合いもいないところで降りるなんてまともじゃないと押しとどめようとするのだが足は彼女の後を追ってステップを降りバスから出ていた。少し先で彼女が立ち止まりオレが降りたのをみている。光の加減で表情がよく見えなかったが本当に僕が降りたので驚いているような気配がある。後ろでドアが閉まるバス独特の音がして思わず振り返るがバスは躊躇することなくためらいもなく車体を上下にきしませながら動き出し後尾から灰色の排ガスをまきながら去っていった。どんどん小さくなるバスをしばし目で追っていた。現実にバスを降り見知らぬところにいるのを確認するように。
まわりを今一度見渡すが建物はどこにもない。道沿いに木々がたちならびなだらかな丘が連なって緑が斜面を覆い穏やかな日差しを浴びて世界はどこまでものどかなようだ。それでもどこかに緊張感を潜ませているようにも見える。昼寝をしている猫が突然全身の毛をを逆立て牙をたててとびかかってくるような不穏な気配をこの風景の背後にしのばせているような。
彼女はオレがついてくるのを確認するとすたすたと林の中に入っていく。とにかくついていこう。もし何かまずいことがあれば次のバスに乗ればいいんだと自分を説得して後をついていく。次のバスがいつ来るのか調べておけば良かったと思いながら。何の目印もないのに木々のあいだを歩いていくと思っていたがよく見るとところどころ石がひいてあり道になっている。ほとんど地面と見分けのつかない道だけど。林と思っていたが1,2分歩くと突然木々がなくなり展望がいっきに開けた。遠くの山並みまで見通せる広々とした風景が広がり目の前は盆地になっていてそこに小さな家々が間隔をあけて何十と散らばっている。その周りには四角く区切られた畑がかこむように点在して緑に覆われた土地に人の生活感を与えている。村だ。とりあえず彼女が言っていたのは本当のことなんだと少し安堵する。なにを心配してたのか自分でもよくわからないが最悪の展開は避けられそうだ。赤茶けた屋根が多くところどころ薄い青色の屋根もみえる。中心辺りに塔が見えるのは教会なんだろう。その前に広い平地があってたぶん広場だ。このへんの国にある普通の村の風景が広がっている。
前を歩く彼女が両手に持っている重そうなバッグを速足で追いついて持ってあげようとするが首を振って固く断る。オレもあまり無理は言わずおとなしくついていく。草地を抜けて村に入るところに低い石垣が境界を示すように作られているがだいぶ崩れてその機能を果たすのはあきらめているようだ。腰ぐらいの高さの石垣を横目で見ながら村に入っていくと初老の男性と目があって一瞬身構えてしまった。目があってもピクリとも動かない。もしかして人形と思ってしまったが彼女が声をかけるとその男性が口を動かし何か音を発した。一言づつの会話。彼女はそのまま歩いていく。つばの広い帽子をかぶって木でできたなにかの荷台の上に座っている男性は何の動きも見せない。でも視線は感じる。ついさっき消えた不安がまた夜明けの霧のように背後から忍び寄っていた。
なにかを感じたのか彼女が振り返り真剣な表情で軽くうなずく。大丈夫ですよ、というように。忍び寄っていた霧はまた少し遠のいた。
彼女の大きな荷物を両手に持って歩く後ろ姿はまわりの風景と溶け合っている。見失いそうなほどに。漆喰作りの平屋の質素な家が2、3軒かたまって立っていて小ぶりな畑があって木の柵で囲われた赤茶けた土に覆われた場所に牛が何頭か気ままに草を食んでいる。
乾いた風が吹いてくる。さらさらとどこかで葉がなる。なんの邪気もない生まれたてのような風。彼女の後ろ姿がそう思わせるのかもしれない。まだ足を踏み入れて何分もたっていないが好感が湧き始めていた。ここで降りて間違っていなかった。少なくとも悪いことは起きなさそうだ。自分の中でそんな声がする。
教会の小ぶりな尖塔が見えてきてすぐ広場についた。彼女は迷いなく教会の向かい側に立つ2階建のこの中では一番大きい建物に歩いていきその前で立ち止まって自分の両手に持っていた荷物を下に置いて振り返りここですという。何がだろうと思ったがさっきいていた宿泊施設を兼ねた食堂なんだと気がついた。なにかを煮込んでいる匂いがしてくる。
入り口にドアはなく開け放たれている。少女はすたすたと中に入っていったが僕はとりあえず外からのぞいてみる。外の明るさのせいか店内は薄暗く慣れるまでぼんやりとしたみえなかったが木製のかなり年季のはいった簡素な机と椅子がすぐ手前にあって奥は意外と広そうだ。この建物自体は木造みたいで床や柱などところどころかけて傷がつけられ痛めつけられながらも地道に勤めをはたしてきた感じを醸し出している。かなり長い歴史がありそうだ。
目が慣れてくると正面の右側にカウンターがあり5,6席あってその後ろの壁には酒瓶やグラス、よくわからない道具のようなものが飾られているのが見える。その奥が厨房なのだろう。先ほどの匂いはここから漂ってきていたようだ。最初誰もいないと思ったが奥のテーブルに二人男性が座っていた。そのうちの一人が立ちあがって少女に何か言うとカウンターに入っていく。この店の人らしい。背は僕とそれほど違わないが首も腕も太く胸板も厚くがっちりした印象。とっつきにくそうだ。少女もカウンターにいってたぶん僕がここの泊りたがっているということを説明しているのだろうなにやら話している。店の主人(たぶんだが)がちょっと困ったような顔をして何か言うとすぐ少女が言葉を返す。ちらっとこっちを見て何か言うとまた少女が言葉を返し黙ってしまう。突然の来訪者に警戒しているんだろう。気持ちはわかる。少女の後ろにいってできる限りのにこやかな笑みを浮かべ少女の後押しをする。僕としてもここに泊まれなければ困るわけだし。主人は僕と目が合うとしばし疑り深そうにみていたが少女の視線を感じたのだろう、誰にともなくうなづいてなにやらやつぶやくと古ぼけたノートを後ろの棚から出してきて僕に渡す。少女が宿泊帳です。ここに名前と住所と指さして教えてくれる。主人はまあしょうがないという感じでなにやら少女にいって少女が僕に通訳してくれる。宿の代金や朝食がつくこと、二階に部屋があってシャワーも自由に使っていいとのこと。カウンターの下からなにやら取り出しついてきなという目配せをして奥にある階段を上がっていく。少女にお礼を言って後をついていく。少女が階段の途中の主人に声をかけると愛想のない返事をする。もうちょっと友好的な態度をしてくれてもいいのにとも思うが突然の客なんだから仕方ないとかとその後姿をみやる。
階段の間隔が広く下がよく見えてちょっと足がすくむ感じがして気のせいか踏むたびきしんで何かの鳴き声みたいな音がする。あがると広い部屋にでて窓側にベッドがいくつか並んでいる。一人用ではないみたいだが他に泊まる人はいなさそうだから広く使える。南側のようで日差しが差し込んで明るくきれいに片付いていて想像していたよりかなり居心地良さそうだ。手にしていたものを渡されるとシーツとタオルだった。ベッドメイクは自分でするみたいだ。この土地の言葉でお礼を言うと両手を広げどういたしまして(たぶんだが)と言って片目をつぶってみせてなにかい言うと下に降りていった。僕がその言葉を理解したかどうかは気にしないようだ。
とりあえずザックを下ろしベッドに腰かける。一人になるとどこからともなく風が吹いてきた。深呼吸すると気持ちがすっと落ち着いた。あたりを見回してなんだか学生時代の貧乏旅行を思い出していた。いつも一番安いところに泊まっていたものだ。そういうところからみればかなり清潔で悪くない。奥にもいくつか部屋があるようだが使われている雰囲気はない。シャワー室はかなり質素というか必要最小限の設備しかなくもちろん湯舟なんてものもない。でも文句もいえない。先ほど言われた宿泊費は昨日泊まったホテル五分の一ぐらい。朝食もつくらしいし一日二日の話だからこういうのも一つの体験だろう。
シーツをしいてベッドに仰向けに寝転がって両手を頭の後ろに組む。天井に渡されている木の柱に蜘蛛の巣があって蜘蛛の姿は見えないが蛾のような虫がいくつも捕まっているのぼんやり眺める。
下に降りていくと誰もいず少女も姿が見えない。自分の家に帰ったんだろう。外光が差し込む店を見まわす。隅の方は薄暗いが掃除は行き届いている感じがする。何か飲むものがないかとカウンターにいってみる。奥の厨房からカタカタと音がする。包丁を使っているんだろうか。なんて声をかければいいのかわからずしばらくその音を聞きながらぼんやり外を眺める。ときどき人が行き交うがお年寄りばかりだ。みんな同じような作業着で帽子をかぶっている。気配がして振り返ると太ったおばさんが立っていて目が合うとなにやら言うよくわからないがこっちの言葉でこんにちわと言うとこんにちわと返してにっこり微笑む。手で飲み物を飲む仕草をして飲み物がありませんかと共通語で聞くと片言でコーヒーならあると教えてくれたので注文する。
ぶらぶらと村を歩くが確かに何もない。広場の真ん前に教会があって野菜を売っていたる店や雑貨をあつかっている店などがその周辺にちらほらありすぐ畑や牧草地が広がっている。でもすれ違う人もへんに観光客づれしていなくて僕に見向きもしない人もいれば目を合わせて軽く微笑んでくれる人もいてふつうに生活しているふつうの人達という感じで居心地はいい。
まだ明るいうちから晩御飯を出された。丸くこんがり茶色になっているパンに牛肉だろうか大きな塊の肉にじゃがいもと見慣れない野菜の煮込み料理に小さい玉ねぎの酢漬け、それに甘く煮つけた(カボチャだろうか、こっちの品種はよくわからない)デザート風のもの。奥さんが(たぶんだが)両手で大きめのトレーに盛り付けた料理を両手でもって自信ありげになにやら言いながら片手で親指を立てる仕草をして目の前に置いて戻っていく。お茶目な雰囲気を全身から醸し出している。出される前はあまり期待していなかったが湯気を立てた煮込みからいい匂いがしてなかなかおいしそうだ。お腹が空いていたのに気がつく。
どれから食べようとスプーンを手に取って料理をみているとと一人若めの男性(この村で今まで見かけた中では。僕から見れみんなお年寄りだが)が入ってきて主人に挨拶すると僕に目で挨拶してテーブルまで来て手を差し出す。握手を求めているのに気がついてすぐ手を差し出し握手をする。ニコッと笑って僕の前に座り主人になにやら叫ぶとワインのグラスが二つでてきた。急な展開で戸惑っているとその男性がグラスを掲げる。お酒を飲むつもりはなかったが(あまり強い方ではないので旅行中は飲まないようにしている)この場の流れだしまあいいかと僕もあわせてグラスを掲げる。お互いほほ笑んで飲もうとすると主人が声をかけもう一つグラスを持ってくる。一緒に乾杯ということらしい。店のほうはいいのかなと思うが他にお客さんはいないみたいで暇なんだろう、三人でグラスをかがげて乾杯(こっちの言葉でよくわからないがたぶんそうだろう)と言って飲もうとした時に入り口に何人か男性が大声で話しながら姿を現し最初に来た人に声をかけるとそばにやってくる。隣のテーブルに座って最初のに来た人が僕をみんなに紹介する。どう紹介しているのか分からないが気がつくと主人がグラスをみんなに手渡している。もともとみんなで集まる日だったのかいつもこんな感じなのか、それとも僕が来たからなのかよくわからないが宴会が始まる雰囲気をみんなが醸し出している。じゃあ、乾杯というところで入り口から声がしてみんなが振り向くとまた何人か人が現れた。今度は女性も混じっている。主人がカウンターに戻ってグラスを用意する。なかなか飲めない。
そのワインを一口飲んでびっくりした。今までそれなりにいろんなワインも飲んできて高価なものも何度か飲む機会があったのだが素直に美味しいといえるものがそんなにあったわけではなかった。いろんな能書きをあらかじめ聞かされて美味しいと思わないわけにはいかなことがままあったわけだが、このワインは新鮮で嫌みがなく深みには欠けるけど素直に美味しいと思える。この場の雰囲気がそう思わさせるのかもしれないが一口飲んでしみじみグラスを目の前にかざして眺める。隣のおじさんがが心配そうにどうだと聞いてきてそのおじさんの顔をまじまじと見つめ素晴らしいというこの国の言葉が口をついて出てきた。まわりのおじさんたちがいっせいにオレの方を見てしばし間があったあと乾杯と誰かの言葉を合図にみんなでグラスを掲げ一口で飲み干す。僕もつられて飲んでしまう。そして店内にあふれる笑顔。主人がきてまた注いでくれる。
これは酔っぱらいそうだから気をつけないとと思っていると入り口に少女がいるのに気がついた。となりに黒い服をきた男性がいる。僕と目が合うとその人と僕の前にやってきてこの村の牧師ですと紹介してくれた。先に座っていたおじさんがその二人に席をゆずり僕と三人でテーブルを囲むことになった。
牧師という人と話すなんて初めてだったが落ち着いた笑顔で握手を求めてきて、初めまして、ようこそわが村へと共通語で話しかけてきた。まだ若い人だ。たぶん僕より10ぐらい上といったところだろうか。僕も姿勢を正してよろしくと手を差し出し握手する。牧師の隣で少女がほほ笑んでいる。
この村に来るのは月に数回だけなんですが今日はたまたま来ていてお会いできて良かったと少女とうなずきあっている。
二人で僕を見ながらなにやら話しているのでなんだろうと思ったが以前にこの村に来た同じ国の旅人に似ていると牧師も言っているらしい。
どうも同じ国の人らしいですねと返すと牧師があれは何年前だったろうと少女に聞いて二人で思い出すように顔を見合わせ4年、いや5年前、私がまだこの村にきだしたころだからと二人で話している。二人の会話の端々にojisanという言葉が出てきて気になって聞くとその人の名前だと言う。自分でそう名乗ったらしい。おじさんか、おかしな人だ。確かに同じ国の人だ。僕より年上でしたか?と聞くと二人ともうなづいて、息子、いや孫ぐらい、と牧師が言っているので思わず聞きとがめる。
ー孫って僕よりもかなり年上だったんですか?
牧師が少女に何か言うと少女がちょっと困った顔をして僕を見る。
ーまだ詳しく話したわけじゃないから、と言葉に困っているとーええ、そうです。お年寄りでしたね。私の父親ぐらいの年齢でした。正確には分かりませんでしたが、と牧師が言葉を継ぐ。
―だからバス発着場で見かけた時おじさんの家族が探しに来たんじゃないかと思ったんです。
―見かけただけで?
ーええ、最初すれ違ったんですけどなんだかハッとして今の人おじさんに似てるって、慌てて戻って後ろをついていったんです。それで時刻表をみている様子をしばらく見ていたんですけど、やっぱり似てるって。それで思いきって声をかけたんです。ちょっと勇気がいったけど。家族、お孫さんかなって勝手に想像しちゃったりして。
だいぶ強引だねというと三人に静かな笑いが起こった。でもなんていうのか雰囲気が似てるのは本当ですよと牧師がいうのをふだん見かけない地域の人たちが同じような顔にみえるのはよくあることだよなと思いながら聞いていた。
それにしても牧師の年齢もよく分からないが父親ぐらいということはおじさんは70前後ぐらいということだろう。それなら僕が孫にみえてもおかしくはないが。
ーそんなに年齢の人が一人旅をしていたんですか?旅人っていうし僕と似ているっていうからてっきり同じくらいの年齢の人だと思いましたが。
ーええ、そんな高齢の人が一人旅をしているなんて珍しいですよね。高齢のわりにはしっかりしていましたが。とその人を思い出しているのかしきりにうなづいている。
とはいっても自分の親よりも上の年齢の人が言葉もままならない異国の土地を一人で旅するなんてそんな人に会ったこともないし聞いたこともない。
ーみんなも最初は警戒するというか遠巻きに眺めている感じでした。そのうちいなくなるんだろうと思っていたようなんですが、この先の丘に昔の教会があるんですがそこに居ついてしまって。
―居ついた?
ーええ、今は使われていなくて何十年もそのままなんですが。私たちとは別のものなので。誰もいない廃屋になって入り口も壊れていたからそこに入り込んで過ごし始めたんです。誰も行くこともなくなっていたから最初は気づかなかったんですが食材を村で買って自炊をしたりして。お年寄りだし害はなさそうだけど言葉もあまり通じないしどうしたものかとなって。そのうち子供たちがなついちゃったんですよ。後をついていくようになって。それでまたみんなが心配して私のところに相談に来まして。彼も共通語は話せましたから。
ー子供たちがなついた?怖がらなかったんですか?
―私もその一人だったんですけど、いつもニコニコしてやさしいんです。異国の人は珍しいし痩せた老人だし最初見たときから怖い感じはなかったです。言葉は通じないんですけど一緒に遊んでくれたりして。この村には子供が少ないんですけどほとんどみんなが集まってました。学校帰りに遊びに行くのが習慣になって。
ーどんな遊びをするんだろう?この広々とした大地の中にぽつんとある小さな村で異国の子供たちを遊ぶ老人の姿がうまく思い浮かばない。
ーほんとに子供の遊びですよ。石けりとか草笛を作ったり。口笛も上手だったな。そう、それに絵を描いてくれて。
ー絵を描くんだ?
ええ、クロッキー帳を持っていてとなんだか微妙な間があったあと、ーみんなを描いてくれたりもしたんですけど似てないんです。みんなが似てない、似てないって言ったらおじさん困ってましたけど。と笑っている。その絵なんですけど、と牧師が身を乗り出してきた。
ーそれを家に持って帰って子供たちが放り投げてあるのを親御さんが見て気にいって実は有名な絵描きじゃないかと言いだして。その時ぐらいからかな、村人も彼に馴染みだしていつのまにか一員になってましたね。不思議な経験でした。半年ぐらいだったかな。
少女を見やって二人でその時のことを思い出すように口をつぐむ。
―亡くなったのが12月の初めころだったからあれから5年半が経つんだね。牧師が少女に言っている。
―亡くなったんですか?思わず聞き返していた。
ーええ、ここで。私たちの教会の共同墓地に埋葬されました。来たのはちょうど今頃の季節でしたから。
少女はおじさんを思い出しているのか焦点のあわない遠い目をして牧師も穏やかだがどこか硬い表情をしている。そして亡くなったという言葉に動揺している自分がいた。
ー年も年だったし寝込んだ時から心配はしていたんですが。いろいろ問い合わせはしたんですが結局身元不明でこの村で埋葬することになりましてね。お葬式には村人みんなが参加しました。
―身元不明ってパスポートがあったでしょ。それをみれば。
ーいいえ、荷物にはありませんでした。もちろん警察には届けたんですが身元は分からなかったみたいです。
そんなことがあるんだろうか、まさか密入国でもないだろうし本当の国籍とかは分からないということか。
気がつくと合唱が始まってテーブルをどけて場所を作り踊り始めていた。どこからかギターや見たことのない打楽器がでてきて即興の演奏も始まる。男同士やカップルもいて(たぶん夫婦なんだろう)かなり年齢の高いダンスパーティーになっている。賑やになって二人と話もできなくなってきた。牧師もみんなのほうを見て苦笑いしている。
ーいつもお酒を飲んで騒いでるんですよ。みんなのほうを見ながら顔をしかめて少女が言う。
―いつもというわけではないでしょ。厳しい日々をおくってきたんだからこういう時間も必要ですよ。少女は肩をすくめている。
僕たちのほうにもやってきてなにやら言っているが牧師は手を振って断っている。僕にも声をかけ肩をたたいてこっちにこいよと手招きされるが遠慮する。みんなだいぶ酒がまわっているみたいであちこちで笑い声が起きる。一人のおじさんが輪の中でおどけた顔をして全身を揺すりながら踊りだしいっそう盛り上がってきた。少女も声をあげお腹を両手でおさえ笑っている。牧師も楽しそうだ。
芯からくつろいでいるのが分かった。この旅で初めてかもしれない。不思議なもんだ。見知らぬ人に囲まれ見知らぬ土地で芯からくつろいでいる。この村の名前さえ知らないのに。
―彼のスケッチブックを預かっているんです。明日にでもお見せしますよ。僕のほうに身を寄せ牧師が言う。
ー捨ててくれと言われたんですがとてもそんな気にはなりませんでした。絵のことはよくわかりませんが、
最後のほうはみんなの騒ぎ声にかき消されよく聞き取れずあいまいにうなづいた。僕もかなり酔って最後はふらふらになりながら二階に上がりベッドに倒れこんで下から聞こえてくる笑い声を聞きながら眠りに落ちた。